山狗の血 堕ちた神と地を駆けし獣

月芝

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その五十八 怒り

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 犠牲を払いながらも、どうにか堰堤へと到達することに成功したコハクと正孝。
 あとはこのまま中央付近へと誘い込むだけ。
 という段階になって、ふいに足下に影が差す。かとおもったら、たちまち頭上をサッと何かが追い越した。
 前を走っていたコハクが急に脇へと跳ねる。山狗の子の回避行動。
 次の瞬間、つい先ほどまでコハクがいた場所へと落下したのは石の灯篭。青眼湖沿いの道に設置されてあったもののうちのひとつ。逃げる正孝らを足止めするために禍躬シャクドウが投げたのだ。
 それも一度きりではなくて、何度も続けて。
 次々と進路上に降ってくる石灯篭。
 相当な重量があるはずなのに、なんという膂力っ!
 そのたびに地面がズシンドスンと揺れては、派手に破片が散乱し、こちらの進路を妨害し、足の勢いを奪い、惑わせる。
 これではおちおち前を向いて走ってもいられない。

「くそっ、あと少しというところで」

 たまらずふり返った正孝は、そこではじめてきちんと相手の姿を視認する。

 濁った赤い焔がメラメラと燃えていた。
 それはシャクドウの逆立った毛であった。荒ぶる禍躬が四肢を動かすたびに、それが揺らめき、本物の炎のように見えていたのだ。
 赤いといえば瞳の色……、真紅といってもいいぐらいに濃かった。
 形状はクマのそれに近い。けれどもずっともっと大きい。かつてコハクが狩ったのが、まるで子どもにみえるほどに。
 巨躯が駆けるたびに大地が震え、地面には六本爪の足跡が刻まれていく。興奮しているせいか爪をずっと出しっぱなしにしているのであろう。堰堤の石床がガリガリと削れては抉れている。鋭く固い。硬度は鉄に匹敵するか、あるいはそれ以上かも。

「なんと! これでも禍躬としては小ぶりの類なのか」

 禍躬については旅の道中、忠吾からあれこれと話を聞いていたものの、正孝はいざ実物を前にして戦慄を禁じ得ない。
 それでもなお彼が足を止めずにいられたのは、亡き父・緒野景親への想いから。
 宮中にて渦巻く謀略の果てに、討伐戦のおり、シャクドウよりもずっと大きな禍躬ヤマナギへと理不尽な突撃を強いられ死んだ父。そればかりか死後には汚名まで着せられ、政の犠牲にされた。
 さぞや無念なことであったろう。
 それに比べれば自分はいかに恵まれていることか。
 よき理解者を得て、多くの者に助けられ、支えられ、己の意思でいまここにいる。これで泣き言を口にしたら罰が当たる。草葉の陰より父に笑われる。

「何を臆することがあろうか。これですくんで動けなくなっては、犠牲となった者らにとても顔向けできぬ」

 自身を鼓舞した正孝、顔に向かってきた石の欠片を愛槍にて叩き落とし、ふたたび前を向き駆け出す。もはや頭上や背後は気にしない。若き武官は勢いを取り戻し、一路、堰堤の中央部分を目指す。
 するとこれまでとは並びが前後逆になった正孝とコハク。
 山狗の子は後方にて禍躬シャクドウを牽制しつつ、飛来する危機が迫るたびにひと吠えしては前を行く正孝に注意を促す。

  ◇

 背後からの圧力に屈することなく、まとわりついてくる死の気配を振り払い、駆けに駆け、ようやく目標地点へと到達。
 すかさず正孝は心のうちで詫びながら、ここまで引きずってきた女の骸が入っていた荷袋を堰の上より投げ捨てる。非道な行いではある。だが万が一にも奴に奪還され貪られるよりかはマシとの判断からのこと。あとは奴の怒りをより増幅し理性を失わせるためでもある。

 効果はてきめんであった。
 確保した餌に異様な執着を見せるクマ。その性質を受け継いでいる禍躬シャクドウは、これに悲痛な叫びをあげさえした。
 かとおもえば一転して静かになる。
 あまりにもおとなし過ぎて、「もしや目標が喪失してしまい、もうどうでもよくなったのか」と正孝が案じたほど。
 でもそれは杞憂であった。
 この状態は、いわば火山が噴火する前の静けさであったのだ。

 立ち上がった禍躬シャクドウ。
 直立不動となれば、頭の位置が優に三丈を超えている。
 高らかに振り上げた両の前肢。六本指をギュッと固く握りしめ拳を作るなり、これをおもむろに振り下ろす。
 怒っていた。
 禍躬シャクドウは激昂のままに、両前足を何度も何度も地面へと叩きつける。

 どんっ!

 衝撃にて足下の石畳にヒビが入り砕ける。

 どんっ!

 奴を中心にして四方へと亀裂が幾筋も走る。

 どんっ!

 堰堤全体が震えて、上下に揺れる。

 ずどんっ!
 
 穴が開いた。にもかかわらずシャクドウは止まらない。

 どんっ!

 ところどころから水漏れが発生し、路面を濡らす

 どんっ!

 ついに崩落まで起きる。堰の内部を通る水路の一部があらわとなった。

 どんっ!

 いっそうの大きな揺れがきて、足下の堰堤自体がズズズと不気味な胎動を始めたところで、ようやく拳を振り下ろすのを止めた禍躬シャクドウ。
 気がすんだのかとおもいきや、さにあらず。
 太い首をひねりギョロリとコハクと正孝をにらむ双眸。そこにありありと浮かんでいたのは強固なる殺意。
 正面から容赦なくぶつけられる禍躬の怒り。これを受けて正孝は槍を構え、コハクは相手をにらみ返し「グルル」と唸る。


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