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011 新月の夜、猫嶽、ぽんぽん山
しおりを挟む生駒が化けた髪留めと首からさげているお守り袋がなければ、先日のことがすべて夢であったのかもしれないと思えるほどに、何も起きないままに淡々と一日が過ぎてゆく。
唯一起こった事件といえば、給食のデザートであるフルーツポンチを生駒に食べられちゃったことぐらい。パイナップルとモモ、それから色つき寒天を全部やられた。おかげでわたしは白い寒天とミカンばかりを食べるハメに。
なお本日は霧山くんとの接点も皆無。ちらりと目が合うこともない。
まぁ、こんなもんだよね。いつも通り。昨日が異常接近だったのである。なのにちょっとがっかりしている自分がいる。わたしにこんな欲しがり屋さんな一面があったとは……。
授業が終わり掃除の時間となる。
今日は当番の日。わたしはぞうきんがけを担当する。だからってべつに水仕事が好きというわけじゃない。むしろその逆。だけどだからこそ率先して引き受ける。
なぜならぞうきんを扱う仕事はとにかく人気がないから。誰だって灰色に染まったぞうきんなんて触りたくないし、バケツに水を汲んで運ぶ作業とかもめんどうくさい。それゆえにまともに誰がやるのかを決めようとすると、ぐだぐだモメることが多い。その分だけ掃除の時間が長引くことになる。わたしはそれを嫌ったわけだ。いっしょに帰ろうと待ってくれている多恵ちゃんにも悪いし。
ちゃっちゃと拭き掃除を終えて、すっかり黒くなった水の入ったバケツを持ったところで、それを横合いからひょいとかっさらわれる。
誰かとおもえば真田くんだった。
「オレが捨ててくる」
ぶっきらぼうにそう言った真田くん。わたしの返事も待たずにさっさと行ってしまう。
重たいバケツを片手で軽々運んでいく。なんだかんだで腕力がある。背は少し低いけどやっぱり男の子なんだなぁ。
……じゃなくって、どうしたんだろう。いつもは掃除なんてそっちのけで友だちとふざけているのに。何か悪いものでも食べたのだろうか? それとも雪でも降るのかしらん?
おもわず窓の外を見れば、青空の彼方におっきな入道雲の姿があった。
あー、時期的にはゲリラ豪雨の線もアリか。
なんぞということをぼんやり考えていると、髪留めに化けている生駒がぷるぷる震える。
「いいところがあるじゃないか、あの真田って野郎。ちょっとやんちゃみたいだが一本気なところもあるし、妹想いのいい兄ちゃんみたいだし。ありゃあ将来いい男になるぞ、結。どこぞに行っちまう優男なんざぁヤメて、いっそのことこっちに鞍替えしたらどうだい?」
これにはわたしも「えー」とくちびるをとがらせる。
自信満々の生駒には悪いのだけれども、わたしにはちょっと想像がつかない。
アレが数年後には霧山くんみたいになる?
いやいやいや、ないない。さすがにそれはないわぁ。
もしもそうなったら、それはもう成長ではなくて別系統への超進化とかだと思うもの。
そりゃあ、まぁ、真田くんにもいいところがあるのは認めるけど。
だというのにいっしょに帰っているときに多恵ちゃんからまで「結ちゃんてばモテ期到来?」とからかわれて、まいってしまう。
◇
本日は寄り道することなく帰宅。
今夜は猫嶽に向かうので宿題をさっさとすませて、夕飯までうとうとしつつ英気を養う。
表面上はいつも通りの生活を送り、「おやすみなさい」と両親に告げてから自分の部屋へとこもる。
時刻は十一時過ぎ。
両親がリビングにて夫婦水入らず、大人の時間をまったり過ごしている裏で、わたしは家からこっそり抜け出す。
ネコに化け二階の窓からするり。屋根と壁伝いにちょんちょんちょん。あっさり脱出できちゃった。やっぱりネコの身体能力ってすごい。
ふだんからわりと閑静な住宅街だけど、夜になったらいっそう静まり返っている。
ときおり遠くに車の走行音やサイレンの音が聞こえる。あとイヌが吠えている声も。
こんな時間に出歩くことなんてないので、わたしはドキドキ。
それにしても暗い。
まるで墨汁で塗りたくったかのような黒さ。ほんの少し物陰に入っただけでそれが漆黒となる。闇が街にしんしんと降り積もるよう。新月を間近に控えた夜ってこんな風になるんだ。
だというのにわたしの視界はすこぶる良好。
これもまたネコに化けている恩恵なのだろう。
「ネコはもともと夜目が効くんだけど、その眼力がもっとも強くなるのが新月の前後なんだよ。だからふだんは狭間の世界に隠れている猫嶽の山門をも見つけられるのさ」
生駒の説明を聞きながらわたしは走る。
肉球越しにほのかに伝わるのは昼の名残り熱。この時間になってもまだ抜けきらないらしい。どおりであちこちにてエアコンの室外機が唸りをあげているわけだ。
そろそろ本格的な夏が来る。そして一学期かぎりで転校する霧山くんとのお別れも。
着実に迫りつつあるその時のことを考えると、気持ちがしんみりしてくる。
それをふり払うかのようにわたしは闇夜を駆ける。
まず向かうのは近所にある生駒の石の祠。
そこから紅葉路に入って、ぽんぽん山方面を目指す。
◇
各地の祠とつながっている紅葉路はいつも夜。
だから夜から夜へと移動して、わたしたちはさらに夜を重ねてぽんぽん山に到着。
日中はハイキング客でそこそこ賑わっているこの場所も、この時間だと誰もいない。駐車場も鎖と柵で閉鎖されているので、地元のカップルとかがドライブがてらに立ち寄ることもない。
わたしも何度か来たことがある場所。
ふだんはただのしょぼい小山に過ぎないぽんぽん山。それが夜陰の中だと妙な迫力を持っており気圧される。存在感がとにかくすごい。威厳とか荘厳さとかが半端ない。これに比べたら巷で騒がれているパワースポットとか「へっ」と鼻で笑えちゃうぐらいにくだらない。
たぶんこれこそがぽんぽん山の本当の姿なんだ。
いまならばわたしにもここが猫嶽だと信じられる。ちゃんと理解できる。
それゆえに山道へと足を踏み入れるのにちゅうちょしてしまう。
「大丈夫だよ、結。山は怒らせるとたしかに怖い相手だけど、基本的にはおおらかだから。敬意をもって接する相手には敬意でもって応えてくれる。それが自然というものさ」
生駒に励まされてわたしは深夜のぽんぽん山へと一歩を踏み出す。
とたんにヒゲがピンと立ち背筋がぞわぞわ、全身が山の霊気につつまれた。
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