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38・ショーパンとTシャツ
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「どうも。ご迷惑をおかけしまして――」
金曜の夕方、律義にお土産を抱えてきたのは東横さんだ。
「そんな。それより田村さんちには?」
「ええ、順番に回った方が効率的かと――」
そう言って彼女は手にした包みから小瓶を取り出した。
「富良野の、手作りのブルーベリージャムなんです。ウチの伯父が農園を持ってて」
口にするのが楽しみなお土産だ。
「ところで明日香の別荘行きって誰から誘われたの?」
ただの確認作業だったが、
「ええ……二郷木さんから『よかったら』って――」
本当に明日香本人からの誘いだった。
「じゃあ今から田村さんのところに行ってきます」
「うん。僕もあとで行くから。旅行のこと、いろいろ話したいし」
言っているうちに、いなくなっていた。さすがは東横瑞奈。蜃気楼の女。
夕食に悩み、冷凍庫の隙間を作るためにピザを焼いた。そのままでは面白くないので、これもまた冷凍していたシュレッドチーズを乗せてオリーブオイルをひと回しするとオーブンへ入れた。
明日香から誘われたのは八月の十三日。五日後。母の月命日だ。お墓へは行けないが、早朝にりんを鳴らして出かけよう。
一人淋しくピザを齧って、洗い物をすませると歯を磨いて田村さんの部屋へ向かった――。
603号室のドアをノックすると、鍵は開いていて東横さんが白いノースリーブのニットワンピースで現れた。ノースリーブの肩から伸びた肌に、少しドキリとする。
「マリィ、さっきご飯食べたばっかりですから」
「じゃあ、しばらく静かでしょ」
今夜も二人でテーブルを挟む。
「旅行、二泊するんですよね――」
田村さんから聞いた情報ではそうらしい。
「二日目に白馬の花火大会を見るって。別荘からは車で十分らしいけど」
彼女の顔はすぐれない。
「私、どんな服装で行けばいいでしょう。二郷木さんもですけど、渚さんも結構いいとこの息子さんですから。失礼なければいいんですが――」
言われてみれば、僕も何も考えていなかった。
「あくまで夏休みの旅行なんだから、堅苦しくない方がいいと思うよ」
自分にも、そう言い聞かせた。
「私、実家からあんまりお洋服持って来てないんですよね。こんなことなら帰省中に荷物を送ればよかった……」
「東横さんの実家って?」
「神崎の方です。電車で二時間。行って帰ってくるだけなら一日なんですが――」
そこで彼女は心配そうにマリィをひと眺めする。
「行ってきていいよ。マリィは僕が見てる」
「ご迷惑おかけします――」
「そう。瑞奈は明日は来れないの――」
午前一時。バイトから帰ってきた田村さんは、青い半そでシャツのボタンを外しながら言う。
「だからそれ、向こう向いてやってよ。実家から戻れるのが夜の十時くらいになるらしくって。ところで田村さんは里帰りしないの?」
ボタンを外し終えた彼女が、身体ごとこちらを向く。ブラジャーも青だ。
「竜崎君? あなたは今まで何をボーッと生きてきたの? 私の話を右から左へ素通りさせてきたの? 大学入試以来、私は実家とは離反しているのよ? レジスタンス。抗争中なの。そこへどの面下げて帰れるとお思いかしら」
「ゴメン……」
「いいの。これは私が生み出した問題。竜崎君には毛の先ほども責任のあることではないのだから」
どこかに他意が含まれていそうだ。
「とにかくさ、僕らも服装くらい考えて行った方がいいかなって」
「デニムのショーパンに白いTシャツ。憧れてたの。高原のリゾート地でショーパン。明日はやまむらへ行って九百八十円のショートパンツを買うわ」
「って――内陸だからそれじゃ寒いよ。避暑地っていうくらいなんだから」
「じゃあ、スキーに行った時のダウンコートも羽織るわ」
この人の頭の中は0か1かなのか。
「極端だって。秋物のカーディガンとかあればいいんじゃない?」
「そうなのね。秋を先取りしたファッションならば抜かりはないわ。この部屋に住んで最初の秋のために用意しておいたワードローブがクローゼットに満載」
それで春夏のコーディネートがいつも変わり映えしなかったのか。そこへ、
「一昨日――」
シャツを着替えた彼女が洗濯機に上着を投げながら、そう話しかけてきた。
「なに?」
「いえ。『一昨日』って、『ホホホイ』って響きと似てると思わない」
つまらない。田村節、全開だ。
「そういう話なら、僕もう帰るから」
「まあ、それは冗談として。一昨日、久しぶりに初子さんが夢に現れたわ」
僕がその名前に反応するのを見透かした顔で彼女は座り込む。
「――どんな夢だったの」
彼女はテーブルに着くと両肘を天板につき、考える顔になった。
「よくは理解できていないの。初子さんの姿を確認した訳ではないけれど、そこに初子さんがいるという認識はあって――。声もしない、姿も見えない、色もない――あえて言うならばグレーの霧の中。それで終わり。竜崎君は、この夢の意味って分かるかしら」
分かるはずはない。何より、僕はしばらく母さんにまつわる夢を見ていないのだ。それが悔しかった。その思いが、次の言葉を選ばせた。
「田村さんの中で、きっと母さんが消えかかってるんだよ。元々、田村さんが気に病むこともなかった訳だし――」
すると、
「ひどい! 初子さんは今も私の中にいる! 帰って! 今すぐ帰ってちょうだい!」
急に取り乱した彼女に気圧されて、心を暗くしながらドアへ向かった。今さらながら取り返しのつかない後悔を抱えて。
金曜の夕方、律義にお土産を抱えてきたのは東横さんだ。
「そんな。それより田村さんちには?」
「ええ、順番に回った方が効率的かと――」
そう言って彼女は手にした包みから小瓶を取り出した。
「富良野の、手作りのブルーベリージャムなんです。ウチの伯父が農園を持ってて」
口にするのが楽しみなお土産だ。
「ところで明日香の別荘行きって誰から誘われたの?」
ただの確認作業だったが、
「ええ……二郷木さんから『よかったら』って――」
本当に明日香本人からの誘いだった。
「じゃあ今から田村さんのところに行ってきます」
「うん。僕もあとで行くから。旅行のこと、いろいろ話したいし」
言っているうちに、いなくなっていた。さすがは東横瑞奈。蜃気楼の女。
夕食に悩み、冷凍庫の隙間を作るためにピザを焼いた。そのままでは面白くないので、これもまた冷凍していたシュレッドチーズを乗せてオリーブオイルをひと回しするとオーブンへ入れた。
明日香から誘われたのは八月の十三日。五日後。母の月命日だ。お墓へは行けないが、早朝にりんを鳴らして出かけよう。
一人淋しくピザを齧って、洗い物をすませると歯を磨いて田村さんの部屋へ向かった――。
603号室のドアをノックすると、鍵は開いていて東横さんが白いノースリーブのニットワンピースで現れた。ノースリーブの肩から伸びた肌に、少しドキリとする。
「マリィ、さっきご飯食べたばっかりですから」
「じゃあ、しばらく静かでしょ」
今夜も二人でテーブルを挟む。
「旅行、二泊するんですよね――」
田村さんから聞いた情報ではそうらしい。
「二日目に白馬の花火大会を見るって。別荘からは車で十分らしいけど」
彼女の顔はすぐれない。
「私、どんな服装で行けばいいでしょう。二郷木さんもですけど、渚さんも結構いいとこの息子さんですから。失礼なければいいんですが――」
言われてみれば、僕も何も考えていなかった。
「あくまで夏休みの旅行なんだから、堅苦しくない方がいいと思うよ」
自分にも、そう言い聞かせた。
「私、実家からあんまりお洋服持って来てないんですよね。こんなことなら帰省中に荷物を送ればよかった……」
「東横さんの実家って?」
「神崎の方です。電車で二時間。行って帰ってくるだけなら一日なんですが――」
そこで彼女は心配そうにマリィをひと眺めする。
「行ってきていいよ。マリィは僕が見てる」
「ご迷惑おかけします――」
「そう。瑞奈は明日は来れないの――」
午前一時。バイトから帰ってきた田村さんは、青い半そでシャツのボタンを外しながら言う。
「だからそれ、向こう向いてやってよ。実家から戻れるのが夜の十時くらいになるらしくって。ところで田村さんは里帰りしないの?」
ボタンを外し終えた彼女が、身体ごとこちらを向く。ブラジャーも青だ。
「竜崎君? あなたは今まで何をボーッと生きてきたの? 私の話を右から左へ素通りさせてきたの? 大学入試以来、私は実家とは離反しているのよ? レジスタンス。抗争中なの。そこへどの面下げて帰れるとお思いかしら」
「ゴメン……」
「いいの。これは私が生み出した問題。竜崎君には毛の先ほども責任のあることではないのだから」
どこかに他意が含まれていそうだ。
「とにかくさ、僕らも服装くらい考えて行った方がいいかなって」
「デニムのショーパンに白いTシャツ。憧れてたの。高原のリゾート地でショーパン。明日はやまむらへ行って九百八十円のショートパンツを買うわ」
「って――内陸だからそれじゃ寒いよ。避暑地っていうくらいなんだから」
「じゃあ、スキーに行った時のダウンコートも羽織るわ」
この人の頭の中は0か1かなのか。
「極端だって。秋物のカーディガンとかあればいいんじゃない?」
「そうなのね。秋を先取りしたファッションならば抜かりはないわ。この部屋に住んで最初の秋のために用意しておいたワードローブがクローゼットに満載」
それで春夏のコーディネートがいつも変わり映えしなかったのか。そこへ、
「一昨日――」
シャツを着替えた彼女が洗濯機に上着を投げながら、そう話しかけてきた。
「なに?」
「いえ。『一昨日』って、『ホホホイ』って響きと似てると思わない」
つまらない。田村節、全開だ。
「そういう話なら、僕もう帰るから」
「まあ、それは冗談として。一昨日、久しぶりに初子さんが夢に現れたわ」
僕がその名前に反応するのを見透かした顔で彼女は座り込む。
「――どんな夢だったの」
彼女はテーブルに着くと両肘を天板につき、考える顔になった。
「よくは理解できていないの。初子さんの姿を確認した訳ではないけれど、そこに初子さんがいるという認識はあって――。声もしない、姿も見えない、色もない――あえて言うならばグレーの霧の中。それで終わり。竜崎君は、この夢の意味って分かるかしら」
分かるはずはない。何より、僕はしばらく母さんにまつわる夢を見ていないのだ。それが悔しかった。その思いが、次の言葉を選ばせた。
「田村さんの中で、きっと母さんが消えかかってるんだよ。元々、田村さんが気に病むこともなかった訳だし――」
すると、
「ひどい! 初子さんは今も私の中にいる! 帰って! 今すぐ帰ってちょうだい!」
急に取り乱した彼女に気圧されて、心を暗くしながらドアへ向かった。今さらながら取り返しのつかない後悔を抱えて。
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