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13・ギターー②
しおりを挟む午前零時。二人で六千円を分け合って、演奏は終わった。苦情はなかった。
「で、どうすんだ。サウナなんか行ってたら、貯まらないだろ」
香月さんとは週に三回ここで落ち合って、一緒に唄わせてもらうことにした。そして新しいギターを買うお金にする。
「歩いて帰ります。さすがに朝まで外にはいられない季節なんで」
「歩くって、どれくらい」
「二時間半くらいです。でも平気です」
「平気ですって――ウチのアパート来るか? 狭くて汚くてトイレは共同だけどな」
そこで甘えてしまっていいのかという思いがあった。思えばいつも誰かに甘えてきた。ジュリさん、兄貴、そしてニーナにさえも。
しかし寒さが勝った。そして人恋しさも。
「ひと晩、千円でお願いします」
「ならタクシー代ってことにさせてもらおう。行くぞ――」
香月さんのアパートは長大から徒歩圏だった。木造の平屋で、六室あるそうだ。玄関で靴を脱いで上がる。
電球一個の薄暗い廊下はよく軋んで、住人の迷惑になりそうで非常に気になった。
「ああ。気にしなくていいぞ。うるせえのはお互い様だからな」
言うと彼は鍵も開けずにドアを開いた。
「入れよ。つっても座るとこがなあ。ちょっと待て――」
中をのぞくと彼は足先を左右に動かして床に隙間を作っている。そこに座布団一枚分の畳が見えたところで、
「よし。入れ」
丸いちゃぶ台のそばに座ると、散らばった本やプリント用紙を踏みつけに、香月さんがグラスを二つ置いた。ドン、と中央にウィスキーのボトル。
「まあ、酒に文句は言うな。飲みたかったら飲め」
彼は無造作にボトルをつかむと、氷も水もコーラもなくグラスに注いだ。そして僕にも同じものを出す。
「汚いけどよ、ありがたいだろ。こういうシェルターがあるっていうのは」
「はあ――それが――」
先日までのシェルターの話をすると、香月さんは急に不機嫌になった。
「お前な、少し女っ気あり過ぎだぞ。ミュージシャンってのは惚れたギターが一本あればいいんだ。金髪女子高生の次はきれいな夜のお姉さんか、俺にはそういう話、一個もないんだけどな」
「偶然ですって。くろがね橋って、僕の中でそういう場所なのかもしれません」
納得もいかない顔で、彼はきついウィスキーを煽る。
「あー、それでか。一昨日、『今日は坊やの方はいないの?』って訊かれたな。もしかしてあの色っぽいお姉さんか? あーちくしょう! 腹立ってきた」
すみません、と謝るのもおかしいので話をすり替えることにした。
「それで、新品のギターって、いくらくらいからあるんですか」
「あ? 三万くらいだけどな。ただ、ショボいぞ。狙うなら十万円台からじゃなきゃな」
それが貯まるまで待てない。
「三万円でいいです。それでまたお金貯めてけばいいんで」
「まあ、週に三回。四千円はじき出せば、今月中にはどうにかなるだろ。それよりだ――」
「なんですか?」
香月さんは壁際の石油ストーブのつまみを動かして、
「家は、大丈夫なのか。十七の小僧が毎晩夜遊びじゃ、親も落ち着いて眠れないだろ」
「いいんです。ウチはそういう家なんです。それに、ただ子どもが駄々こねてるだけだと思われたくないんです」
「どう思われたいんだ?」
「――歌は――ギターだけは真剣に続けていくつもりだって。分からせてやるんです」
いつの間にか、やりたいことはそれだけになっている自分に気づく。
「それは、楽しいからか」
「楽しいですし、唄っててすごく満足感があるんです。毎日をちゃんと生きてるっていう」
彼はウィスキーグラスを片手で揺らして、僕にも酒を勧める。
「まずはどこまでそれが続くかってとこだがな。人間、楽しいことほど投げ出しやすい。それはな、楽しくなくなったら魅力がなくなるからだ。これ、二十三歳からの助言な」
意味はとても分かりやすく、そのままの形で胸に落ちた。けれど僕には音楽に飽きることは考えられない。中学からずっと続けている、たった一つのことなのだ。
香月さんは、何のためなのか、煙草のフィルターをウィスキーに浸して火をつけた。
「ヒロキ、成人式って出るつもりか」
脈絡のない質問だった。
「まだ、考えてないですけど――」
「いや、お前は出れねえな。断言する。要は周りが坊っちゃん嬢ちゃんにしか見えねえんだ。俺の連れが――静岡の親友だ。高卒で就職した。大学に入ってから会えてなかったんだけど、『成人式で会えるな』って電話したら『出ない』って言う。どうしてだって訊いたら、『俺にとって成人式は十八で終わってる』ってな。そういうことだ。ヒロキ、お前は周囲の同い年より先に大人になるんだ。いや、もうなってるかもしれない。彼女追いかけて大学に入った俺なんかさえ置き去りにな。悩みどころが違ってくんだよ」
僕は黙ってきついウィスキーを舐める。舌に甘く、のどに苦かった。
「悩み――聞いてもらえますか」
僕は彼に打ち明ける。ニーナとのことを。
「彼女のお母さんの仕事の任期が二年だって聞いてます。彼女だって向こうの学校に入ればもっと長いこと会えなくなるんです」
彼は最初ヘラヘラと聞いていたけれど、最後には険しい目つきに変わった。
「それで、お前はいいのかよ」
「いいも悪いも、最初から決まってたことなんで」
僕はため息混じりの煙を吐く。
「じゃない。なんで『待つ』って選択肢がねえんだ。いつかまた会えるかもしれないじゃねえか」
「でも――距離が離れると、心なんて離れるんです」
「その――前の彼女のことか」
「はい。たった数か月で気持ちが変わりました。なんか空しくなるんです」
香月さんはウィスキーを飲み干して次を乱暴に注いだ。僕のウィスキーは減らない。
「お前のは恋でも愛でもないかもな。構ってくれる誰かがいればいいだけだ。そりゃ、春になれば嫌でも終わる。でも終わり方にも二つあってな。すっきりサヨナラできる時と、いつまでも女々しく引きずる場合だ。お前はどちらを選べる」
僕はようやくリアルに思い浮かべる。たとえば彼女と最後の言葉を交わして、サヨナラを告げて、それから僕は何をするだろう。すんなりと、それを受け入れられるだろうか。
「僕には分かりません。世の中、こんなちっぽけな自分がどうあがいても太刀打ちできないことばかりで、ニーナのことは、もう決まったことなんです」
「それでいいのか? お前は親の反対も押し切って高校辞めたんだろ? 太刀打ちできそうもないことに抗って勝ったんだろ? どうして今回はそれができないんだ。尾崎豊の歌を借りれば、お前はもう、一つ卒業してんだ。ニーナちゃんのことは、本気じゃなかったのか? 高校生の浮かれた恋愛を、まだ続けてるだけなのか? 先輩の言葉なんだが、二回目の恋愛っていうのは人生でいちばん大事な恋なんだ。それをお前は運命論で片づけるつもりなのかよ」
僕は何も言えずにウィスキーをひと口飲むだけだ。それはのどを焼いて胃の中で暴れる。
「なあヒロキ。お前は今、俺のギターを借りて稼いで、自分のギターを手に入れることを決めた。待ってるだけじゃ届かないことに対して自分の意志で動いてる。お前が根本的に間違ってるのは、待ってる間にできる何かを見落としてるからだ。手紙でもいいじゃねえか、エアメールの書き方を一つ覚える。五千円のテレホンカード買って電話でもすればいいじゃねえか、国際電話のかけ方を覚える。彼女が国外だったら、お前が会いに行けばいいじゃねえか、パスポートの取り方も国際線の乗り方も、オランダ語も少し覚えて。全部、実際にできることだ。どうしてそれをしようとしない。これは学校で押しつけられた試験じゃないんだぞ。お前が設問して、お前自身が解くんだ。お前は思案橋で酔っ払い相手に荒稼ぎしてたとんでもねえ高校生ストリートミュージシャンなんだ。自分の力をみくびるな」
彼はそれだけ言うと、ウィスキーの三杯目を注いでゆっくりと首を前後に揺らし始めた。
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