おじろよんぱく、何者?

月芝

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273 血まみれのワンピース

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 右は壁のような斜面。
 左は崖のような斜面。
 逃げ場のない狭い山道。
 前方にはイノブタ親子がぶひぶひ。
 こちらは猛スピードで爆走中の軽自動車。クルマは急には止まれない。
 自動停車装置? そんなもん年代物のマニュアル車にあるか!
 カーブ直後、脇見運手の出会いがしら、あわや正面衝突という場面。

「あらあら、ほほいっと」

 緊迫した瞬間、気の抜けた声を発したのは運転席の梨歩さん。
 ほんの一瞬だけハンドルを右に切り、落ちていた小石に前輪を乗りあげたと思ったら、すぐさま左へと勢いよくグイッと返す。他にもクラッチレバーやら、ブレーキにアクセルなどを同時に操作。
 とたんにひらりと車体が持ちあがり、大きく傾いた。
 まるで牡イヌの放尿態勢のように。
 よもやの片輪走行っ!
 これにてひょいっとあっさり窮地を脱する。
 イノブタの親子連れをかわしたところで、ストンとタイヤを地面におろし、軽自動車は何ごともなかったかのように悪路をブロロロロロ……。

 着地の際の衝撃で舌をかんで涙目になっているおれ。芽衣はぐったりほぼ死に体。
 それにはかまわず梨歩さんがぽつりと愚痴る。

「最近多いのよねえ、野生のイノブタ。畑が荒らされちゃうからたいへんなの」

 淡路島イノブタ問題。
 神戸方面には雄大な六甲山地があり、ときおりイノシシどもが山から街へと降りてきてはイタズラをする。
 たまにニュースになっているそれは、季節の風物詩みたいなもの。
 そいつらのうちの一頭が勇敢にも海を渡って淡路島へとやってきて、牧場のブタにひと目惚れ。ハッスルしまくったのが起源とも、あるいはどこぞで飼われていたイノブタが逃げ出し野生化したのが繁殖したとも言われている。
 ろくな天敵がいないアイランド。
 猟友会もがんばってくれてはいるが、いかんせんメンバーの大半が老体。せっかくの散弾銃も使いどころが限られており、活動も単発ゆえに効果はいまいちなのが実情。
 おかげでけっこうやりたい放題。被害にあっている農家さんたちはとっても頭を悩ませている。

「その辺をプラプラしていたら、わりとよく見かけるのよ」

 平然としている梨歩さん。
 何でもないことのように言うが、だからとて片輪走行でコレをかわすなんて話はけっして当たり前ではないような……。
 ひょっとしておれが知らなかっただけで、淡路島のドライバーはみんなこれぐらいのテクニックを持ってるのか? 淡路島の教習所では片輪走行は必修技能に組み込まれているのか?

 探偵としての知的好奇心がうずく。そこんところをもう少し詳しく。
 だが状況がそれを許さない。
 隣の芽衣がいよいよ危険域に突入。
 決壊まで残りわずか! さっきの縦揺れがトドメになったらしい。

「うぷ、気持ち悪い。もう……ダメ」
「ま、待て。すぐにクルマを止めてもらうから。あっ、こら、芽衣、ひとのジャケットを引っ張るんじゃない。バカ、やめろ、ムリだから! おれのジャケットのポケットに七人前の明石焼きはムリだからっ! アァーッ!」

  ◇

 山道を抜けた先にある人里。スーパーマーケットにて。
 ただいま梨歩さんは夕飯のお買い物中。
 出すモノを出してすっきりした芽衣はケロリ、母親についていく。おそらくはどさくさに紛れてアイスクリームやお菓子などをカゴに放り込むつもりなのだろう。
 おれはひとり、汚物まみれとなった愛用のジャケットを引っ提げ、隣接するクリーニング店へと足を運ぶ。

「穢された。穢されちまった。うぅ、いくらなんでもひどすぎる。あんまりだ。ぐすん」

 いい歳こいたおっさんが半べそで、酸えたニオイのするジャケットを持ち込んだというのに、カウンターのおばちゃんは笑顔で応対。

「ほら、めそめそしないの。せっかくのいい男が台無しだよ。心配しなさんな。これぐらいならすぐにピカピカになるわよ。昨日持ち込まれた血まみれの白いワンピースに比べたら楽勝楽勝。うちにドーンとまかせときな」

 なんて頼もしい。
 特急コースで頼んだから料金はちょっと割高だったが、明日の昼頃には仕上がるという。背に腹はかえられない。
 あと血まみれのワンピースの話がものすごく気になったけど、聞こえなかったフリをした。だっておれは五体満足で島を出たいもの。

 支払いをすませ、引き換え券を受け取りクリーニング店を出ようとしたとき。
 ウィーンと自動ドアがひらいて、白いワンピースに麦わら帽子をかぶった女性が来店。
 年の頃は二十歳中ほど。さらりと伸びたストレートの髪が腰のあたりにまでのびている。前髪を降ろしているので目元はよくわからない。ただ青白い肌と真っ赤なルージュがハッと目を惹く。いいところのお嬢さんが別荘に滞在中というイメージがしっくりくる風貌。

 さりげなく道をゆずったおれに軽く会釈をする女性。
 長い黒髪が揺れたひょうしに、ほんのり薫ったのはローズの香り。
 お風呂あがりっぽい艶を感じて、おれはつい鼻の穴をぷくぷく。うーん、アロマテラピー。
 ちょっと得した気分となり、ご機嫌のままクリーニング店をあとにしようとするも、そのとき背後から聞こえてきた声にびくり。

「すみません。先日頼んだワンピース、出来ているかしら」

 血まみれのワンピースを持ち込んだナゾの美女の登場に、ゾクリと全身が悪寒に襲われる。
 びっくりしてふり返りそうになるが、グッと我慢。
 ダメだ。見るな。不自然な動きをしたら彼女の記憶に残る。万が一がある。それは避けるべき。
 君子危うきに近寄らず。
 ただでさえ面倒ごとを抱えているというのに、これ以上はノーサンキュー。
 おれは平然を装い足早やにクリーニング店から離れる。
 クルマが止めてあるところまで戻ったところでようやく人心地。「はぁーっ」と大きく息を吐く。


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