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6・香月義正―②

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 僕一人の夕食が終わったところで電話が鳴った。ニーナからだと直感で分かった僕は母より先に電話を取る。

『ああヒロキだ。で、夜は?』

「それが、今夜はやめとこうかなって。明日も駅前で唄おうと思ってるから。学校終わったら来てもらえるかな。佐野元春も練習した曲があるから」

『ホント? じゃあまた同じ時間に行く。いっぱい聴かせてね。じゃ、早いけどおやすみ』



 今夜は兄貴はいない。いつもの友達の店に顔を出しているらしい。思案橋の奥でバーをやっている。

 一番下の弟は兄貴不在をこれ幸いとファミコンに没頭している。僕はそれを横目に、久しぶりの机に着く。今では使わない教科書に参考書。僕を縛りつけていた薄っぺらな、時に分厚い紙束を並べてドミノのように倒した先に、本当の僕があるような気がする。

 ただ――。

 本当の僕。もしかすると、それはこの教科書のように薄っぺらいものなのかもしれない。たった十七年間の記憶の重なり。人が百まで生きるとして、その二割も生きていない。ページをめくれば一次関数さえ知らない人生。そんな人間が自分の何を決められるだろう。他人に何を求められるだろう。

 それでも僕は生きてゆかなければならない。この先に待つものを、ただ待っているだけではいけないのだ。手探りの未来――そればかりは誰にでも平等に朝陽と共に訪れているはずではないのか。ならば人は明日を恐れなくてはいけない。そこにあるのは希望だけではないのだから。



 目が覚めると、まだ弟も兄貴も起き出していなかった。カーテンの隙間から白々とした日の明かり。

 布団の端を踏み、素足でベランダへ出ると、足裏が冷えた。明け方の空に、この町に住むものならばよく見る山々の稜線が浮かび上がっている。手前へ目をやると、照らされ始める人々の暮らす家並み。その屋根の数だけ暮らしがあり、僕はその知らないどこかに生まれ落ちたらよかったのにと、例えば自分の境遇を嘆く。今の厄介な自分の境遇を何かとすり替えようとしていた。

 やがて上り始める朝陽――始まる僕の一日――人々の営み――生きてゆこうとする命。
僕は眠い目をこすり、今日を始める準備をする。人の命という儚さと可能性とに賭ける一日が始まる。朝焼けの空に――。


 波立つ心のまま過ぎてゆく昼の時間を、ギターと共に過ごす。敷き詰めた布団を押し入れに戻し、狭い畳の部屋で足を組んで。ギター。僕の生きてきた時間の中で、もっとも打ち込んだことの一つ。それは、学校で過ごした時間の中では得ることのできなかった大切なひとときだ。

 ギターケースを担ぐと、肩ひもにほつれがあるのに気づいた。元々が初心者用のソフトケース。それは酷使するほどにくたびれてゆく。いつかハードケースでも欲しいなと、暇があったら楽器屋でも覗こうと考えつつバスに乗る。いつもの四十分。気の乗らない通学バスとは違う、意志を持った移動。
駅のベンチで、学校の放課後を待つ。彼女が先か、それとも彼女か。どちらにしても僕は理想を一つ手に入れるだろう。

 ケースは表に出さず、時間までギターを紡いでいた。時折、小さな子供が不思議顔で眺めてゆくので手を振った。小さな手がそれに応える。ざわついていた心が和む。


 高架広場を埋める人が増え始めると、まず彼女の声がした。

「尋生君――?」

 衣替えした紺色のセーラー服が怯えるように近寄って来る。中村貴子が先だった。

「ああ。学校、終わった?」

「終わったって……。こげんところで何ばしよると……」

「ギター弾いとるだけ。待ち合わせしとるけん」

「待ち合わせって――誰と?」

 僕は用意していた言葉を、悪びれることもなく口にする。

「彼女。新しい彼女」

 言うと、彼女は激しい動揺を見せた。持っていたカバンを胸に抱き、肩を震わせた。

「どういうこと?」

「だけん、そのまま。もう、決めた」

「そげん……そげんこと勝手に――」

 彼女が言葉に詰まった時、もう一人の彼女は現れた。

「ヒロキ! もう唄ってた?」

 中村貴子は青ざめた顔を一瞬見せて振り返った。そこには涼し気な白い制服で、いつもの金色の髪を風に任せてニーナが立っている。

「ヒロキ、友達?」

 僕はギターの指先を動かしながら、平静を装って答える。

「うん。同じ部活の中村さん。たまたま会って」

 疑うことを知らないニーナが彼女へ笑いかける。

「へえ、そうなんだ。私、ニーナ。ヒロキのマネージャー。あなたは?」

 貴子はじわりと後ずさると、ひと言も口をきかずに一度だけ僕を睨みつけて走り去った。

「どうしたの? ケンカでもしてたの?」

 彼女の後姿を目で追っていたニーナはカバンを下ろし。まとめていた髪をほどくと僕に向き直った。

「僕に、学校に出てこいって。仮にも部長だから、後輩に示しがつかないって」

「部長? ヒロキは部活なんてやってたの?」

「美術部。形だけなんだけど」

「ギターも弾いて絵も描けるんだ。アーティストだね。それより何を覚えてきたの? 早く聴かせて」


『スターダスト・キッズ』という、借りたアルバムの中の一曲目。ポップで明るい佐野元春を披露してみせると彼女は飛び上がって喜んだ。

「いいビートしてる! 次は『ガラスのジェネレーション』だね!」

「そんなに一気には覚えられないよ。それからなんだけど、今後は夜も継続的に唄うようにしようかなって」

「いいじゃない。でもどうして?」

「夜の人の方がお金になるんだ。買いたいものもあって」

 ニーナは少しだけ空を見上げて、またこちらを見つめる。

「そうだね。夜の雰囲気の方が似合う感じがするよね。モトハル・サノも、尾崎豊も。それで、買いたいものって?」

「ギターケース。こういうのじゃなくてしっかりしたハードケース。ふたがパカッて開く」

「知ってる。東京ではね、皆それを外に向けて開いてるの。自分の歌をカセットテープに録音して売ったりしてる人もいるんだよ。あ、そうだ。パパに聞いたら録音できる小さいレコーダーがあるって。来月、買ってもらうの。そしたらいつでもヒロキの歌が聴けるんだよ。すごい楽しみ」

 彼女は本当に楽しそうに笑ってみせる。笑顔の裏側に汚れたものはないかのように。その汚れなさに僕は希望を抱く。彼女ならば僕のすべてを理解してはくれまいかと。


 と、野太い声が聞こえた。

「おう。青春してるか。若者たち」

「香月さん。こんにちは。どうしたんですか」

「どうしたもこうしたも、バイト先がすぐなんだよ。今日も仲よくやってんのか? 見せつけやがって。ニーナちゃん、こんちは」

 ニーナは「はい、こんにちは」と手を振る。その顔は穏やかだ。

「それよりヒロキ。イチャイチャしてる暇があるならギター貸せよ。俺の歌でこの辺の人間、魅了してやるから」

 ギターが弾きたいなら素直に言えばいいのにと、さも当然の顔で隣に座る彼にギターを差し出した。

「よく聞けよ。これから唄う歌は俺が十八歳で初めて作った曲だ。タイトルは『情熱』。今のキミたちの歳にぴったりの歌だ。いくぞ。――ああ、僕がキミを好きになったのはー」


 歌が始まったので、僕は立ち上がってニーナに尋ねる。

「これからも、夜って少しだけ出られる?」

「うん。十時までは大丈夫。どうして?」

「ニーナがいてくれた方が気持ちよく唄えるから」

「もちろんいいよ。ハイネケン買って顔出す」

 香月さんは二十分唄うと満足したのかバイトへ向かった。

 僕はギターをケースに収めると、駅の時計を見た。

「これから帰ってご飯食べてバタバタだけど、九時には橋にいるから」

「分かった。また夜にね」


 確かな約束というのは心強いもので、満員のバスでギターをつぶされそうになりながらも、僕は頬が緩んでいた。貴子に冷たい仕打ちを向けたことすら忘れて。
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