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54・君がいなければ
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市立総合病院から帰宅した――。
一夜明けて、朝のベランダで空を見上げる。田村さんは病院で目を覚まさなかった。容態は思わしくなく、入院期間はまだ定まらず、僕はといえばコーヒーも淹れず、土曜日の部屋でボンヤリしていた。彼女のことはもちろん気になりつつ、張り合いのない一日を過ごした。
話し相手が欲しくて、ついマリィのいる田村さんの部屋へ向かった。親御さんとの連絡は取れたらしいので僕の出る幕はない。
合鍵を差してゆっくりドアを開ける。
――あら竜崎君、待ってたわ。カリカリと新鮮な水。それからトイレの砂、掃除してて。
「うん――」
――敦子さんの容態はどうなの?
マリィは忙しく口を動かしながら訊ねてくる。
「意識が――戻らないらしいんだ。脳波が正常じゃないって。気になるよ」
――それは、初子さんのせい?
マリィは食事に満足したのか口を拭う。
「分からない。けど、そうかもしれないって思ってる。人ひとり分の身体に心が二つあるなんて、きっと無茶なんだよ」
するとマリィが驚くような提案をしてきた。
――私が話しましょうか? 初子さんと。
「キミが? 無茶だよ。驚かれるだけだって」
――そうかしら。一度死んで魂がよみがえった相手よ。それくらいで驚かないわ。
「でも、話すとして何を?」
マリィはピチャピチャと水を舐めて、
――敦子さんの身体から出ていくように説得するわ。
僕は黙り込む――。
――下手をすると、敦子さんの命に係わることよ。私は会ったこともないお母さまより、今の飼い主を優先するわ。竜崎君はどうなの?
それでも僕は考え込む。思いがけず再会できた母の魂。僕はそれを二度も失うことになるのか。かといって、田村さんへの心配は消すことができない。
板挟みの中で、この一年を思い返す――。
母が亡くなって一年間、僕の心の空白を埋めてくれたのは間違いなく田村さんだった。短かったようで長かった一年。変わり者で、いつも僕の想像の遥か上を行く言動とバイタリティ。そして、それが僕の笑顔を増やしていった。かけがえのない恩人であり――今では遠回しにだけれど恋人とも言える。
その彼女の存在が、意識のうちから排除されようとしている。それは母の意識の出現率が上がっていることが示唆している。このままでは、彼女はいずれ母の魂に支配されてしまうのではないか。
流しのコーヒーカップを見つめる。すでに僕と田村さんのカップに決まっている陶磁器の白いカップだ。母のお気に入りだった。
――竜崎君が考えていることは、なんとなく分かるわ。できればどちらも手にしたい。
寝床に戻ったマリィの声に、僕は深くため息をつく。
「いや――僕は田村さんの身体を心配する。僕の中で母さんはもう死んだんだ。それがどんな神様の手違いか、心の再会を果たした。僕はそれだけでいいんだ。今でもよく分からないけれど、初ちゃんの残した言葉の意味と、それを田村さんに託した理由を聞けたから」
――「そう。ならいいの。退院したらその言葉を真摯に伝えなさい。初子さんの方に。親子ですもの。分かり合えるわ。きっと。
僕はコーヒーも淹れる気が起きず、冷蔵庫のコーラを取り出す。たったコーラ一本から始まった、あの日の彼女の姿を思い浮かべて――。
マリィの一人語りが始まる。見える方の右目だけを向けて。
――意外といろんな飼い主に愛されてきたわ。例外もあるけど。でもね、私は死に別れは少ないの。「この人もうすぐだわ」って思うと姿を消しちゃうのね。そして街の野良猫になって、次の飼い主が現れるまで自由に過ごす。
僕はコーラを半分も飲めずにいた。
――人間って、無償の愛はないのね。見返りが欲しくなるの。だから私はご飯のあと、必ずニャアと鳴いてみせるわ。せめてもの見返りとして。けれど私は親子の愛を知らない。血の繋がった親も忘れて一人だった。そのせいか、その無償の愛があると幻想している人々が無性に腹立たしくなる時がある。こちらだってご飯をもらうからには、それ相応の愛想も振りまく。そのやり取りはフィフティフィフティよ。猫の本性から逸脱しない程度にね。竜崎君は、どう思う?
彼女の目が答えを求めて黒く光っている。
「僕は――母に思慕の気持ちを抱いていた。ずっと。父がマンションを出ていって、永遠に続きそうな楽園の中で、小さな恐れもあった。僕らはどこへ行くのだろうって」
――親子ですもんね。敦子さんが遠いクラスメイトのままだったら、もしも初子さんが亡くなっていなかったら、どうなってたと思う?
「想像できない。すべての生活は当たり前に進んでいたし、夏休みの学校の屋上なんて行かなかったと思う、あの頃僕は影を避けていた。照りつける日差しに焼かれて、ただうんざりしたかった。毎日の弔問客に麦茶を出して、慰められて、頭を下げて、それにうんざりしていた。心底、初ちゃんが憎らしかった。つらかった。だから僕にはもう『もしも』がないんだ。初ちゃんは死んだし、田村さんと出会った。その運命は変えられなかった」
マリィが前足を舐める。
――けれど今は、その両方を中途半端に手にしている。
僕はコーラのキャップを固く閉じ、
「だから何かを失わなきゃならない――」
壁にかかった青いワンピースを見つめる――。
「今日はこれで帰るよ。明日もご飯の用意に来たら、田村さんの様子見てくる」
――ありがと。敦子さんも恐らく明日は目が覚めるはずよ。その時、どちらの敦子さんであっても、竜崎君は心を強く持つのよ。じゃあ、おやすみなさい。
一夜明けて、朝のベランダで空を見上げる。田村さんは病院で目を覚まさなかった。容態は思わしくなく、入院期間はまだ定まらず、僕はといえばコーヒーも淹れず、土曜日の部屋でボンヤリしていた。彼女のことはもちろん気になりつつ、張り合いのない一日を過ごした。
話し相手が欲しくて、ついマリィのいる田村さんの部屋へ向かった。親御さんとの連絡は取れたらしいので僕の出る幕はない。
合鍵を差してゆっくりドアを開ける。
――あら竜崎君、待ってたわ。カリカリと新鮮な水。それからトイレの砂、掃除してて。
「うん――」
――敦子さんの容態はどうなの?
マリィは忙しく口を動かしながら訊ねてくる。
「意識が――戻らないらしいんだ。脳波が正常じゃないって。気になるよ」
――それは、初子さんのせい?
マリィは食事に満足したのか口を拭う。
「分からない。けど、そうかもしれないって思ってる。人ひとり分の身体に心が二つあるなんて、きっと無茶なんだよ」
するとマリィが驚くような提案をしてきた。
――私が話しましょうか? 初子さんと。
「キミが? 無茶だよ。驚かれるだけだって」
――そうかしら。一度死んで魂がよみがえった相手よ。それくらいで驚かないわ。
「でも、話すとして何を?」
マリィはピチャピチャと水を舐めて、
――敦子さんの身体から出ていくように説得するわ。
僕は黙り込む――。
――下手をすると、敦子さんの命に係わることよ。私は会ったこともないお母さまより、今の飼い主を優先するわ。竜崎君はどうなの?
それでも僕は考え込む。思いがけず再会できた母の魂。僕はそれを二度も失うことになるのか。かといって、田村さんへの心配は消すことができない。
板挟みの中で、この一年を思い返す――。
母が亡くなって一年間、僕の心の空白を埋めてくれたのは間違いなく田村さんだった。短かったようで長かった一年。変わり者で、いつも僕の想像の遥か上を行く言動とバイタリティ。そして、それが僕の笑顔を増やしていった。かけがえのない恩人であり――今では遠回しにだけれど恋人とも言える。
その彼女の存在が、意識のうちから排除されようとしている。それは母の意識の出現率が上がっていることが示唆している。このままでは、彼女はいずれ母の魂に支配されてしまうのではないか。
流しのコーヒーカップを見つめる。すでに僕と田村さんのカップに決まっている陶磁器の白いカップだ。母のお気に入りだった。
――竜崎君が考えていることは、なんとなく分かるわ。できればどちらも手にしたい。
寝床に戻ったマリィの声に、僕は深くため息をつく。
「いや――僕は田村さんの身体を心配する。僕の中で母さんはもう死んだんだ。それがどんな神様の手違いか、心の再会を果たした。僕はそれだけでいいんだ。今でもよく分からないけれど、初ちゃんの残した言葉の意味と、それを田村さんに託した理由を聞けたから」
――「そう。ならいいの。退院したらその言葉を真摯に伝えなさい。初子さんの方に。親子ですもの。分かり合えるわ。きっと。
僕はコーヒーも淹れる気が起きず、冷蔵庫のコーラを取り出す。たったコーラ一本から始まった、あの日の彼女の姿を思い浮かべて――。
マリィの一人語りが始まる。見える方の右目だけを向けて。
――意外といろんな飼い主に愛されてきたわ。例外もあるけど。でもね、私は死に別れは少ないの。「この人もうすぐだわ」って思うと姿を消しちゃうのね。そして街の野良猫になって、次の飼い主が現れるまで自由に過ごす。
僕はコーラを半分も飲めずにいた。
――人間って、無償の愛はないのね。見返りが欲しくなるの。だから私はご飯のあと、必ずニャアと鳴いてみせるわ。せめてもの見返りとして。けれど私は親子の愛を知らない。血の繋がった親も忘れて一人だった。そのせいか、その無償の愛があると幻想している人々が無性に腹立たしくなる時がある。こちらだってご飯をもらうからには、それ相応の愛想も振りまく。そのやり取りはフィフティフィフティよ。猫の本性から逸脱しない程度にね。竜崎君は、どう思う?
彼女の目が答えを求めて黒く光っている。
「僕は――母に思慕の気持ちを抱いていた。ずっと。父がマンションを出ていって、永遠に続きそうな楽園の中で、小さな恐れもあった。僕らはどこへ行くのだろうって」
――親子ですもんね。敦子さんが遠いクラスメイトのままだったら、もしも初子さんが亡くなっていなかったら、どうなってたと思う?
「想像できない。すべての生活は当たり前に進んでいたし、夏休みの学校の屋上なんて行かなかったと思う、あの頃僕は影を避けていた。照りつける日差しに焼かれて、ただうんざりしたかった。毎日の弔問客に麦茶を出して、慰められて、頭を下げて、それにうんざりしていた。心底、初ちゃんが憎らしかった。つらかった。だから僕にはもう『もしも』がないんだ。初ちゃんは死んだし、田村さんと出会った。その運命は変えられなかった」
マリィが前足を舐める。
――けれど今は、その両方を中途半端に手にしている。
僕はコーラのキャップを固く閉じ、
「だから何かを失わなきゃならない――」
壁にかかった青いワンピースを見つめる――。
「今日はこれで帰るよ。明日もご飯の用意に来たら、田村さんの様子見てくる」
――ありがと。敦子さんも恐らく明日は目が覚めるはずよ。その時、どちらの敦子さんであっても、竜崎君は心を強く持つのよ。じゃあ、おやすみなさい。
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