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24・ベランダ越しの人影
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「今からダッシュで帰ってマリィと刹那の触れ合いのあとバイトに行ってダッシュで戻ってトイレ掃除やご飯をやるの。ダッシュよ。それでは」
四時限が終わると確かにダッシュで帰っていった。よほど猫が気になるのだろう。
「バカシンジ、アンタ暇?」
教室で履修表をチェックしていると、二郷木さんがバッグを抱えてやって来た。
「二郷木さん――。暇って、まあ忙しくはないけど」
「『さん』はいらないって言ったでしょ。清治がバイト始めて暇なのよ。アンタ、暇ならちょっとつき合ってよね。萬代に顔出すの」
そういうことになってしまった――。
午後五時の萬代付近は人で溢れている。学生にビジネスマン。買い物の主婦。その中に僕らは紛れている。
「シンジ、こっちだってば。あとこれ持って」
大きな袋を二つ手渡されると背を向けられる。
「二郷木って、ちょっと強引だよね」
聞こえないように呟いた。
「あー、これで夏物の仕上げは万端。靴さえ買っとけば、あとはパパが現地から今年の流行ものを送ってくれるもの。パパはね、私の好み全部分かってるのよ」
クラッシュアイスに入ったマンゴージュースを飲みつつ、カフェの端で向かい合って座っていた。
「お父さんって――パイロットだっけ」
「そうよ。国際線パイロットで、英語ドイツ語フランス語イタリア語、どれもペラペラなんだから」
「自慢のお父さんなんだ」
「もちろんよ。シンジのとこはどうなのよ。どんなパパなの。家を離れてるって、仕事でしょ」
答えられない。田村さんにしか話していないことだ。それすら、よく話せたものだと思う。
「石油の採掘事業で海外なんだ。年に一回しか帰ってこない」
そんなウソに彼女はストローをかき混ぜ、
「ふーん。ママは?」
「母さんは――」
言葉に詰まると、
「何よウジウジして。そういうとこがシンジってダメなのよ。死んじゃった訳でもないんでしょ」
「……」
「……」
二人で黙る。
「ゴメンなさい。悪いこと聞いちゃったみたいね。帰りはウチの車で送るから、心配しないで」
二郷木さんの迎えは見事な高級車で、広々とした革のシートに包まれてマンションの前へ到着した。
「アンタも田村敦子のバイトで暇つぶしがいなくて困ってるでしょ。時々つき合ったげるから言ってきなさいよ。じゃあ、今日はありがと」
去ってゆく車を見送れば、見上げた空には星もなかった――。
家に帰ってベランダへ洗濯物を取り込みに行くと、向かいの明かりがついている。田村さんの部屋だ。
(猫のためにつけてるのかな――)
それにしても、田村さんから聞いたのは平日は朝の一時間と夕方の三十分、それに帰ってから寝るまでだというマリィとの生活。一日中つき合えるのは週末だけ。猫というのはそれでも平気なのだろうか。
と、その明かりの部屋でカーテンが開いた。人影だ。まさかバイトから帰って――と思ったが時刻は午後八時。お店は書き入れ時のはず。では誰が、と考えて不穏なものを感じた。
即座に田村さんの番号へ電話をかけるが、もちろん通じない。もしも、もしも誰か知らない人間が彼女の部屋へ上がり込んでいるとすれば一大事だ。思うと共に、足は向かいのビルへ向かっていた。
(勢いで飛び出してきたけど、刃物とか持ってたらどうしよう――)
彼女の部屋のドアの前で突っ立って、悩んでいると微かに声がする。猫の鳴き声だ。
(ええい! 躊躇ってても仕方ない!)
チャイムも鳴らさずドアノブに手をかけると、ガチャリとドアは開いた。僕はそいつを思い切り開いて、中に向かって叫ぶ。
「誰! 誰かいるの!」
すると数秒後、ゆっくりと影が現れた。その手には包丁が――。
「ひいぃっ! すみませんすみません!」
しかし影はそこで立ち止まり、
「竜崎さん――ですか?」
僕の名を呼んだ。
「と……東横さん?」
僕は勝手に部屋へ招かれる。
「ミス・レッドカーペットに、ひと晩千円でマリィの遊び相手を頼まれてるんです」
マリィは小さなケージの中で丸くなってこちらをじっと見ている。
「はあ、それで。けど、僕が上がり込むのはよくないよね。田村さん、知らないんだし」
すると彼女は言う。
「いいんです。竜崎さんが見えられたら上げるようにと言われてますから」
「田村さんに?」
「はい」
僕は彼女に操られているようでいい気分ではない。
「それで、何か作ってたの?」
実はまだ右手に包丁を握っている。
「ええ、彼女の明日のお弁当です。私も一人暮らしで淋しかったから。けど、ペットも飼えないし。それで、感謝してるんです。何かしたくて勝手にお弁当作ってます。じゃなきゃ彼女、いつもカレーばっかりで」
彼女はやっと立ち上がり、キッチンへ包丁を戻した。そのままの姿勢で、
「竜崎さんは、向かいのマンションなんですよね。よく出入りされてるんですか」
「いや、僕は――こないだ猫の件で始めて入った部屋だから」
それを思えば彼女が僕を頼らなかったことは寂しかった。こんなに近くにいて。
「彼女、私のことを『同じ匂いがする』って言ってくれました。レッドカーペットは高校時代って、どんな方だったんですか。ミステリアスで儚げで、笑顔の優しい人でしたか」
そんないいものではない。
「はぐれもの、って感じだったよ。よく騒ぎも起こしてたし。これは――本人の名誉のために言わないでおくけれど」
しかし彼女は言う。
「フェンスの向こうにいたって。そう言ってました。竜崎さんに呼び戻してもらったとも。信頼感に溢れた顔で」
ケージの中でマリィがニャァと鳴けば、彼女はコンロに火を入れた。
四時限が終わると確かにダッシュで帰っていった。よほど猫が気になるのだろう。
「バカシンジ、アンタ暇?」
教室で履修表をチェックしていると、二郷木さんがバッグを抱えてやって来た。
「二郷木さん――。暇って、まあ忙しくはないけど」
「『さん』はいらないって言ったでしょ。清治がバイト始めて暇なのよ。アンタ、暇ならちょっとつき合ってよね。萬代に顔出すの」
そういうことになってしまった――。
午後五時の萬代付近は人で溢れている。学生にビジネスマン。買い物の主婦。その中に僕らは紛れている。
「シンジ、こっちだってば。あとこれ持って」
大きな袋を二つ手渡されると背を向けられる。
「二郷木って、ちょっと強引だよね」
聞こえないように呟いた。
「あー、これで夏物の仕上げは万端。靴さえ買っとけば、あとはパパが現地から今年の流行ものを送ってくれるもの。パパはね、私の好み全部分かってるのよ」
クラッシュアイスに入ったマンゴージュースを飲みつつ、カフェの端で向かい合って座っていた。
「お父さんって――パイロットだっけ」
「そうよ。国際線パイロットで、英語ドイツ語フランス語イタリア語、どれもペラペラなんだから」
「自慢のお父さんなんだ」
「もちろんよ。シンジのとこはどうなのよ。どんなパパなの。家を離れてるって、仕事でしょ」
答えられない。田村さんにしか話していないことだ。それすら、よく話せたものだと思う。
「石油の採掘事業で海外なんだ。年に一回しか帰ってこない」
そんなウソに彼女はストローをかき混ぜ、
「ふーん。ママは?」
「母さんは――」
言葉に詰まると、
「何よウジウジして。そういうとこがシンジってダメなのよ。死んじゃった訳でもないんでしょ」
「……」
「……」
二人で黙る。
「ゴメンなさい。悪いこと聞いちゃったみたいね。帰りはウチの車で送るから、心配しないで」
二郷木さんの迎えは見事な高級車で、広々とした革のシートに包まれてマンションの前へ到着した。
「アンタも田村敦子のバイトで暇つぶしがいなくて困ってるでしょ。時々つき合ったげるから言ってきなさいよ。じゃあ、今日はありがと」
去ってゆく車を見送れば、見上げた空には星もなかった――。
家に帰ってベランダへ洗濯物を取り込みに行くと、向かいの明かりがついている。田村さんの部屋だ。
(猫のためにつけてるのかな――)
それにしても、田村さんから聞いたのは平日は朝の一時間と夕方の三十分、それに帰ってから寝るまでだというマリィとの生活。一日中つき合えるのは週末だけ。猫というのはそれでも平気なのだろうか。
と、その明かりの部屋でカーテンが開いた。人影だ。まさかバイトから帰って――と思ったが時刻は午後八時。お店は書き入れ時のはず。では誰が、と考えて不穏なものを感じた。
即座に田村さんの番号へ電話をかけるが、もちろん通じない。もしも、もしも誰か知らない人間が彼女の部屋へ上がり込んでいるとすれば一大事だ。思うと共に、足は向かいのビルへ向かっていた。
(勢いで飛び出してきたけど、刃物とか持ってたらどうしよう――)
彼女の部屋のドアの前で突っ立って、悩んでいると微かに声がする。猫の鳴き声だ。
(ええい! 躊躇ってても仕方ない!)
チャイムも鳴らさずドアノブに手をかけると、ガチャリとドアは開いた。僕はそいつを思い切り開いて、中に向かって叫ぶ。
「誰! 誰かいるの!」
すると数秒後、ゆっくりと影が現れた。その手には包丁が――。
「ひいぃっ! すみませんすみません!」
しかし影はそこで立ち止まり、
「竜崎さん――ですか?」
僕の名を呼んだ。
「と……東横さん?」
僕は勝手に部屋へ招かれる。
「ミス・レッドカーペットに、ひと晩千円でマリィの遊び相手を頼まれてるんです」
マリィは小さなケージの中で丸くなってこちらをじっと見ている。
「はあ、それで。けど、僕が上がり込むのはよくないよね。田村さん、知らないんだし」
すると彼女は言う。
「いいんです。竜崎さんが見えられたら上げるようにと言われてますから」
「田村さんに?」
「はい」
僕は彼女に操られているようでいい気分ではない。
「それで、何か作ってたの?」
実はまだ右手に包丁を握っている。
「ええ、彼女の明日のお弁当です。私も一人暮らしで淋しかったから。けど、ペットも飼えないし。それで、感謝してるんです。何かしたくて勝手にお弁当作ってます。じゃなきゃ彼女、いつもカレーばっかりで」
彼女はやっと立ち上がり、キッチンへ包丁を戻した。そのままの姿勢で、
「竜崎さんは、向かいのマンションなんですよね。よく出入りされてるんですか」
「いや、僕は――こないだ猫の件で始めて入った部屋だから」
それを思えば彼女が僕を頼らなかったことは寂しかった。こんなに近くにいて。
「彼女、私のことを『同じ匂いがする』って言ってくれました。レッドカーペットは高校時代って、どんな方だったんですか。ミステリアスで儚げで、笑顔の優しい人でしたか」
そんないいものではない。
「はぐれもの、って感じだったよ。よく騒ぎも起こしてたし。これは――本人の名誉のために言わないでおくけれど」
しかし彼女は言う。
「フェンスの向こうにいたって。そう言ってました。竜崎さんに呼び戻してもらったとも。信頼感に溢れた顔で」
ケージの中でマリィがニャァと鳴けば、彼女はコンロに火を入れた。
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