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284 イノブタの野望・気焔
しおりを挟むウシほどもある大イノブタは、全身血まみれ。
当たり前だ。社殿内にいたところを落ちてきた神籬石によって、屋根ごと押しつぶされたのだから。
ふつうならば即死でもおかしくない。
だが土鍋牡丹は生きていた。
そればかりか自らのチカラでもって巨岩を排除し、のそりと立ち上がる。
女王、いまだ健在!
その勇姿にイノブタたちは興奮し、歓喜し、ぶひぶひとおおいに奮い立つ。
一方でこれを間近で目にした猟友会らは戦慄のあまり凍りついた。自分たちがどれほどのバケモノと対峙していたのかを思い知らされて、恐れおののく。
ただ一人をのぞいては……。
圧倒的不利な状況下にあってずっと味方を鼓舞し、陣頭にて指揮を執り続けていた若き女猟師、新島八重子。
流れるような自然の動作にて猟銃をかまえるなり、瞬時にピタリと狙いを定め、引き金をひく。
かかった時間は、ほんのまばたき二つほど。
焦ることなく、迷うことなく、躊躇うことなく。まるで息を吸って吐くかのように引き金にかけた指を動かす。
たかが指一本のこと。だがこれが存外ムズカシイ。
完全なる静止状態にて、肉体の一部だけを的確に動かす。状況にココロ乱されることなく、ただただ己を貫く。
すべての雑音を意図的に消去、瞬時にゾーンへと移行する脅威の集中力。
生まれ持った天分の才。祖父より施された厳しい鍛錬。年齢に見合わない膨大な経験値。連綿と受け継がれてきた狩人の血と魂……。
心技体、すべてが集約された渾身の射撃。
それは新島八重子の猟師人生において、至高の一撃であったことはまちがいなかった。
轟く銃声。
火を噴く銃口。
放たれし弾丸が真っ直ぐに向かうのは大イノブタ。
しかし新島八重子は驚愕する。絶対の自信を持って放った一射。
それがどこからともなくあらわれた、大きな黒い布によって無効化されてしまったのだから。
◇
葵のばあさんからは「しばらく近寄るな」とは言われていたものの、どうにも戦いの行方が気になったおれと富貴さんは、こっそり岩上神社へと。
惨状についてはあえて触れまい。
誰がやったのかなんて容易に想像がついたからだ。
が、そんなことよりも見過ごせなかったのが女猟師。周囲の仲間たちが呆然自失だというのに、ひとり気焔を身にまとい、ちょうど銃をかまえようとしていた。
狙うはもちろんイノブタの女王だ。
「お母さまっ!」
危機を報せようと発した富貴さんの声は、周囲のイノブタたちの歓声によってかき消されて届かない。
気がついたとき、おれはしゃにむに駆け出していた。
「ええぃ、邪魔だ、どけ、道をあけやがれ」
人間どもに戦いを挑んだ以上、たとえ返り討ちにあって死のうとも、それはそれでしようがない。だれかに牙を向けるということは、害意を向けるということはそういうことなのだから。
だからしようがない。
頭ではわかっているし充分に理解もしている。
でもココロはべつだ。
娘の目の前で母親が撃ち殺される。
母親を殺された娘が泣き崩れ悲嘆に暮れる。
おれのココロが「そんなシーンは見たくねえんだよ。やるなら他所でやりやがれ」と叫ぶ。
散々に同胞の血を流しておいていまさらとは思う。自業自得だとも思う。無謀な戦を仕掛けたんだから当然の帰結だとも思う。
それでも、だ。
それでもおれは許せない。
知り合いとなった若い娘さんの泣き顔なんてのは、やっぱり見たくねえ!
てまえ勝手は百も承知。身びいきで甘々、おおいにけっこう。こちとら気ままな街の探偵屋さんにて、いままで好きにやらせてもらってきたのだから、これからもせいぜい好きにやらせてもらうさ!
「くそがっ、間に合えよ。変化っ」
ドロンと化けたのは黒い大布。
ただし、ただの布じゃない。そんなものでは銃弾はとても防げないからな。
こいつは軍事用のボディアーマー向けの防弾用織布。
とはいえあくまで素材につき、これだけでは防弾チョッキのような働きはムリ。まともに対峙したら穴だらけにされてしまう。
が、今回はバサリと大きくゆったり広げたことによって、飛び散る散弾をまとめてふわりと包み込むようにして受け止めるのが狙い。のれんに腕押し、糠にクギというやつさ。
チタン合金の板に化けても良かったのだが、アレだと跳弾しまくって現場が大惨事になりそうだったもので、おれはとっさにこっちを選択。
もしも目論みがはずれて弾がぶすぶす貫通したら、おれとて無事ではすまない。化け術を行使してちがう姿になっているときに受けたダメージは、術の解除後にしっかり反映されるのだから。
ぶっちゃけ博打だった。
だがおれはその賭けに勝った。
けれどもそれによって得られたのは、ほんのわずかな猶予に過ぎない。
なぜなら大イノブタの女王、土鍋牡丹はもう……。
◇
女猟師と大イノブタの間に割って入った黒い大布。
すべての散弾を呑み込んだところで、くしゃりと宙で乱雑に畳まれ縮み、ポンっと男の姿になった。
人の姿に戻ったおれは手の中にある銃弾をパラパラ捨てつつ、いまだ銃をかまえたままの女猟師に告げる。
「これ以上はもういいだろう。すでに勝敗は決した。あんたらのねばり勝ちだ。それに」
ふり返ったおれは女王の、半ば瓦礫に埋もれているその足下に視線を向ける。
釣られて女猟師もそちらに目をやり、ハッとなり銃口を下げた。
そこにはまだ多分に幼さが残る若いイノブタが二頭、身を縮こまらせて震えている。まだまだ未熟ゆえに今回の戦への参加を許されなかったものの、好奇心に負けてこっそりついてきた者たち。
あわや戦禍に巻き込まれそうになったところを、女王が身をていしてこれらを庇う。
「フッ、我も甘い。散々に同胞の血を流しておいて。つい亡くした息子や、残してきた娘の面影を重ねてしまったわ」
巨岩が社殿の上へと落ちてきたとき。
建物内部の暗がりに隠れ潜んでいる二頭の姿が目に入った。
瞬間、女王としての矜持ではなく母性がカラダを突き動かす。
そのことを自嘲気味に笑う土鍋牡丹。ひょうしに彼女の口元から血がつーっとひと筋垂れた。
あわてて母へと駆け寄ろうとする富貴さん。
涙を浮かべている自分の娘に土鍋牡丹は優しく微笑みかけ、若い二頭を彼女の方へと鼻先で押しやる。
「せっかく拾った命だ。おまえに託す。よくよくめんどうをみてやれ」
言うなりついにチカラ尽きた女王、膝を屈しどうと倒れる。
瞳を閉じ、その身が血だまりに沈む。
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