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34・子どもであることの
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「この冷凍胸肉の四角い塊というのはレンジで解凍していいものなのかしら」
キッチンで田村さんが悩んでいる。
「やめた方がいいよ。どうしてもどこかに火が通るから。大きな鍋に入れて袋のまま流水で解凍した方がいいと思う。半解凍になったら小分けしてラップで包んで」
「そう。そんな光景はバイト先で見たわ」
なら、何も言わずにそうしてほしかった。
「まあ時間がかかりそうだし、その間にマリィと遊ぶわ。カモン、マリィ。今日はチョビと遊ぶのよ。ワンワン」
縫いぐるみを手にマリィを誘い出す田村さん。マリィもそれにつき合うためかクッションを立つ。「この女、面倒くさいな」とか思っているんだろうか。
遊ぶ、と言いつつ、ただただマリィと見つめ合う彼女の目は優しい。僕が知っている中で最も優し気な彼女の目だ。
鶏肉が半解凍された。そのドリップをキッチンペーパーで拭い、一枚ずつ袋に小分けしながら――。
「竜崎君。もしも車があったらどこへ出かけたい? 海? 海岸? さざ波の寄せる砂浜?」
海一択か。
「ホントに行くの? 教習所」
「そう思ったけれどやめたわ。どうしたって車が買えないもの。今は抗争中の親が買ってくれるとも思えないし」
「でも、いつかのために取っておくのもありじゃないかな」
彼女は言う。
「そうやって人はぺーぺードライバーになっていくのだわ。卒業検定合格。即路上実践。それが理想よ。軽自動車の中古でも、車を買える段階に入ってから免許は取るわ」
「そういえば明日香はもう高校時代に取ってるって言ってたっけ」
「ちっ、あのブルジョワお嬢様めが」
キッチンで無粋な立ち話をしていると、奥でマリィがひと鳴きした。
「ああ、ご飯の時間だわ。マリィ。バイト代も出たし、今日は奮発してササミ入りの猫缶よ」
いそいそと窓際に向かう彼女。まとわりつく黒猫。日曜日の午後。そんな穏やかな時間を、父の言葉が台無しにしてゆく。
「竜崎君。久しぶりにあなたの部屋に行きたいわ。マリィも連れて」
「いいけど――何かあるの?」
「なんとなく、もう何度もあの部屋には行けない気がするの」
田村さんの直感は恐ろしいほどによく当たる。先日、母の一周忌を迎えて墓前に参った時も、
――「初子さん、またしばらく会えない気がするわ」
どうして? と訊ねる僕に彼女は言った。
――「だって初子さんはここにはいない。今もあのマンションで眠っているのだもの」
そう、哀し気に口にしていた。僕はその意味を噛みしめていた――。
「さあ。カフェー竜崎のお仕事ですよっと」
ソファーに座るなり彼女は言った。マリィはしばらくその辺を歩き回って、彼女の横に落ち着いた。
「キリマンジャロとモカがあるんだけど、どうする?」
「そう。モカというのは確か酸味があるヤツ。今日はそれにするわ。ただ、酸味のあるものを欲するからといって妊娠している訳ではないですから」
どうでもいい。
ケトルにお湯を沸かす。この瞬間が、あと何度訪れるだろう。マンションを売り払えば、僕はどこに行けばよいのか。何より母のアトリエがなくなってしまうことに悲しみを覚える。
「どうぞ。カップ、熱いから」
ありがとう、と答える彼女の横顔を見れば、母の佇まいを思い出す。真二、いつもありがとね――。
僕は切り出す。
「父さんが来てね。このマンション、出ていかなくちゃならないかもしれないんだ」
田村さんは、カップをふうふうと吹きながら、
「竜崎君は、それを全力で阻止したいと」
「――うん。母さんの匂いのするものは、全部とどめておきたくて。子どものわがままなんだけれど」
僕もソファーに座ってコーヒーを啜る。鼻に抜ける独特の風味が記憶を思い起こさせる。
――「うーん。午後の一服はやっぱり、サイフォンで淹れたモカと、真二のチーズレタスサンドね」
まるで母は、今もここにいる。つい、田村さんのひざに手のひらを重ねてしまう。
彼女は嫌がりもせず、その手を取った。
「けれどいつか、本当の別れは来る。私はその時、竜崎君のそばにいられるかしら」
カップをテーブルに置いた。
「ホントは母さんの遺産分割で、僕はこのマンションに住み続けたいんだ。けれど父さんは、その家賃を払いたくない。知ってるんだ。父さんにはもう新しい人がいて、そこへ僕を呼びたいんだって。養育費もバカにならない。僕は学校を卒業しても、一人じゃここを守っていけない。それがつらくて――」
田村さんは壁をぼんやりと見つめる。そして、何気ない一言のように告げた。
「子どもを作りましょう。私と、竜崎君の。そしてここに住むの。大人は既成事実には弱いもの。その状況になればこちらの勝ちよ」
壁から目を話した彼女は真剣な顔つきだ。冗談を言っている時の目ではなかった。
「そんなの――無理だよ。学生の身分でそんなこと」
「学校は辞めるわ。私は懸命に働く。だから――」
僕は隣に座った彼女を抱きしめる。
「いいよ……気持ちだけで……それだけでいいから」
彼女の頬が濡れていた。子どもであることの無力さを、二人で分け合った。
キッチンで田村さんが悩んでいる。
「やめた方がいいよ。どうしてもどこかに火が通るから。大きな鍋に入れて袋のまま流水で解凍した方がいいと思う。半解凍になったら小分けしてラップで包んで」
「そう。そんな光景はバイト先で見たわ」
なら、何も言わずにそうしてほしかった。
「まあ時間がかかりそうだし、その間にマリィと遊ぶわ。カモン、マリィ。今日はチョビと遊ぶのよ。ワンワン」
縫いぐるみを手にマリィを誘い出す田村さん。マリィもそれにつき合うためかクッションを立つ。「この女、面倒くさいな」とか思っているんだろうか。
遊ぶ、と言いつつ、ただただマリィと見つめ合う彼女の目は優しい。僕が知っている中で最も優し気な彼女の目だ。
鶏肉が半解凍された。そのドリップをキッチンペーパーで拭い、一枚ずつ袋に小分けしながら――。
「竜崎君。もしも車があったらどこへ出かけたい? 海? 海岸? さざ波の寄せる砂浜?」
海一択か。
「ホントに行くの? 教習所」
「そう思ったけれどやめたわ。どうしたって車が買えないもの。今は抗争中の親が買ってくれるとも思えないし」
「でも、いつかのために取っておくのもありじゃないかな」
彼女は言う。
「そうやって人はぺーぺードライバーになっていくのだわ。卒業検定合格。即路上実践。それが理想よ。軽自動車の中古でも、車を買える段階に入ってから免許は取るわ」
「そういえば明日香はもう高校時代に取ってるって言ってたっけ」
「ちっ、あのブルジョワお嬢様めが」
キッチンで無粋な立ち話をしていると、奥でマリィがひと鳴きした。
「ああ、ご飯の時間だわ。マリィ。バイト代も出たし、今日は奮発してササミ入りの猫缶よ」
いそいそと窓際に向かう彼女。まとわりつく黒猫。日曜日の午後。そんな穏やかな時間を、父の言葉が台無しにしてゆく。
「竜崎君。久しぶりにあなたの部屋に行きたいわ。マリィも連れて」
「いいけど――何かあるの?」
「なんとなく、もう何度もあの部屋には行けない気がするの」
田村さんの直感は恐ろしいほどによく当たる。先日、母の一周忌を迎えて墓前に参った時も、
――「初子さん、またしばらく会えない気がするわ」
どうして? と訊ねる僕に彼女は言った。
――「だって初子さんはここにはいない。今もあのマンションで眠っているのだもの」
そう、哀し気に口にしていた。僕はその意味を噛みしめていた――。
「さあ。カフェー竜崎のお仕事ですよっと」
ソファーに座るなり彼女は言った。マリィはしばらくその辺を歩き回って、彼女の横に落ち着いた。
「キリマンジャロとモカがあるんだけど、どうする?」
「そう。モカというのは確か酸味があるヤツ。今日はそれにするわ。ただ、酸味のあるものを欲するからといって妊娠している訳ではないですから」
どうでもいい。
ケトルにお湯を沸かす。この瞬間が、あと何度訪れるだろう。マンションを売り払えば、僕はどこに行けばよいのか。何より母のアトリエがなくなってしまうことに悲しみを覚える。
「どうぞ。カップ、熱いから」
ありがとう、と答える彼女の横顔を見れば、母の佇まいを思い出す。真二、いつもありがとね――。
僕は切り出す。
「父さんが来てね。このマンション、出ていかなくちゃならないかもしれないんだ」
田村さんは、カップをふうふうと吹きながら、
「竜崎君は、それを全力で阻止したいと」
「――うん。母さんの匂いのするものは、全部とどめておきたくて。子どものわがままなんだけれど」
僕もソファーに座ってコーヒーを啜る。鼻に抜ける独特の風味が記憶を思い起こさせる。
――「うーん。午後の一服はやっぱり、サイフォンで淹れたモカと、真二のチーズレタスサンドね」
まるで母は、今もここにいる。つい、田村さんのひざに手のひらを重ねてしまう。
彼女は嫌がりもせず、その手を取った。
「けれどいつか、本当の別れは来る。私はその時、竜崎君のそばにいられるかしら」
カップをテーブルに置いた。
「ホントは母さんの遺産分割で、僕はこのマンションに住み続けたいんだ。けれど父さんは、その家賃を払いたくない。知ってるんだ。父さんにはもう新しい人がいて、そこへ僕を呼びたいんだって。養育費もバカにならない。僕は学校を卒業しても、一人じゃここを守っていけない。それがつらくて――」
田村さんは壁をぼんやりと見つめる。そして、何気ない一言のように告げた。
「子どもを作りましょう。私と、竜崎君の。そしてここに住むの。大人は既成事実には弱いもの。その状況になればこちらの勝ちよ」
壁から目を話した彼女は真剣な顔つきだ。冗談を言っている時の目ではなかった。
「そんなの――無理だよ。学生の身分でそんなこと」
「学校は辞めるわ。私は懸命に働く。だから――」
僕は隣に座った彼女を抱きしめる。
「いいよ……気持ちだけで……それだけでいいから」
彼女の頬が濡れていた。子どもであることの無力さを、二人で分け合った。
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