契約葬域〈ネクロ・ドミナス〉 —血と誓いが死を招く、黄昏の幻想譚—

ナイトメア・ルア

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第一章:焔に刻まれた予言

第十七話:影の主、牙を研ぐ

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彼らの背に、壁のひび割れが静かに閉じた。棺の向こうで、再び微かな鼓動が始まる。
その拍動は、もはや一つではない。
誰かが、どこかで、鏡を見ている。

 廃都の夜は、砕けた鐘の音がまだ骨の内側で鳴っているかのように重かった。尖塔の影が地面に伸び、風は冷たく乾いているのに、肌の内側だけが熱を孕んで疼く。胸の契約印が、遠い鼓動に呼応して微かに脈を打つたび、リセルは歯を食いしばって熱を押さえ込んだ。隣を歩くルカも、掌を印に重ねたまま視線を前へ向けている。

 崩れた城門を越えれば、灰色の平野が果てなく続く。草は灰になり、風に触れるだけで崩れていく。そこに黒い裂け目が走っていた。地表に溢れた影が固まってできた血管――〈影脈〉。裂け目の縁では、空間の輪郭がわずかに滲み、世界の皮膚が擦れている音が聴こえる。

 影脈の向こう側から、笑うような低い気配がじわりと滲んだ。声ではない。ただ、獣が歯を研ぐ音に似ている。二人は立ち止まり、互いに短くうなずく。

「渡るぞ」

 リセルが言うと、ルカは一歩、裂け目へ踏み出し、足首に絡みつく黒霧を振り払った。

「戻るために行く。喰われるためじゃない」

 影脈の中央は、空と地の境界が薄い。踏み出すたびに足場の密度が変わり、靴底が時折、何もない空間を踏み抜く。落ちる前に次の足を出し、呼吸と脈動を合わせる。刻まれた印の熱が歩幅を揃え、二人の影が裂け目の上で重なった瞬間――黒霧が凝固して“それ”の輪郭を形づくった。

 鎧を纏った人影。だが鉄ではない。影そのものが硬化した〈影鎧〉。顔の位置には何もなく、空洞がぽっかりと開いている。空洞の縁がわずかに笑った気がした。両の腕が影の刃に変形し、刃の先端にひとつずつ、赤い微光が灯る。心臓の欠片のような、危険な光。

「試し斬りに付き合えって顔だな」

 リセルは腰を落とし、刀身を低く這わせる。ルカは短剣を逆手に持ち替え、影の揺らぎを読むように半身を切った。次の瞬間、影鎧が地を蹴る。刃が風を裂き、裂け目の上に白い線を二本引いた。二人はそれを紙一重で躱し、踏み込み、肩と胸に斜めの一撃を同時に叩き込む。しかし、刃は深く入らない。硬い。霧が内側で再生し、傷はすぐに塞がった。

「再生速度、さっきの骸装兵より速い」

「源が近い。ここはあいつの息の根だ」

 影鎧が刃を地面に叩きつけた。裂け目の両岸から、無数の腕が一斉に伸びる。指先は針のように細く、触れたものの形をそのまま剥ぎ取る。リセルは斬り払い、足場を確かめながら間を作る。斬った端から腕が増える。終わりがない。終わらせる場所が別にある。

「胸の空洞を開かせる」

 短く言うと、リセルは自分の印に爪を立てて熱を刃へ流し込んだ。刀身が淡い白光を帯び、影の密度を一瞬だけ薄める。ルカはそこへ滑り込むように踏み込み、影鎧の胸へ刃を突き立てた。空洞の向こうで、黒いものがわずかにうごめく。心臓の歯列――棺界で折ったあの歯の、別の段。

「足りない」

 ルカが歯を噛むと、影鎧の背後で影が二重に濃くなった。裂け目の奥から、別の鼓動が重なる。目に見えない巨大な顎が、こちらを測るように開閉する気配。唇の代わりに世界の縁で呼吸し、舌の代わりに影脈を舐める気配。〈影の主〉が牙を研ぎながら覗いている。

「本体の舌先か……。噛まれたら骨ごと持っていかれる」

 突風が吹き抜け、影鎧の刃が渦を描いた。リセルは刃を交差させ、盾のように受け止めつつ肩で押し返す。腕の中で、誇りを切り落とした穴が疼く。支えるものが少し足りない。代わりに、あの時の約束が筋肉に代わる。

「ルカ、呼ぶぞ」

「呼べ」

「――届け」

 リセルの呼気に合わせ、ルカが影の刃を最短で走らせる。二人の刃が同じ瞬間に胸の空洞を穿つと、影鎧は破裂するように霧散した。だが、勝ちは一瞬だけ。裂け目の奥で笑い声が重なり、影の泡が新たな鎧の形を取って沸き上がる。次、次、また次。影鎧は数を誇るように増殖する。

「押し込まれる!」

「押し返す」

 リセルは膝を深く折り、刀身を地面すれすれに流し、刃の背で影の腕をまとめて払った。その隙にルカが一体の脚を切り払い、もう一体の肘を削る。再生が追いつく前に、別の箇所へ傷を重ねる。切り結ぶ軌跡が幾何学模様になり、白い火花が黒の上に咲いては消えた。

 それでも、影は足りないところへ足りないところへと染みてくる。裂け目の縁がひと呼吸ごとに広がっていくのが見える。平野の地肌が音もなく割れ、細い影脈が多数生まれて星河のように走る。世界の皮膚が乾ききった唇のように裂け、そこへ黒い舌が忍び込む。

「この広がり方……狙われてるのは都市の根だ。今止めないと、あっという間に街がもっていかれる」

「止める」

 短い応答。二人は刃を引き、同時に影脈の中心へ跳んだ。足場はない。あるのは、落ちる前に次の一歩を空中に刻む技術だけ。印の熱が足裏に微かな踏みどころを作り、空と地の間に「まだ在る」を橋のように張った。

 影鎧が再び立ち塞がる。だが、二人はすでに学んでいる。胸の空洞に刃を通す角度、再生が始まるまでの僅かな呼吸、影の密度が薄まる瞬間。三度目の斬撃で一体。四度目の踏み込みで二体。五度目の呼吸で三体が霧になる。白光が黒を縫い、黒が白を呑み込む。

 裂け目の奥で、牙がひとつ欠ける音がした。影の主の気配が、わずかに苛立つ。黒い泡はさらに早く、さらに粗く鎧を作り出した。粗い分、脆い。だが数が多い。

「数で押し切る気だ」

「じゃあ、数の向こうに“一点”を作る」

 リセルは肩口から大きく刀身を返し、連続の払刀で影の腕を束ねると、払った勢いのまま空間の一点を“縫い留め”た。刀身の白が糸になり、影の束を一瞬固定する。ルカがその束の根へ滑り込み、影鎧三体ぶんの胸の空洞を貫く。固定が解ける前にもう一手。呼吸は狂わない。印の脈動と呼吸が重なる限り、動きは続く。

 足場の下で、低い地鳴りが始まった。裂け目の底で何かが蠢き、巨大な舌が空へ伸び上がる予備動作をしている。牙を研ぐ音が、今度は耳朶ではなく胸腔で鳴った。

「来るぞ!」

 リセルが叫ぶと同時に、影脈の中心から黒い柱が噴き上がった。柱の表面に、無数の目のような孔が開き、孔の縁が「値踏み」を始める。名、記憶、誇り。剥がしやすい場所を探し、舌がそこへ伸びる。印が灼ける。胸の内側で、抜き取られたくないものが悲鳴を上げる。

「やらせるか!」

 ルカが前に出て、己の印を晒すように胸を張った。

「奪いたきゃ、こっちから見せてやる。けど、値踏みの間に斬る!」

 彼は自らの名の薄い輪郭を、敢えて指でなぞる。影の舌がそこへ伸びる瞬間、リセルが刀身で舌の根元をはたき斬った。黒い血が散り、孔が一斉にすぼむ。さらにもう一手。影の柱の基部に走る細い脈へ刃を滑り込ませ、糸を切るように断つ。柱が僅かによろめく。

 影鎧が押し寄せる。背を預け合い、刃を交差させ、前後で呼吸を受け渡す。斬っては退き、退いては斬る。剣戟の音が一続きの長い線になり、二人の動きは最短と最長を同時に選ぶように収束していく。

「リセル!」

「ここだ!」

 二人の声が影を裂く合図になり、刀身と短剣が同時に柱の芯へ届いた。硬い手応えのあと、芯が裂ける。黒い柱が崩れ、影鎧たちの輪郭が一瞬だけ“遅れる”。再生と増殖の律動が乱れた。

 その隙間へ、風が差し込む。遠く、正しい世界から吹く風だ。冷たく乾いた現実の匂いが、裂け目の上に細い橋を作る。二人はそこへ足をかけ、柱の残骸を蹴って対岸へ跳んだ。足裏に固い地の感触が戻る。影脈は、まだ閉じない。だが広がりは止まった。亀裂の縁がわずかに収束し、ひとつ息を吐くように沈黙する。

「折ったのは、牙の根元の一本だけだ」

 リセルが肩で息をしながら言うと、ルカは額の汗を拭い、短く笑った。

「一本折れば、咬み合わせが狂う。次も折る。全部折れば、噛めない」

「噛めなくても、呑み込む口は残る」

「その口には、刃を呑ませる」

 会話の端々で、二人は意識的に改行しながら言葉を置いた。自分たちの声が、契約の印に“届く”ための、儀式のように。言葉は刃だ。刃は約束だ。約束は、奪われたものの代わりに筋肉になる。

 遠く、平野の彼方で赤い光が瞬いた。廃都とは別の方向、王国の街道筋。小さな町の外れに、影脈の細い枝が芽吹いては消え、また芽吹いている。影の主は牙だけでなく、舌も試している。狙いは拡散。守るべき場所が増えれば、彼らの刃は薄く伸ばされる。分断は敗北の始まりだ。

「行こう。町を見て、線を切る」

「行く」

 歩き出す前、リセルは一度だけ振り返った。裂け目の底で、黒い泡がまた細い柱を立ち上げようとしている。牙は何度でも生える。だが、根元は確実に弱っている。棺界で折った歯列の記憶が、刀身の重みになって残っている。

「名が薄くなっても、呼べば届くか?」

 リセルが問うと、ルカは微笑んでうなずいた。

「届く。お前が呼ぶ限り、俺はここにいる」

「なら、俺も呼ばれたら応える」

「何度でも」

 風が変わり、夜の匂いが街道の塵と混じって鼻孔に入った。二人は影脈から目を離し、灰色の平野を踏みしめて進む。足音は軽くないが、沈まない。印の熱はまだ痛いが、焼け跡に芽が出るような微かな感触が胸の内側にあった。

 そのとき、空がわずかに鳴った。雲の裏側で、鏡が誰かの手で傾けられた気配。第十四話で砕いた鏡籠の欠片は、世界のあちこちでまだ光を返している。誰かが、どこかで、鏡を見ている。影の主も見ている。だが、鏡は一方通行ではない。

「見てろよ」

 リセルが低く呟き、刃を鞘に納めた。

「次は、こっちが噛み砕く番だ」

 灰を踏む音が、遠い鐘の余韻に重なって消える。夜は深い。だが、深さは底ではない。底に届く前に、刃はまた研がれる。牙が研がれるのと同じ速度で、約束も研がれる。二人は互いの呼吸を確かめ、街道の闇へと溶けていった。
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