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六 斎藤一之章:Farewell

北上転戦(二)

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 流《ながれ》山《やま》に入ったのは、四月二日だった。江戸に連絡する主な街道は、薩長土肥の軍勢によって制圧されようとしている。できるだけ連中がいない道を選んで進んだが、二度、検問に掛かった。近藤さんは堂々としてやり過ごした。
「そうか、あなたがたが官軍か。道理で江戸や武蔵や下総《しもうさ》とは違う言葉を話すわけだ。俺は大久保大和という者だ。下総の豪農たちが用心棒を抱えたがっているという噂を聞いて、仲間を連れて雇い主を求めて歩き回っている」
 近藤さんは小さな嘘をつくのは苦手だが、派手に見栄を切るのは得意だ。甲陽鎮撫の任に就いたときには大久保剛と名乗っていたから、用心のため、名を大和に改めた。ありがちな筋書きは、土方さんが考えてオレに確認を求めた。今までと少しも変わらない役割だ。
 流山では、中核となる近藤さんと土方さん、オレ、時尾、島田さんは大きな酒造屋に仮住まいすることになった。そのほかは、近所の寺や神社に宿を借りる。
 島田さんが近藤さんの側に来たのは意外だった。島田かいという人は、江戸にいたころから永倉さんと仲がよくて、その縁で、京都でも早い時期に仲間に加わった。大抵は永倉さんや原田さんと一緒に行動していたのに、最後の決断で近藤さんを選んだ。
 夜、オレと島田さんで寺や神社の分隊を見回りに出た。島田さんはオレより十五ほど年上だから、もう四十路に入っている。がっしりとして体が大きくて、信じられないくらい力が強い。そのくせ甘いものに目がないのを、よく永倉さんにからかわれていた。
 島田さんが、ふと口を開いた。
「斎藤が新撰組に残って、しかもこっちに付いてくるとは思っていなかった。俺がおまえの立場なら、近藤さんの前から逃げ出しただろうよ」
「逃げても、行き先がない。オレの命は近藤さんに拾われたから、近藤さんのために使う。島田さんこそ」
「俺が永倉のほうに行くと思っていたか? まあ、俺も迷ったよ。でも、ここは会津公のもとに馳せ参ずるのが筋だろう。永倉たちも、じきに合流したいと言っていた。近藤さんと永倉、どっちが正しいというわけでもない。行く末は同じ道につながっているはずだ」
 オレはうなずけない。信じる道を選んでまっすぐに進んだ結果、山南さんも藤堂さんもオレたちの手で死なせた。誰がより正しかったとか、どっちが間違っていたとか、そんな話じゃなかった。仲間なのに死なせた、その結果だけが事実だ。
 もうこれ以上、誰ともばらばらになりたくない。死ぬのなら、仲間と同じ道を行って仲間を守りながら、命懸けで戦って散りたい。
 源さんの最期は、武士として美しかった。源さんは鳥羽伏見の戦で、殿《しんがり》を守って討ち死にした。若い者を庇《かば》いながら散ったと聞いて、源さんらしいと思った。悲しくて誇らしかった。
 今のオレには、源さんみたいに気高い死に方はできない。オレは償《つぐな》わなきゃいけない。近藤さんは、オレを無害だと言った。でも、害を為さなくても、嘘をつき続けた罪はある。オレはずっと士道に背く生き方をしていた。本当は、死んで詫《わ》びても許されない罪だ。
「斎藤一」
 島田さんが急にオレの名を呼んだ。何だ、と目で問うと、島田さんは破顔した。
「いや、つくづくいい名だと思ってな。字面も響きもいい。今、俺の目の前にいる斎藤一という男には、斎藤一という名しか似合わんよ」
「よくわからない。名前なんて」
「新撰組という響きも、すぱっと潔くて格好がいいだろう? 会津公は、会津の古い軍制の中でも特に誉《ほま》れ高い部隊の名から取って、俺たちに新撰組と付けてくださった。似合いの名だとも言ってくださった」
「ああ。認められて、嬉しかった」
「そうさ。名前ってのは大事なんだよ。俺や近藤さんたちにとって、おまえは山口二郎じゃ駄目だ。新撰組の斎藤一として、一途の一の字が似合う男として、まっすぐに戦ってくれ。卑屈になるな」
 違う。オレは卑屈な男だし、一途なんかじゃない。
「勘違いばかりだ」
 永倉さんから、一本気だと言われたことがある。あれも違う。伊東さんからも藤堂さんからも頼りにされた。あれは本当に根底から間違っていた。近藤さんがオレの罪を赦《ゆる》した。勝先生に操られていたとか害を為していないとか、その見方が正しいとは言い切れない。
 島田さんは笑った。
「きっと巻き返せる。おまえの人生も、新撰組や会津も、名誉を挽回できる日が来る。それまで耐えて、己の意志を曲げることなく、誇りを持って生きていくんだ。風向きは必ず変わると、俺は信じている」
 島田さんのそういう楽観的なところは、多くの隊士に慕われている。オレの偵察や暗殺を補佐することもあったのに、島田さんが怖い人と言われることはない。その明るさがうらやましい。
 でも、島田さんには、念じた思いを実現させる力はないらしい。オレたちを取り巻く戦況に容赦はない。風向きは変わらず、逆風はむしろ強くなった。この上ないほどに。
 事態が急変したのは翌日、四月三日のことだった。未《いま》だ軍備の整わないオレたちは、流山の集落ごと倒幕派に包囲された。首領は即刻出頭せよ、との通達が届いた。
「戦って勝てる数じゃない」
 偵察に出たオレと土方さんは、同じ判断を下した。急遽、いちばん広い神社に集合させた二百人の軍勢は、すでに浮足立っている。さしもの島田さんも無言になった。
 近藤さんだけが悠々として笑ってみせた。
「今までの検問と同じ方法で切り抜けよう。俺が行って、話をして来る」
 青ざめた土方さんが何度もかぶりを振った。
「駄目だ、近藤さん。危険すぎる」
「敵は俺を新撰組の近藤勇だと勘付いてはいないんだろう? 俺の顔をよく見たことがあるのでなければ、大久保大和が偽名だと看破できるはずもない」
「しかし……」
「幸い俺は、色男のトシのように目立つ顔をしていない。京都で会ったことがある者がいても、他人の空似だとでも言ってごまかせる。皆、聞け。俺が戻るまでは、土方歳三が新撰組の局長だ。しっかり付いていくんだぞ」
 血の気が引いた。土方さんに後を託すなんて、近藤さんも本当は理解しているんだ。倒幕派の呼び出しに応じることがどれほど危険なのか。
 気付いたときには、声を上げていた。
「行くな、近藤さん」
 視線が集まるのを感じた。近藤さんが、幼い子どもにするように微笑んだ。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「行かないでくれ」
 声が震える。体も震えている。近藤さんが戦に赴《おもむ》くというなら、こんなに震えない。近藤さんが向かう場所は、戦場じゃない。得体の知れない恐怖が胸に貼り付く。肺腑も心臓も冷たい手に握り潰されそうで、息が苦しい。
「出頭せよとの通達を無視すれば、おまえたち全員を危険に晒《さら》すことになる。流山の町が焼かれるかもしれない。俺が行かないわけにはいくまい」
「相手は、この軍勢の首領が誰なのか知らない。オレが身代わりになっても、きっとわからない」
「こら、斎藤、俺の仕事を横取りするな。首領役をするには、おまえではちょいとばかり貫禄に欠ける。俺が留守にする間、おまえはトシを支えてやってくれ」
 近藤さんは、さっと踵《きびす》を返した。オレは、とっさに近藤さんの腕をつかんだ。近藤さんが振り返る。その顔は、怒ってはいない。穏やかで、厳しい。
「嫌だ、近藤さん」
 死にに行くのはやめてくれ。時間稼ぎだなんて考えないでくれ。もっと安全に切り抜ける方法を探そう。
 声にしたいはずの言葉が、口からうまく出ていかない。感情が暴れている。しゃべることは、こんなにも難しい。
 近藤さんが分厚い手で、そっとオレの手を叩いた。
「一《はじめ》、しっかりな」
 幼いころ、親も姉も兄も、あまりオレの名を呼ばなかった。試衛館で当然のように一と呼ばれて戸惑った。子ども扱いされているようにも感じた。家族でもないくせにと、憎まれ口を叩いた。
 近藤さんも皆も、オレの前では、オレを一と呼ばなくなった。大人の男のように苗字で呼ばれることが誇らしくて、でも寂しかった。沖田さんや藤堂さんみたいに、オレも正直になればよかった。子どものオレは、子ども扱いでよかったのに。
 体から力が抜けた。だらりと両腕を垂らして、ただ近藤さんを見つめる。近藤さんは笑った。声に出さず、唇の形だけで、別れの言葉を告げた。

 その日、近藤さんは倒幕派に囚《とら》われた。傭兵隊長の大久保大和としてではなく、新撰組の近藤勇として。
 何が起こったのかわからない。近藤さんが名乗ったとは考えられない。倒幕派が内通者か密告者を抱えていたのか?
 近藤さんが処刑されることが決まった。近藤さんは、倒幕派の大きな駐屯地がある板橋宿へ連行されていった。


 江戸の町を駆けずり回った。オレと土方さんと時尾の三人で、会える者には全員会って、近藤さんを救う術《すべ》を探した。島田さんも別働で、旧知の者を訪ね回っている。会津へ向かう軍勢は京都のころからの隊士に率いさせて、予定どおり北上している。
 情勢を動かす力がある人なら誰でもいいから頼りたかった。京都で出会った桑名藩や福井藩の関係者、開明的な思想を説くと評判の私塾、試衛館とゆかりのあった富商や豪農。近藤さんの処刑を止めるために力を貸してくれと、とにかく頭を下げ続けた。
 勝先生にも、鳩《はと》を使って手紙を飛ばした。何度も何度も飛ばした。鳩は毎度、脚を空っぽにして戻ってきた。手紙だけじゃなく、勝先生のいそうな場所をあちこち訪ねた。勝先生はつかまらなかった。偶然なのか、避けられていたのか。
 焦りが募った。京都の人斬り集団、新撰組の局長である近藤勇が捕らえられたと、江戸の町でも噂が立っていた。江戸では、新撰組は極端なほどに猛々しく脚色されて伝わっている。新撰組は夜ごとに京の町に繰り出しては、敵と見ればすべて斬った、と。
 残虐なほどの強さは、オレたちが勝っていれば、誉《ほま》れ高き武士だと讃《たた》えられたんだろうか。実際のところ、オレたちは鳥羽伏見の戦で負けて、大坂から逃れてきた。新撰組の噂をする者は、呆れ笑いを浮かべたり眉をひそめたりする。
「見境もなく人を殺してばかりいるから、ほら、報復の刃に追い詰められる。因果応報というやつさ。野良侍が調子に乗って粋《いき》がって、結局、無様なもんじゃないか」
 会津も同じで、ひどい言われようだ。先代天皇の加護を受けて京都で好き勝手にした田舎者が、天に唾《つば》して報《むく》いを受けようとしている、と。
 噂が耳に入るたびに、土方さんが顔を歪める。時尾がうつむく。オレは、二人にだけ聞こえる声でささやく。
「倒幕派が変な噂を流してるだけだ。あんな言葉、新撰組や会津の真実なんかじゃない」
 でも、オレたちは反論できる立場にない。下手に名乗りを上げれば、捕らえられて殺される。今まさに近藤さんの命が危機に晒《さら》されているように。
 町の噂ひとつに踊らされて追い詰められる。倒幕派が官軍で正義、新撰組や会津はそれに盾突く愚かな悪役、そんな筋書きを楽しむ町衆、悪役退治を期待する声、戦の予感に沸き立つ世間、怖いもの見たさの好奇のまなざし。
 待ってくれ。オレたちは悪じゃない。曲げられない道がある。黙って滅ぼされるわけにいかない。だから戦う。どっちの陣営が正義か、そんなのは戦いが始まったときにはわからない。勝った者が正義を名乗るだけだ。
 どうしてこうなっちまったんだ?
 何度も何度も、今までのことを思い返す。江戸で、京都で、新撰組は何か大きな間違いを仕出かしたのか? 考えても考えても、わからない。ただまっすぐに進むことしか、新撰組にはできなかった。
 倒幕派が宇都宮《うつのみや》を攻めるという情報が入った。知らせてくれたのは永倉さんだ。徳川幕府の聖地である日光東照宮のお膝元で倒幕派を撃退しよう。そんな士気の高い佐幕派の勢力が宇都宮に集結している。
 宇都宮で倒幕派を破れば、近藤さんを救えるかもしれない。オレたちは期待を懸けて、日光街道を宇都宮まで北上した。
 足掛け五日に渡る戦闘で、宇都宮は城も城下町も焼けた。佐幕派は破れた。兵力差に押し切られた。オレたちが三千五百で倒幕派が二万。勝ち目のない戦ばかりが続く。
 負傷した土方さんを庇《かば》いながら、オレと時尾との三人で宇都宮を脱出した。江戸へと続く街道沿いの村で、不穏な噂を耳にした。
「近藤勇の処刑が二、三日中に板橋宿で執行されるらしい。その罪にふさわしい、見せしめの打ち首だそうだ」
 斯《か》くなる上は実力行使しかない。近藤さんが牢に囚《とら》われていては救い出せない。でも、刑場に引っ立てられるその機を狙えば、どうにかできるかもしれない。
 冷静でなんかいられなかった。やけっぱちだとわかっていた。オレたちは板橋宿へ急いだ。近藤さんを助けられるなら、代わりにオレが死んでもいい。
 板橋宿は、中《なか》山《せん》道《どう》六十九次のうち江戸から数えて最初の宿場だ。もともと大きな町だが、今は倒幕派を駐屯させて、殊《こと》更《さら》の活況だ。西方の訛りが飛び交っている。人々のにぎわいは見世物でも期待するようでいて、もっとぎらついている。
「公開の打ち首やら、珍しか。なかなか見られるもんやなかぞ」
「しかも罪人はあの新撰組の首《しゅ》魁《かい》じゃけぇな、ええ土産話ができる」
「切られた首は京都に運ばれて、鴨川の三条橋で晒《さら》されるんじゃと」
「おう、怖《えず》か怖《えず》か。打ち首も獄門も重罪人の証《あかし》たい」
「武士なら武士らしゅう、罪を認めて切腹すればええのに、見苦しい」
「壬《み》生《ぶ》狼《ろ》風《ふ》情《ぜい》が切腹なんぞできるはずもないじゃろ」
 オレの耳は訛りに惑わされることなく、侮蔑をいちいち正確に聞き分ける。凍て付く怒りに、血の気が引いた。叫んで暴れ出したい衝動を抑え込む。偽れ。欺《あざむ》け。勝機を探れ。オレになら、それができる。
 刀に手を掛けそうな土方さんを制して、まずは情報を集めた。明石の言葉をしゃべる父を真似て、明石の近場と思しき瀬戸内訛りの者に声を掛ける。
 嬉々として、そいつはまくし立てた。処刑が間もなく始まること、その場所、立会人と執行人の名、近藤さんの容姿、そして大久保大和の正体露見の経緯。
「もともと新撰組やった加納と清原っちゅう男に正体を暴かれたんじゃと。去年の冬、新撰組内部で、えらい抗争が起こったらしいわ。加納と清原は、近藤に潰された一派の生き残りで、近藤を恨んどったんじゃ」
 高台寺党だ。倒幕派に加わっていたのか。古くからの伊東さんの弟子の加納さんと、肥後出身で鉄砲名人の清原さん。鳥羽伏見の戦の前に近藤さんが襲撃されたときも、おそらく二人は動いていた。
 近藤さんより先に恨みをぶつけられるべきは、オレだ。先にオレを殺しに来ればいいのに。いや、無理な話だ。公には、斎藤一という人間はもう消えている。オレの名は山口二郎で、山口二郎があの斎藤だと、高台寺党の生き残りたちはきっと知らない。
 処刑がおこなわれるのは、町外れにある馬の処分場だ。普段は閑散としているらしいが、今は見物人が押し寄せている。小柄な時尾が人混みに流されそうになった。
「待っ……」
 慌てて口をつぐむのがわかった。会津の訛りを聞かれたらまずいから黙っていろと、オレの指示を守っている。オレは時尾の腕をつかんで引き寄せた。土方さんが先に立って、人混みを掻き分ける。
 突然、わあっと歓声と拍手が起こった。囃《はや》し立てる声が大きくなる。人混みが前へ前へと動いて、揉みくちゃのまま流された。人の頭の間から、人混みの中央に、ぽかりと空いた広場が見えた。
 近藤さんが縄を掛けられている。筵《むしろ》の上に座らされている。
 囃し声が静まる。近藤さんのそばに立つ誰かが口上を述べた。何を言っているのか、聞き分けられる距離ではない。
「くそ……ッ!」
 駆け付けるどころか、身動きが取れない。刀を抜き放つ隙間もない。土方さんがオレを振り返る。怯《おび》えにも似た焦りで、まなざしも唇も震えている。
 いっそのこと、環の力を解放してしまうか。
 妖と戦うためじゃなく、ただの人間を圧するために力を使ったことはない。それができるのかどうか、試したこともない。本能的に、してはならないと感じていた。生まれながらに環を持つ者は、自分で自分を律しなければ。でも、今は。
 ぱっと離した時尾の腕が、逆にオレの腕にしがみ付いてきた。泣き出しそうな顔で、時尾は鋭くささやいた。
「おやめくなんしょ。おかしな具合《あんべ》に力を使えば、妖になっつまう」
「離せ。オレはどうなってもいい」
「ならねえ。妖になって理性が消えれば、ここにいる全員、巻き添えだなし。土方さまや近藤さままで襲っつまうかもしれねぇのです」
「じゃあ、どうすれば……!」
 どうにもならなかった。
 どよめきが波紋のように広がる。そして静まり返る。広場の中央で、執行人が手にした刀が、ぎらりと陽光を反射した。
 人が人を斬るところなんて、嫌というほど見てきた。とっくに慣れて、何も感じないつもりだった。
 絶望的な恐怖にとらわれた。オレは反射的に目を閉じた。
 嘆息のような、歓声のような、悲鳴のような、何かが人々の口から吐き出された。聞こえたはずもないのに、肉と骨の断たれる音が体じゅうに響いた。
 終わってしまった。オレは何もできなかった。
 慶応四年(一八六八年)四月二十五日、板橋宿の処刑場で、近藤さんは死んだ。享年三十五。晒《さら》された首は、それが近藤さんだとわからないくらい、沈み切った顔をしていた。
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