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44・周期点

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 窓際の椅子に腰掛けた田村さんが、カーテンと窓を開けて夜の芝生を眺めている。

 僕はその風情に負けるようにベッドの一つへ座った。

「大事な話って――」

 僕が訊ねる間もなく、彼女は青い朝顔柄の浴衣で立ち上がる。その姿は淑やかで悠然としている。まるで別の誰かを見ているようだ。僕のよく知る別の誰かの――。

「申し訳ないと思っているわ。初子さんのこと。軽々しく口にするには、まだ早過ぎることは分かっていたの。それでも私の中で生き続けている初子さんのことを竜崎君に伝えたかった。それが結果的にあなたを傷つけることになってしまった。許してちょうだい。私は竜崎君の次に、初子さんを大事に思っていたいの。竜崎君の初子さんに対する思いの、少し下」

 彼女は浴衣を袖ごと抱きしめてみせる。

「高校時代の謹慎の中で、彼女だけにしか打ち明けられなかった思い。受け止めてくれた彼女の優しさ。それを――竜崎君に上手いこと伝えられないもどかしさが今も私の中にある。フラクタル――彼女が残した言葉と、『真二をよろしく』と告げた彼女の真意が今もよく分からないわ。理由の分からない課題を任されたの。初子さんに。私はいったい、どうすればいいのかしら。思えば思うほど、その気持ちは竜崎君だけに向かってゆくのよ。私の存在と思いは今、竜崎君のためだけにある。なのに、ひどいことを言ってゴメンなさい。『もう来ないで』なんてウソ。いつもいつでも竜崎君といたい。初子さんの存在や言葉とは関係なく――ねえ、キスをしてちょうだい」

 そう言った彼女の肩と瞳が震えている。僕には立ち上がることもできない。田村さんの言葉にはいつも隙がない。うかうかしていると、その通りに事が運んでしまう。僕は、それを嫌がった。

 田村さんは僕の隣に座って肌を寄せる。

「勝手だよ――」

 駄々をこねるように僕はこぼす、その子供っぽさを隠すように彼女の肩を抱いた――。

 今は、少し混乱している時の彼女だ。僕はその混乱を解きほぐしていかなければならない。

 マリィがベッドの上へと飛び乗って身体を伸ばす。僕はそれを見ている。

「誰も、自分の力以上のことはできないよ」

 意味があるとも知れない言葉で、僕はため息をごまかす。彼女の白い指先が左手に絡む。

「佐藤さんがクロードじゃなかったみたいに、期待をすると裏切られることになるわ」

 それは飛躍だ。

「それでも車海老の養殖をしている黒井戸さんはいた。類い稀なニアミスだよ」
「――そういうふうにできているのかしら。世の中というのは。欲しいものはいつもいつも別の場所にあって、手を伸ばせないところに転がっている。だったら私は、少し世の中を軽蔑するわ。意地が悪い」

 彼女は身体を僕に任せて続ける。

「竜崎君の望む世界と私の望む世界は今、少しなりとも重なっている。マンションを出て行きたくないあなたと、ベランダ越しにあなたを感じられる私の日常。あの部屋、本当に奇跡的に空いていたのよ。まるで二人を結ぶみたいに。

 偶然にしても必然にしても、それを語る彼女は珍しい。

 ドアが小さく叩かれる。

 僕が迷っていると、

「いいわ。私が出てゆく。渚君にありがとうと言い残して」


 田村さんは浴衣の裾を押さえてドアに立った。暗い部屋へと廊下の明かりが漏れる。立ち話をしている二人。やがて入れ替わるように渚君が入ってきた。浴衣ではなく、Tシャツにジーンズだった。

「明日は花火大会があるんだよ。見に行くかい? もちろん皆で行くと思うけれど」

 とてもそういう気分ではなかった。

 彼は壁のスイッチを押すことはせず、ベッドサイドのランプシェードに明かりを灯した。

「いい話はできたかい――」

 そういう彼に、

「田村さんのこと、分からないんだ。何を考えているのか何をしたいのか。ふざけているのかと思えば本気でとんでもないことをやってのけるし。今日だってそうだよ。皆に迷惑かけてさ」

 言うと、

「でも君は、そんな彼女が好きだ。違うかい?」

 僕は答えに迷う、迷ったまま答えた。

「分からない。すごく好きな時もあるけど、そうじゃない時も多い。胸の中の大事なものを引っ掻き回される時が耐えられない」
「傍から見ると、とてもいい関係に見えるよ。僕と明日香とは違ってね」
「渚君は、明日香のこと好きなんでしょ? 前にも言ったけど――明日香はどうなの? 渚君のこと、好きじゃなきゃ一緒にいないと思うんだ」

 すると彼はサラサラの髪をかき上げて、

「それが問題だ。明日香の気まぐれは今に始まったことじゃない。あの性格を受け入れてくれる懐の深い男がいなかっただけだ。ファザコンなんだよ。包容力こそが彼女の求める男性像だ。そこにきて、僕は幼馴染で都合がよかった。何をしても許してくれるし、何のジャマもしない。けれどね、女性というのは本来わがままで、どこまでも満たされないものなんだと思うよ。これがあれば、あれも欲しい。それも揃えばあちらも欲しい。その点、真二君さえいればあとは何も――という田村さんのスタンスは羨ましい限りだ。もしも君が田村さんを手放すというのならば、僕は迷わず彼女を口説きにかかる。それくらい魅力に溢れた女性だ」

 衝撃的ではあったけれど、驚きはしなかった。彼は田村さんの突飛な言動を、いつも笑ってやり過ごす。それも紳士的に。僕には真似ができない領域だ。

 僕が何ひと言も言えずにいると、

「冗談だよ、真二君。今の無言の間が君の答えだ。彼女を支えて愛せるのは、君しかいない。もっと自信を持って」
「愛って――そういうのじゃないよ。もしも僕と田村さんに共通項があるなら、それは寂しさだから。失ったものや失いそうなものへ対する未練が、そうさせてるんだと思うよ」
「今はそれでいいさ。人の暮らしという反復の先にはやがて周期点がある。それが幸せであるなら、そこへ至る経過はすべて愛であっていい。僕はね、恋以外のすべてのものは愛だと思っているよ。真二君も今は恋をすればいい。振り回されても拒絶されても、心の求めるままに生きていくんだ――」

 渚君は「これが落ち着くんだ」と、ジーンズのままベッドへ横たわった。僕は浴衣の裾に手こずりながらベッドへもぐった。



※ストックができたので連投します。
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