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六 斎藤一之章:Farewell
北上転戦(三)
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黄昏時、処刑場に人はまばらになった。近藤さんの遺体のまわりにだけ見張りが立っている。せめてオレたちの手で近藤さんを弔《とむら》いたい。見張りの人数は少ない。あの程度なら、オレと土方さんで片付けられる。
右に差した刀に左手を掛けて、夜の訪れを待っていた。別の存在が、先に訪れた。
「馬鹿な真似をしなさんな。おまえさんたちが無茶をしたところで、近藤はあの世で報《むく》われねぇだろうよ」
勝先生が、そこにいた。
「なぜ……」
「板橋で近藤の処刑だ何だとさんざん手紙を送り付けてきたのは、おまえさんたちだっただろうが。だから来てみたまでさ」
「今さらか」
空が血のように赤い。勝先生はまぶしげに目を細めた。
「武士というものを象徴する男が、また一人、死んじまったな。仲間を庇《かば》っての最期。近藤勇らしい決断だったじゃねぇか。打ち首獄門ってのも衝撃的な幕切れで、時が経てば、さぞや人気の語り草になるだろう」
からかう口振りに、土方さんが刀の鯉《こい》口《くち》を切った。時尾が間に割って入った。
「土方さま、おやめくなんしょ。このお人を斬っても、何も変わらねぇでしょう?」
「わかってらあ。しかし、今や幕府の最高責任者、軍事取扱の勝麟太郎が動けば、近藤さんの処刑は止められた。それなのに、全部が終わってからのこのこと姿を現すとはどういう了見をしてやがるのか、きっちり説明してもらおうじゃねぇか」
勝先生は笑った。笑っているのに底光りのする目が、オレたちを見回す。射すくめられるように感じた。
「誰を生かして誰を死なせれば、より多くの人間を生かすことができるのか。俺ぁな、そう考えながら政治を動かす男だ。近藤勇が生きれば争い事が拡大すると、俺は読んだ。今、倒幕派のど真ん中で新撰組の助命なんぞすりゃあ、大暴動が起きる。そうだろう?」
人斬りの目よりも妖の目よりも、恐ろしくておぞましい目がある。自分の手で救える人間を、敢《あ》えて見殺しにする。その選択ができる者の目は、オレが知るどんな人殺しの目よりも冷たい。
時尾が声を上げた。
「なぜ、勝さまは他人の生き死にを選んで決めることができるのですか? 会津に理があっても、新撰組が悪くなくても、より多くの人が生きるためなら、切り捨てられて滅ぼされても文句を言ってはなんねぇのかし?」
「ほう、おまえさんは会津の女か。文句ぐらい言ってもいいさ。俺にゃ聞き届ける力はないがね。俺ぁな、誰に恨まれようが構わねえ。石を投げりゃ敵に当たるってくらい、まわりは敵だらけだ。それでも生きていられるのは、俺が有能で且つ私利私欲を持ってねぇからさ」
「他人の生殺与奪を握るほどの力で日本を動かすお人なのに、私利私欲がねぇのですか? そんじゃったら、何のために政治を為さっておられるのがよ?」
「どでかいことをやりてえっていう、それだけだね。女のおまえさんには、ちょいとわからんかもしれんが、金持ちになろうが偉い身分を与えられようが、そんなのはどうでもいいんだ。ただ、国を動かすこと、それ自体がおもしろいのさ」
「おもしろい……勝さまにとっておもしれぇことを為すために、近藤さまは、会津は、新撰組は、見殺しにされるのがよ? わたしたちは、そっだ役回りを演じねばならねぇのがよ?」
「綺麗な娘にそんな顔をされると、さすがの俺も良心の痛みを思い出すね。会津には見どころのある若者が何人もいたな。会津公というお人も好きだ。さっき死んじまった近藤のことだって、俺ぁ薩摩の西郷なんかよりよっぽど好きだったんだがね」
それでも、捨てることが理に適《かな》うならば、勝先生は躊《ちゅう》躇《ちょ》なく捨てる。
以前、新撰組と伊東さんが折り合えない理由を勝先生は分析した。新撰組は忠義の心で動いて、伊東さんは思想家の頭で動くからだ、と。勝先生はそのどちらでもない。心なんかどこにあるのかわからない。一人の小さな思想家として判断を下しているわけでもない。
勝先生がオレを見た。当然のように、まるで犬でも呼ぶように、手招きをする。
「来い。おまえさんなら生かしてやれる。まあ、しばらくは裏稼業に精を出してもらうことになるが、悪いようにはせんよ。俺も忙しいんだ。有能な人材は手放したくねえ。何せ、徳川幕府二百六十年ぶんの尻拭いを一人で背負い込んじまったような状況でね」
土方さんがオレを見た。張り詰めた目をしている。時尾もオレを見た。すがるような目をしている。オレは勝先生を見た。その目の奥にある底知れぬ闇に囚《とら》われた、十九の夜を思った。
「勝先生は、誰の味方だ?」
「幕府か新政府かって意味かい? だったら、どっちでもねぇな。幕府はこのまま畳んじまう。新政府になったところで、俺が表舞台に立つこともあるまい」
「先の話をしてるんじゃない。今のことだ」
「おいおい、そんなわかり切ったことを問うのかい? 俺が誰を切って誰を拾ったか、思い知ったばっかりだろう?」
ぐらりと、体の奥が揺らいだ。熱だ。赤く煮えたぎる灼熱が、オレの体ごと揺さぶって、猛然と噴き上がる。
「もう嫌だ」
固めた拳が震え出す。体が熱い。オレは怒《いか》っている。くっきりと燃え立つように、オレは怒っている。
勝先生が目を細めた。
「ほう、俺に仕えるのが嫌かい。何がそんなに気に入らねぇんだ?」
「あんたの言いなりにはならない。あんたは嘘つきだ」
試衛館の名誉を守ることと引き換えに、オレは勝先生に降《くだ》った。勝先生は、さも試衛館の皆のためになるような道を示しながら、いいように利用して捨てた。踊らされたオレは馬鹿だ。でも、笛を吹く者の卑劣をなじる言葉くらい持っている。心を持っている。
勝先生が低い声で笑った。
「そうとも、俺は嘘つきだ。認めよう。だが、偽りのない言葉とまっすぐな士道だけで渡っていける世の中じゃねぇことは、おまえさんだってわかってるはずだぜ。北に行って会津とともに戦う? 美しい志で、大変結構。だが、死ぬぞ」
「覚悟の上だ」
「その覚悟、どこまで本気だ? 予告しよう。会津は必ず城を以て降伏することになる。会津として戦えば、あるいは会津が滅んでもさらに抵抗を続けるなら、男も女も子どもも二人に一人は死ぬ。斎藤と土方、どっちかは死ぬ。永倉と原田もそう、どっちかは死ぬ」
オレは、勝先生が指す将棋の駒だ。きっと歩兵だ。取るに足らない。でも、自分が何者なのかわかった。まっすぐに一歩ずつしか進めない馬鹿でいい。
「もうたくさんだ。あんたの長広舌は聞き飽きた。会津で死ぬのがさだめなら、受け入れる。会津が降《くだ》るときが来るなら、ともに耐え忍ぶ。嘘だらけの命も見せかけの名誉もいらない。オレは、オレを本当に信じてくれる人のために、今度こそ全身全霊で報《むく》いたい」
「俺もおまえさんを信じて、有能だと評価してるんだがね」
「黙れ! オレは、あんたが嫌いだ!」
叫んだ喉が、焼けるように痛い。勝先生は平然として、楽しむように軽く目を見張った。
斬って捨てることができるなら、どれほどいいか。でも、憎くない相手を敵としなければならないように、憎いからといって刀を抜くことは、新撰組の士道にあってはならない。
赤い空から羽ばたきが聞こえた。白い鳩《はと》だと、見なくてもわかる。勝先生が、招くように右腕を掲げた。
鳩は舞い降りた。勝先生の腕ではなく、オレの肩の上に。
「おいおい、鳩よ、おまえさんの飼い主は俺だぞ。性悪な爺《じじい》より若い男を選ぶのは、人間の女も鳩の雌も同じか。まあ、今回は退散するかね。駕《か》籠《ご》かきを探して、今日じゅうに江戸に戻らねぇとな。斎藤、生きて再会できたら、仕事の口くらい利いてやるぜ。あばよ」
勝先生は踵《きびす》を返した。無防備な背中に斬り掛かりたい。衝動に耐えたら、体の震えが止まらない。オレの頬にすり寄った鳩が、何かに驚いたように跳び離れて、肩から下りた。
赤く赤く、ひときわ強く空が光って、すっと暗くなった。日が落ちた。夕暮れが急速に夜に近付く。逢《おう》魔《ま》が時が訪れる。
風が吹いた。さっきまでとは違う方角から吹いてきた。血の匂いと腐った匂いがした。晒《さら》された近藤さんの遺体の匂いだ。
体の震えが止まらない。それどころか、だんだんひどく、立っていられないほど激しく、オレは震え出す。震えを止めようと、自分の腕で自分を抱いて、体に爪を立てた。下を向いて唇を噛んだ。
ぽつり。
雫《しずく》が落ちた。驚いて見開いた目から、ぽつりと、また落ちた。噛み締めた唇の間から、声にならない声が洩れる。喉の奥が熱く痛んで、痙《けい》攣《れん》めいた震えがせり上がってくる。
オレは泣いている。
どうして? わからない。ただ涙が出てくる。体の力が抜けて、膝から崩れる。馬鹿みたいにへたり込んで、震える体を持て余して、オレは泣いている。
「斎藤さま」
声が聞こえた。足音が駆け寄ってきた。汗のような甘いような匂いがした。ふわりとした力につかまって、視界を閉じ込められた。布越しに、かすかに、鼓動の音を聞く。
時尾が自分の胸にオレを抱き寄せている。柔らかい。温かい。
「やめろ」
オレなんかに触れたら、時尾が穢《けが》れる。大の男を子ども扱いするな。同情しているなら、お門違いだ。土方さんもそこにいるのに。会津の什《じゅう》の掟《おきて》でも、戸外で男女が触れ合うことは戒《いまし》められているのに。
「お叱りは、後にしてくんつぇ」
優しい声なんか掛けられたくない。みじめになるだけだ。女の力を振りほどくのは簡単で、オレは時尾の着物をつかんだ。
体が震える。うまく力が入らない。唇を噛み締めることさえできなくて、嗚《お》咽《えつ》があふれる。時尾が、オレを抱く腕に力を込める。
「離せ」
意味のない言葉、あるいは嘘。オレは時尾にしがみ付いたまま、震えることしかできない。
「泣いてくなんしょ。弔《とむら》いの涙は流すべきだべし。今だけは、どっだに泣いても、さすけねぇから。斎藤さま、抱え込んづまっていたぶん、ありったけ涙にして。わたしに少し持たせてくんつぇ」
堰《せき》が切れた。オレは泣いた。泣き続けた。泣き疲れるまで泣いた。
右に差した刀に左手を掛けて、夜の訪れを待っていた。別の存在が、先に訪れた。
「馬鹿な真似をしなさんな。おまえさんたちが無茶をしたところで、近藤はあの世で報《むく》われねぇだろうよ」
勝先生が、そこにいた。
「なぜ……」
「板橋で近藤の処刑だ何だとさんざん手紙を送り付けてきたのは、おまえさんたちだっただろうが。だから来てみたまでさ」
「今さらか」
空が血のように赤い。勝先生はまぶしげに目を細めた。
「武士というものを象徴する男が、また一人、死んじまったな。仲間を庇《かば》っての最期。近藤勇らしい決断だったじゃねぇか。打ち首獄門ってのも衝撃的な幕切れで、時が経てば、さぞや人気の語り草になるだろう」
からかう口振りに、土方さんが刀の鯉《こい》口《くち》を切った。時尾が間に割って入った。
「土方さま、おやめくなんしょ。このお人を斬っても、何も変わらねぇでしょう?」
「わかってらあ。しかし、今や幕府の最高責任者、軍事取扱の勝麟太郎が動けば、近藤さんの処刑は止められた。それなのに、全部が終わってからのこのこと姿を現すとはどういう了見をしてやがるのか、きっちり説明してもらおうじゃねぇか」
勝先生は笑った。笑っているのに底光りのする目が、オレたちを見回す。射すくめられるように感じた。
「誰を生かして誰を死なせれば、より多くの人間を生かすことができるのか。俺ぁな、そう考えながら政治を動かす男だ。近藤勇が生きれば争い事が拡大すると、俺は読んだ。今、倒幕派のど真ん中で新撰組の助命なんぞすりゃあ、大暴動が起きる。そうだろう?」
人斬りの目よりも妖の目よりも、恐ろしくておぞましい目がある。自分の手で救える人間を、敢《あ》えて見殺しにする。その選択ができる者の目は、オレが知るどんな人殺しの目よりも冷たい。
時尾が声を上げた。
「なぜ、勝さまは他人の生き死にを選んで決めることができるのですか? 会津に理があっても、新撰組が悪くなくても、より多くの人が生きるためなら、切り捨てられて滅ぼされても文句を言ってはなんねぇのかし?」
「ほう、おまえさんは会津の女か。文句ぐらい言ってもいいさ。俺にゃ聞き届ける力はないがね。俺ぁな、誰に恨まれようが構わねえ。石を投げりゃ敵に当たるってくらい、まわりは敵だらけだ。それでも生きていられるのは、俺が有能で且つ私利私欲を持ってねぇからさ」
「他人の生殺与奪を握るほどの力で日本を動かすお人なのに、私利私欲がねぇのですか? そんじゃったら、何のために政治を為さっておられるのがよ?」
「どでかいことをやりてえっていう、それだけだね。女のおまえさんには、ちょいとわからんかもしれんが、金持ちになろうが偉い身分を与えられようが、そんなのはどうでもいいんだ。ただ、国を動かすこと、それ自体がおもしろいのさ」
「おもしろい……勝さまにとっておもしれぇことを為すために、近藤さまは、会津は、新撰組は、見殺しにされるのがよ? わたしたちは、そっだ役回りを演じねばならねぇのがよ?」
「綺麗な娘にそんな顔をされると、さすがの俺も良心の痛みを思い出すね。会津には見どころのある若者が何人もいたな。会津公というお人も好きだ。さっき死んじまった近藤のことだって、俺ぁ薩摩の西郷なんかよりよっぽど好きだったんだがね」
それでも、捨てることが理に適《かな》うならば、勝先生は躊《ちゅう》躇《ちょ》なく捨てる。
以前、新撰組と伊東さんが折り合えない理由を勝先生は分析した。新撰組は忠義の心で動いて、伊東さんは思想家の頭で動くからだ、と。勝先生はそのどちらでもない。心なんかどこにあるのかわからない。一人の小さな思想家として判断を下しているわけでもない。
勝先生がオレを見た。当然のように、まるで犬でも呼ぶように、手招きをする。
「来い。おまえさんなら生かしてやれる。まあ、しばらくは裏稼業に精を出してもらうことになるが、悪いようにはせんよ。俺も忙しいんだ。有能な人材は手放したくねえ。何せ、徳川幕府二百六十年ぶんの尻拭いを一人で背負い込んじまったような状況でね」
土方さんがオレを見た。張り詰めた目をしている。時尾もオレを見た。すがるような目をしている。オレは勝先生を見た。その目の奥にある底知れぬ闇に囚《とら》われた、十九の夜を思った。
「勝先生は、誰の味方だ?」
「幕府か新政府かって意味かい? だったら、どっちでもねぇな。幕府はこのまま畳んじまう。新政府になったところで、俺が表舞台に立つこともあるまい」
「先の話をしてるんじゃない。今のことだ」
「おいおい、そんなわかり切ったことを問うのかい? 俺が誰を切って誰を拾ったか、思い知ったばっかりだろう?」
ぐらりと、体の奥が揺らいだ。熱だ。赤く煮えたぎる灼熱が、オレの体ごと揺さぶって、猛然と噴き上がる。
「もう嫌だ」
固めた拳が震え出す。体が熱い。オレは怒《いか》っている。くっきりと燃え立つように、オレは怒っている。
勝先生が目を細めた。
「ほう、俺に仕えるのが嫌かい。何がそんなに気に入らねぇんだ?」
「あんたの言いなりにはならない。あんたは嘘つきだ」
試衛館の名誉を守ることと引き換えに、オレは勝先生に降《くだ》った。勝先生は、さも試衛館の皆のためになるような道を示しながら、いいように利用して捨てた。踊らされたオレは馬鹿だ。でも、笛を吹く者の卑劣をなじる言葉くらい持っている。心を持っている。
勝先生が低い声で笑った。
「そうとも、俺は嘘つきだ。認めよう。だが、偽りのない言葉とまっすぐな士道だけで渡っていける世の中じゃねぇことは、おまえさんだってわかってるはずだぜ。北に行って会津とともに戦う? 美しい志で、大変結構。だが、死ぬぞ」
「覚悟の上だ」
「その覚悟、どこまで本気だ? 予告しよう。会津は必ず城を以て降伏することになる。会津として戦えば、あるいは会津が滅んでもさらに抵抗を続けるなら、男も女も子どもも二人に一人は死ぬ。斎藤と土方、どっちかは死ぬ。永倉と原田もそう、どっちかは死ぬ」
オレは、勝先生が指す将棋の駒だ。きっと歩兵だ。取るに足らない。でも、自分が何者なのかわかった。まっすぐに一歩ずつしか進めない馬鹿でいい。
「もうたくさんだ。あんたの長広舌は聞き飽きた。会津で死ぬのがさだめなら、受け入れる。会津が降《くだ》るときが来るなら、ともに耐え忍ぶ。嘘だらけの命も見せかけの名誉もいらない。オレは、オレを本当に信じてくれる人のために、今度こそ全身全霊で報《むく》いたい」
「俺もおまえさんを信じて、有能だと評価してるんだがね」
「黙れ! オレは、あんたが嫌いだ!」
叫んだ喉が、焼けるように痛い。勝先生は平然として、楽しむように軽く目を見張った。
斬って捨てることができるなら、どれほどいいか。でも、憎くない相手を敵としなければならないように、憎いからといって刀を抜くことは、新撰組の士道にあってはならない。
赤い空から羽ばたきが聞こえた。白い鳩《はと》だと、見なくてもわかる。勝先生が、招くように右腕を掲げた。
鳩は舞い降りた。勝先生の腕ではなく、オレの肩の上に。
「おいおい、鳩よ、おまえさんの飼い主は俺だぞ。性悪な爺《じじい》より若い男を選ぶのは、人間の女も鳩の雌も同じか。まあ、今回は退散するかね。駕《か》籠《ご》かきを探して、今日じゅうに江戸に戻らねぇとな。斎藤、生きて再会できたら、仕事の口くらい利いてやるぜ。あばよ」
勝先生は踵《きびす》を返した。無防備な背中に斬り掛かりたい。衝動に耐えたら、体の震えが止まらない。オレの頬にすり寄った鳩が、何かに驚いたように跳び離れて、肩から下りた。
赤く赤く、ひときわ強く空が光って、すっと暗くなった。日が落ちた。夕暮れが急速に夜に近付く。逢《おう》魔《ま》が時が訪れる。
風が吹いた。さっきまでとは違う方角から吹いてきた。血の匂いと腐った匂いがした。晒《さら》された近藤さんの遺体の匂いだ。
体の震えが止まらない。それどころか、だんだんひどく、立っていられないほど激しく、オレは震え出す。震えを止めようと、自分の腕で自分を抱いて、体に爪を立てた。下を向いて唇を噛んだ。
ぽつり。
雫《しずく》が落ちた。驚いて見開いた目から、ぽつりと、また落ちた。噛み締めた唇の間から、声にならない声が洩れる。喉の奥が熱く痛んで、痙《けい》攣《れん》めいた震えがせり上がってくる。
オレは泣いている。
どうして? わからない。ただ涙が出てくる。体の力が抜けて、膝から崩れる。馬鹿みたいにへたり込んで、震える体を持て余して、オレは泣いている。
「斎藤さま」
声が聞こえた。足音が駆け寄ってきた。汗のような甘いような匂いがした。ふわりとした力につかまって、視界を閉じ込められた。布越しに、かすかに、鼓動の音を聞く。
時尾が自分の胸にオレを抱き寄せている。柔らかい。温かい。
「やめろ」
オレなんかに触れたら、時尾が穢《けが》れる。大の男を子ども扱いするな。同情しているなら、お門違いだ。土方さんもそこにいるのに。会津の什《じゅう》の掟《おきて》でも、戸外で男女が触れ合うことは戒《いまし》められているのに。
「お叱りは、後にしてくんつぇ」
優しい声なんか掛けられたくない。みじめになるだけだ。女の力を振りほどくのは簡単で、オレは時尾の着物をつかんだ。
体が震える。うまく力が入らない。唇を噛み締めることさえできなくて、嗚《お》咽《えつ》があふれる。時尾が、オレを抱く腕に力を込める。
「離せ」
意味のない言葉、あるいは嘘。オレは時尾にしがみ付いたまま、震えることしかできない。
「泣いてくなんしょ。弔《とむら》いの涙は流すべきだべし。今だけは、どっだに泣いても、さすけねぇから。斎藤さま、抱え込んづまっていたぶん、ありったけ涙にして。わたしに少し持たせてくんつぇ」
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