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不要不急の死
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一話 死
神奈川県病院薬剤師会の理事長選が一ヶ月後に迫って来た。
立候補のための書類の所属の欄に本牧病院薬剤部、名前の欄に「渡辺一敬」、ふりがなに「わたなべかずたか」と記入する。最終学歴は横浜国際大学薬学部卒。偏差値が五十程度の薬学部であり、学士だ。立候補者の大半が最終学歴では修士や博士が増えてきている中、決して学歴が優れているとは言い難い。しかし、低学歴だとしても、今回の理事長選は選ばれる自信がある。
「ようやく俺もここまで来たか」
デスクに飾ってある写真を見つめる。俺と親父がスーツ姿で写っている。昨年の病院薬剤師学会の時の写真だ。『病院薬剤師の働き方改革』というテーマで発表したときのものだ。
ちょうどその頃「働き方改革」という言葉が出てきて、流行に乗るように「薬剤師の働き方改革」と銘打って薬剤部の改革を行った。
超勤をする際には事前に超勤申請の提出をさせ、最長でも超勤は十九時までとし、とにかく早く帰らせた。その結果、平均超勤時間が四十時間から二十時間に減らすことができ、事務長からも高く評価され、それを学会にて発表した。学会での発表は特に他病院の薬局長から評判がよく、学会賞をいただいた。学会賞を受賞したのはうれしかったが、学会の会長である親父から賞をもらったことはそれ以上に誇らしくもあった。
そんな親父も今年で病院薬剤師会の理事を退くことを表明している。
親父は薬剤師に関する書籍を多数出版している有名人で、就職するときは親父の口利きで簡単に大学病院へすんなり入れたし、県病院薬剤師の理事も親父に近い人のおかげで選ばれることができた。自分がここまでこられたのは、一概に親父のおかげと言える。親の七光りだのなんだの言われようとも、使えるものは使い切り、偉くなったものが勝ちだ。
書類の最後の抱負の欄に「薬剤師改革を行う」と、記入する。具体的に何をどう改革するなんて考えはない。あとで決めれば良いことだ。曖昧でも熱い一文が人を動かすらしい。
書き終わった紙を眺めているとよくできた内容だと我ながら思う。
その時、部長室のドアがノックされたので「どうぞ」と言って、紙をデスクに置いた。
ドアを開けたのは今年で五年目の薬剤師である小山智子だった。
「中村さんが出社していません。携帯に電話しても出ないんです」
どうせ寝坊か何かだろうと思っていた俺は「そうか」とだけ答えてPCに画面に目を映す。メールチェックがまだ終わっていなかったことを思い出した。
理事選には票集めが重要だ。今回の選挙は中小病院と大学病院の対立構造になっている。
今回の選挙のテーマは「タスクシフト」だ。
大学病院は医師の残業時間を減らすため、薬剤師に処方権をタスクシフトしている。薬に詳しい薬剤師が医師に代わって処方する。そのこと自体は悪いことではない。しかし、十分に能力を持った薬剤師が大勢いる大学病院だからこそできることなのだ。中小病院では専門性の高い薬剤師は少ないどころか、薬剤師数も少ない。この流れになってしまったら、医師の仕事を薬剤師に押し付けられ、中小病院の薬剤師はパンクするだけだ。
三百床の当院は中小病院派閥に属していて、大学病院派閥の旗手である有名教授を落とそうと企んでいる。そのためにはなるべく中小病院からの票を集めなければならない。
各中小病院の薬局長にメールを送っていて、その返事がちらほら返ってきている。しかし、まだ味方の数は十分ではない。
「あの、部長、中村さんが……」
なんだ、まだいたのか。顔をあげると小山がまだ立っていた。
「何回も電話したのですが、携帯の電源が入っていないみたいで、全然出ないんです」
「寝坊じゃないのか?」
「中村さんが寝坊することなんてないじゃないですか。朝だっていつも一番に来ているのに」
そういえば俺が出社した時には必ずいる。確か朝一で患者情報を取っているらしい。
「だから、ちょっと心配で」
PCから顔を上げて小山を見つめるとやけに心配そうな顔をしている。ただの寝坊ではないのだろうか。
「部長、様子を見に行った方がいいんじゃないかと思って」
小山の言葉に少しだけ背筋が寒くなる。
中村に何かあったのではないか、ということか。
理事長選挙を控えたいま、何かがあっては困る。
「わかった。ちょっと様子を見てこよう。携帯を持っていくから、中村が出社したら教えてくれ」
「はい、お願いします」
そう言うと、小山は部長室を出て行った。
俺は未読のメールを確認したかったが、とりあえず中村の件を優先するためしぶしぶメーラーを閉じた。
中村の自宅の場所を確認するため、総務課に電話をすると、調べて折り返す、とのことだったので、この間にメーラーを開き直す。
医療情報サイトからのメールが来ており、ついつい気になる見出しをクリックしてしまう。
『薬剤師の働き方改革』
どんな内容かと思いきや、すでに聞いたことがある内容だった。それも、中村から。
俺がこの病院の薬局長に就任したあと、働き方改革が世の中に流行した。その流行に乗って行った「薬剤師の働き方改革」は、大失敗だった。
勤務時間を最大十九時までとし、その後の業務は許さないこととした。すると、今まで二十二時まで残業していたスタッフの勤務時間が一斉に十九時までとなった。しかし、仕事の質は急激に低下した。やるべき仕事をやらずに帰る者が増えたのだ。
その時、中村が部長室に来た。目の前にどかっと座り俺に説教を始めた。
「働き方改革は時短をするだけではない」
「仕事のクオリティが下がれば、薬剤師の立場も下がる」
「そもそも働き方改革は、ドイツで行なわれたものを日本政府が参考にしており、そのドイツにおいて医業での定時帰宅はできていない」
など、刻々と聞かされた。
腹わた煮え繰り返るような気分であったが、そこまで言うならお前がやってみろ、ということで全て中村にやらせることにした。
中村は「無駄・無理・ムラを無くす業務改革」と、銘打ち、社内SNSを活用し、時短ノウハウの共有、web勉強会の開催などを推進していった。すると、無駄・無理・ムラは徐々に減少し、モチベーションの低下した薬剤部は少しずつ活気を取り戻していった。
メールの記事は中村の話よりクオリティが低く、まだこんなことを言っているのかと、鼻で笑ってしまった。
そろそろかと思ってPHSを見るとちょうど電話が鳴った。総務からだ。
住所を調べて地図を印刷したから、今から部長室に持っていくとの事だったが、時間が無駄な気がして取りに行く事にした。
席を立ちメーラーを閉じようとすると、ちょうど井土ヶ谷病院薬剤部の薬局長である鈴木君からメールが来ていた。
件名はない。
病院薬剤師会HPに掲載する記事の件だろうか、それとも今回の理事長選の件か。内容が気になりはしたがどちらにしても急いで返事をしなくても問題はない。それに確認して、返信をしていたら中村の元へいつになっても行けないだろうと思い、メーラーを閉じた。
白衣を脱いでジャケットを羽織り、財布と携帯電話をポケットに入れて総務へ向かった。
総務課に入るとスタッフが俺に気づき、印刷した地図を渡してくれた。
場所を簡単に説明してくれたが、さっぱりわからないので、とりあえず、それを持ってタクシー乗り場へ向かう。タクシー運転手に地図を見せると、カーナビに場所を打ち込み発進した。
中村の電話番号をスマホの電話帳から呼び出し、電話をかけてみたけれどコール音が鳴る事なく、留守番電話サービスに繋がった。小山の言う通り、携帯電話の電源が入っていないということか。
留守番電話サービスに折り返し電話をするようにメッセージを入れると電話を切った。
その後、車中で携帯電話に着信がないか数回確認した。出社したら電話をするように依頼していたが、やはり着信はない。
少しずつ嫌な予感が膨らんでくる。
中村に万が一の事があったら、俺の築きあげてきた地位はどうなってしまうのだろうか。
責任を問われた場合、病院薬剤師会の理事長になるどころか、本牧病院の薬剤部長の立場も追われてしまうかもしれない。
車中が暑いわけではないのに額から出てきた汗をハンカチで拭った。
「着きましたよ。たぶん、このアパートです」
タクシーは二階建ての古びたアパートの前で止まった。代金を支払いタクシーを出ると、握りしめていた携帯電話が鳴った。薬剤部からだ。
「もしもし」
「小山です。お疲れ様です」
「中村が出社したのか?」
「いえ、違うんです」
「なんだ、違うのか」
わざわざ電話をしてくるということは重要な用事なのだろうな。たいした用事でなければ怒鳴りつけてやろう。
「麻薬が紛失したかもしれません」
「何!?」
つい、大声が出てしまった。
「在庫と棚表の数が合わないんです」
「まずいな」
麻薬が紛失したとなると一大事だ。病院薬剤師会の理事長になる事はおろか、事件として新聞沙汰になる可能性が高い。
「探したのか?」
「はい、探したのですが見つからなくて」
「スタッフ全員に聞いたのか?」
「今日来ているスタッフには聞いたのですけど、心当たりがないって……」
小山の声は泣き出しそうだ。自分の声が荒々しくなっていたことに気づく。
「休みのスタッフには聞いたのか?」
「それは、まだ……」
「全員に電話をかけろ。それでもわからないならまた電話してくれ」
「は、はい……」
携帯電話の終話ボタンを思い切り押した。
くそ、こんな時に限ってトラブルか。
イライラした気持ちを抱えていると、再び携帯電話が鳴った。今度は病院からだ。
「渡邊です」
「清水です」
早くも院内安全管理室の清水二郎に話がいってしまったか。これはめんどくさいことになった。
清水は病院内の安全管理を専門としていて、薬の紛失に関しては特にうるさい。
「渡邊部長、麻薬が紛失したというのはお聞きになりましたか?」
「まだ紛失と決まったわけではない。現在捜査中だ」
「いま、どちらにいらっしゃるのですか? 少しお話がしたいのですが」
話といっても薬品管理についてのお説教だろう。
「いま、所用で外にいる。病院に戻ったあと、こちらから連絡する」
「そうですか、本日は何時頃にお戻りになられますか?」
「まだわからん」
「ちなみに、どのようなご用件なのですか?」
「所用だ。もう切るぞ」
「」
相手の返事を待つ前に電話を切ってやった。清水二郎に長話をされてはかなわない。
まったく、どうして今日に限って面倒なことが一度におこるのか。
はぁ、と大きなため息をついてスマホをポケットにしまった。
いや、ちょっと待て。中村が出社していない、麻薬が紛失した。
まさか、中村が麻薬を盗んだってことはないだろうか。
もし、そんな事が起きていたらタダでは済まない。中村は逮捕されるだろうし、上司としての責任も問われる。マスコミが病院に押しかけあることないこと報道されるだろう。想像しただけで背筋が寒くなる。
まずは中村の件から解決してしまおうと、アパートに小走りで向かう。
二階建てのアパートは近づいてみると、築二十年は経過していそうなほど古い。
いくら病院の給料が安いといえど、もう少し良いアパートに住んでも良いのではないだろうかと思ってしまうくらいだ。
もしかして、中村は金に困っていた?
だからこんなアパートに住んでいたのだろうか。いや、中村に関して金に悪い噂は聞いたことがない。ギャンブル好きだとか、女遊びをしているとか、ましてや借金があったなんて考えられない。
一度中村を疑ってしまうと悪い考えばかりが浮かんでくる。頭を振って断ち切るべく進む。
一階の奥、表札を確認すると「中村宏」と書かれている。家はここで間違いはない。
インターホンを押す。部屋でピンポーンと音が鳴ったのがドア越しに聞こえる。しかし、中で何かが動いた気配はない。
再度、インターホンを押す。ピンポーンと音が鳴るが物音はしない。
休暇届も出ていなかったし、昨日も話はしたが変わった様子など見られなかった。しかし、中村が何も言わずにどこかに行くとも思えない。
これは絶対におかしい。
玄関のドアを開けようとしてみたが、鍵がかかっている。ドアについたポストから中を覗いたけれど、室内が見えないようになっていて中を確認できない。しかし、ポストから異様な匂いが漂ってきた。
もしかしたら、最悪のケースもあり得るかもしれない。
心拍数が徐々に上がっていき、手のひらに汗がじわりじわりと滲み出てくるのがわかる。
どこかに家の中を覗ける場所はないかと思っていると、足元に黒猫が現れ、にゃーと鳴いた。
黒猫はアパートの横にある狭い砂利道に進むと、一度こちらを振り向いた。まるでついてこいと言っているかのようで追いかけると、時折振り返っては進んでいく。そのままついていくと中村の家のベランダ側に出た。ベランダ側にはガラス戸があり、カーテンが閉まっていたものの、少しだけ隙間が開いていて、そこに猫が飛び込んでいった。
隙間からは嫌な匂いが漂ってくる。
重いガラス戸をゆっくりとスライドさせ、カーテンを開けた。
部屋の中央に人が倒れている。中村だ。
「中村、おい、中村!」
部屋の外から声をかけるが、ぴくりとも動かない。
「おい、入るぞ」
普段なら靴を脱ぐところだが、嫌な予感がして靴のまま部屋に上がった。
ゆっくりと倒れている中村に近づく。
足元にはエナジードリンクの空き缶や書類が乱雑に置かれており、それを蹴飛ばして進む。
「中村!」
返事がない。
両肩を叩き、もう一度「中村!」と呼びかける。
中村はピクリとも動かない。
うつ伏せになった中村をひっくり返すと、顔は青白い。
胸の動きがあるかどうか確認する。
ダメだ、呼吸をしていない。
頸動脈を探すが脈は触れない。目蓋を開けても瞳孔が動いた様子はなかった。
そして、死臭がした。
中村が死んでいる。
結局、病院に戻って来たのは十七時を過ぎていた。
警察に通報し、同じことを何度も聞かれ、何度も同じように答えた。しかし、第一発見者の俺を殺人犯だと疑っているのか、なかなか帰してもらえなかった。
やっとの事で部長室に戻るや否や、小山が駆け込んできた。
「中村さんは?」
「ちょっとドアを閉めてくれるか?」
部長室のドアは女性と一緒にいる時は閉めないようにしている。密閉空間だとセクハラを疑われてしまうからだ。しかし、これは誰かに聞こえて良いような内容ではない。
小山がドアを閉めた事を確認し、ぎりぎり聞こえる小声で言った。
「中村は死んだ」
「え?」
小山は聞き返す。
「俺が家に行った時には、すでに心肺停止していた」
「そんな……」
小山は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。
「いま、警察で検死を行なっている。事件の可能性もゼロではないから、この事は誰にも言うな」
小山が小さく頷いた。
その瞬間、PHSが鳴った。電話の相手は清水二郎だ。俺が帰ってきたのも見えているかのようなタイミングだ。
「渡邊だ」
「清水です。病院に戻られたようで」
どこからの情報かはわからないが、鋭い嗅覚を持っている事は確からしい。
「ちょっといま忙しい。もう少しあとにしてくれるか?」
「いつでしたら良いでしょうか?」
この後、中村の件を最低でも院長と事務長に報告しなければならない。
「あと一時間後だ」
「わかりました。また、その時にお電話いたします」
清水の丁寧な言葉使いがいちいちカンに触る。
「小山、こんなときにすまないが、例の麻薬の件について報告をしてもらって良いか?」
「は、はい」
涙を掌で拭ってポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
「簡単な報告書を作成しておきました。概要はこんな感じです」
麻薬紛失に関しての報告書を受け取ると時系列で起こった事や確認した事が書かれている。
俺が最初に電話で報告を受けたのが九時半。新人のスタッフが慌ててしまい全病棟に麻薬がないか電話で確認をした。それが原因で清水二郎に情報が伝わってしまったらしい。それから、全スタッフに確認し終えたのが十時。確認が取れなかったのが休みだった粕谷と田中。田中はすぐに折り返し電話があり今回の件に関しては心当たりがないと返事があった。そして、十二時過ぎに粕谷に再度電話したところ、オペ室に払い出したが記帳忘れをしていたとのことだった。つまり、麻薬は紛失していなかった。ということか。
「粕谷か」
まったくカスだな。
粕谷は他の施設から当院に来た。最初は普通のスタッフに見えたが、じょじょに粕谷の本性はわかってきた。表面上はいい人を装ってはいるが、陰でスタッフの悪口を言ったり、嘘の噂を流したり、とにかく人の足を引っ張る。それだけではなく、仕事をせずおしゃべりばかりしていて、本当に薬剤部のお荷物的存在だ。
「まあ、今回は紛失ではなかったということだが、対策はしないといけないな」
麻薬紛失の件はなんとかなりそうだ。
腕時計をみるとすでに十五分が過ぎていた。
「小山、すまないが俺は院長と事務長に中村の件と麻薬の件を報告に行かなければならない」
「はい」
「くれぐれも、他言無用で頼むぞ」
「はい」
掠れてほとんど聞こえない声で返事した小山は、部長室を出るとまっすぐトイレへ向かっていった。それを横目に俺は院長室へ向かった。
院長に中村の件を報告するとすぐに院長室に事務長を呼んだ。そして三人で顔を見合わせながら週明けまでは他言無用、対応は検死の結果を待ってからという事になった。
麻薬の件も念のため報告したが、今回はお咎めなしで終わった。
院長室を出て、部長室に戻りPCの電源をいれてメーラーを立ち上げる。まだ清水の次郎長がくるまで時間がある。理事選のメールだけは確認しておきたかった。
鈴木君からのメールを開く。
私立大の名門、野口大学出身で中小病院の薬局長。四十歳とまだまだ若いが、若手教育にも熱心で影響力も少なくない。味方にできれば心強いが、敵になった時には状況がひっくり返る可能性がある。
「渡邊さんには大変お世話になっております。しかし、今回の件は単純ではありません。少し考えさせてください」
と、書かれていた。
鈴木君は野口大学出身だ。そして、今回落選させたいのが野口大学の教授。出身大学の恩師にバツを入れるのに躊躇はするだろう。
時計を見ると二十時。今から鈴木君と電話で直接話すには少し遅いし、心身ともに疲れ果てているので、説得する気力もない。返事は返さず、そのままメーラーを閉じた。
「渡邊部長、失礼します」
顔を上げると清水がいた。
返事をする気にもなれず、黙ってデスクから応接用の椅子に移動して座ると、清水が堰を切ったように話を始める。
医療安全とは何か、医薬品管理とは何か、そもそも最近の薬剤部ではインシデントが多すぎるのではないか、今回の件と関係ない事までクドクドと話をする。
もちろん耳には入っているが、頭の中には入っていない。頭の中では、今後の中村の対応をどうするべきか、その事ばかりを考えていた。
ちょうど清水の話にキリがついたころ、携帯電話が鳴った。見たことのない番号だったが、おそらく警察だろう。
「もしもし、渡邊です」
「こちら中区警察署の〇〇です。中村さんの検死の結果が出ましたのでお伝えしたいのと、ご遺体の引き取りに来ていただきたいのですが」
「わかった、すぐに行く」
ちょうどよく電話が来たことで、清水の話は強制的に終わらせた。
「ちょっと急用ですまない」
俺はわざと慌てた様子で身支度を始める。清水も渋々と席を立った。
タクシーで検死を行ったクリニックに向かい、居合わせた警察官と病理医から検死の報告を受けた。こんな簡単な説明で終わってしまうのかというほど、すぐに終わった。
身寄りのいない中村の遺体は中村の自宅に送ることにして、俺が身元引き受け人となることにした。
警察も本人の自宅へ戻すことは渋ったが、その自宅の保証人が俺であり、きちんと葬儀まで行うことを説明すると、なんとか引き下がった。
俺の家には妻と反抗期真っ最中の高校生の娘がいる。部下の遺体を持ち帰ったりしたら、何を言われるかわからない。
家に電話をしてしばらく帰れない事を報告すると、何と言ったら良いのかわからないのか、妻は「大変だね」と言って電話を切った。
しばらく中村の家で中村の遺体と過ごさなければならない。
病院のそばの葬儀屋に電話をするとすぐに車を手配し、警察から指定された検視を行った医院へ向かってくれるという。葬儀屋の仕事の速さと丁寧さには恐怖を覚えるほどだ。
三十分後に葬儀屋の車は到着し中村の家を地図を見せて伝えると車が走り出した。
そういえばと思い、先程検死してもらった医師を検索サイトに打ち込む。医師の名前になんとなく聞き覚えがあったからだ。検索結果を進めていくと、やはりあった。
「手抜き検死医師」
以前、医療情報サイトでも話題に上がっていた医師だ。
その時はシロとなっていたが、そもそも何度も検死を希望する家族なんていない。手抜きかどうかの真相はグレーのままであったが、医学的な矛盾や批判されたページも複数見つかった。
もしかして、中村の検死も手抜きされてはいないだろうか。
警察から聞かされた検死結果は『心臓発作』だった。
まだ三十代後半なのに、そんなことが起こりうるのだろうか。
死亡診断書を読み進めていく。違法薬物の結果は陰性、ベンゾジアゼピン等の向精神薬や睡眠薬は陰性。危険薬物や麻薬は陰性。陽性項目は、エフェドリンとカフェインとテオフィリン。喘息を患っていたから、テオフィリンは検出されてもおかしくない。カフェインだってエナジードリンクを飲んでいたら検出されるだろう。不審な項目はない。
中村は本当に心臓発作で死んだのだろうか?
「到着いたしました」
いつの間にか、中村のマンションに到着していた。
家の鍵は中村のズボンのポケットに入っており、警察から預かった。その鍵を開けて中に入ると、朝のままの状態残されている。決して広くはないワンルームの中央にはテーブルが置いてあったので、それを端によせると棺桶を入れるスペースができた。
あとは葬儀屋から今後の予定について書類をもらい、必要なところにサインをした。
一通り終わり、葬儀屋が家を出ると、その場に座りこんだ。
疲れた。こんなに疲れたのは生まれて初めてだ。
棺桶を開けるとドライアイスの冷気とともに中村の安らかな顔が見える。
「なんで死んだんだよ」
声をかけたところで、返事はなかった。
「渡辺さん、大変申し訳ないのですが、家の保証人になって欲しくて」
そう言ってきたのは三年前。
今住んでいるマンションが道路の拡張工事のために潰されてしまうから出て行かなければいけない、とのことで俺に保証人を頼んできた。
部下といっても、保証人になることは嫌だった。
中村は嘘をつくような人間ではないし、家賃の滞納をするようなほどガサツではない。それはわかっているのだが、保証人という響が判断をにぶらせた。
「お前、親や親戚はいないのか?」
「はい。母は他界していますし、親戚も付き合いがありません」
この時まで中村に身寄りがないなんて知らなかった。三十代で身寄りなしという環境を不憫に思った俺は、中村を信用することにして保証人を引き受けることにした。
「わかった。俺が保証人になろう」
そう言うと、後日書類を持ってきてサインと印鑑を押した。
「渡辺さん、この書類は大切なものなので、家の鍵のかかった引き出しに入れておきます。そして、鍵は1番の箱に入れておきますので、万が一のことがあったら、よろしくお願いします」
「なんだよ、万が一って縁起でもない」
中村は「あはは」と笑っていたけれど、目が笑っていなかった。
ハッとして目を覚ました。
夢を見ていたのか。その鮮明さに夢か現実かわからないほどだった。
そういえば、夢の中でも言っていた鍵のかかった引き出しはどこにあるんだ?
母が亡くなった時に銀行の口座やガスや電気の支払いなどの連絡で苦労した覚えがある。きっとそこに必要な全ての書類があるだろう。
重い体をなんとか起こし、部屋の電気をつける。机には書類やガイドライン、論文など書類が散らかっている。パソコンを見ると書きかけの論文と院内勉強会用と思われる作成中のスライドが表示された。
中村が働き者だった事は知っている。だが、俺の把握している以上の仕事を抱えていたのか。
生きていれば、きっと鈴木君のようになったはずだ。薬局長の座は俺が定年退職したあとに譲るつもりであった。さらに外での仕事を増やしていくつもりだったのに。惜しい人材をなくしてしまった。
中村が言っていた引き出しは机の引き出しのことだろう。鍵がかかっており開かない。
「鍵の入っている、1番の箱ってなんだ?」
それらしき箱がないだろうかと、とりあえず、家の開けられるところを開けてみる。靴箱、キッチンの流しの下、冷蔵庫、カバンの中、薬箱の中。調べて見たがそれらしき箱が見当たらない。
そもそも、1番ってなんだ。箱に1番とでも書かれているのだろうか。
1番?
再度、薬箱を開ける。いくつか薬の箱が無造作に置かれており、その一つが「葛根湯1」と書かれていた。
1番の箱というのはこれか。
漢方薬はメーカーによっては数字が振られている。葛根湯なら1、芍薬甘草湯は68、のように。
葛根湯の箱を開けて葛根湯を出すとその一袋に鍵がテープで貼られていた。
用心深いのか、それとも……。
鍵を使って引き出しを開けると、通帳や書類の束、そして厚みのある茶封筒が三つ出てきた。
茶封筒にはメモがついていた。
渡辺さんへ
これを読んでいるということは私に万が一のことがあった時だと思います。
様々な届出や葬儀など面倒があるかと思いますが、最後のお願いになりますので、何卒よろしくお願いたします。
メモがあるということは、自分が死ぬということを想定していたということか。
メモの下には三本の茶封筒があった。ずっしりとしたそれは、開けてみると現金が入っていた。新札で帯のついている一万円札が百枚。三本の茶封筒の中身は全て同じだった。
わざわざ面倒なところに鍵を隠した理由はこれか。
そして付箋で、「手数料です。使ってください。相続的なことが面倒なので、最初から渡辺さんのお金だと思って使ってくれれば大丈夫です。バレません(笑)」
と、書かれていた。
「馬鹿野郎。こんな金使えるか」
そして、全て出し終わった箱の奥には、遺書と書かれた封筒が入っていた。
俺の名前が書かれていて、恨みを連想するような内容だったら、俺の人生は終わる。その時は燃やして捨ててしまおうか。
遺書を取り出すと、冒頭部分に弁護士事務所の連絡先とサインがある。つまり、弁護士がコピーを保管しているということだ。燃やしたりでもしたら、私文書毀棄罪になる。つまり、俺は逃げられないということだ。
二話 看護師 松岡香織
「ぜんぜん美味しくない。ねぇ、なんで? 焼き鳥もお造りも。鯵のたたきもぜんぜん美味しくない」
ドスンとビールのジョッキをテーブルに置く。割り箸に刺さったきゅうりの一本漬けをつかみ、そのままボリボリとかじる。少し塩辛いきゅうりを食べるとビールが欲しくなり、ジョッキに残ったビールを一気に飲み干す。
「ビールおかわり」
店員を見つけて注文した。
「ちょっと松岡さん、飲み過ぎじゃない?」
「いいの。小山ちゃんも飲みなよ。すいませーん、ビールやっぱり二つで」
小山ちゃんは一杯目のビールだけを飲み干してからは注文をしていない。
「ぜんぜん飲んでないじゃん」
「今日は飲む気になれないよ」
「なんで? 一ヶ月前から予約してたんだよ? 飲もうよ、食べようよ」
私は串焼盛り合わせの皿を小山ちゃんの前に突き出す。普段ならもっとガツガツ食べて飲む。呑んべいの私と飲み比べても劣らないほど。そして、 普段なら聞いてもいない恋バナを延々と話し続けて、上司の愚痴を言いながら大声で笑って、将来の夢について熱く語る。でも、今日は下を向いて黙ったまま。
「つまんなーい。せっかくの小松菜会なんだからさ」
「そうだけど……」
小山、松岡、中村の頭文字を取って『こまつな会』。
なかむーが焼き鳥屋の鳥しげに来ると、焼き鳥はあまり食べずに小松菜の胡麻和えばかり食べるから小松菜会でもあった。今日も小松菜の胡麻和えは頼んだけれど、手付かずで残っている。
「先月も先々月も小山ちゃんが忙しくて集まれなかったんだよ? 三ヶ月ぶりなんだからさー。彼氏との話も聞きたいんだけどー」
店員がビールを目の前に置き、空のジョッキが片付けられる。
「んぐっ、んぐっ……。ぶはっ……」
息が苦しくなるまでビールを飲み込んだ。いっそのこと、このまま窒息死してしまおうかと思うくらいクソみたいな気分だ。
それもこれも全部なかむーのせいだ。
「なかむー、なんでいないの? 一緒に飲む約束してたじゃん。せっかく予約が取れたのに。ここ本当に予約取れないんだから。一ヶ月前に予約して三人で飲もうねって言ったのに」
なかむーが約束破ったことなんてなかった。時間にも遅れたこともない。生真面目な男だった。
なかむーは私たちが上司や新人の悪口を言いすぎていると、まぁまぁなんて言いながらなだめてくれた。楽しくなると隣に座るなかむーを叩いたり、酔っぱらうとハグはんかしちゃってたけど、嫌な顔一つしていなかった。
私の隣にはもう誰もいない。
「なかむー、なんで死んじゃったのよ……」
言葉にすると涙が急に溢れてきた。天井を見上げても涙が溢れて止まらない。頰を伝って首筋まで垂れてくる。涙の後に嗚咽も出てきた。号泣といってもいいかもしれない。
周りのお客さんは私の号泣に気づいて明らかに引いている。でも、そんな事は関係ない。気がすむまで思いっきり泣いてやった。
でも、涙はそのうち枯れ果てるもので、意外にも私の涙は五分で底をついた。たった五分で涙が出なくなった事が悔しかった。私の想いは五分で枯れるほどじゃないのに、なんで涙が止まっちゃうのだろう。
小山ちゃんは何をしているのかと思って見てみると、先ほどと何も変わらず小松菜の胡麻和えをじっとみつめている。
「ねぇ、小山ちゃんは悲しくないの? なんで泣かないの? ねぇ、なんで?」
涙を流さない小山ちゃんが腹立たしい。こっちは涙が枯れた事でさえ悔しいと思っているのに。
「部長から中村さんが亡くなった事を聞いた日にはずっと泣いていました。でも、誰にも言うなって言われて。この気持ちを誰にも言えなくて。私も辛かったのは、わかってください」
「ごめん。そうだよね。小山ちゃんは私よりも先に辛い思いしてるもんね」
小山ちゃんだって辛かったんだ。私は一番辛いのが今だけど、小山ちゃんはもっと前に一番辛い時をすごしていたのだ。小山ちゃんの事情なんて何も考えていなかったことを反省した。
「それと、中村さんが死んだって、まだ思えないんです」
ハッとして顔を上げる。
「部長から直接死んだって聞いたんでしょ? それに、院内のイントラネットで訃報が配信されたじゃん」
「でもっ!」
私の話を小山ちゃんが遮った。
「中村さんがどうして死んだのかわからないし、遺体も見てないから死んだっていう実感がないんです。中村さんが亡くなった時ずっと泣いていたんですけど、泣き止んだら本当は嘘なんじゃないかって思って。ただ体調悪くて休んでいるだけかもしれない、って」
なかむーが実は生きているんじゃないかっていう気持ちはわかる。
「でも、お葬式の日程も出てたじゃん。さすがにお葬式の日程が出て、実は冗談でしたー、なんて事はありえないよ」
「わかってます。でも、中村さんの遺体には会えていないし、カルテだってロックされていて、詳細がわからないし」
小山ちゃんの言う通り、なかむーの遺体には会えていない。検死の詳細だって知らされていない。だから現実感が無い。
「ってか、なんでなかむーのカルテが見れなくなっているの? 普通、患者さんが亡くなってもカルテは見られるようになってるじゃん。もしかして、病院が何か隠しているって事?」
小山ちゃんはハッと顔を上げた。
「隠してる……。何をですか?」
「何って……。例えば、なかむーの死因が言えない、とか」
前のめりになった小山ちゃんの勢いに押されるように、少し後ろへのけぞってしまった。
「死因は心臓発作って言っていました。それなのに何でカルテがロックされているのですか?」
「わかんないけど、何か隠す理由があるからじゃない?」
こちらの質問に質問で返されて、イラつく。しかも、その質問に答えられないからなおさら。
「じゃぁ、小山ちゃんはどう思うの?」
ムカついたからこっちも質問で返してやった。
「中村さんの死は公にできない理由なんじゃないかって思っているんです」
「例えば……。他殺とか?」
きゅうりの一本漬けをかじりながら適当に言った。
「他殺はたぶんないと思います。それならもっと事件性があるから、警察とかテレビとかが病院に来そうだし」
「まぁ、そうだよね。でも、薬剤部長が一日戻ってこなかったって噂で聞いたけどやっぱり何かあったんじゃないの?」
「噂の通り、一日戻って来なかったのですけど、第一発見者ってことで、いろいろ事情徴収を受けていたみたいです」
「もしかして、心臓発作とか言っていたけど、薬剤部長が殺したってこと?」
「変な事言わないでください!」
あまりに小山ちゃんの顔が怖かったので一瞬たじろいだ。
「ごめん……」
酔っ払った勢いとなかむーがいなくなったことによる投げやりな気分であまりに適当な発言をしてしまった。
「疑わない気持ちはない事もないのです。薬剤部の事で意見が合わずに部長と中村さんが喧嘩をしているのは何度も見ていたので」
「なかむーはここでも愚痴ってたしね」
部長となかむーが衝突していたのは私も知っている。
「でも、薬剤部長は人を殺すような人じゃないと思うんです。それにお葬式の喪主を務めるみたいだし、喧嘩はしてもそれなりの信頼関係はあったのだと思うんです」
院内のイントラネットで回って来た電子回覧板は月曜日に葬儀が行われる予定で、喪主は確かに、薬剤部長の名前だった。
「でも、なんで親族でもない薬局長が喪主なわけ?」
「中村さん、家族いないから」
「えっ、そうなの?」
驚いてきゅうりの一本漬けを落としてしまって、あわてて拾った。
「五年前、お母さんが亡くなったから、もう誰も身内はいないです。松岡さんが他の病院にヘルプに行っていた時だったから、中村さんは言わなかったのかも」
親族は母親だけだとは知っていたけど、亡くなっていたのは知らなかった。
「言ってくれれば、お葬式だって行ったのに、なんで言ってくれなかったんだろ?」
「中村さんはあんまり自分のことをさらけ出すタイプじゃないし、他人に心配をかけるのが嫌いなので。私にもお葬式のことは知らせてくれませんでしたし」
「まぁ、そういう人だよね。ネガティブなことはあんまり言わないし、自分が我慢すればいいって思うタイプだよね。私たちには我慢せず自分をさらけだしてくれても良かったのに」
ジョッキの三分の一くらい残ったビールを一気に飲み干す。
「すいませーん」
「松岡さん、もう飲むのやめましょう?」
「わかってるって、ウーロン茶ひとつ」
なんだか飲みたい気分は一気に冷めてきた。それよりも、どうしてなかむーが死んだのかが気になって仕方がない。
「小山ちゃんはなかむーに最後に会ったのっていつ?」
「亡くなる前日です」
「なんか、様子は変じゃなかった?」
「いつも通りでした」
「じゃぁ、なんで死んだの? 死因は心臓発作だとしても、それを誘発するような持病なんてあった?」
「持病は喘息と花粉症とアレルギー性鼻炎と、腰痛と、偏頭痛と……」
「なかむー、病気だらけだね。まぁ、見た目も元気で骨太ってタイプじゃないもんね。どっちかっていったら、虚弱体質系だし。でも死ぬような病気なんてないじゃん」
「あとは……」
他に何か死ぬような病気はないだろうか。死ななくても、何かしらのきっかけになる疾患でも構わない。なんでもいいから天井を見上げてそれらしき疾患が無いか思い出してみるけれど、他に何も思いつかない。
「あとは、たぶんED……」
「EDって、アレが勃たなくなるED?」
「はい……」
「なんでそんなこと知ってるの? もしかして小山ちゃん、なかむーとそういう関係じゃないよね?」
「違います! 前、EDの薬について患者さんに聞かれて、答えられなかったから中村さんに聞いた時があって、その時「俺も飲んだことある」って言ってたから、たぶんEDかもしれない、かなぁって思っただけで」
「それはEDじゃなくて、試しに自分で飲んでみただけでしょ? 薬剤師なら薬の試し飲みくらいはすることあるよ」
「まぁ、そうですけど……」
「ねぇ、もう一回きくけど、なかむーと何も無いよね?」
二人が私の知らないところで「そういう関係」だったら絶対に許さない。
小山ちゃんの目をじっと見つめる。小山ちゃんが嘘をつく時は必ず目が震える。十秒間凝視しても変化がなかったということは、嘘をついていない。
「無いならいい」
小山ちゃんは私からの疑いが晴れてホッとした様子だ。
「でもさ、なかむーってそういう話無いよね。誰かと付き合ったとか別れたとかさ」
「実は、無いこともなくって」
「えっ? あったの? ってか、なんで知ってるの? やっぱり小山ちゃん、なかむーと付き合ってた?」
やっぱり二人の関係はまた疑わしくなってきた。それに、私だけ知らないことがあることも悔しくなって、小山ちゃんを睨む。
「だから、中村さんとは何も無いです。これは信じてください。中村さんはお兄ちゃんみたいな存在だし。お互い迫られてきたら拒否する感じです」
「じゃぁ、なんでそんなことまで知ってるの?」
「薬剤部で抗がん剤を混注するときに二人一組でやるんです。片方が薬を混ぜて片方が確認してみたいな感じで。その時中村さんと一緒になる時があって、いろいろ聞いたんです」
「ここでは話さないのに、そういうところでは喋るんだ」
「私がしつこく聞き出したみたいなところがあるんですけどね」
小山ちゃんは恋話が好きだから誰それ構わず聞いたり話したりすることがある。なかむーが困り顔で答えているのも想像に難くない。
「そもそも中村さんってお酒弱いから飲むと喋らなくなるので、シラフの時に聞いてみたのですけど、ここ数年は彼女はいなかったみたいです。でも、言い寄られている人はいたみたいで……」
「誰から?」
「ちょっと、顔近いです」
あまりの興奮に前のめりになってしまって、小山ちゃんの鼻と私の鼻がくっつきそうな距離まで顔を近づけてしまっていたことに気づき、体を後ろに引く。
「中村さん、実習生に言い寄られていたみたいなんです」
「実習生?」
「薬学部の五年生が年に三回、二ヶ月半の実習に来るのですけど、中村さんをすごく気に入っていた女の子がいて。結構可愛くて、あの子は私から見ても、中村さんのことが好きなんだなぁってことがわかるくらいの態度でした」
「実習生と付き合ってたってこと?」
「実習中は一定の距離を保っていたし、普通の子と同じように接していました。でも、一ヶ月前に二人で歩いていたのを偶然見ちゃったんです」
「どこで?」
「だから、顔近いですって」
私はゆっくりと顔を遠ざける。
「横浜駅の鶴屋町。あの辺りはラブホもあるし、もしかしてって思って。本当なら今日聞こうと思っていたんですけど……」
「でもさ、あの辺は飲食店も多いし、ラブホから出て来たのを見たわけじゃないんでしょ?」
「まぁ、そうですけど」
「じゃぁ、二人が付き合っていたかはわかんないじゃん」
なかむーが若い女と仲良くしていたなんて知らなかった。なぜかすごくイライラしてくる。
「それに付き合ってたら、なんだっていうの? なかむーが死ぬ理由になるわけ?」
これ以上なかむーの恋話を聞きたくなくて無理やり話を戻した。
「なりません」
「じゃぁ、どうして死んだの?」
「薬局長の言う通り、心臓発作だと思うのですけど」
「心臓発作ってVF(心室細動)ってことだよね?」
「たぶん」
「でも、既往歴に心疾患あった?」
「ないです」
「お酒も飲まなかったし、たばこも吸わなかった。脂物もそんなに好きじゃなかったし、他にVFを起こしそうなリスクは……」
「閉店のお時間になります」
店員が私の肩を叩いて伝票を差し出した。
「あっ、すいません。もうこんな時間か」
腕時計を見るとすでに二十三時を過ぎている。明日も日勤だからそろそろ帰らなければいけない。私たちは代金を支払い、店を出た。
結局、なかむーがどうして心臓発作を起こしたのかわからないままだったし、小松菜も手付かずで残ったままだった。
翌日、スマホのアラームが鳴って目が覚めた。
カーテンを開けるとまだ外は薄暗い。いつも通りに支度をしていつも通りに家を出た。
いつにも増して空が青く澄んでいるのが腹立たしい。
電車は時間通りに来たし、車内ではいつもの席にサラリーマンが座ってスマホをみているし、ドアの前では女子高生たちがいつもと同じようにおしゃべりをしている。
なかむーがこの世にいなくなっても世界は何も変わらない。私は喪失感でこんなに苦しいっていうのに。
病院に到着して更衣室でナースウェアに着替える。体から若干の酒臭さがするような気もしたけれど、制汗剤をいつもより多めにスプレーし、フリスクを大量に食べることで誤魔化した。
病棟のスタッフステーションに到着して、今日の勤務表を見てみると自分がリーダー看護師になっていた。完全に忘れていた。でも、昨日の飲み過ぎで若干気持ち悪さがあったので、リーダーのほうがオムツ交換などをしなくて済むのでまだ良かったと思う。ケアをしていたら、たぶん途中で嘔吐していたかもしれない。
八時三十分になると朝礼がいつも通り始まる。なかむーがいなくなってからなんとなく病棟の空気が重く感じる。
うちの病棟は珍しくナースマンのいない女子だけの職場だった。女子だけの職場だと陰口も多くなり面倒なことも少なくない。そんな殺伐とした中になかむーが病棟担当薬剤師としてやって来た。男性が一人いることでスタッフの雰囲気が少しずつ変わっていった。
いつもすっぴんで来ていた四十代のスタッフは軽く化粧をしてくるようになったし、愚痴ばっかりだったスタッフもなかむーに愚痴ると上手くなだめられるためか、穏やかになっていった。
それはなかむーが男子だったことだけではなくて、仕事ぶりをみんなが認めていたからだと思う。カンファレンスでは医師にどんどん意見を言うし、薬の事でわからない事があって聞いたらなんでも答えてくれるし、困った時になかむーに相談するとなんでも解決してくれた。本当に頼れる男だった。だけど、なかむーはもういないのだ。
いつも通り朝礼が終わって夜勤帯で取り逃がしている指示が無いかを電子カルテで確認する。すると、医師からの指示が一つ残っていた。
『アムロジピン2.5mg追加。病棟に上がり次第内服』
リウマチ科の患者である田中さんに降圧剤のアムロジピン追加の指示が出ていた。検温表を見てみると朝の血圧が180mmHgを超えていた。飲ませたかどうか、夜勤の看護師に聞こうかと思っていると、ちょうどその夜勤の安井ちゃんがこちらに向かって来た。
「あの、松岡さん」
「なに?」
「田中さんの朝から開始の薬が無くて」
「もしかして、この八時二十五分の指示のアムロジピン?」
電子カルテの指示を指差して言うと、安井ちゃんは頷いた。
「そうです。まだ飲ませていなかったので、指示は未読にしておいたんです」
安井ちゃんは昨日の夜勤のリーダー看護師だ。夜勤が終わるギリギリの時間でもしっかりと指示を見逃していなかったし、あえて未読にしておくところが偉い。
「薬剤部には電話した?」
「電話はしたのですが、わからないって言われました」
「はぁ!? わからない。そんな無責任な事ある? ってかそれ誰?」
「粕谷さんって人でした」
粕谷という名前に心当たりがある。なかむーが珍しく愚痴ったことのあるババアだ。仕事せずおしゃべりばかりで、注意すると嫌がらせをしてくるババアらしい。気をつけたほうが良いかもしれない。
「じゃあ、今日、病棟来てくれる薬剤師に頼んでみるから。夜勤の安井ちゃんはもうあがっていいよ」
「はい、すみません」
安井ちゃんは少しだけすまなそうに頭を下げた。
「安井ちゃんのせいじゃないから、気にしないで。お疲れ様」
「あっ、はい。お疲れ様でした」
安井ちゃんは夜勤明けで少し疲れた様子でスタッフステーションから出て行った。
とりあえず、もう一度薬剤部に電話をかけてみると、違う男の薬剤師が出たので田中さんのアムロジピンについて聞いてみると、しばらくして「ありましたのでパスボックスに入れておきます」と言われた。あるのかよ、と口に出しそうになったけれどなんとか堪えた。
看護助手さんに薬を取って来てもらおうと思ったけれど、今日は朝からお風呂の介助で全員出払っていたので、仕方なく自分が取りに行く事にした。
最近の病院ではエアシューターが付いていて、すぐに薬が届く仕組みがあるのだけれど、うちの病院はまだその仕組みがない。数年後の改築では取り入れるらしいけど、まだ歩いて取りに行かなければならない。めんどくさいなぁと思いながら薬剤部に向かう。
そういえば、なかむーに「薬が無い」って言ったらすぐに持って来てくれたっけ。少しだけ息があがっているけど、何事もなかったようにしれっと持ってきてくれた。たぶんこの道を小走りで駆けてきてくれたのだろう。たったそれだけのことだけど、いまではとてもありがたいことに感じる。そういえば、病棟で毎朝行われる朝礼に薬剤師はいなかった。なかむーはいつも朝礼にいたのに、別の薬剤師に変わると朝礼には出なくなるのだろうか。
薬剤部に入ろうとすると、一人の薬剤師が出て来た。顔はシミだらけで小汚い五十代過ぎのババアだ。名札を見てみると「粕谷理美」と書かれていた。
こいつがなかむーに嫌がらせをしたババアか。急に心拍数が上がって全身から汗が吹き出してくる。
もしかして、こいつがなかむーを殺したのではないか。直接的ではないが、間接的に。ババアが嫌がらせをして、ストレスを与え続けたからなかむーが死んだ。
ありもしない想像が頭をよぎる。
でも、本当にありもしない想像なの?
ほとんど愚痴を言わないなかむーが私たちに愚痴っていたくらいだ。相当なストレスが溜まっていたに違いない。でも、ストレスだけで死ぬほどヤワじゃなかったはず。
はぁとため息をついて振り向くと、ババアはいつの間にかいなくなっていた。
やっぱり死んだ理由は他にある。
そういえば、ここに来たのはババアに会うためではなく薬を取りに来たのだったと思って、薬剤部にあるパスボックスから薬を取り出す。
ババアがわからないっていったのに、薬はあった。どこにあったかは知らないけれど。
あのババアは薬を探さず、適当に返事をしたのではないだろうか。
無駄にイライラは溜まっていく。こんなことでは、仕事に支障をきたしてしまうので一度トイレに行って落ち着いてから病棟へ戻った。
病棟に戻って田中さんの薬を担当看護師へ渡し、医師からの指示を取っては担当看護師へ仕事を振っていく。
昨日飲みすぎたせいで胃がもたれてしまい、朝食を食べてこなかったのでお腹が減ってきた。時計を見ると十二時なので、新しい指示が無ければ休憩に入ろうかと思っていると、リウマチ膠原病内科の下田医師が声をかけて来た。
「松岡さん、今日はリーダー?」
「そうですけど、何か?」
声を掛けられたということは新しい指示が出るということだ。しかも口頭で言われるということは、おそらく急ぎの指示だ。お腹が空いていたのでちょっとだけ態度が悪くなってしまったのに気付いたけれど、悪びれるつもりなんてない。
「佐藤さんのプレドニゾロンを増量したら血糖が200まで上がっちゃって、ナテグリニド処方したから、昼から飲ませてくれる?」
ナテグリニドは血糖降下薬で、食前に服用する事で食後の血糖を抑えられる。
「先生、もう十二時ですけど」
私はスタッフステーションの壁掛け時計を指差して言った。
ここの病棟は昼食が十二時十五分に運ばれて来る。食前に飲ませるには薬剤部に電話をしてすぐに薬を作ってもらわなければならない。それでも患者さんが薬を食前に飲ませることは難しくて、ご飯を食べるのを待ってもらわなければならないこともある。
「じゃぁ、中村くんに電話しておくよ」
「は? 先生何言ってんの?」
下田先生は自分のPHSのボタンを押して、電話をかけようとする。
「いや、中村くんならすぐにやってくれるでしょ? もしかして今日は休みなの? 病棟にいないみたいだけど」
「冗談で言っているんですか?」
はぁと大きなため息が出てしまう。
下田医師は悪い人じゃないのだけど、こういうところが嫌いだ。
「いつも電話するとすぐにやってくれるから頼めばいいじゃない」
「先生、もしかして知らないの?」
「何を?」
スタッフステーションにいた看護師や事務スタッフの視線が一斉に下田医師に集まる。下田医師はあたりを見回す。何が起こっているのかわからない様子だ。本当に知らないらしい。
「中村さんは、もういないんです」
「あっ、今日は当直明けだった?」
ダメだ。はっきり言わないとわからないみたいだ。
「中村さんは死んだんです」
「えっ、何それ。悪い冗談やめてくれる?」
「冗談はどっちですか。中村さんは死んだんです。何度も言わせないでください」
「いや、そんなわけないじゃん」
下田先生はPHSのボタンを押して電話をかけた。
「もしもし……。中村くん、じゃないの? え、あぁ、そう。じゃぁいいや」
PHSの終話ボタンを押して胸ポケットにしまった。
「ねぇ松岡さん、下田先生は昨日まで学会じゃなかった?」
スタッフステーションにいたメディカルクラークの高橋さんが私に駆け寄り、耳元で囁いた。
「先生、学会に行ってたから知らないの?」
「あぁ、昨日まで学会で神戸にいた」
そういうことか。下田先生は学会に行っていたからなかむーが死んだことを知らなかったのか。それにしても情報に疎すぎやしないだろうか。
「ちょっと待って」
下田先生はPCデスクに戻りカルテを開く。名前検索で中村宏と入れて、カルテを開けようとした。
「先生、カルテを見ようとしても無駄ですよ」
「ロックされてる」
PCの画面には「閲覧は制限されています」のポップアップが表示され、カルテん画面を開けることはできない。何度もIDを入力してみるけれど、結果は同じだ。
「どうして中村君のカルテが開けないの?」
「そんなの、こっちが聞きたいですよ」
「ちょっと待って。いや、なんで、どうして?」
下田医師は困惑した様子であたりを見回す。
「訃報はイントラネットに出ていますから、信じられないのなら確認してください」
下田医師は言われた通りにイントラネットを開き、インフォメーションで訃報を見つけた。画面を見たままピクリとも動かない。
「先生は中村さんの事、何か知らない? 様子が変だったとか」
「わからない。でも、二週間前に診察していて、喘息の発作が起きたからプレドニンを処方した。喘息の調子が悪いのは知っていたけど、死ぬような病気ではないし……」
下田先生は表情が一変し青ざめている。
「あぁ、中村さんのいない病棟は考えられない。進行中の臨床研究だって途中なのに。どうしたらいいんだ」
なかむーは下田先生にも頼られていた。研究まで一緒にやっているとは知らなかったけど、病棟でいつもディスカッションをして薬を決めていたのは覚えている。看護師の私もそうだけれど、下田先生にとっても、なかむーの喪失は大きいのだろう。
「先生、薬はどうするの?」
「えっと、何の薬だっけ?」
「佐藤さんのナテグリニド!」
「あぁ……。夕食前からでいいや」
そう言うと、下田医師はブツブツと何かを呟きながら、ふらふらとした足取りでステーションを出て行った。
「はぁ、ダメだな。ありゃ」
私と医療事務の高橋さんが顔を見合わせて言った。
とりあえず、昼からの薬の指示はなくなったわけだし、スタッフに声をかけて休憩に入ることにした。
休憩室で出勤時に買ってきたパンを食べながらスマホを見ると、小山ちゃんからメッセージが届いていた。
『仕事が終わったら、中村さんの家に行きませんか? 中村さんの葬儀は中止みたいで、明日火葬される予定なので、中村さんに会えるのは今日で最後かもしれません』
即座に「行く!」と返事を送る。
『じゃあ、終わり次第連絡します』
と返信が来て「了解」と即レスした。
葬儀は中止か。うちの病院では福利厚生の一環として、スタッフや一親等以内の親族が亡くなると葬儀は病院持ちで行われる。葬儀が行われない場合は、本人が希望した時。
ということは、なかむーは自分が死ぬことを想定していたということ?
どうして自分が死ぬことがわかっていたのだろう?
葬儀不要の意思を書面か何かで残していたということ?
もやもやした気持ちの中、休憩は終わってしまった。
休憩から戻るとメディカルクラークの高橋さんが声をかけてきた。
「即入来たよ」
即入というのは即入院の略で、外来や救急外来で体調が悪い患者を自宅に帰さずに入院させる場合だ。
「何の患者?」
「あの佐藤さんがまた入院だって」
「またー?」
高橋さんと一緒にがっくりと肩を落とした。
佐藤さんは十代で一型糖尿病を発症し、入退院を繰り返している。カルテを開いてみると、メンタルの不調でインスリンの自己注射をせず高血糖、DKA(糖尿病性ケトアシドーシス)にて入院、と書かれている。
「ほんと、こんな勝手なことやめて欲しい」
これが三度目の入院だ。前回の入院も同じ理由だった。その時に散々医師に怒られたっていうのに、懲りない人だ。
「あと、花井さんは早く来たからお部屋に案内しちゃった」
佐藤さんのカルテを閉じて花井さんのカルテを開ける。乳がん、全身に転移あり。緩和ケア目的に入院。予後二週間程度。他院からの紹介。病院で亡くなることを希望して当院へ。
「乳がんターミナル。予後二週間か」
私たちの西2階病棟は混合病棟で複数の診療科を受け入れている。リウマチ・膠原病科、内分泌科、緩和ケア科。急性期もお看取りも診るので大変だけれど、いろいろな患者を看ることができるから、それはそれで楽しかったりもする。
今日の担当看護師表を確認すると、担当してもらう看護師は二人とも休憩中だった。本当は代わりの看護師に依頼するところだけれど、ちょうど手が空いていたので入院時に記載してもらう書類を渡しに行くことにした。
「佐藤さーん」
佐藤さんは四人部屋の窓際のベッドで、私がカーテンを開けるとかぶっていた布団から顔をだした。顔はノーメイクだし髪はフケだらけだし身なりがだいぶ荒れている。二十歳のくせに若さのきらめきは何一つ感じられない。
「あんた、インスリンを打たないと、こうなることはわかってるでしょ? もう三回目じゃん」
「うっさい」
そう言うと佐藤さんは布団をかぶった。普通の患者さんとはこんな口調でやりとりはしない。佐藤さんの入院は三回目だし、以前の入院時に韓流アイドルの話で意気投合したこともあり、それからタメ語で話すようになっていた。
「なんでインスリン打たなかったのよ」
「死にたかったから」
「なんで?」
「推しに彼女がいた」
「やっぱり。そうだと思った」
そういえば、先日の週刊誌に佐藤さんの推しの韓流アイドル『ミンジュン』のベッド画像が流失して話題になっていた。しかし、ミンジュンだって現実では一人の男だ。女を抱くだろうし、そのうち結婚だってするだろう。そうは言っても、熱烈なファンとしては現実を突きつけられると辛いという気持ちは理解ができる。
「私もショックだったよ。ミンジュン好きだし。でも、それでインスリンを打たないってのは、ないよ」
「あんたにとってミンジュンはその程度のものなんでしょ? 私にとってはミンジュンが全てなの。もう生きる意味がない」
そう言うと佐藤さんは布団を頭まで被ってしまった。こうなったら何をいっても無駄だ。
アイドルは偶像。手の届かないものだけど、ファンにとっては自分の命よりも大切だと思う人もいる。でも、ファンが流出画像をみてショックで死んだところで、アイドルにとってはなんにもならないのだけど。
「入院の書類を置いておくから書いてね。あと、持ってきた薬があったら出しておいて。薬剤師さんが回収しにくるから」
入院書類をサイドテーブルに置いて病室を出た。
はぁと大きくため息をつく。このままじゃいけないと思って、顔を横に振り気持ちを切り替えてから、花井さんの病室に向かった。花井さんは個室希望で病棟で一番奥まった病室に入っている。
「失礼します」
ネームプレートを確認し、ノックをしてから病室のドアを開けた。
「よろしくお願いします」
花井さんはベッドの上で小さく頭を下げた。花井さんは七十代で白髪だけれど綺麗に整えてあり、唇にはうっすらと口紅が塗られている。アイドルのスキャンダルで荒れ果てた身なりの佐藤さんとは大違いだ。
「こちらが入院の書類になります」
一通り入院時の注意点やお願いなどを説明すると、「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
「最近は家で息をひきとることが主流なのでしょう?」
「えぇ、まぁ……」
たしかに余命があとわずかとわかっている場合、病院で亡くなるよりも最後の時間を家族と一緒に家で過ごしてもらうことのほうが主流になってきている。
「本当は家で死にたいのだけど、主人は認知症で施設に入っているし、息子たちは海外で仕事をしているから、家には私一人。だから、ここで死なせてもらうの」
花井さんのように、家で亡くなることができない人は必ずいる。当院はそういう患者を受け入れている。
「いえ、何か困ったことがあったら仰ってくださいね」
「あと少しの間、よろしくお願いします」
花井さんが深々と頭を下げた。それに応えるように私も深くお辞儀をした。
人生に希望を失った二十歳と残り少ない人生を穏やかに過ごそうとする七十歳。
まったく対照的な二人。
生きるって何? 死ぬって何?
そんな新人看護師のような青臭い想いが、久しぶりに湧き出てきてむず痒くなった。
それから、なかむーの代わりの薬剤師さんが病棟に来ると、佐藤さんと花井さんの薬を回収したらすぐに薬剤部へ戻ってしまった。なかむーなら病棟で全ての業務を行っていたけれど、今日の薬剤師はそうではないらしい。
薬を預かったのは、持参薬鑑別といって、入院した患者さんが持ってきた薬の数や使い方を書面にしてくれる業務のことだ。鑑別書を医師に確認してもらい、薬の継続指示をもらって患者さんに返す。しかし、今日はその持参薬鑑別が四時半になってもできなかった。薬剤部に電話するとあと十分はかかるということだ。四時半からは夜勤への申し送りがあるので、他の看護師に持参薬鑑別が終わったらすぐに主治医に確認するよう伝えた。
なかむーなら遅くても四時には持参薬鑑別を仕上げてくれる。仕事は早いし、こちらの事情も見越して仕事をしてくれる。本来なら時間通りに進む仕事が進まないことにまたイライライしまう。仕事が終わったら小山ちゃんとなかむーの家に行く約束をしているので、定時で仕事を終わらせたいのだ。
一度深呼吸をして心を落ち着けてから、夜勤看護師への申し送りを始めた。
申し送りが終わって薬の事を担当看護師に聞くと、持参薬鑑別も終わって主治医に指示をもらえたそうだ。
残りの細かい仕事を終わらせると十七時三十分。小山ちゃんにスマホで連絡をすると、ちょうど仕事が終わったらしく、病院の入り口で落ち合うことにした。
「あっ、小山ちゃんおつかれー」
「お疲れ様です」
小山ちゃんが小走りで駆けて来て、そのまま二人でタクシー乗り場まで向かうと、ちょうどタクシーがやって来て、なかむーの家までの道を伝えると走り出した。
「今日、仕事大変だった?」
「一人足りないので大変でしたけど、何とかなりました」
「私も無理矢理終わらせた」
私も小山ちゃんも、なかむーがいなくて大変だったけれど、最終的にはなんとかなってしまった。
「なかむーがいないのに仕事が回っちゃったのが、ちょっと悔しいんだよね。なかむーがいればすぐに済むこともたくさんあるけど、いなくてもどうにかできちゃったのが悔しい」
小山ちゃんは小さく頷いた。
「例えば、病気で誰か休んだとするじゃん? そうすると周りはその穴を埋めようする。やってみるとその穴って意外に埋まっちゃったりするの。それなら最初から一人いなくても良かったんじゃないかって思っちゃう。もちろん、周りが頑張っているからなんだけど、その頑張りを毎日続けるのは大変だからやっぱりその人はいたほうがいいよねって事になる。でも、なかむーはそういうのじゃないと思うの。代わりがいなくて、誰かが代わりをしようとしても、やっぱり違うなって思うんだよね。うまく説明できないけど、貴重な存在だった」
「薬剤部には他に二十人薬剤師がいるのですけど、たぶん中村さんの代わりをできる人はいないと思います」
「やっぱりそうだよね」
なかむーのアパートの近くでタクシーは止まって、代金を支払って降りた。
以前に何回か行ったことがあるのでうっすら覚えていたのだけれど、改めて見るとなかむーのアパートはボロい。おそらく平成初期に建てられた単身者、学生向けのアパート。玄関口でインターホンを押すと「はーい」と返事がしてしばらくするとドアが開いた。
出てきたのは薬局長だった。白衣は着ていないけれど見たことはあったので顔はわかる。ただ、だいぶやつれている。
「あっ、お疲れ様です」
小山ちゃんは頭を下げて、私もちょこっと頭を下げた。
「どうぞ」
私たちは狭い玄関で靴を脱ぎ部屋に入る。1Kのアパートはキッチン兼廊下の反対側にバストイレがあり、そこを覗くとゴミ袋が三つ積み重なっている。
「これでもだいぶ整理したんだけどね、まだまだ時間がかかりそうだよ」
リビングの真ん中には棺桶があり、その周りは綺麗に片付けられている。
私たちはなかむーの元までゆっくり進み、一度顔を見てから線香をあげて、空いているスペースに腰を下ろした。
「そちらは?」
私の方を向いて聞いてきた。私は薬局長の事は知っているけれど、向こうは私を知らなかったらしい。
「西二階病棟の看護師の松岡です。中村さんとは一緒に仕事をしていて、いつも助けてもらっていました。今回このような事になってしまったのは、とても残念です」
「あぁ、そうだな」
「あの……。し、死因は?」
聞こうかどうか躊躇していたが、質問が口から滑り出てしまった。
「心臓発作だ」
噂通りの病名だった。
でも、本当?
もしかして、何かを隠してない?
どうせ私の事なんて覚えていないのだ。仕事で支障が出ることもなさそうだし、聞きたいことは全て聞いてやろうと前のめりになる。
「それならどうしてカルテが開けないようになっているのですか?」
「スタッフが中村のカルテを開けようとしてサーバーがパンクした。システム課曰く、業務に支障が出たそうだ。だからロックした。誰であれ、他人のカルテをただの興味本位で見るのはいけないことだ。プライバシーだからな」
薬局長はギロリとこちらを見た。釘を刺されてしまった。少しの罪悪感で次の言葉に詰まってしまって沈黙が訪れる。
「そういえば、薬剤部はどうだ? ちゃんと回っているか?」
「はい。一人少なくて大変ですけど、なんとか」
小山ちゃんと薬局長が仕事の話を始めた。私は横ですることがないので部屋を見渡していた。かつて三人で飲み明かしたこともある部屋ではあるが、あの時よりだいぶ散らかっている。
本棚には相変わらず本がびっしり並んでいるし、入りきらない本は床に積まれている。八割医療系の本で二割がビジネス書。なかむーは本が大好きだった。通勤中に歩きながら本を読んでいるのを何度か見たことがあったことを思い出す。
そして、本棚の横の壁に一枚の写真が画鋲で貼られていた。
なかむーと女の子が一緒に薬剤部で写っている。なかむーの髪型が今と違うから数年前のものだろう。女の子は二十代くらい、おそらく薬学部の実習生が実習に来た時だろう。先日の飲み会で小山ちゃんが話していた実習生とはこの子のことかもしれない。
わりと綺麗めですらっとしたその女の子は、なかむーの好きなタイプではなさそうだし、仲は良さそうな気はするけれど、男女の関係と言うよりも師弟関係のように見える。
二人並んで笑顔でピースサインをしている。写真を見るともうこの笑顔が見れないなんて思うと胸が苦しくなってくる。
「いろいろ終わるまでここにいるつもりだから、薬剤部を頼むぞ」
「はい」
二人の話が終わったみたいだ。
「もう一度、顔を見てもいいですか?」
「ああ」
あまり長居をするのも良くないと思い、もう一度顔を見たら帰ろうと思った。
さっきは線香をあげるため、じっくり顔は見れていなかったので、こんどはゆっくりと棺桶の中を上から覗く。なかむーの肌は艶がなく青白い。やはり眠っているのではなく、死んでいることがわかる。
「なかむー、なんで死んじゃったのよ。また一緒に鳥しげ行くって言ったじゃん。なかむーがいないと病棟回らないよ。なかむーじゃなきゃダメなんだから」
仕事で何度も見た人間の亡骸。見慣れているはずなのに。顔を見ると涙と一緒に本音も溢れてしまった。
「ねぇ、なかむー。なんとか言ってよ」
死人に何を言っても返事がないことくらいわかっている。でも、一度出た言葉はなかなか止められない。
「私、結構なかむーのこと好きだったんだから」
そう言ったら涙が滝のように流れ出してきて、大きな声を出して泣いた。
しばらくすると涙は枯れてしまって、小山ちゃんが私の肩にそっと手を当てた。
「ごめん」
一人で大泣きしてしまった。
「もう帰ろう」
小山ちゃんの声にゆっくりと頷いて、荷物を持って玄関に向かった。
「じゃあ、私たちはこれで失礼します」
小山ちゃんが言うと、薬局長は何も言わず深々と頭を下げた。そのまま私たちはなかむーのアパートを出た。
「公園で休んでもいいかな?」
「うん」
小山ちゃんが公園のベンチに座ると、そのまま顔を両手で覆い下を向いた。手の隙間から涙がポタポタと垂れている。私は小山ちゃんの横に座り優しく抱き寄せる。
「さっきは一人で泣いてごめんね。小山ちゃんだって辛かったのに」
ううん、と首を振った。
もう涙が枯れたかと思った私もまたじわじわと涙が溢れてきて空を見上げた。
輝いている満月は涙で歪んでいた。
なかむーは死ぬ前にどんなこと考えていたのだろう。
苦しかったかな? それとも苦しまずに逝ったのかな?
私たちには何もわからない。本当に何も。
小山ちゃんが泣き止んで帰ろうとした時、一人の女性がなかむーのアパートに向かっていく。そのまま目で追っているとそのまま部屋に入っていった。
その女性は写真に写っていた女の子によく似ていた。
三話 薬学生 八田梨花子
中村さんから資料が送られてきたのが昨日の夜。内容を確認し「金曜日に打ち合わせをしましょう。金曜日の十九時にご自宅に伺います」とメッセージを送った。
中村さんの自宅に行く事にしたのは、オンラインでの勉強会はネット環境や映像映えなどの確認が必要で、なんて言い訳をつけたけれど、実際は前回のデートが原因だ。
先日の学会で中村さんに再開し、食事をした。その後、中村さんの家に行ったのだけれど、私が酔っ払って眠ってしまった。きっと何かをされるものかと思って期待していたけれど、何もされず紳士な対応をされてしまい、悔しかった。
酔っ払って寝てしまった事も申し訳なかったし、好きな人の家に行ったにも関わらず一度も触れられなかった事も自分に魅力が無いようで情けない。
紳士的な対応は私を想ってのことだったのかもしれない。でも、中村さんが私に気があるかどうかきちんと確かめたかった。だから言い訳をつけて、再度自宅にお邪魔することにしたのだ。
金曜日の夜は電車も少しだけ人が多かった。駅のトイレで身なりを整えて中村さんの家に向かう。
準備は万全にしてきたはずだ。普段はパンツにブラウスというシンプルな服装で出かけるけど、今日は女の子らしい服が良いかと思って、ベージュのコートの下には白のニットワンピースを着て来てしまった。ちょっと可愛すぎてキャラじゃないかもしれないけれど、頑張ってみようと思って先週買ったものだ。
話す内容だって決まっている。事前資料の内容で掘り下げたい箇所についても考えてきたし、それが終わった後のおしゃべりのテーマまで考えて来た。手土産だってリュックに入っている。デパートで買っておいたクッキーと紅茶だ。食べながらおしゃべりをしたらきっと楽しいだろう。考えただけでウキウキしてくる。中村さんのマンションが見えてきた。気持ちを抑えられず小走りになってしまう。
一度、表札を確認し呼び鈴を押す。ピンポーンと音がなり、ドアが開いた。中村さんが出てくるのを笑顔で待ち受けた。しかし、そこから出て来たのは中村さんではなかった。
「えっと、どちらさまでしょうか」
年齢が五十代前後と思われる男性が立っている。部屋を間違えたのかと思い、表札を確認したけれど、やはり中村と書かれている。もしかして、この人は中村さんのお父さんだろうか。いや、顔は全く似ていない。でも、どことなく見覚えのある顔を記憶の奥から引っ張り出す。しかし、思い出すことができない。このまま何も言わないのは失礼かと思い、とりあえず挨拶をしようと思った。
「私、八田と言います。中村さんには実習でお世話になりました」
実習と口に出した瞬間に記憶が蘇った。この人は中村さんの病院の薬剤部長だ。
「あぁ、あの時の。本日はお忙しい中、来ていただいてありがとうございます。どうぞ中へ」
薬剤部長の妙な敬語と中村さんが出てこなかったことに違和感を覚えながらも「はい」と言って玄関で靴を脱ぐ。
「あの、中村さんは」
「こちらです。良かったら声をかけてやってください」
薬局長が手を差し出した先には、棺があった。
まさか、そんなことがあるはずはない。
恐る恐る棺に近づき、小窓を開ける。
するとそこには真っ白の顔の中村さんが眠っていた。
私はその場に膝から崩れ落ちた。
三年前、中村さんと出会った。
私はみなとみらい大学薬学部の五年生で、本牧病院に実習に向かった。
実習初日は八時十五分に来るように言われていたけれど、道に迷って遅刻してはいけないと思い、七時半には病院に到着していた。
薬剤部の場所は病院入口の地図を見て探した。迷うかと思ったけれど、むしろちょっと早く着いてしまい薬剤部の前をウロウロしていると、スタッフが薬剤部から出てきて、薬剤部の休憩室で待っているように言われて案内された。
これからどんな実習になるのだろう。ワクワクした気持ちが強かったけれど、一抹の不安もあった。すでに病院実習を済ませた友人の話だと病院薬剤師は必ず怖い人がいるらしい。病院という厳しい世界で働いていると、性格もきつくなるらしいのだ。
担当する薬剤師が怖い人だったらいやだなぁと思って待っていると、狐のようにつり上がった目をした男性が入ってきた。
「おはよう、実習担当の中村です。これからよろしく」
目つきは悪いけれど、話し方が予想外に優しかったので拍子抜けしてしまう。
「早いね」
「いえ」
腕時計を見るとまだ八時前。確かに約束の八時十五分よりもだいぶ早い。
「中村さんはいつもこの時間には仕事しているのですか?」
「七時半には病院にいるかな。早いドクターは七時に来ているし、普通じゃないかな」
始業時間の一時間前に来て仕事をしている。それが病院薬剤師にとって普通なのだろうか。
中村さんは休憩室の冷蔵庫を開けてエナジードリンクを取り出して一気に飲み干すと、そのままゴミ箱に捨てた。一気飲みしないでください的な注意書きが書いてある気がして、心配になってしまう。
「じゃあ、ちょっと仕事してきていい? 時間になったら戻ってくるから。それまでにこの資料に目を通しておいて」
実習予定表と調剤マニュアル、病院パンフレットなどの書類を私の前に置くと、返事も聞かずに早足で出て行ってしまった。
それからしばらくして、次々とスタッフが休憩室に入って来る。私は「おはようございます」と「これからよろしくお願いします」を交互に言っては頭を下げた。他のスタッフはもう少し来るのが遅く、のんびりと仕事の準備をしはじめていた。
調剤マニュアルを読みながら待っていると、中村さんは約束通り八時十五分ぴったりに戻ってきた。
「それじゃあ、今のうちに実習の話をしておくね」
息が上がったまま中村さんは話を始めた。八時三十分に薬剤部で朝礼があること、使って良いロッカーの事、お昼ご飯の事、これからの実習で注意しなければならない事などを早口で説明した。
「それと、実習を行うにあたって目標を立てて欲しいんだ」
「目標……」
実習を通じてなるべく多くのことを学びたいと思っている。でも、目標を聞かれると明言できない。
「すぐには見つからないと思うし、途中で修正しても良いと思っている。でも、なるべく具体的にして欲しいんだ」
具体的な目標を立てられるだろうか。そう思って顔を上げると中村さんの顔があった。とりあえず、中村さんから学べることをしっかり学ぼうと思った。
中村さんの話ぶりは生き生きしていて、ちょっとかっこよかった。大学でこういう人はあまりいなかったので新鮮に感じていて、素敵な薬剤師と一緒に実習ができることに胸をときめかせていた。
しかし、その胸のときめきはすぐに崩れた。
最初の二週間は調剤室での実習で、午前中は調剤や監査の仕方について学んだり、午後はがんや感染症などの専門薬剤師から講義を受けたりした。その間に気付いたのだけれど、中村さんは目つきが悪いくせに、いじられキャラだった。
「なかむらさーん、ちょっとそれとってー」
「なかむらさーん、トイレ行き過ぎじゃなーい?」
「なかむらさーん、わたし来月誕生日なんだけどー」
十歳以上年下と思われる薬剤助手(薬剤師ではないスタッフ)に、いつもいじられていた。それでも嫌な顔などせず、ヘラヘラとしていた。堂々としていれば良いのに言われるがままで、出会った時の素敵な印象はすぐに消え去っていた。
いじられている様子は、まるで近所に住んでいた私の弟分だった。いじめられてはいつも私が助けていた。私を姉のようにしたってくれたけれど、それは小学生までの話で背が伸びるにつれて逞しくなっていき私に頼ることはなくなってしまった。もうそれからは会っていないけれど、もしかしたら今は中村さんのようになっているのかもしれないなと思った。
でも、ヘラヘラしていたのは年下だからだったみたいだ。
ある日、中村さんが薬剤部長に強い口ぶりで怒っているのをみた事があった。
昼休みに薬剤部長室の前を通り過ぎようとすると、中村さんと薬剤部長の声が廊下まで聞こえてきた。
「どうして実習生のための時間を減らすのですか」
「スタッフの超勤時間を減らすためだ」
「実習生はどうだっていいって言うのですか?」
「そうは言ってない。実習生よりスタッフのほうが優先順位が高い。それはわかるだろう?」
「実習生からは実習費を一人あたり約三十万もらっているんですよ。それに値する実習を提供しないとそれは詐欺です」
「充分な内容は提供しろ」
「ですから、そのための時間をください」
「それはできない。時間内でやれ」
「もっと優先順位の低い仕事がたくさんあるのに、学生実習のための時間を後回しにするのはおかしいですよ」
立ち聞きするつもりはなかったのだけれど、足を止めてしまっていた。これ以上は立ち聞きするのは良くないと思い、立ち去ろうとすると隣に粕谷さんがいた。
「あの人、時々ああなっちゃうのよ。怖いでしょう?」
「いえ」
「私も一緒に病棟をやっていた事があったのだけど、強い口調で言われて怖かったのよ。あれがダメだ、これがダメだとかね。ちゃんとやっているのにね」
粕谷さんには悪いけれど、粕谷さんはたぶん本当にダメだったのだろう。仕事ぶりを見ていればわかる。調剤室にいても、ほとんどおしゃべりばかりで仕事をしていない。ちょっと調剤室を出たと思えば一時間は帰ってこない。こうやって人の悪口を言って足を引っ張ることが好きなのだろう。
「それでね、あのひと」
粕谷さんが何かを言いかけた時、部長室から中村さんが出て、早足でどこかへ向かっていく。
「すいません、ちょっと用事思い出しちゃって」
「あら、そう」
この人と一緒にいると無駄に嫌な気持ちが増殖してきそうで、嘘をついて中村さんを追った。
中村さんは廊下を早歩きで進んでいく。私は後ろから駆け寄り声をかけた。
「あの、中村さん」
中村さんは驚いた様子で振り向いた。
「あの、さっきの」
慌てて追いかけてきたら息が上がってしまったこともあり、言葉に詰まってしまった。
「もしかして部長室での話、聞いてた?」
中村さんは気まずそうな顔をしている。
「すみません。外まで聞こえてました」
「そっか」
「私たちのために、ありがとうございます」
追いかけても、どうしても伝えたかった。こんなに熱い気持ちで実習をしてくれているのが嬉しかった。でも、中村さんは小さく首を振った。
「ちがうんだ。良い実習を提供はしたいとは思っている。でも、それ以上に自分の仕事に納得できないのが悔しい」
なんとなくわかるような、わからないような気分で言葉が出なかった。
「ちょっと嫌な気分にさせちゃったかな。午後の実習は気分を切り替えて、頑張ろうね」
私が「はい」と返事をすると早足で病棟へ行ってしまった。
二週間の調剤室での実習が終わると、病棟での実習が始まった。
病棟実習で中村さんと一緒に灰谷新一さんを担当した。
灰谷さんは小学校教員で体育の授業中に呼吸が苦しさを自覚するようになり、近所のクリニックに受診したところ喘息と診断されたが、薬を使用しても良くならないため当院へ受診した。たまたまリウマチ膠原病科の幸田先生が内科外来の担当だったため、血液検査に膠原病の項目を追加していて強皮症、間質性肺炎が発覚し、即日入院となった。
「持参薬はあった?」
「はい、前医の喘息の薬だけで、先ほど主治医の幸田先生から全て中止の指示をもらっています。その旨はリーダー看護師さんにも伝えておきました」
「さすが、仕事が早いね」
私はフフンと鼻をならす。中村さんから言われそうなことは想定済みだった。
「それじゃぁ、今日から使用しているステロイドと免疫抑制剤に加えて、明日にシクロホスファミドを投与することになったってことは幸田先生から聞いているね?」
「はい、聞いています」
「ステロイドと免疫抑制剤のシクロスポリンについては俺の方から説明しておいかたら、あとはシクロホスファミドの説明なんだけど、準備は出来てる?」
「バッチリです」
中村さんから事前にやることは聞かされていたので、準備の時間をもらって説明書を作成し、薬についても質問が来ても良いように、しっかり勉強はしておいた。
「じゃぁ、灰谷さんの部屋に行こうか」
中村さんと一緒に灰谷さんの部屋に向かい、ノックをしてから病室に入室する。奥さんが小さな息子を抱っこして一緒に部屋にいた。それぞれに頭を下げ「実習生の八田です。よろしくお願いします」と言ってから薬の説明を始める。点滴の作用や副作用、点滴時間や注意点などを説明し、書面を渡した。
内容は理解してもらえたみたいで説明書きを受け取ると、灰谷さんはベッドに背中を預けた。すこし呼吸が苦しそうにみえる。酸素2Lを鼻から投与しているがサチュレーションモニターを見るとSPO2は95%前後。普通の人なら血中酸素濃度は100%から99%なので少し低いことがわかる。
「それでは、また伺いますね」
小さく頭を下げて部屋を出た。
「薬が効くといいですね」
明日から始まるシクロホスファミドはリンパ球の数や機能を下げることで、抗炎症効果をもたらし、間質性肺炎を改善させる効果がある。これできっと良くなるだろうと思っていた。しかし、中村さんの表情は渋い顔をしている。
「ところで、シクロホスファミドはどういう目的で使用するかわかる?」
「間質性肺炎の治療目的です」
当たり前のことを聞かれて、拍子抜けしてしまう。
「灰谷さんは確かに間質性肺炎なんだけど、皮膚筋炎を合併している。それがどういうことかわかる?」
「えっと……」
昨日は間質性肺炎とシクロホスファミドの勉強ばかりで、皮膚筋炎の勉強はしていなかった。皮膚筋炎が間質性肺炎に関係しているかなんて見当もついていなかったので、勉強を後回しにしていたのだ。
「進行性皮膚筋炎に間質性肺炎が発症すると、予後が悪い。二週間以内に亡くなった症例も報告されている」
「えっ……」
効くといいですね、なんて言ってしまった自分が恥ずかしい。効くといいですねではなくて、効かないと命を落とすかもしれないということだ。
「でも、いくつか結果待ちの検査値がある。それで予後が良いのか、悪いのかがわかる。結果が出るまでに勉強しておいてね」
「はい……」
自信を持って薬の説明はしたけれど、患者さんの予後なんて考えてもいなかったし、病気のことも勉強が浅かった。自分の至らなさを痛感した日だった。
シクロホスファミド投与後、副作用はなく二週間が過ぎたけれど、状態の改善はなかった。
「おはよう。今日も早いね」
「おはようございます」
薬剤部のPCで患者さんの情報をみていると中村さんがやってきた。中村さんの出社時間はだいたい七時半。それよりも早く来れば中村さんより早く患者さんの情報を得ることができるので、七時に来ることにしている。
「八田さん、灰谷さんは今日二回目のシクロホスファミドの投与予定だけど、今の状態はどう評価しているかな?」
「SPO2(血中酸素濃度)が少しずつですが下がってきていて、呼吸状態は悪化していていると言わざるを得ません。血液検査は炎症を表すCRPは横ばいか少しだけ上昇、間質性肺炎の状態を表すKL -6も低下していません。全体的に状態は悪化しています」
「MDA-5とフェリチンは?」
前回、勉強していなかった検査値だ。
「低下していません」
「つまり、どういうことかわかる?」
私の口から言えということか。
「MDA-5とフェリチンが高値の場合、皮膚筋炎を伴う急速進行性間質性肺炎の予後は不良です」
「そうだ。データは良く読めているね」
「本日は二回目のシクロホスファミドの投与予定です。それで良くなればいいのですが……」
シクロホスファミドを投与しても、大きな改善は見られなかった。今回効いてくれればいいけれど、希望は持てない。
「これから何かできることはないかな?」
「えっと……」
何をしたら良いのだろうか。このまま死を待つだけなのだろうか。
考えて見たものの、自分にできることが思いつかず、うつむいてしまった。
「じゃぁ、灰谷さんのところに行こうか。答えがあるかもしれない」
「はい」
答えは現場にある。それが中村さんの口癖だった。
私たちは薬剤部を出て一緒に病棟に向かう。ここで悩んでいても仕方がない。答えを求めて歩き出すしかないのだ。
始業前の病棟までの道は朝食の片付けや朝の投薬やらで看護師がバタバタしている。それを横目に西二階病棟へ向かっていくのだけど、その間は、ちょっとだけおしゃべりの時間がある。
「中村さんは何かスポーツをしていましたか?」
後ろ姿を見ていると、左右のバランスが悪い。体幹が弱い気がして聞いてみた。
「高校まではサッカーをしていた」
「えっ!? 嘘?」
「嘘って、どういう意味?」
「サッカーやっていたわりに、体幹弱くないですか? 歩くとき芯がブレていますよ」
「まぁ、だいぶ衰えちゃったから」
高校生の中村さんが生き生きとサッカーをしていた姿を想像するとちょっとかっこいいけれど、今の姿じゃ五分で足がつっている想像しかできない。
「もうサッカーはやらないのですか?」
「仕事が落ち着いたらやりたいけどね。でも、喘息もちょっと悪くなってきているから始まってすぐに走れなくなりそう」
中村さんはそう言って、自虐的に笑った。
そういえば、中村さんは吸入薬を吸っているのを見たことがある。やっぱり喘息だったのか。
「でも、水泳の寺川綾さんやスピードスケートの清水宏保さんは喘息でもメダリストですよ」
「あれは特別な人たちだから」
「そんなことないですよ。中村さんだってきっと」
「喘息もあるけど、もともと体力はないから一緒にしないで欲しいよ。風邪ひいたって治るまでに二週間かかるくらいだし」
「弱っ」
ついつい本音が出てしまった。しまったと思い、中村さんをチラ見したけれど、聞こえなかった様子で廊下を歩いていく。
「八田さんは何かスポーツをしてた?」
「剣道をやっていました。初段です。インターハイではベスト16までいったんですよ。それと、最近はフルマラソンにも挑戦していて、この前のレースでは四時間を切ったんです」
「すごいじゃないか」
えっへんと胸を張る。努力をして結果を出すことは好きだ。
「中村さんもフルマラソン走りませんか?」
「僕は無理だよ」
「やらずに諦めちゃダメですよ。夢は必ず叶うって高橋尚子さんが言っていましたし」
「諦めちゃダメか……。酷なことを言うんだね」
「大抵の事は努力すればなんとかなります!」
ガッツポーズをしながら言うと中村さんは苦笑していた。
楽しいおしゃべりの時間はあっという間で、灰谷さんの部屋の前についた。
「失礼します」
ノックをして部屋に入ると、灰谷さんは背中を約60度まで上げられたベッドに体をあずけている。横になっているよりも起きているほうが呼吸をするのにラクなのかもしれない。
「おはようございます」
入室した私たちに気づいたのか、うっすらと眼を開けて言った。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
「まあまあかな」
「息苦しさは先週と比べていかがですか?」
「ちょっと悪くなっている気がするよ」
二週間前は酸素を鼻から投与していたけれど、今は酸素マクスで投与しており、流量を見ると6Lだった。酸素流量を上げていても、息苦しさは悪化しているみたいだ。酸素投与量を増やした方が良いかもしれない。
「もう少し酸素量を増やせないか、先生と相談してみますね」
「お願いします」
中村さんにアイコンタクトを送ると、中村さんは小さくうなずいた。酸素流量を増量するのは問題ないということだ。
「本日は二回目のシクロホスファミドの投与になります。前回と同じスケジュールでおこないます。何か気になることはありませんか?」
「大丈夫です」
灰谷さんは今のところ息苦しさ以外に自覚する体調不良はなさそう。息苦しさが一番の問題点だろう。
「それでは、また伺いますね」
私たちは灰谷さんに軽く頭を下げると病室をでた。すると、ちょうど主治医の幸田先生を廊下で見つけたので駆け寄る。
「幸田先生、灰谷さんなのですが息苦しさが悪化しているようなので、酸素流量を6Lから8Lにあげてはどうかと思うのですが、いかがでしょうか?」
「いいよ、8Lにあげようか」
「はい!」
提案を幸田先生が受け入れてくれて、よし、と心の中でガッツポーズをする。
「じゃあ、よろしくね」
幸田先生は中村さんを見てそう言うと、別の患者さんの病室へ入って行った。
「提案が通って良かったじゃない」
「えっ、あっはい」
違う。私の提案は通ったけれど、後ろに中村さんがいたから提案が通ったのだ。だって、幸田先生は私のことを全然見ていなかったもの。
幸田先生の中村さんへの信頼は絶大なことは知っている。自分は学生で実力が不十分だってこともわかる。早く中村さんのように認められたい。
「じゃあ早速、酸素流量を上げてこようか。それと担当看護師さんにもこの旨は伝えておくように」
「はい」
認められるようになるには、成長するしかない。そのためには、やるべきことを一つ一つこなしていくしか道はない。去りゆく中村さんの背中を見て、早く一人前の薬剤師になりたいと思った。
二回目のシクロホスファミドを投与したあと、状態は右肩下がりだった。
カルテを見ながら大きなため息をつく。
「おはよう」
「あっ、おはようございます」
振り返ると中村さんは今日も左手にエナジードリンクを右手にゼリー飲料を持ち、交互に口をつけている。
「それ、朝ごはんですか? もうちょっと、ちゃんとしたものを食べたほうがいいんじゃないですか?」
「そう思うけど、なかなかできないんだよね。八田さんはちゃんと朝ごはん食べてくるの?」
「今日は目玉焼きと焼き鮭とコールスローサラダとご飯を食べてきました」
「八田さんは一人暮らしだったよね。自分で作っているの?」
「もちろんです。朝食は一日を過ごすための大事なエネルギーです。朝早く起きて、朝ごはんとお弁当を一度に作っちゃうんです。そうすれば効率もいいし、食費も節約できるので」
「すごいね」
「中村さんはご飯作ってくれる彼女とかいないんですか?」
「いないよ」
「じゃあ今度、中村さんのご飯も作ってきます。おにぎりでいいですか?」
「いや、でも……」
「気にしないでください。一人分作るのも二人分作るのも手間はそれほど変わらないんで。それに中村さんの体調も心配ですし」
中村さんを見ていると薬剤師としての頼り甲斐はあるはずなのだけれど、無理をしているようにも見えるから、世話を焼きたくなってしまう。ちゃんとご飯は食べて欲しいし、元気でいて欲しい。彼女がいないのなら、私がご飯を作ってあげないと倒れてしまうかもしれない。
「じゃあ、今日も張り切っていきましょう!」
私が右手を挙げると、中村さんは苦笑した。そして、灰谷さんの病室へ向かった。
ノックをして入室すると、灰谷さんは眠っていなかった。
「こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
苦しそうな様子はあるものの、笑顔を向けてくれたのは調子が良いことの証拠だろう。
ふと、ベッドテーブルを見ると便箋とペンが置かれている。
「手紙を書いていたのですか?」
「妻と、子供と、生徒にね」
苦しさがひどいのか、言葉は途切れ途切れに紡がれる。
灰谷さんはまだ三十八歳。お子さんも小さい。亡くなったあと、残された家族はどうなるのだろう。
「今のうちに、伝えたいことを、手紙に、しておかないと」
頭の中で「手紙」という言葉に「遺書」というルビが振られる。灰谷さんは死を覚悟している。
「これ、生徒に、向けた、手紙、なのだけど、内容が、これで、良いか、読んで、くれないか」
灰谷さんはテーブルの上の手紙を差し出した。
『三年二組のみんなへ
先生は肺の病気になってしまって、
どんどん息が苦しくなっています。
ちかいうちに呼吸ができなくなり、
先生の人生は終わるでしょう。
みんなが卒業する姿を見られなくて、とても残念です。
そして、最後まで授業ができなくて、ごめんなさい。
お見舞いに来てくれて、ありがとう。
みんなと一緒に過ごせた時間は、最高の宝物です。
これから、辛いことはたくさんあると思うけれど、
楽しいことは、それ以上にある。
みんなも精一杯生きて欲しい。
灰谷新一』
私は涙を流しながら手紙を返した。
「どうかな?」
「わかりやすくて、よかったと思います」
自分の言葉があまりにありふれたつまらない言葉で嫌になる。
「でも、どうして私に見せたのですか?」
「がんばっている、生徒を、見ると、応援したく、なるから」
そう言うと、灰谷さんは笑顔で目を閉じた。
頑張っている生徒というのは、きっと私のことだろう。灰谷さんに私ができることは何もないと思っていたけれど、何かあるはずだ。もう一度考えてみよう。
それから、灰谷さんの酸素投与量は8Lに上げて、二回目のシクロホスファミドを投与したけれど、息苦しさは変わらず、SPO2はついに90%を切ってしまった。
他に方法はないか。私はずっと考えていた。家に帰って来て教科書を見直したり、土日には大学の図書館に行って専門書を読み漁った。やはり、現在の治療方法はステロイド大量療法、シクロスポリン、シクロホスファミドの三剤併用療法は標準的だ。それでも諦めたくなくて、他に方法はないかと、論文検索サイトで探してみると今と少し違う治療方法を見つけた。この方法なら良くなるかもしれない。明日のカンファレンスで提案してみよう。
「おはようございます」
「あっ、おはよう」
今日は中村さんの方が出社が早かった。というよりも、私が遅くなってしまった。
「中村さん、朝ご飯はもう食べましたか?」
「まだだけど」
「良かったらこれ食べてください」
「これは?」
「中村さんの朝ごはんです。ついでに作ってきちゃいました」
カバンから包みを出して差し出す。出社が遅れた理由は中村さんの朝ごはんをつくってきたからだ。お弁当箱を開き「おー」と小さく感嘆した。
「卵焼きと唐揚げとおにぎりが二個も入ってる。すごいね」
えへへと鼻の下をこすりながら緩くなった口元を手で隠す。
「おにぎりはおかかと鮭です。からあげは昨日の夕飯の残りを入れてきました」
中村さんは嬉しそうに、でもちょっと恥ずかしそうにそれを頬張った。それを見ていると一生懸命作った甲斐があったというものだ。あっという間に食べきり歯磨きも終えると一緒に病棟に向かった。
「朝ごはん、ごちそうさま」
「お粗末様でした。あと、お昼のお弁当は休憩室の冷蔵庫に入れておいたので、それも良かったら食べてください。朝と同じランチクロスで包んでありますので」
「ありがとう。でも、ここまでしてもらってなんか悪い気がするな」
「気にしないでください。好きでやっていることですから。もし嫌なら言っていただければやめますので」
「ありがとう。でも、八田さんは大変じゃない?」
「朝早いのはは慣れています。高校生の時まで朝五時に起きて部活の朝練行ったりしていたので、早起きは得意なんです」
「僕は朝苦手だからなぁ。羨ましいよ」
中村さんはそう言って、エナジードリンクを飲みほした。
「でも、中村さん無理してませんか?」
「まぁ、してないことはないな」
「どうして頑張るのですか?」
「どうしてだろう。使命というか、責務というか、やらなきゃいけないって思うんだよね。でも、以前に比べたら手は抜いているほう。昔はもっとクレイジーに仕事をしてた。倍ぐらいの仕事量を倍のスピードでやってた。でも、働き方改革で超勤時間に制限がかかっちゃったから仕事量を減らさないといけなくなっちゃって、それからはだいぶ仕事を減らしたよ」
「中村さんって意外にも上の言うことに従うんですね」
「サラリーマンだからね」
中村さんはいじられキャラで放っておけない感じだけど、仕事はちゃんとしているし、熱意がある。素敵だなぁと思って、視線を向けたけれど、急に早足になってしまい背中しか見えなかった。
灰谷さんの様子を確認しに訪室したけれど、眠っていたしバイタルや検査値に大きな変化がなかったので、そのまま薬剤部に戻ることにした。
薬剤部での朝礼が終わり、病棟のスタッフステーションに到着すると、朝のカンファレンスが始まった。私と中村さんはスタッフステーションの空いている席に座り、夜勤看護師からの申し送りや連絡事項を聞く。
「灰谷さんがもしかしたらICUに転棟するかもしれません」
「えっ? どうして?」
つい声が出てしまい、スタッフの視線が私に向く。
「あっ、すいません」
夜勤のリーダー看護師だった松岡さんは私を一瞥したけれど、すぐに話を続けた。
今日の朝に灰谷さんのカルテを見たときには、バイタルは昨日と大きく変わっていなかった。それなのにどうしてICUに入らなければならないのだろうか。
「それと、今日は退院が五人、入院が午前三人、午後二人います。午後はリウマチ膠原病カンファレンスと忙しいですが、声をかけあって乗り切りましょう。それでは、今日も一日よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
スタッフステーションにいたスタッフが散り散りに出ていく。
「灰谷さんがどうしてICUに?」
中村さんに聞いたつもりだったけれど、松岡さんも聞こえていたらしくこちらを振り返ってくちを開いた。
「土曜日に家族に病状の説明をしたの。それでその話になったみたい。詳しくは午後のカンファレンスで話をすると思うから、その時に聞いてみたらいいんじゃない?」
「そうですね」
土曜日は学生実習は休日とされているが、本牧病院では土曜日の午後は半日出勤となっている。その日、主治医の幸田先生が出勤で家族に話をしたのだろう。詳しい話は松岡さんの言う通り、カンファレンスで聞けるはずだから、それを待っても遅くはない。
「じゃぁ、今日は退院が五人いるから、二人で協力して退院指導を終わらせちゃおうか。そのあと入院患者さんの面談も半分ずつで。それと、午後はリウマチ膠原病科のカンファレンスだから準備しておいてね」
退院指導や初回指導は一人でやらせてもらえるようになった。他の施設に実習に行っている大学の友人に話を聞くと珍しいことらしい。たいてい指導薬剤師が行なっていることを後ろでみているか、自分でやらせてもらったとしても、後ろに薬剤師がいることがほとんどらしい。
中村さんがしっかりとフォローしてくれているということもあるけれど、私も努力していないわけじゃない。実習費は約三十万円と、決して安くない。元は取ってやろうと思うし、成長だってしたいと思っている。
退院する患者さんに退院後に内服する薬について説明しながら薬を渡し、お薬手帳に入院中使用した主な薬や、アレルギー、副作用の有無について記載したシールを貼り付ける。五人分の退院指導はそれほど時間がかからず終えることができた。そのあとに本日入院される患者さんの情報を取り、持参薬を回収し病棟に上がってきたため面談に向かう。薬の使用状況を確認し、医師に報告する。
手際よく業務が進んだので、中村さんを見つけて報告すると、症例発表のための時間をいただけた。実習最終日には症例発表を行う予定になっていて(もちろん灰谷さんの症例を報告する予定なのだけど)これまでの経過をまとめることにした。
灰谷さんは強皮症を併発する急速進行性間質性肺炎。ステロイドと免疫抑制剤、シクロホスファミドの三剤併用療法を行うも、改善はみられない。そして、予後の指標となるMDA-5やフェリチンは依然として高い。
手立ては残されていないのだろうか。
もう一度、教科書やガイドライン、専門書を見返す。けれど、現時点の治療が最善としか思えない。でも、諦めたくない。もっと何か、できることはないだろうか。
もしかしたら、教科書やガイドラインにまだ載っていない論文があるかもしれない。
PCのブラウザを開き、論文検索サイトに「皮膚筋炎」「間質性肺炎」などのキーワードを打ち込んでいく。たくさんの論文が表示され、どれを見て良いのかさっぱりわからない。とりあえず、役に立ちそうなものを直感で拾い読みしていく。どれも現状の治療と大きく変わりはない。そろそろお昼休憩に入ろうと思って、最後の論文を開いた。
「あっ、これなら……」
急いで昼食を食べ、カンファレンスの準備にかかる。灰谷さん以外にもリウマチ科の患者さんの病態を理解しておく必要があるため、カルテを開いて患者さん毎に使用している薬や状態をメモしておく。全員を担当している訳ではないけれど、少しでも勉強のためにと思ってやっている。それが終わったら灰谷さんのための時間だ。論文のポイントとなるところにラインを引き、どんな言葉で提案しようかシュミレーションしておく。灰谷さんはきっと良くなるはずだ。
カンファレンス五分前にスタッフステーションで座っていると、横に中村さんがやってきた。
「早いね」
「灰谷さんのことで提案したいことがあるんです。シクロホスファミドを増量してみたらいいんじゃないかと思っていて」
「あっ、それなんだけどね……」
「カンファレンス始めまーす」
いつの間にかスタッフが全員揃っていて、松岡さんの掛け声でカンファレンスが始まってしまった。中村さんの言いかけていたことは最後まで聞けなかった。
「それでは、灰谷さんから」
松岡さんの声にリウマチ膠原病科についている研修医が反応し、プレゼンを開始した。
「灰谷さん、強皮症を併発した急速進行性間質性肺炎です。明日、シクロホスファミドの三回目の投与予定でしたが、本人と話をした結果、中止となりました」
「えっ、どうしてですか?」
驚いて席から立ち上がって声を出してしまった。スタッフの視線が集まる。
「もう治療しないってことですか?」
「そうだ」
中村さんが言った。
「まだ治療できます。シクロホスファミドを増量すれば良くなるかもしれません。現にSPO2は二回の投与で維持できているし」
「八田さん、いったん落ち着こうか。ちょっと座ってくれるかな」
中村さんはいつものゆったりとした口調で言った。あまりにも冷静に対処するので、よけいに腹立たしくなってくる。
「僕から後で説明しておきます。カンファレンスを続けましょう」
諭されるまま、椅子に座った。
「今後の方針はウロミテキサンを使ってBSC」
納得がいかない。どうして、シクロホスファミドを投与しないのだろう。投与しないということは治療を諦めた。つまり、このまま亡くなるのを待つだけ……。
「呼吸器についても本人と家族に話をしましたが、判断しかねています。挿管を希望するのであればICUに。希望しないのであればこの病棟で見ていく事になります」
研修医が早口で話を続ける。
本人と家族とどんな話をしたのだろう。
聞きたいことは山ほどあったけれど、先ほど立ち上がってしまったせいで、言いづらくなって聞くことができなかった。
カンファレンスが終わって、私は中村さんを睨みつける。
「どういうことですか? どうしてシクロホスファミドを投与しないんですか?」
「まぁまぁ、ちょっと落ち着いて」
落ち着いてと言われても、高ぶった気持ちを抑えることができない。心臓はバクバクしているし、顔が熱い。
「灰谷さんには会いに行ったかい?」
「はい、行きました。でも、今日は訪室時に眠っていたので話はできていません」
「何か気になったこととか、変わったことはなかった?」
「酸素が6Lから8Lに上がっていました」
「今日の血液ガスの結果は?」
「PaO2が60でした。現状維持です」
「酸素濃度が上がっているのに、血液中の酸素が上がっていない。つまり、どういうことかわかる?」
「肺が酸素を取り込めなくなってきています」
「それは、どうして?」
「間質性肺炎が進行しているからです。だからシクロホスファミドを投与しないとダメだと思うんです。それに投与量を上げたら良くなるかもしれません」
午前中に見つけた論文、高用量で投与行なって改善した報告を中村さんに突きつける。
「よく勉強しているじゃないか。でもね、もっと大切な事がある」
中村さんは腕を組んで天井を見上げた。
「じゃぁ、聞くけど、今日のヘモグロビンの値は?」
「ヘモグロビン……」
私は慌ててカルテを開く。ヘモグロビンは見ていなかった。
「8.9です」
時系列のボタンを押して推移を確認する。今週になって右肩下がりだ。急激に下がっていなかったから注意していなかった。でも、まだ慌てるような数値ではないはずだ。
「どうして下がっているのかわかる?」
「シクロホスファミドによる貧血だと思います」
「他には?」
「他には……。消化管出血? ステロイドを使っているし」
「ステロイド単剤では消化管出血は起こらない。NSAIDs(解熱鎮痛剤)を併用した時にリスクは上がる。しかし、今はNSAIDsは使用していない」
「じゃぁ……」
ハッとして顔を上げる。
「シクロホスファミドによる出血性膀胱炎」
「そうだ」
「いつからですか?」
「ヘモグロビンがじわじわ低下していから今日寝ているところを起こして聞いてみた。予想通り尿に血が混ざっていたそうだ。ちょうど今日のIC前。本人はたいしたことないだろうと黙っていたからカルテにも記録がなかった」
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「君には後で話そうと思っていた。しかし、他の業務で忙しかったから声をかけられなかった。それにステーションにもいなかったから」
症例をまとめたり論文を探すために薬剤部に降りてきてしまったから、声をかけてもらえなかったのか。
「でも、副作用の時に使える薬があります。えっと、その、あれ、あれ」
薬品名がとっさに出てこなかった。シクロホスファミドの副作用を軽減する薬。
「ウロミテキサン。カンファレンスでも言っていたようにウロミテキサンは使うよ」
カンファレンスで言っていた?
あの時、熱くなってしまったから覚えていない。無理やり記憶を呼び戻してみると、確かに研修医の先生が言っていたような気がする。
「それを使えば出血性膀胱炎が治療できるし、シクロホスファミドによる治療が続けられるはずです」
「ウロミテキサンで出血性膀胱炎は治療する。でも、シクロホスファミドを再開するかどうかは別の話だ」
「どうしてですか? シクロホスファミドを増量すれば良くなるのに」
「良くなる、というのはどういう意味だい?」
「間質性肺炎の進行を抑えます」
ふうと中村さんはため息をつく。
「はっきり言ったほうが良いかもしれない。灰谷さんはあと数週間だ」
「……」
絶句してしまった。中村さんの見込みはどうしてそんなに短いのだろう。
「シクロホスファミドを増量すれば少しは余命が伸びるかもしれない。でも、これまでの臨床経過を見る限り寛解へは持ち込めないだろう。できたとしても少しだけ余命が伸びるくらいだ」
「でも、余命が伸びれば家族と一緒に過ごせる時間ができるし」
「永遠に余命が伸びるわけじゃない。薬の副作用でより苦しい時間になるかもしれない」
「そんなのわかってます! でも……。でもっ」
「八田ちゃん、私ね、土曜日の話に同席していたんだけど」
リーダー看護師の松岡さんが見るに見かねたのか、仕事の手を止めて話に入ってきた。
「灰谷さんの目標は二週間後の息子の誕生日まで生きる事なの。私の見立てでも、二週間後に意識が保てているかどうかはわからないわ」
「そんなに短いのですか?」
「たぶんね。でも、これは看護師としての勘だけどね」
「じゃぁ、これからどうするんですか?」
「だから、BSCってカンファで言ってたじゃん。ほんっと何も聞いてなかったのね」
「BSC……」
「ベストサポートティブケア。積極的に治療をするのではなくて、苦痛をとってあげるための治療のこと」
「灰谷さんは、それを望んでいるんですか?」
松岡さんに食いついているっていうことはわかっている。でも、納得できない。
「それは僕から説明しようかな。主治医だし」
「幸田先生!」
声の方向を振り返ると、主治医であるリウマチ膠原病科の幸田先生がいた。
「ステーションでだいぶディスカッションが盛り上がってるって安井さんから聞いて、つい覗いてみたくなってきちゃったよ」
幸田先生は私をちらりと見た。恥ずかしくなり顔を伏せる。
「じゃぁ、病状から整理していこう」
ペンとメモ帳を取り出して、一言一句逃すものかと気合を入れ直す。
「灰谷さんは皮膚筋炎からの間質性肺炎。間質性肺炎だけならともかく、皮膚筋炎がベースにあると、予後が悪い。特に重要な検査値があるのだけど、八田さんそれは何だかわかる?」
「えっと、IL-6とか、CK、MDA-5とフェリチンなどです。いずれも高値です」
「そう。とくにフェリチンとMDA-5が予後不良の因子として知られている。二つが陽性の場合、死亡率はどれくらい?」
「二ヶ月で約20%という報告があります」
これくらいは勉強してある。
「おそらく灰谷さんはその20%に入っている」
「それは、どうしてそう思うのですか?」
「病状を見ればわかる。三剤併用療法に反応していない。だから、土曜日に家族を呼んで話をしたんだ」
「でも、シクロホスファミドを増量すれば効果も上がるかもしれません」
「論文をみせてごらん」
幸田先生は私の握っている論文を見て言った
「えっ、あつ、はい」
強く握ってぐしゃぐしゃになった論文を幸田先生に渡す。
「よく勉強しているじゃないか。たしかにこの報告ではシクロホスファミドを増量して投与している。そして効果も出ている」
「それなら……」
「しかし、この治療法はまだ一般的なものではないし、効果が出た症例も決して多くはない。著者も最後に『症例の蓄積と病態研究が必要である』と述べている」
「でも……」
「もちろん増量は頭にはあったよ。標準的な投与量で投与を二回行った。三度目には患者の希望があれば増量しようと思っていた。でも、出血性膀胱炎が起きてしまった。もちろん最初から高用量で投与していたら良かったのかもしれないけれど、それ以上に進行が早かったから高用量で投与していても、状態を大きく改善するほどの差はでていなかっただろう」
何も言葉が出てこなかった。
何をやっても無駄なのだろうか。
私には何もできないのだろうか。
「これでわかってもらえたみたいだね」
小さくうなずくしかなかった。
「先生はこの論文を知っていたんですね」
ぼそっと呟く。
「専門医をなめられちゃ困るね」
そう言って幸田先生は中村さんと顔をみあわせて笑った。中村さんも笑っているということは、中村さんもこの論文について知っていたんだ。
一生懸命探したこの論文も二人にとっては常識なのか。
「それでだ。今後の治療方針を共有しておこうと思う。灰谷さんの希望は息子さんの誕生日まで生きること。生きることはギリギリ出来ると思う。ただその時には大量の酸素投与が必要になってくる。挿管すれば二週間後まで生きることはおそらく出来る。その代わり喋れなくなる。一方、挿管しないでNHF(ネーザルハイフロー)という呼吸器で鼻から大量に酸素投与する方法もある。これは口をふさがないから喋ることはできる。そのかわり呼吸が弱くなった場合、二週間持たない可能性が出てくる」
「じゃぁ、どうしたら……」
「それを本人が迷っているところだ」
もはやシクロホスファミドを増量する、しないのレベルではなかったのだ。改めて自分の考えが浅はかだったことに気づかされる。
「とりあえず、血液ガスの結果を見てからNHFには切り替える予定だ。何か質問は?」
「いえ、特に」
「じゃぁ、レクチャーは終了。あとは中村君よろしく」
「はい」
「あっ、そうだ。中村君、今回の学生はずいぶんやる気があるじゃないか。良い事だよ」
幸田先生がステーションを出て行ったのを確認すると、緊張の糸が切れ、肩の力ががくっと抜けた。
「少し考えをまとめておくといいよ。僕はその間、今日の入院さんに会いに行ってくるから」
はい、と返事をする前に中村さんは行ってしまった。
ステーションでノートを広げて教えてもらった事についてまとめておく。そして私が出来ることは何だろうか。治療以外で医療者としてできることは。
「あんた、結構やるじゃない。なかなかあそこまで食らいつくのは看護師にもいないよ」
「松岡さん、ありがとうございます。でも、これからどうしたらいいかわからなくて。治療もできないし。そのまま亡くなるのを待つだけなんでしょうか」
「あはは。やっぱりあんた、まだまだね。灰谷さんが何をしたいか考えて。わからなければ、本人に聞いて。それを叶えるために自分たちは何ができるか考えるの。やるべきことは医学的なことだけじゃないはずよ」
「そうですよね。ちょっと灰谷さんのところに行ってきます」
私は灰谷さんの病室へ早足で向かった。病室のドアを開けると灰谷さんがベッドで眠っている。
「灰谷さん、こんにちは」
声をかけても眠ったまま反応はない。声が小さかったのかと思い、もう一度「こんにちは」と言ってもダメだったので、少しだけ肩を叩くと、ゆっくりとまぶたを開いた。「あぁ」と言ってこちらを見たけれど、すぐに目をつぶった。
ベッドサイドをみると水分補給の点滴と鎮静剤が投与されている。鎮静剤は息苦しさを軽減する目的で投与されている。もしかしたら、この鎮静剤が効きすぎているのかもしれない。流量をみるとミダゾラム 0.5ml/hr。最低流量に設定されている。
「灰谷さん、いまは息苦しさはありますか?」
肩を叩きながら声をかけると顔をななめに曲げた。
「息苦しさは10段階でどれくらいですか?」
ゆっくり指で3を作った。
以前の苦しさは5から6。ひどい時は8くらいだったけれど体が慣れてきたのだろうか。
ふとテーブルに目をやると、手紙が書きかけで止まっている。以前、言っていた息子さんへの手紙だ。おそらく眠気が強くて手を止めてしまったのだろう。
鎮静薬を他の薬に変えられないだろうか。もう少し眠気の弱いものへ。それが無理なら鎮静を切ってもらっても良いかもしれない。
幸田先生に言うべきか。でも、その前に中村さんに相談したほうが良いかもしれない。でも、今日は中村さんも忙しそうだしどうしたら良いだろう。前回のシクロホスファミドでの失敗でつい慎重になってしまう。とりあえず、ステーションに戻ってきてパソコンの前に座った。
「ねぇ、灰谷さんのところ行ってどうだった? 何かできる事は見つかった?」
松岡さんが心配してくれたのか、声をかけてくれた。
「一つできそうな事を見つけたんです。でも、提案していいのかどうか」
「なに弱気になっているのよ。言ってみなさい」
「灰谷さんの部屋に行ったら書きかけの手紙が置いてあったんです。でもミダゾラムの影響だと思うのですけど、だいぶ眠そうにしていて。他の鎮静薬に変えられないかなと思っているんです」
「ほかのって、例えば?」
「デクスメデトミジンとか……」
「ふーん。それなら眠くないわけ?」
「眠気は比較的弱いはずです。呼吸苦は慣れてきているから今はそれほどつらそうじゃないし、せめて手紙が書き終わるまで起きていられたら良いかもしれないと」
「なるほどね」
松岡さんがそう言うと、PHSを取り電話をかけた。
「もしもし、なかむー? 八田ちゃんがさ、灰谷さんのミダゾラムをデクスメデトミジンに変えたらどうかって。そう、過鎮静だから。うん、そうそう。じゃあ、なかむー的にはおっけーね。わかった、幸田先生に聞いてみる」
PHSの終話ボタンを押して、そのまま私に差し出してきた。
「なかむーはおっけーだって。幸田先生に言ってみたら?」
「あっ、はい」
PHSを受け取り幸田先生の電話番号を探す。幸田先生は中村さんと同じようなタイプでほとんど怒らないし、話は聞いてくれる。でも、失敗のトラウマがまだ残っているため、本当に変更して良いのかという気持ちもあって、ボタンを押せない。
「ビビってるの?」
「えっ?」
図星で言葉に詰まる。
「ダメだったら、ダメでいいじゃない。それに、失敗したら元に戻せばいいだけの事。何もしないよりマシ。どうするの、提案するの? しないの?」
「し、します」
松岡さんに押し切られるように「します」と言ってしまった。でも、この勢いを借りて電話をしてしまうしかない。思い切って幸田先生の番号を押した。
「実習生の八田です、灰谷さんのことで伺いたいのですが……。はい、それで、鎮静剤なのですが……」
何回も言葉に詰まりながら薬の変更について幸田先生に伝えた。電話を切った時には緊張で手に汗がびっしょりだった。
「どうだった?」
「変更するって」
「良かったじゃない」
えへへと頭をかいた。
「でも、本当に大事なのはこれからだからね」
「はい」
それから灰谷さんの病室には毎日伺った。中村さんからは灰谷さんのことを全て任せてもらっていた。息苦しさは相変わらずだけど、眠気は改善して、日中は起きていられるようになっていた。
「八田さん、息子の誕生日プレゼントは、どっちがいいかな」
タブレット端末には知育玩具とヒーロー変身ベルトが写っている。
「この二択なら変身ベルトが良いと思います」
「やっぱり、そうか」
「私の五才の従兄弟もクリスマスプレゼントにこれをもらってすごく喜んでいましたから」
「わかった。これにしよう。それと……」
引き出しを開けて、封筒を取り出した。宛先は「みんなへ」と、書かれている。
「それを預かっていてくれないか? 私が息を引き取ったら生徒へ渡してほしい」
「わ、私がですか?」
「君の活躍や、想いは、幸田先生からも、聞いている。最後まで、面倒をみて、くれないか?」
本当に私で良いのだろうかと思う反面、認めてもらえた気がしてちょっと嬉しかった。
「わ、私でよければ」
「ありがとう。じゃぁ、ついでに、これも頼むよ」
生徒への手紙に加えて、もう二つ封筒を渡された。
「これって……」
「妻と息子への手紙だ。引き出しに、入れておいて、読まれて、しまったら、困る、からね」
私は両手でそれを受け取り、時が来るまで大切にすることにした。
週明けの月曜日に朝早く病院に来てカルテを開く。週末で灰谷さんの状態が悪化していて、もう数日かもしれない。そう聞かされても私は訪室することをやめなかった。
息苦しさはまた悪化し、鎮静剤がミダゾラムに戻った。息苦しさは少し軽減した代わりに眠っている時間がまた増えてしまった。
眠っていはいるものの、眉間にしわを寄せ苦しそうな顔をみて、何もすることもできずスタッフステーションへ戻った。スタッフステーションでは中村さんと幸田先生がPCを睨みつけていた。
「中村さん、何を見ているんですか?」
声をかけると二人は同時に振り向いた。
「状態が急に悪化した原因は細菌性肺炎かもしれない。画像をみると間質性肺炎の肺炎像以外に新しく肺炎が起きている。ただ……」
カルテは灰谷さんの画面で、先日採った痰の培養結果が表示されている。
「緑膿菌ですか?」
「ただの緑膿菌じゃない。MDRP。多剤耐性緑膿菌だ。培養結果でも全ての抗菌薬が耐性になっている」
「じゃぁ、治療はできないってことですか?」
「あぁ。でも、絶対に治療できないというわけじゃない。複数の抗菌薬を併用すれば効果が出ることもある」
「それなら、治療を……」
「多剤耐性緑膿菌は、おそらく原因菌ではない。今回の肺炎は、鎮静剤が効き過ぎて、唾液を誤嚥したことによる誤嚥性肺炎だろう。でも、MDRPが原因だったとしても、灰谷さんは治療をするべきではない」
私は「どうしてですか?」と喉元まで出かかったけれど、ぐっと堪えた。たぶん、以前の私なら勢いに任せて聞いてしまっただろう。でも、今はわかる。灰谷さんに抗菌薬治療をしても無駄なことが。
「この状態で治療することは抗菌薬の副作用のデメリットもあるが、治療しても十分な改善が見込めない。治療するべきではないだろう。それに、本人がこれ以上の治療は望んでいない」
黙って頷くことしかできなかった。
想像していた日本の医療は、もっと進歩していて、治療できない病気なんてほとんどないものかと思っていたけれど、現実はそうではなかった。まだまだどうにもならないことや、わからないことが山ほどある。
翌日、灰谷さんは一気に病態が悪化し、息を引き取った。
私は心電図がフラットになる時に病室へ駆け込み、家族と一緒にその瞬間に立ち会った。
主治医の幸田先生が死亡確認をすると、一度部屋を退出した。
家族だけの時間を過ごしてもらいたかったのと、手紙を取りに戻ったためだ。
しばらくしてから、再度訪室すると奥さんも息子さんも泣き止んではいたけれど、目が真っ赤に腫れていた。
「あの、灰谷さんから預かっているものがあるんです」
奥様が少しだけ顔を上げてこちらを見た。
「奥様と息子さんへの手紙です」
奥様に手紙を渡すと、涙をこぼしながら受けとった。封筒を開けて、時折涙を拭いて、時折吹き出したりしながら、ゆっくりと読んでいった。
「ありがとうございます」
読み終わると奥様は深々と頭を下げた。
「あなた、まだ学生さんなんですよね」
「はい」
「きっと素敵な薬剤師さんになると思います」
「ありがとうございます」
今度は私が深々とお辞儀を返した。
「お疲れ様」
ステーションに戻って来ると中村さんが笑顔で言った。
「私ができることは全てやったと思います。だから悔いはありません」
そう口にして見たものの、やっぱり涙が溢れてきてしまう。
悔しい。やっぱりもっと何かできたのではないだろうか。
「葬儀屋さんがきたみたいだから、お見送りに行こうか」
「はい」
私と中村さんと幸田先生と松岡さんで灰谷さんが霊柩車に載せられ病院を出ていくのを頭を下げて見送った。
人間が死ぬということを生まれて初めて体験した。言葉では表現しづらい。でも、こういうことか、ということは少し理解できた気がする。
「皆さまお忙しい中、学生実習の報告会にお集まりいただきありがとうございます。本日は実習最終日となりますので症例報告会を始めたいと思います」
中村さんがこちらに視線を向けたので、私は小さくうなづいた。
症例報告会の準備は十分やってきたはず。でも、マイクを握る手は汗ばんでいるし、全身に緊張が走っているのが自分でもわかる。普段からあまり緊張はしないほうではあるけど、薬剤部スタッフの全員の視線がこちらに向くと少し怖く感じてしまった。
「それでは、八田さんお願いします」
「みなとみらい大学の八田梨花子です。よろしくお願いします。今回取り上げる症例ですが……」
症例はもちろん灰谷さんで、先週末から何度も話す練習はしてきた。いつもどおり、台本通りに話を進めていくと、練習通りに話せるようになり、緊張も少しずつ解けていく。
「というわけで、本日の症例報告を終了したいと思います。ご静聴ありがとうございました」
私が話し終わると、パラパラと拍手が起こった。その後、二、三質問に答えて症例報告会は終わった。
「お疲れ様」
中村さんがすぐに声をかけて来てくれた。
「緊張しちゃいました」
額の汗をぬぐいながら、前髪をなおす。
「いい発表だったよ。内容はきちんとまとまっていたし、今回の実習中にできたことと今後の課題がしっかりとスライドに入っていたのが良かった。薬剤師になっても課題は山積みだけど、一つ一つやっていこうね」
実習が終わったという達成感と中村さんの優しい声で、目に涙が溢れてくる。
「やだ、泣きそう」
涙はこぼれるまえにハンカチで拭って、上を見上げる。
涙が落ち着いて、中村さんを見てみると、しょうがないなぁというような表情をしていた。
中村さんは言葉数は多くないけれど、こういう時に黙って寄り添ってくれるところが、優しいと思う。
ふと、あたりを見回してみると片付けは終わっていて、会議室には私と中村さんだけになっていた。窓からは夕日が差し込んできて、オレンジ色に会議室が染まっていた。
症例発表が終わったら、中村さんに伝えようと思っていたことがある。それは私のいまの気持ちだ。二人きりの今なら伝えられるかもしれない。
「私、中村さんの事……」
初めて会った時のことや、お弁当を食べて笑顔になってくれたこと、私が失敗したときに寄り添ってくれたこと。様々な思い出がよみがえる。
中村さんは私の言葉に応えるように、じっと見つめてくる。
「尊敬しています」
好きです、という言葉が喉元まででかかったけれど、何かが引っかかって言葉にならなかった。代わりに尊敬しています、という言葉になってしまった。
本当は「好き」と伝えようとしていたけれど、やっぱり好きとは違うような気がしたし、実習生である自分の立場では言ってはいけない気もして言えなかった。
「ありがとう。これから薬剤師になるために、卒業試験や国家試験の勉強が大変だと思うけど、八田さんなら乗り越えられると思う。それと、薬剤師になったら、立場は同じ。一緒に頑張っていこうね」
薬剤師になったら立場は同じ、という言葉を聞いて、告白するならその時でも良いかと思った。それに自分の気持ちが本当に『好き』で正しいのかはっきりさせる時間も欲しかった。
「はい」
私が元気よく答えると、中村さんは右手を差し出して来たので、私も右手を出し強く握手をした。
「いたい、いたい」
「あっ、ごめんなさい」
中村さんの手を離したくなくて、強く握りすぎてしまい、中村さんが痛がってしまった。普通は逆なのに、こういう女子っぽさがやっぱり可愛い。
やっぱり、中村さんのことが好きって思った。
こうして、私の病院実習は終わった。
棺の窓を開けて覗き込むと青白い中村さんの顔がある。以前も顔色は白くて血色が良いとは言えなかったけれど、まったく血色のない肌の白さは命の火が消えてしまったことがわかる。
「どうして死んでしまったの?」
こぼれる涙を止めることができない。
悲しい気持ちがあふれてきたあと、悔しさの波が押し寄せてくる。
死因は心臓発作だと薬局長が言っていた。でも、それは本当の死因じゃない。
中村さんの年齢で既往歴に心疾患がなければ、心臓発作を起こすにはそれなりの理由が必要だ。私が連絡したときも忙しそうにしていたし、この論文や書籍で散らかった部屋を見ればわかる。中村さんは無理に無理を重ねていた。
中村さんは過労死だ。
でも、どうして言ってくれなかったの?
「わたしなら、中村さんを救えたのに」
四話 薬剤師 中村宏
箱根駅伝の走者は、握りしめていた襷を渡すとその場に倒れこんだ。
立ち上がる力は残っておらず、チームメイトに抱きかかえられ、画面から消えた。
その様子を学会の資料を作りながら見ていた。
俺も襷を渡したら走るのをやめても良いだろうか?
いや、襷を渡せるチームメイトなんていないか。
今年の箱根駅伝は珍しく学生連合が奮闘していて、一区は五位で襷を渡していた。しかし、二区の選手が五人に抜かれ、三区ではさらに二人に抜かれた。
予選会で行われるハーフマラソンの個人タイムでは他の学生に引けを取らないはずだ。しかし、駅伝となると往路だけで十分以上の差ができてしまうことから、駅伝はチーム競技であることがわかる。
そもそも学生連合というのは予選敗退した大学の選抜チームだ。しかも、個人の記録は参考記録となり公式なものにはならず、チームとしても順位はつかない。そのため、自大学で出場しているチームとは結束力もモチベーションも違う。それなのにどうして死ぬ思いで走るのだろうか、という意見もあるようだが、たとえ記録がつかなくとも全力で走ろうとするランナーとしてのプライドはわかる気がする。
そして、奮闘していた学生連合が五区の山登りに差し掛かり、明らかにスピードが落ち次々と追い抜かれていく。そして、ついには「走り」は「歩き」にかわり、その数歩後に前のめりに倒れた。すぐに救護車から医療スタッフが駆け出し、ランナーは搬送された。
おそらく低体温症だろう。箱根では雪がぱらついている。こんなコンディションで日陰の山を走れるというのは尋常ではない。
仕事は走ることに似ている。
毎日病院に行って、入院している患者の薬物治療に介入し、少しだけ良い薬に変える。
入院患者は約五十人いるので、全員に使用されている薬を調剤し、内容をきちんと確認するだけでも定時を過ぎてしまう。
薬剤師が薬物治療に介入することで患者はより良くなり、医療経済にも貢献できる。そんな論文は多数報告されていて、薬剤師の業務に対する算定も増えてきている。
薬剤師は評価されてきているが、それでも自問自答することはたくさんある。
毎日毎日こんな小さい事ばかりをやっていて意味があるのだろうか。
薬剤師なんていなくていいのではないだろうか。
自分一人が頑張っても意味がないのではないだろうか。
自分が生きている価値なんてないのではないだろうか。
最近は考えすぎてしまうことも少なくない。
仕事を辞めてしまいたいという気持ちに加え、人生からリタイアしてしまいたいという気持ちが日々強くなってきている。
吸入薬を吸ってサチュレーションモニターを人差し指に挟みSPO2を測ると、96%と表示された。健常者は100%なのだが、ここ数ヶ月その数字をみたことがない。喘息が悪化してきている。
このまま全て投げ出して死んでしまおうか。
守るべきものはないし、もう十分頑張っただろう。
作成途中の学会資料を保存し、ノートパソコンを閉じてベッドに体を投げ出すと、スマホが鳴った。
「ご無沙汰しております。実習でお世話になった八田です。今週末の学会は参加されますか?」
Facebookのメッセンジャーアプリで八田梨花子からメッセージだ。
八田は二年前、自分が勤める本牧病院に実習に来た女の子だ。
実習が終わって、国家試験合格後に病院に挨拶に来てくれた。その時からFacebookで繋がっている。
お互い仕事は忙しく、タイムラインだけは確認していたが、直接のやりとりはしていなかったので、メッセージが来たことに少し驚いた。
「学会は参加するよ。ポスターを出す予定」
出す予定だが、先ほど作成途中でPCを閉じたところだ。このままいくと出せないかもしれない、なんて思って一人で苦笑してしまった。
返事を送ると、すぐにメッセージが来た。
「私もポスター出します! 良かったら見に来てください」
一年目なのにポスター発表を行うなんて珍しい。そういえば、実習の時も人一倍熱意を持って取り組んでいたことを思い出す。
「楽しみにしているよ」
と返すと、八田からはウサギがお辞儀をしているスタンプが送られてきた。
八田の熱量が少しだけ自分に届いたのか、ベッドから起き上がりノートパソコンを開いて資料作成を再開した。
箱根駅伝をみると、学生連合が一つだけ順位を上げていた。
資料の作成を再開して少しすると、カリカリと何かをひっかく音がする。
音がする方向であるすりガラスのサッシを見ると、黒い何かが動いている。サッシを開けると、勢いよく猫が部屋に飛び入って来た。
半年前くらいから遊びに来るいつもの野良猫だ。
ある雪の日にベランダにいた猫を見つけ、サッシを開けてみると家に入って来て、適当に食べ物をあげると喜んで帰っていった。
それから週に数回は家にくるようになり、適当なものをあげるよりはきちんとした食べ物を与えようと、コンビニで猫用のフードを用意するようになった。
台所の引き出しから猫用のドライフードを小皿に出し、黒猫に差し出すとガリガリと勢いよく食べる。一生懸命食べている姿は愛おしい。
「猫はアレルギーになるから飼えないわよ」
母親に言われたことがある。当時、猫アレルギーの検査はしていなかったはずだ。でも、それを信じていた。もともとアレルギー体質だから、猫アレルギーがあってもおかしくない。実際、喘息が悪化しているのも、猫に出会ってからの気がする。
一度、吸入薬を吸ってから、猫を撫でる。
こんなに可愛いのだから、たとえアレルギーが出てもいいか。
守るべき家族もいない。俺に寄り添ってくれるのはこの猫ぐらいなものだ。
猫はフードを食べ終えると、にゃーとお礼を言ってから家を出ていった。
ポスター発表の示説が終わり、聴講者の質疑応答に答える。その聴講者の一番後ろに八田の姿を見つけた。八田もこちらの視線に気づいたのか、右手を振った。
「お久しぶりです」
聴講者すり抜けるようにして近づいて来た八田は、パンツスーツ姿で学生時代よりも少し凛々しく感じられる。
「中村さん、示説お疲れ様です。勉強になりました。やっぱり地域的に耐性菌が増えてきているのは問題ですよね」
今回のポスター発表は「地域における多剤耐性緑膿菌の報告数と当院における緑膿菌にスペクトルを持つ抗菌薬の使用状況」というものだ。
「耐性菌が増えている原因は緑膿菌に効く抗菌薬を乱用しているからなんだけど、やはり当院においても使用数は増える一方でね。今年、院内でアクションを起こしてやっと横ばいになったくらい。八田さんのところはどう?」
八田はみなとみらい大学病院に勤めていて、当院と同じ横浜市にあたる。
「うーん、うちはどうなのでしょう。感染のことは感染担当が全てやっているので把握していません。すみません」
聞いてはみたけれど、想像通りの答えだった。
大学病院は組織が大きすぎて、専門外のことは情報が回ってこない。ましてや一年目の薬剤師には知る由もないだろう。
「八田さんの示説は次だっけ?」
「はい。入り口付近の所なので、ぜひ来てください」
「もちろん、行くよ」
八田はいくつか質問をした後「そろそろ行きますね」と言って、自分のポスター展示に向かっていった。
あたりを簡単に片付けた後、八田のポスター展示へ向かうと、すでに人だかりができていた。
ピシッと指し棒を使用して示説を行っている姿は立派で、質疑応答にも理路整然と答える。発表が終わって、散り散りになるまでしばらく時間がかかった。
「素晴らしい示説だったよ」
「ありがとうございます。実習で中村さんに教えてもらった事が今も活きているのだと思います」
ポスターに近づき細かい点もマジマジと見てみると、デザインといい内容といい良くできている。
「一年目の発表とは思えないね」
「そう言ってもらえて嬉しいです」
ポスターのテーマは「web勉強会の利点と欠点」という内容だった。
昨年、新型感染症が流行し、集合型の勉強会が密集にあたるということで、行えなくなり、こういったwebでの勉強会は増えてきている。
「このWeb勉強会っていうのは、誰でも見られるの?」
「はい、SNSでも勉強会の動画を流しているので是非みてください。それと……。もしよかったらなのですが、中村さんも出てくれませんか?」
「えっ、俺が?」
「是非!」
目をキラキラさせてじっと見つめられる。きっと本気なのだろう。
「でも、どんな内容で話をしたら良いのかわからないよ」
「今後、とりあげたいテーマがあって『薬剤師の師弟関係について』だったり、『薬剤師になったきっかけ』や、『病院薬剤師になれ! なるな!』みたいなテーマの話をやりたいんです」
「へー、だいぶフランクな内容だね」
「こういう内容ってあまり学会では話が出来なかったりするじゃないですか。だからそういうのをWebで取り上げたいと思っているんです」
「面白い内容だね」
ポスターには過去取り上げたテーマとして「薬剤師の今後の展望」や「病院薬剤師と薬局薬剤師の役割」「薬剤師国家試験について薬剤師が語る」が記載されている。現場の薬剤師が現場を語るというのがコンセプトのようだ。
「あっ、立ち話もなんですから、中村さんこの後予定ありますか? よかったらご飯でも食べながら話をしませんか?」
「いいよ」
自分の発表も終わり、この後の予定はない。
「じゃぁ、片付けしたら連絡しますね。えっと、連絡先教えてください」
形式的に名刺交換してみたものの、結局スマホを出し電話番号とLINEのIDを交換した。
「じゃあ、俺もポスターを片付けたら連絡する」
「はい」
久しぶりに異性と二人きりで食事をすることに少しだけ緊張しながら、自分のポスターを剥がしたあと、他のポスター発表を見て時間を潰した。
十五分もすると八田から電話がかかってきて、学会会場であるパシフィコ横浜の入口で落ち合った。
八田に気付いて右手を上げると満面の笑顔で、小走りで駆け寄ってきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
「じゃあ、さっそくですけどお店を予約しておいたので行きましょう」
「準備がいいね」
八田は「えへっ」と笑顔を見せた。
パシフィコ横浜から歩いてすぐのクイーンズスクエアに向かい、エレベーターで三階に上がってすぐのカフェレストランに入るとすぐに店員に奥まった二人がけのソファー席に案内された。うすいカーテンで仕切られていて半個室の席だ。おそらくこの席を指定して予約したのだろう。あいかわらず、準備が良い。
ポスターケースやカバンなど学会の荷物を床におろしソファーに腰をかける。柔らかく上質なソファーが体を包み込む。ふぅと一息ついたものの、ゆっくり休む間も無く店員がやってきた。
「本日はご来店ありがとうございます。お飲み物は何にいたしますか?」
店員がドリンクメニューを広げて言った。
「シャンパンでいいですか?」
「えっ、あぁ。うん」
普段は酒を飲まないけれど、学会発表のご褒美に少しくらい飲んでも良いだろう。
「食事はカジュアルのコースでいいですか?」
八田はこちらを見て言った。何もわからないので任せておいた方が無難だろうと思い頷く。
「かしこまりました」
八田がオーダーすると、店員が軽くおじぎをして席を離れた。
「いいところを知っているね」
「病院の近くだし、同僚とよく来るので」
八田のみなとみらい病院は名前通り、みなとみらいにある。こんなおしゃれなお店に同僚とよく来るなんて、ドラマのような生活だなぁと思ってしまう。
「こちらが本日のシャンパンになります」
店員がシャンパンのラベルを見せてからグラスに注ぐ。黄金色に輝いた液体の底からふつふつと泡が浮かんでくる。
「それじゃあ、乾杯しましょう。学会お疲れ様でした。乾杯」
「乾杯」
グラスを掲げて、シャンパンを口に含むと白ぶどうの香りが口いっぱいに広がった。久しぶりに飲むシャンパンは、疲れた全身に広がり緊張を解いてくれる気がした。
「さっそく、Web勉強会の話なのですが」
八田はカバンからタブレット端末を取り出した。
「勉強会はYou tubeにもあげていて、見てもらった方が早いと思うので、見てもらってもいいですか?」
動画を見てみると、とても素人とは思えないほどよく出来たものだった。
「みたいな感じです。どうですか? 引き受けてもらえそうですか?」
「いいよ」
勉強会のターゲットは若手薬剤師だけれど、面白そうな内容でそれほど手間もかからなそうだと思い、引き受けることにした。
「やったぁ! じゃぁ、日程は……」
日程は一月の二週目の土曜日の夜。一週間前にスライドを送ることになった。
「今回のテーマが『私と私の先輩』という内容です。このテーマは薬剤師の予備校とコラボしていて、動画は私たちが配信して内容は文章に起こされて雑誌に掲載される予定です。雑誌は以前、中村さんがコラムを連載していたものです」
「あぁ、あれか」
薬剤師の予備校がフリーペーパーを出していて、その中で薬剤師国家試験について三年間、現場の薬剤師としてコメントをつけていた。
「今日中に、中村さんの背景についてある程度お話を伺っておこうかと思うんです。いいですか?」
「いいよ」
八田のペースで話はどんどん進んでいく。前のめりで楽しそうに話す姿は昔の自分の姿を重ねてしまう。それと同時に、今の自分には前のめりになれるほどの元気が無くなってしまったことに気づき、年取ったなぁと痛感する。
「じゃぁ、いきますね」
八田はプレゼンアプリを閉じてメモアプリを起動させた。すでに質問内容は決まっているらしい。
「では、最初の質問です。中村さんはどうして薬剤師になったのですか?」
背景というのはそういうことか、と理解しつつも、ずいぶん簡単な質問に少しだけ驚いた。
「小学生の頃、小児喘息で何回か入院して、病院にはお世話になっていたから、その頃から医療には興味があった。もともとは野口英世に憧れて、薬の研究をしたかったけど、研究に進むには大学院に進学しなければいけなかったし、お金もなかったから薬剤師として働くことにした」
「もし、お金があったら進学していましたか?」
「お金があったら大学院に進学していたかもしれないな。でも、母子家庭だったからありえない話だけどね。奨学金は借りていたけど、大学まで行かせてくれたことは感謝しかないよ」
中学生の時に親は離婚し、俺は母方についた。母は俺のために一生懸命働いて養ってくれた。薬学部へ進学させるための学費を稼ぐことがどれだけ大変だったかは働いてやっとわかったことだ。
「親御さんは今の中村さんに何と言っていますか?」
「何と言っているかなぁ。もう亡くなってしまったからわからないよ」
「あっ、ごめんなさい」
八田は口元を押さえて俯いた。
「いいよ」
なんて言いつつも、母の姿が脳裏をよぎる。もし、無理して学費を稼ごうとしなければ、母は死なずに済んだのでは無いだろうか。
過ぎたことに「たられば」を並べても仕方がないが、今でも自分の責任に感じてしまう。
「では、次の質問です。中村さんが大学を卒業してからどう過ごしていましたか?」
八田は気持ちを切り替えたのか、次の質問をした。
「大学卒業してからは、奨学金を返済するためドラッグストアに勤めたんだ。給料も良かったし、学生並の生活をしていたから六百万円の奨学金は五年で返済した。それから好きなことをやろうと思って病院に勤めた」
「ってことは、私が実習に伺った時は……」
「病院薬剤師八年目のときだね」
真剣に頷きながらメモをとる八田はさながら取材をする記者のようだ。
「それでは、最後の質問です。これから中村さんがやりたいことは何ですか?」
「抗菌薬の適正使用を推進して、耐性菌を減らすこと」
「どうしてそれをしようと思ったのですか?」
「母の死因が肺炎だったのだけれど、原因菌が多剤耐性緑膿菌だった」
「あっ……」
八田がメモする手を止めた。またしても聞いてはいけないことを聞いてしまった、というような表情をしている。
「もう過去のことだし、気にしないで。それより、仕事の話はここまでにしてそろそろ食べない?」
話に夢中になっていたので次々と料理が運ばれて、テーブルの上は料理でいっぱいだった。
「あっ、はい」
八田は慌ててタブレットをカバンにしまった。「いただきます」と手を合わせて、ぶりのカルパッチョをフォークで口に運んだ。
「うまい」
ふと漏れ出してしまった声に八田が笑顔で答える。
久しぶりにちゃんとした料理を食べたせいか、そうでなくても味は美味しかった。
どんどん食と酒が進んでいく。生ハムのサラダも牛フィレのグリルも、雲丹のカルボナーラも全て美味しかった。その美味しさのため、ついつい食べ急いでしまい、八田より早く食べ終わってしまった。フォークとナイフを置き、シャンパンを含みながら八田を見つめる。
顔立ちは以前から整っていると思っていた。学生実習に来ていた頃はまだ学生の幼さが残っていたけれど、社会人になった今の姿は凛としていてランウェイを歩くモデルのようにも見える。
「顔に何かついてます?」
「えっ、いや」
気がついたら八田に見とれてしまっていた。シャンパンで酔っ払ってしまったからかもしれない。
一度視線を外しても、ついついその美しさに見入ってしまう。フォークとナイフで綺麗に食べる仕草が妙にセクシーに感じてしまう。
また視線を八田に気づかれたのか「ん?」と上目遣いで言った気がしたので、慌てて外を見ると観覧車が目についた。
「か、観覧車が見えるね」
下心を悟られないように慌てて話を変える。観覧車はLEDの光で虹色に輝いている。
「食べ終わったら、乗りませんか?」
「えっ? いや、そういう意味で言ったわけじゃないんだけど」
「もしかして高いところ苦手ですか?」
「苦手じゃないけど」
「じゃあ、乗りましょう」
えへへ、といたずらな笑みを浮かべる。
「八田さんってこんなキャラだったの?」
「まぁ、こんな感じです。実習中は粗相がないように気をつけていたのですけど、もうそういう仲じゃないじゃないですか。中村さんも最後に言っていたように、薬剤師になったら立場は一緒じゃないですか?」
たしかに実習最終日にそんな事を言ったような気がするが、厳密にはそういう意味で言ったつもりはない。
「じゃあ、観覧車は乗るということで」
と言って、八田はグラスに残ったシャンパンを一気に飲み干し、お代わりを注文した。少し頰が赤くなっているが、飲み過ぎてはいないだろうか。
「美味しかった」
最後のデザートも食べきり、二人で顔を見合わせると自然に笑顔がこぼれた。
会計を済ませ、レストランを出ると観覧車へ向かった。
「あっ、まだ時間が早いから観覧車だけじゃなくて、他のアトラクションも乗りませんか?」
腕時計を見るとまだ十九時。レストランに入ったのが十七時と早かったので、まだまだ遊ぶ時間はある。
「いいよ」
「やったー!」
八田はチケット売り場に駆けて行き、チケットを買ってくると一枚を俺に手渡した。
「五千円分チケット!?」
五千円分のチケットは、ほぼフリーパスと同義だ。
「せっかくだから、思いっきり遊びたいじゃないですか」
「ま、まぁ……」
遊びたい気持ちはわかる。しかし、今の自分に全てのアトラクションを制覇するだけの体力があるだろうかと自問自答してみたけれど、ここで「やっぱり観覧車だけにしよう」というのもカッコ悪い気がした。
「あっ、これ私の奢りです。というか、次の勉強会で話をしてもらうためのギャラって事にしてもらってもいいですか?」
うむ、と言わせる間も無く踵を返し、一番近くのアトラクションへ駆けて行き、振り返って「はやくー」と言って俺に手招きをした。
大きなブランコのような乗り物に乗って空をくるくる回るものから、子供向けのジェットコースター、高いレールの上を自転車で漕いでまわるもの、寒いだけの部屋、メリーゴーランド、VRシアター。とにかく片っ端から遊んでいく。
「楽しいですね」
「あぁ」
体に溜まっていた疲れよりも、楽しさが上回り、意外にも遊園地を楽しめていた。
こんなに遊ぶのは何年ぶりだろうか。
前に彼女がいたのも五年前になる。それ以来こんなデートみたいなことはしたことがなかった。
仕事ばかりで人生に息詰まっていた日々に少しだけ光が差し込む。
「ありがとう」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
聞こえない声で言ったつもりだったのに、聞こえてしまっていた。もう少しだけ生きようと思った。
結局、アトラクションは全て制覇し、残るは観覧車だけになった。
観覧車に乗るべく列の最後に並ぶ。周りはカップルばかり。俺たちも周りから見たら付き合っているように見えるのだろう。順番を待つ間、少し無言の時間もあったが、はしゃいでいた時間の余韻を楽しむ時間のようで嫌ではなかった。
自分たちの番になり観覧車に乗り込む。外周側に座ると八田は向かい合わせではなく、隣に座ってきた。狭い座席では足が触れて八田の体温を感じる。
「楽しかったぁ」
八田は俺の顔をみつめて笑顔で言った。笑顔が可愛過ぎて、胸がときめく。それを悟られまいと景色に目を移した。
「夜景が綺麗だな」
少しずつ観覧車は高度を上げていく。ランドマークタワーや学会会場のパシフィコ横浜を見渡せる。その逆側にはベイブリッジが光っていて、横浜の夜景が一望できた。
「私、実習中から中村さんに憧れていました。今日の学会で中村さんと再会できるのをずっと楽しみにしていたんです。でも、ちゃんと認めて欲しかったから、学会で発表はしなきゃなって思って、入職時から発表できるテーマを考えていたんです。私にもすぐにできるテーマで結果も出るようなものを選びました」
「そっか……。学会発表はよくできていたと思うよ」
「ありがとうございます」
観覧車が頂上に到着すると、前のゴンドラでは、カップルがキスをしていた。俺は気まずくなり目を逸らす。
「このあと中村さんの家に行きたい」
「えっ!?」
驚いて八田を見ると、恥ずかしそうに下を向いている。
「でも、俺の家汚いよ」
なんて言いながらも、期待は勝手に膨らんでいくと同時に、この展開に混乱してしまう。
「多少汚くても気にしません」
俺の右手の上に八田の手が添えられる。八田の柔らかくて暖かい手を少しだけ握ってみると、握り返してきた。
「じゃぁ、家に来ていいよ」
そう言うと、八田は頭を俺の肩に預けた。
観覧車から降りても手は繋いだまま少しだけ歩いた。
夜の遊園地はキラキラしていて、あれだけ遊んだのにまだ名残惜しい気持ちになった。
少し歩いてタクシーを拾うと、家の方向を告げて乗り込む。家の近くでおろしてもらい、コンビニに寄った。小腹が空いてしまったのでつまみと飲み物を買う。八田も缶チューハイや何か雑貨を買っていた。
「オッケーです。おまたせしました」
コンビニを出ると八田は買った缶チューハイを早速開けて口にする。家に着くと俺もビールを開けた。すこし酔いが覚めてしまっていたので、もう一度酔いたい気分だった。
「へぇー、ここが中村さんの家なんだ。おじゃましまーす」
八田はパンプスを脱ぐと、キョロキョロとしながら奥へ進む。
「適当に座って」
ワンルームの部屋で座ることができる場所はパソコンのあるデスクかベッドのどちらかだ。
八田はベッドに腰をかけた。俺はパソコンの方に座る。
「たくさん本がありますね」
壁際に並ぶ本棚を見て、気になった本を取り出してはしまう。
「この本、借りてもいいですか?」
そう言って一冊の本を棚から取り出した。
「裸でも生きる」
「その人、俺と同い年なんだ。マザーハウスってカバン屋さんの社長」
壁にかけてあるカバンを指差して言った。
「素敵なカバンですね」
すでに三年使用しているカバンは使うほどに牛皮の味が出てきている。
「あっ、本にサインも入ってる」
「お店に社長が来たときがあってね、その時にサインをしてもらったんだ」
「この人みなとみらい大学総合政策学部なんだ。学部は違いますけど私の先輩です! この本借りていきます。あとは、これと、これと、これ。すごい、中村さんの本棚って名著揃いですね」
八田はウキウキした様子で本棚を見ている。本好きとしては好きな本に共感してもらえるのは嬉しい限りだ。
「頑張っている人の話を読むのが好きで、こういう本を読むと少しだけやる気が出てくるし、自分も頑張らなきゃって思える」
「そっかー、そうですよね。なんとなくわかります」
八田が本を手にしてベッドに座る。缶チューハイ片手に黙々と読み進める姿をじっと見ていた。こんなに明るくて魅力的な女性だったのだろうか。それとも酔っ払っているからなのだろうか。すぐそこにいる八田に触れてしまいたくなる。
「この本に載っているカバンって中村さんのものと同じじゃないですか?」
八田は手招きをしたので、俺は隣に座り本を覗き込む。
「やっぱりキラキラしている人って、たくさん努力はしているし、辛い思いもたくさんしていますよね。たぶん中村さんも……」
今まで、たくさんの努力をした。山ほど辛い思いもしてきた。その人生をつい先日まで、もう辞めてしまおうと思っていた。
「いままで、いろいろあったな」
右を見ると八田の顔が近くにあって、息がかかる距離だ。ふんわりと缶チューハイの桃の香りが漂ってくる。スーツのワイシャツもいつのまにかボタンを一つ開けていて胸元が少しだけ見えた。それもあり、心拍数がどんどん上がってくる。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
その場を逃げ出すようにトイレへ駆け込む。別にトイレに行きたかったわけじゃない。ただ、 久しぶりのこういう雰囲気に戸惑っていた。
どうしたらいい。八田を抱いていいのか?
ここには男と女が二人きり。それに誘ったのは俺じゃない。向こうから誘っておいて断られることはないだろう。八田はもう学生じゃない。いまなら何の問題もないはずだ。
しかし、久しぶりにセックスができるだろうか。
俺はズボンを脱いで自分のそれを見る。こんな状況にも関わらず大きくなっていない。日中服用した鼻炎薬に血管収縮剤が配合されていたことを思い出した。それは血管の拡張で大きくなるわけだが、鼻炎薬により血管が収縮されて大きくなりにくくなってしまっていた。
やっぱり抱けない、と思ったけれど、薬箱にバイアグラがあるのを思い出した。
あれを飲めばなんとかなるかもしれない。ただ、あれはいつもらったのかも記憶が曖昧だ。使用期限が切れている可能性だってある。飲むにしても八田の目を盗むか、ビタミン剤だとか適当に嘘をついて飲むしかない。八田だって薬剤師だ。薬の形を見られたらそれだけでバイアグラだとわかってしまうかもしれない。
「はぁ……。やっぱり無理か」
しょんぼりとした気持ちでトイレを出て部屋に向かうと、八田はすでにベッドで寝息を立てていた。
酒の飲み過ぎだ。足元に転がる缶チューハイの空き缶を見て思った。
結局、抱けないのならトイレで悩んでいたことがバカらしく思えて少し笑ってしまった。
八田にそっと毛布をかけてやり、自分はベッドの横にタオルを数枚敷いて眠ることにした。
翌朝、「あっ!」という八田の声で目が覚めた。
「どうした?」
「寝ちゃった」
一瞬、虫でも出たのかと思ったけれど、そんなことかと胸をなでおろした。
「いびきをかいて気持ちよさそうに寝てたぞ」
「やだっ、わたしいびきかいてました?」
「嘘だよ」
「もー」
そう言いながら八田は自分の身なりを確認する。
「言っておくが、何もしてないからな」
「えっ、はい。でも、どうして?」
「はぁ?」
どうしてというのは、どうして抱かれなかった、という事だろうか。
「酒に呑まれちゃう女は魅力がないってことかな」
なんてカッコつけて見たものの『やれるものならやりたかった』というのが本音だ。ただ、眠っている女を襲うほどゲスでもないし、そもそも勃たなかったからできなかったのだ。
「はぁ……」
八田は大きくため息をついた。その直後「うっ」と口元を押さえる。
「お手洗い借ります」
トイレに駆け込むと、盛大に嘔吐している音が聞こえてきた。
八田は昨日、酒の力を借りて無理をしていたのかもしれない。ドアを開けて背中をさすると振り返り「すみません」と涙目で言った。
八田と再開してから何回か一緒に食事をしたけれど、関係は平行線のままだった。親密な関係になりたいと思っていたものの、きっかけを失ってしまっていた。
そんなある日の昼休み、スマホを見ると八田からのメッセージが来ていた。
「資料の進捗はいかがですか?」
そういえば、勉強会の日程が来週に近づいていた。資料は半分くらい作ってはいたものの、忙しくなってしまい、まだ完成はしていない。「鋭意作成中」と返事を送った。
返事を待つ間に、スマホで医療系のニュースをチェックしていると「中国で爆発事故」「医薬品工場で火災」の見出しが目に飛び込んで来た。報道した記事の写真ではメラメラと燃える大規模な工場の写真が載っている。
医薬品の原薬はほとんどが中国だ。原薬が手に入らないとなると、医薬品が欠品する可能性がある。何の医薬品工場かが重要だ。
ニュースサイトの情報元や各種SNSをみて何か情報はないかと検索する。すると、抗菌薬の原薬を作っている工場である事がわかった。
これはまずいと思い、食べかけのメロンパンを慌ててビニール袋に戻し、ゼリー飲料をロッカーから取り出し、十秒で吸う。ゴミをゴミ箱に放り投げると、すぐに薬剤部に向かい、抗菌薬の在庫を確認する。
あの原薬を使用している抗菌薬は主にAとB。細かいものは他にもあるけれど、めったに使わないので欠品しても大きな問題はないだろう
抗菌薬Aの在庫は2000バイアル。ひと月約1000バイアルを使用するので、このまま使えば二ヶ月で在庫がなくなる。抗菌薬Aの代替薬はカルバペネム系を使用されるだろう。耐性菌や下痢のリスクを考慮するとカルバペネム系を乱用するべきではないが、使われることは間違いない。代替薬の在庫は2000バイアル。例年通りの使用料では二ヶ月分。さらに代替として使用されれば、一ヶ月でなくなってしまうかもしれない。
薬剤部の電話を取り、医薬品卸に電話をかける。
医薬品Aの在庫を一ヶ月分1000バイアル確保。医薬品Bは2000バイアルを継続して納品してもらう約束をした。他に、代替薬になり得る医薬品CとDについても追加の発注と定期納品の約束を取り付けた。しかし、約束といっても口約束だ。医薬品卸だってメーカーから薬が制限されれば、こちらに納品することはできなくなる。加えて、大口取引先の大病院を優先するだろうから、当院のような中小病院では軽く扱われる可能性だってある。納品されなければ感染症の治療が十分出来なくなる。十分な治療が行われなければ、感染症による死亡率はあがり、耐性菌も増えていく。耐性菌が増えればさらに死亡率があがる。悪いスパイラルに陥ることは避けられない。しかし、自分ができる事はやったはずだ。部長室へ報告に向かい現状を一通り報告した。
「わかった。俺からも一度、各卸に一言入れておこう」
「よろしくお願いします」
部長は有名薬剤部長の二世だ。有名薬剤部長は業界では権力の塊のような男で、今でも病院薬剤師会の重鎮として居座っている。そのため息子のうちの無能部長でさえ各方面に顔が効く。
「ところで、国産の抗菌薬ないのか?」
「国産の抗菌薬はあります。原薬から全て日本製というのはあるかはわかりませんが」
「ちょっと調べてみてくれ。今まではコストを優先していたが、これからは流通を優先させなければいけないな。少し高くてもいい。これからはそこから買ってくれ」
「はい」
「そもそも、日本は中国に全てを頼りすぎなんだよな。衣食住あらゆるものが中国製だ。コストを下げるために中国製にした結果、自給自足できなくなっちまった。まあ、ここで言っても仕方がないがな」
どこで覚えて来たのか、珍しく真っ当な事を言ったことに驚いた。
部長がここに来た時は酷いものだった。あまりにもバカ過ぎて何度も喧嘩をしたが、今では少しずつ変化が起きているような気もしている。
それを表しているのが部長室の本棚だ。医学専門書ばかりだったが、上段はビジネス書に変わっている。飾りかと思っていたら、少しずつ本棚に増えているので実際に読んでいるという事だろう。
「じゃあ、頼むぞ」
失礼しますと頭を下げて部長室を出て、純国産の抗菌薬を探してなんとか在庫は確保することができた。これでしばらくは感染症の治療が通常通りできるはずだ。
安心して時計を見るとすでに十七時五分前だった。
今日は当直だ。救急室にブリーフィングのために急いで向かう。小走りをしていると呼吸が苦しくなってきたので、白衣のポケットに入れている吸入薬を吸った。炎症を抑えるステロイドと気管支拡張薬が配合されており、少しだけ呼吸を楽にしてくれる。
救急室に入ると本日の当直スタッフが揃っており、ちょうど十七時になったところでブリーフィングが始まった。
「当直課長の田口です。今日は輪番の当番日になりますので救急車の受け入れをお願いします。また、病床は各病棟全て空いておりますので入院は可能です。各課から何かありますでしょうか?」
今日は輪番制の救急車当番日のようだ。救急は地域で輪番制をしいており、当番である日は基本的に救急車をすべて受け入れることになっている。簡単に言うと、忙しい日という事だ。
「それでは、今日もよろしくお願いします」
ブリーフィングが終わり散り散りになった瞬間、田口さんのPHSがなった。救急車受け入れの電話のようだ。
田口さんは西2病棟の看護師長であり、師長の中でも一番の働き者で有名だ。仕事というのは不思議なものでよく動く人について回るものらしく、田口さんが当直課長の日は必ず忙しい。
「今日は眠れなさそうだな」
呟きながら薬剤部へ戻る途中に自分のPHSにも電話がかかってきた。
「夕食後から開始の薬がでたので、お願いします」
「はーい」
と、生返事をして小走りで薬剤部に駆け戻る。
薬は日勤時間帯の十七時までに処方するのが院内のルールだが、午後に外来を持っている医師や午後にオペを行う外科医は処方が遅れてしまう事が少なくない。もちろんそれ以外にも、夕方まで処方を忘れているからという場合もある。そのような場合には薬剤師が当直時間帯に薬を調剤することになる。もちろん、たいていの薬は前もって処方してくれていればこのようなことになることはないのだが。
必要な薬をあらかた調剤して、パスボックスへ入れ終わったのがだいたい二十時。処方や電話が止まったところで、休憩をとる。買い置きしていたカップ焼きそばを取り出し、お湯をいれたところでPHSがなった。
「救急外来受診の患者に薬が出たのでお願いします」
調剤室に戻り薬を調剤し救急室に持って行き、患者に説明して渡し、休憩室に戻る。
十五分もかからず戻ってこれたのだが、カップ焼きそばのふたを開けると完全に水分を吸っていて倍以上の太さになっていた。しかたなくソースをかけて食べてみたけれど、美味しいはずもない。
当直中は汗を掻くからか、しょっぱいものが食べたくなるので、ついついカップラーメンやカップ焼きそばを食べようとするとたいていPHSがなるのだ。とりあえず必要なカロリーを摂取するべく無理やり腹に収めた。
それから、救急外来に受診した急性腸炎や外傷患者に薬を渡していると二十二時を過ぎていた。その間に二人が入院した様子なので、その患者の内服と注射を用意する。一人は循環器で緊急カテーテルをやり、もう一人は脳出血。循環器の患者はとにかく内服している薬が多い。十種類の内服薬を調剤してパスボックスに入れる。脳外科の患者は挿管したらしく、鎮静剤や医療用麻薬やら注射をたくさん払い出した。
そんなこんなで、二十四時を過ぎた。
そういえば歯磨きもしていなかったことに気づき、歯磨きをしていると、救急外来から電話がきた。またインフルエンザの患者だ。
どうして夜間にわざわざ救急外来に受診をしにくるのか不思議でならない。昼間だって熱くらいはあったはずだ。しかも、横浜市は夜間救急があり、そちらに受診することが順序としては正しい。それなのに当院にくるというのは、医療者の無駄な仕事を増やしているとしか思えない。なるべくイライラした雰囲気を出さないように意識しながら薬を渡して当直室に戻った。
ベッドに体を預け、時計を見てみると二時になっていた。体は重く、横になると間も無く眠りに落ちたが、すぐにPHSの音で起こされた。
PHSの音は最小にしていても驚いてしまい、心拍数が急に上がる。そのためすぐに眠気が吹き飛んでしまう。
今度は抗菌薬を調剤し、救急外来に薬を渡しに行く。カルテを見ると風俗店勤務、性感染症疑い。抗菌薬を処方し、明日かかりつけ医へ受診させる。と記載されている。薬を片手に、救急外来へ向かう。
明日かかりつけ医へ受診するなら、七日分も薬は必要ないだろう。けれど、深夜の二時にわざわざ医師に問い合わせるのもおっくうであり、医師がどのような説明をしているのかはわからないので、そのまま渡すことにした。
本当に今日は不要不急な受診が多い。いったいどんなやつだと思いながら救急外来へ向かうと、そこで待っていたのは、いかにも普通を絵に描いたような女性だった。名前と生年月日を確認し、簡単に薬の説明をして渡した。
女性は薬を受け取り待合のベンチから立ち上がったが、歩みが重かったので心配になり、行方を目で追っていると、病院玄関で待っているスーツの男と一緒に車に乗っていった。
性風俗業は感染のリスクを伴う。仕事内容も決して楽ではないだろう。いかにも普通を絵に描いたようなその女性は健康を犠牲にしてまでお金を得なければいけないのだろうか。詳しい事情はわからないが、少しだけ社会の闇を垣間見た気がした。
そして、薬剤部に戻ると休む間も無く、病棟からの問い合わせの電話がかかってきた。
先ほど脳外科で入院した患者の点滴ルートについて問い合わせが来た。配合変化表で同じルートで投与ができる薬を確認し問い合わせに返答した。
こういうたいしたことのない問い合わせも人を選んでいるらしい。病棟でもあの薬剤師には問い合わせはしないという話を看護師がしていたのを聞いたことがある。必要とされるのはありがたいことではあるが、大変でもある。
「疲れた」
ついつい口から漏れ出てしまった。ベッドに横になって時計を見ると三時。目を瞑ると、そのまま意識を失うように眠りに落ちた。
場末のスナックのカウンターに座り、飲めないくせに頼んだウイスキーのロックを見つめている。カウンター越しのママと中年男性客とのおしゃべりが聞こえてくる。
「ママは病気ないの?」
「あたしは、COPD。タバコは止めるように言われているんだけど、ダメね」
「もしかして、この前お店来なかったのもそのせい?」
「そうなの。ちょっと息が苦しくなっちゃって。でも抗生物質もらったらすぐに良くなった。お医者さんは七日分くれたけど三日で良くなっちゃったの。私ってすごくない?」
「残った抗生物質はどうしたんだい?」
「次に悪くなったときのために取っておくの」
「ママ、ダメだよ。医者に出された薬はちゃんと飲まないと」
「いいの。良くなったんだから」
抗生剤はきちんと飲まないと耐性菌ができる。お客さんの言う通りだ。
注意をしようと思い顔を上げてみると、ママは死んだはずの母親だった。
左手にタバコ、右手にはグラスを手にしていて、俺には普段見せないような女の顔をしていた。「母さん」と口に出してみてもこちらを見ない。まるで俺が存在しないかのように客とおしゃべりを続けている。
無視されたような気分になり、煽るようにウイスキーを流し込む。するとすぐに酒が回ってきて顔が熱くなり、呼吸が苦しくなる。アルコールが原因で喘息の発作が起きたのだ。
ヒューヒューという呼吸音が聞こえてきて、あたりが徐々に暗くなっていく。
息が苦しい。
もうだめだ。
プルルルル……。
PHSの音で目を覚ました。
「救急外来です。薬をお願いします」
わかりました、と目をつぶりながら返事をして、重い体を無理やり起こす。
「夢だったのか」
死んだ母が夢に出てきた。働いているところは見たことはないけれど、もしかしたらあんな様子だったのだろうか。
夢から覚めても呼吸は苦しかった。吸入薬を二回吸ったものの、息苦しさはほとんど改善しない。
やはり当直室はダニがいるらしく、ダニアレルギーの俺は当直をすると、時々喘息の発作が起きてしまう。カバンからテオフィリンを一錠取り出し服用した。効果が出るまでには少し時間がかかるからそれまでは我慢するしかない。
救急外来を受診した患者に薬を渡したあと、七時を過ぎていたため、始業業務を始めた。パソコンを再起動したり、冷蔵庫の温度を確認したり、当直帯の業務を記録したり、ルーチン業務を行った。
始業業務が終わる頃にやっとテオフィリンが効いてきて喘鳴は少し収まったものの、少し吐き気がするし、脈が早くなっている。テオフィリンの副作用が出てしまったようだ。
「おはようございます」
小山が調剤室に朝一でやってきた。
「中村さん、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「あぁ、当直明けなんてこんなもんだよ」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
そういうと、小山は調剤された薬をいくつか持って、調剤室を出て行った。
そういえばトイレに行った時、自分の顔を見たけれど、確かに元気とは言い難い顔だった。眠れないと目の下にクマができるし、当直明けはまったく覇気が無くなる。さらに息苦しさが表情にでていたら、それは酷い顔だっただろう。
今日はすぐに帰って寝よう。そう思った矢先だった。
「中村、ちょっといいか?」
部長が調剤室に来て声をかけてきた。面倒が起こりそうな予感しかない。
「抗菌薬はどうだ? 入荷出来そうか?」
「えぇ、昨日卸には約束したので大丈夫だと思います」
「そうか、それなら良かった。あと、今日のニュースを見たか?」
「ニュース?」
朝はテレビをつける暇もなかった。スマホでニュースもチェックしていない。
「昨日のテレビで多剤耐性緑膿菌が特集された。やはりニューキノロン系抗菌薬が槍玉に挙げられていた。院長からうちの使用状況について話がくるだろうから調べておいてくれないか」
「わかりました」
想像通り、面倒ごとではあったが院内の抗菌薬についての仕事であれば、感染対策担当としてやらねばなるまい。
調剤室に戻り、空いているPCでニューキノロン系抗菌薬を使用している患者のデータを抽出する。
ニューキノロン系抗菌薬は多くの菌に効果があり、内服薬があるため外来で処方される機会も多い。しかし、使えば使うほど耐性菌の報告は上がっていくため、乱用が問題なのだ。
データはすでに抽出され、少しだけ見やすくした後、部長にメールし、紙に印刷して部長室へ持参する。
「助かるよ。きっと院長から何か話がくる気がしてさ。おっと、院長から電話だ」
俺は小さく頭を下げて、部長室を出た。昔は何かが起きてから言い訳するような部長だったのに、最近では先読みができるようになったみたいだ。
病院を出たのは十四時過ぎだった。当直明けはタクシーを使うことにしており、病院の前でタクシーを拾うと自宅の場所をおおよそ告げて目を瞑った。
場末のバーでまた酒を飲んでいた。
「ママの息子さんは何をしているんだい?」
五十代くらいの小太りのサラリーマンがハイボールを飲みながら母に聞いた。
「病院で薬剤師やっているのよ。すっかり立派になってね。この間雑誌にも載ってね。ほら、これ」
「いやぁ、立派じゃないか」
「自慢の息子よ。本当に」
「息子さんのために元気でいたほうがいいんじゃないかい?」
「いいのよ、私は。もう十分やることをやったし」
雑誌の連載を始めた頃、ちょうど奨学金は完済していた時だった。後で知った事だけれど、借りた奨学金は俺の給料だけで返済したわけではなく、母が気づかぬうちに大部分を返済していたのだ。
「母さん」
カウンター越しに呼びかけたけれど、こちらを見向きもしない。声が小さかったのかと思って、もう一度「母さん」と言ってみたけれど同じだ。
俺は母さんに何も恩返しができなかった。お金に余裕ができたからどこか旅行でも連れて行こうかと思ったけれど、仕事が忙しくなり、それどころではなくなってしまった。
カウンターの向こうでは、母がゴホゴホと咳をしながらも煙草をくわえている。
「母さん、いつまでも煙草なんて吸っていちゃダメだ。薬もきちんと飲まないと耐性菌ができて薬が効かなくなる」
聞こえていない、届いていない。それでも声を張り上げる。
「母さん! まだ死なないでくれ」
席を立って大声で叫ぶと、母さんはやっとこちらを向いて「ごめんね」と一言だけ言った。
「お客さん、着きましたよ」
目を開けるとタクシーは家の目の前に止まっていた。お金を払ってタクシーを出た。
家に帰ると息苦しさが増していて、SPO2を測ってみると94%と低い。
ステロイドを服用しよう薬箱の中を探したけれど、在庫は切らしていた。
こんな事なら帰り際に外来に受診しておけばよかった。
仕方なくテオフィリンを一錠服用した。
シャワーを浴びて布団に入りスマホを見ると、八田からのメッセージが来ていた。
「明日の資料はいかがですか?」
そういえば、資料は当直中に仕上げようと思っていたけれど、忙しくて忘れていた。確かに約束は今日の昼までだった。
鋭意作成中と返信してからノートPCを開き、資料を修正する。半分はできていたのであと半分だけだ。途中で強い眠気が襲ってきたので、エナジードリンクの小さい缶を半分まで飲むと少しだけ眠気が和らいだ。その勢いを借りて資料を完成させた。完成したのが十九時。
資料を添付し八田に送ると「ありがとうございます」と、すぐに返事が来た。これで休めると思い、ベッドに横になり目を瞑ると、またスマホが震えた。八田からメッセージだ。
「土曜日に家に伺っても良いですか? お借りした本を返したいのと、web勉強会をするにあたって、通信環境も確認しておきたくて」
もちろん答えはイエスだ。すぐにスタンプで◯と送る。
八田に会えると思うと、顔がほころぶ。あわよくば、前回来たときに出来なかった事ができるかもしれないと胸が高鳴り、にやけながら眠りに落ちた。
目覚まし時計を見ると朝六時。音がなる前に目が覚めた。
息が苦しい。完全に喘息発作を起こしてしまった。呼吸を吐くたび喘鳴がなる。加えて、当直明けの次の日特有の体の重さがのしかかる。
辛い……。
冷蔵庫を明けて、エナジードリンクの小さい缶を取り出し、テオフィリン一錠を口に含み、エナジードリンクで飲みこむ。テオフィリンの飲み過ぎだという事はわかっている。でも、受診するまでこの息苦しさは耐えられそうになかった。加えて、なんとなく胃がスッキリしなかったので、胃薬を飲もうと薬箱を漁るとシメチジンを見つけた。これでいいかと服用する。
はっきり言って薬漬けだ。薬がないと生きていけない。もう少し体が強ければよかったのにと思う。
気分を変えるためにサッシを開けて、部屋の空気を入れ替え、洗面所で寝癖を直そうと鏡をみると自分で見ても酷い顔をしている。当直明けの顔が「この世の終わりのような顔」していると言われたことがあったけれど、今日もそんな感じだ。
使い捨てカミソリで髭を剃ろうとするも、手が震えてうまくいかない。テオフィリン中毒だろう。心拍数も高く、胸を強く打っている。
なんとか動悸と吐き気と倦怠感をこらえながら、身支度を行う。
七時には支度が終わり家を出ようと思ったけれど、眠気が襲って来たので冷蔵庫を明けて、もう一つエナジードリンクを取り出し、半分ほど飲んだ。
「今日だけ乗り切れば明日は休みで八田に会える」
今日だけ乗り切ろうと思い、カバンを持った瞬間、胸が締め付けるように苦しくなり、その場にうずくまる。吐き気と頭痛が酷い。耐えきれずトイレで嘔吐し、横になろうと布団へ戻る。
ドクン。
心臓が強く打つ。
呼吸ができない。いや、呼吸をしていても酸素が取り込まれない。
ドクン。
陸にあげられた魚のように口をパクパクさせて少しでも空気を取り込もうとするが、苦しさは変わらない。
ドクン
これはまずいと思って、最後の力でスマホを探す。
ドクン。
カバンに入れたスマホはボタンを押しても画面が黒いままだ。
ドクン
何度もスリープ状態を解除しようとするとするが電源がつかない。
ドクン
そういえば、充電せずに眠ってしまった。画面が黒いのは故障ではなく電池切れだ。
ドクン
最後の一拍かのように心臓が強く脈を打った。
俺の人生もここでおしまいか。
徐々に意識が薄れてくる。
暗くなる視界の中でいつもの猫が枕元にやってきてニャーと鳴いた。
最終話
神奈川県病院薬剤師会総会の会場では仏頂面のスーツの男たちが舞台に上がり、椅子に腰を下ろしていく。舞台の上にいるのは現在の理事。口元はヘラヘラとしている者もいるが、その目は笑っておらず舞台全体に緊張感が漂っている。
「渡邊さん、勝てそうですね」
隣に座った鈴木理事が耳もとで呟く。鈴木理事も中小病院派閥で理事選に立候補している。
俺と対角線上に座っているのが大学病院派閥の山田太郎だ。
口を一文字に締めて腕を組んでいる。
もう一度、会場全体を見回して参加者を数える。二人がけの長テーブルが五十ほど並べてあり、少しずつ空席が埋まっていく。
当選ラインは百と読んでいる。百人以上だと大学病院派閥が弾を持ってきた可能性が高い。数で戦った場合、中小病院はどうやっても敵わない。しかし、まだ少しだけ空席があるということは、百は超えていないということだ。謀反が起こらない限り選挙に勝利することができる。
「それでは定刻となりましたので、神奈川県病院薬剤師会総会を始めたいと思います」
司会は中小病院の若手のホープが担う事になっており、ややたどたどしい進行で進む。
「まずは本日の参加者を確認いたします。しばらくお待ちください」
司会が数取器を使い出席者数を確認していく。過半数を越えれば成立となるが、事前に書面で代議員を立てており、過半数はすでに超えているのは知っている。
「本日の参加者は九十人です。よって、本日の理事会は成立しました」
よし、心の奥でガッツポーズをする。この人数なら勝てる。しかし、結果がでるまでは気を抜けない。ペットボトルのお茶に口をつけるがその手が小刻みに震えてしまっている。
第一議案である本年度の事業報告が台本通りに進んでいく。年次報告の内容なんて誰も気にしてはいない。質問はなく次々と議案は進んでいく。
そして、最後の議案である理事選挙になった。
「それでは最終議案の理事選挙になります。投票用紙には不信任の場合のみ、バツをつけてください。それでは、出席者の方は廊下にございます投票所へお進みください」
バラバラと席を立ち、出席者が廊下に出て行く。投票所には渋滞ができてしまい、すぐに行列になった。俺はその様子を他の理事とともに舞台の上で眺めている。
投票の列は少しずつ進んでいく。進みが遅いというのは×を書いているからだろう。
十五分くらいだろうか。想像していたよりも投票に時間がかかった。
議長が席に戻り、マイクのスイッチを入れた。
「それでは、投票の結果を発表します」
議長は五十音順で名前と投票数を読み上げていく。
ほとんどの票数が九十人の満票で進む。
「山田太郎、三十四票」
山田太郎は過半数の支持を得られず落選。
予想以上の低い票数だ。これは中小病院派閥だけでなく、大学病院派閥においても×がついたという事になる。
「渡邊一敬、八十九票」
当選。しかし、満票ではない。
誰が×を入れた?
「渡邊さん、当選しましたね」
「あ、あぁ……」
もし、×を入れたのが新理事だとしたら理事長になるのは難しい。理事長になったとしても、いずれは不信任で追い出されてしまう可能性だってある。
山田が落とされることに気づいて俺に×をつけた?
いや、それならもっと多くの理事候補に×をつけるはずだ。
山田を見てみると俺のいる方向をを見ないどころか、黙って目をつぶりうつむいている。
×を入れたのは山田ではない気がする。
ということは、謀反というよりも大学病院派閥が票を入れたということか?
それなら一票の×だけでは済まないはずだろう。
もしかして、もっと身近な人物か?
例えば、隣に座る鈴木だとしたら。
いや、鈴木は完全に俺の仲間だ。
俺は会場をぐるっと見渡す。この中に×をつけた人がいる。山田は黙って目をつぶっているし、他の理事も談笑している。フロアの参加者も近くの同僚たちと話をしていて、少し緊張感が解けている様子だ。
×をつけたのは一体誰だ?
もう一度会場全体を見回すと、出口付近に退出しようとしている若い女性がいた。その女性はドアを開けると一度こちらを向いてから、退出していった。
あいつが、俺に×をつけたのか?
若い女に恨みを買うような事をした覚えなどない。しかし、顔にはどことなく見覚えがあるが思い出す事ができない。
「それでは、本日の総会は終了となります。理事に選出されたかたは、理事長を選出しますので舞台の上でお待ち下さい。皆さま本日はお忙しい中ご参加ありがとうございました」
議長の挨拶で総会は終了した。
山田は無言で壇上を降りていく。胸を張って降りていく姿は負けてもなお勇ましい。
「それでは、このあたりで」
船が徐々に減速し、海上で止まった。横浜ベイブリッジが遠くに見える。
葬儀屋が小さな骨壺を手渡す。俺は骨壺の蓋を開けて、船の上から海に撒いた。
白い灰となった骨は弧を描いて海に落ちていく。
骨の海上散布は中村の希望だ。中村の墓はない。なぜなら管理する家族がもういないからだ。
中村は用意周到だった。預金通帳や印鑑、電気やガス、水道など公共料金の支払い書など、必要書類は全て一箇所にまとめてあった。それに加えてエンディングノートも入っていた。エンディングノートには希望する医療行為や、亡くなってからの対応、法律的に有効に書かれた遺書までも入っていた。
結局、中村の死因は心臓発作による死亡に変わりはなかった。自殺や過労死の場合、責任者として責任が問われる可能性はある。しかし、これ以上中村の死を掘り下げようとするものは誰もいなかった。
散骨が終わり、壺を葬儀屋へ返すと、船は再び走り出し、船着場まで戻った。
陸に上がり葬儀屋に頭を下げてから、病院に戻った。
「八田さん、お疲れ様。いま仕事から帰ってきた」
受信時間23:45
「やっとポスターのデータを送ったところ」
受信時間22:30
「当直明けだけど、やっと家に帰ってこれた」
受信時間18:57
中村さんとメッセージアプリでやりとりをした記録のスクリーンショットをとる。全て返信は22時を超えている。計算すると時間外労働の時間が月八十時間を超えている。
先日、知人の紹介してもらった弁護士に相談したところ、メッセージアプリに記載されているメッセージの送信時間や既読時間は訴訟の証拠になるらしい。
訴訟を起こすべきだろうか。そして、勝てるだろうか。
中村さんが亡くなり、悔しい思いでいっぱいだった。その勢いで訪ねた弁護士事務所の弁護士さんには証拠さえあれば勝てると言ってくれた。しかし、家族でもなく正式にお付き合いもしていなかった私がここまでするのは違和感があると言われてしまった。それは協力しないという意味ではない。訴訟を起こせば勝てる可能性はある。しかし、神奈川県病院薬剤師の会長に楯突いたということで、薬剤師としての立場が悪くなるだろう、ということだ。家族ならそれを差し引いても家族の弔い合戦を行う理由はある。しかし、私は他人だ。そこまでする理由があるのかどうか。よく考えて欲しいと。
部長室に戻り背もたれに体を預け、手帳を開く。箇条書きにしたタスクを確認し「中村の散骨」の記載に取り消し線を引く。これで中村の件は終わりだ。そう思うと、肩の荷がおり体がやけに軽くなった気がした。
PCを開き院内回覧を確認すると、先日のストレスチェックの結果が集計され、送付されていた。ストレスチェックというのは名目上のもので、当院においては部署の評価として使用されている。ストレスが高いというのは、その職場が働きづらい職場であるとされてしまうのだ。
そうは言っても薬剤部に不満を持つ中村はいなくなったため、ストレスチェックは受験していない。他のスタッフにトラブルがあるという話は聞かない。特に問題はないだろうと、ファイルをダブルクリックしPDFを開く。
「なんだ、これは」
表示された内容は疑ってしまう内容だった。本当にこれが薬剤部の結果なのだろうか。間違えて検査課のファイルではないかと確認したが、PDFファイルの左上に薬剤部と書かれている。
ストレスチェックは主に三項目で評価される。『仕事のストレス要因』『心身のストレス反応』『周囲のサポート』。最高は5点、最低は1点で点数化されひし形の形で視覚化されている。
三年分のデータがひし形になっているのだが、年が経つたびに少しずつ小さくなってきている。加えて、それぞれの平均点が去年は2点台だったのが、1点台に下がっている。
「なぜだ」
超勤時間を減らしたから、仕事は楽になったはずだ。やりたい仕事だってやらせているはず。ストレスなんて感じるはずがない。
大分類の三項目は確かに低い。さらにその小項目についても目をやる。
『時間内に仕事が処理しきれない』1.2点
『活気がわいてくる』1.8点
『どのくらい気軽に上司と会話ができますか?』1.1点
なぜだ。
スタッフはきちんと十九時で帰っているはずだ。勤怠管理システムにおいても超勤はなくなった。それなのになぜ『時間内に仕事が処理しきれない』のだろうか。時間内に仕事が終わらなかったなんて報告は一度も上がってきたことなどない。『活気がわいてくる』の点数が低いのは中村の死にショックを受けていることが影響しているのかもしれない。スタッフの死はすくなからずモチベーションを下げるのは仕方がないことだ。『どのくらい気軽に上司と会話ができますか?』が1.1点と、ここまで低いのはあり得ない。昼休みにはスタッフとおしゃべりをしてやっている。飲み会だって年四回も開催している。思い返せば、少し下ネタも多かったかもしれない。それを差し引いたとしてもなぜ、こんなに点数が低いのか。
PDFを印刷し、老眼鏡をかけてまじまじと眺めてみる。やはり、この結果は納得がいなかない。そう思っていると、部長室のドアをノックする音がし「どうぞ」と声をかけた。ドアを開けたのは小山だった。
「部長、少しお時間よろしいでしょうか?」
「いいぞ、どうした」
小山はゆっくりと部長室に入り、俺の前に立つ。
「実は……。退職をしようと思っていて」
「いや、ちょっと待て」
小山を見ても俯いて目を合わせようとしない。
「どうしてだ?」
「地元に帰ろうと思って」
「地元は横浜じゃないのか?」
「いえ、三浦です」
「なんだ。近いじゃないか。辞めることはないだろう?」
「実家の父の体調があまりよくないみたいで」
「三浦なら横浜から京急で一時間だろう。すぐじゃないか」
「実家に帰って父の薬局を継ごうと思っていて……」
退職の理由は実家を継ぐか。本当の理由かどうかはわからないが、退職の決意は堅そうに見える。
「退職はいつ頃を予定しているのだ?」
「なるべく早い方が……」
小山の親父さんは三浦市薬剤師会で理事を勤めている。この間、学会で会った時には元気そうにしていたが、わからないものだ。
「退職に必要な書類は院内ウェブでダウンロードできるから、記入したら持ってきてくれ。総務には俺の方から伝えておく」
「よろしくお願いします」
「しかし、残念だな。小山さんには将来的に係長を担ってもらいたかったのだが」
小山はしばらく黙って俯いていたが、小さく頭を下げると部長室を出て行った。役職をちらつかせてみたが、ダメか。最近の若いものは出世欲というものが無いらしい。
小山の退職について総務に一報入れておこうと思い、デスクの電話の受話器を取り、総務の内線番号を押す。1コールで総務につながり総務部長へかわった。小山の退職の件を伝え、電話を切ろうとすると、
「渡邊さん、いただいた電話で申し訳ないのですが、お伝えしたいことが二つありまして、そちらへ伺ってもよろしいでしょうか?」
「あぁ、いまなら大丈夫だ」
「どうぞ」
この後の予定はなかったため、部長室へ来るよう伝えた。
総務部長が来る間にPCにてメールのチェックを行う。理事長の仕事は確認と承認ばかりだ。ある程度想定していたことだが想像以上に煩雑だった。
「渡邊さん、失礼します」
総務部長が薬剤部長室に入ってきたので、応接用のソファーに座らせ、俺も目の前に座った。
「小山の退職の件だが、」
「書類が揃いましたら、提出ください」
「ん? もしかして、小山の退職について知っていたのか?」
「噂程度ですが。総務にはいろいろな噂が入ってきますので」
俺の耳には噂は入ってこなかったのに、総務部長は知っているということに少しだけ背筋が寒くなる。
「ところで、ここにきた用事はなんだ?」
「まずは、こちらです」
総務部長がクリアファイルから差し出したのはストレスチェックの結果だった。
「ストレスチェックの結果が、三年連続で悪化しています。この結果、いかがお考えでしょうか?」
ストレスチェックの内容は先ほど見た通りで、三年連続悪化している。そんなこと言われなくてもわかっている。
「何が言いたい?」
「管理職としての責任を、いかがお考えでしょうか?」
くそが。俺が悪いというのか。
「薬剤部の超勤時間は他の部署と比べても少ない。総務は人件費を削減している薬剤部を評価するべきなのではないか?」
「おっしゃる通り、薬剤部の超勤時間は院内で一番少ないのは事実です。しかし、薬剤部のスタッフが夜遅くに退社している姿を複数回確認しております」
「時間外におしゃべりでもしていて、帰るのが遅くなったのだろう」
「果たして、そうでしょうか?」
総務部長の視線は私の目から、ストレスチェックの結果用紙に再び落とした。総務部長の右手は『時間内に仕事が処理しきれない』1.2点を差している。
超勤時間を減らしてやったのに、こんなことまで言われなければならないのか。
だんまりを決め込んでいると、総務部長がしびれを切らしたのか、
「この結果は、また後日お話いたしましょう。どうぞ、こちらはお持ちください」
と言って、ストレスチェックの結果を差し出してきた。「もう持っている」と答えると、総務部長の口元が少し緩み「失礼しました」と言った。持っていることは知っているくせに。馬鹿にしやがって。
「それと、もう一つ」
また、クリアファイルからA4サイズの茶封筒を差し出した。
「まだ何かあるのか?」
「先日、当院に届いた履歴書です」
「あぁ、中村君の代わりの採用か」
「えぇ、当院のHPで薬剤師の中途採用の募集をかけて、その当日に希望者から連絡がありました。渡邊さんが不在だったので、とりあえず履歴書を送ってもらうように依頼したら、すぐに履歴書が届きまして」
「中身を見せてくれ」
俺は茶封筒からクリアファイルに入った履歴書を取り出す。
名前は八田梨香子。職務経歴を見るとみなとみらい病院に勤務していたようだ。みなとみらい病院は大学病院派閥ではなく、中小病院派閥になる。
勤務年数は二年目のようだが、もう転職とは少し早いな。若手の方が給料が安いからコストダウンにはもってこいだろう。
履歴書の顔写真をもう一度見るとピンときた。
「あはははははは」
俺は笑いが堪えられず、のけぞって笑った。
「渡邊さん?」
総務部長の顔は何が起きたのかわからず、ぽかんとしている。
そういうことか。
こいつが俺に×をつけた女だ。総会の会場で俺を睨んでいた。そういえば、中村の家にも線香をあげに来ていた。病院実習にも来ていた気がする。中村とはどのような関係かはよくわからないが、面接くらいはしても良いかもしれない。
「渡邊さん、この子はどうなさいますか?」
「面接に進めてくれ」
総務部長は不審な顔をしている。
「大丈夫だ。問題ない」
面接で何を聞いてやろうか、それとも入社させて潰してやろうか。どちらにしても面白い。
「そうですか」
「他に用事は?」
「以上になります」
総務部長はゆっくりとソファーから立ち上がり、訝しげに部長室を去っていた。
自分の椅子に戻り、背もたれに体を預ける。
薬剤部スタッフのストレス軽減なんて、係長の責任として全て押し付けておけば良いのだ。そうすれば俺の立場は守られ、そいつらはいずれ潰れる。中村のように。
鳥しげに入って、いつもの席だろうと奥の座敷へ進むと松岡さんはやっぱりそこにいた。松岡さんが私に気づきビールジョッキをかかげて「小山ちゃん、ここ! ここ!」と大きな声で私を呼んだ。大きな声で呼ばれるのは少し恥ずかしかったけど、久しぶりの再会に嬉しくなり顔がほころぶ。小走りで席に向かうと、松岡さんは席を立ち、両腕を開いてテーブル越しにハグしてきた。子供の頃アメリカに住んでいた松岡さんにとっては、ハグは日常の挨拶なのかもしれないけれど、抱きしめられたこの温もりが愛おしく感じた。
「ビールでいい?」
「ごめん、今日はジンジャエールで」
「すいません、ジンジャエールと生ひとつ」
松岡さんは店員を捕まえ注文し、その合間に席にすわる。いつもの四人席は私たちの居場所な気がして気分が落ち着く。
「久しぶりだねー」
「ほんと、久しぶりですよね。鳥しげに来るのも久しぶりだし、そもそも三浦から出たのも久しぶりで電車を降りた桜木町がすごく眩しかったです。三浦は夜になると真っ暗なのに、桜木町は明るいですよね」
「なんか、すっかり田舎者になっちゃったね。前はみなとみらいのカフェバーとか通っていたじゃん」
「たくさん一緒に行きましたよね。石川町の立ち飲み屋とかも」
「懐かしいね」
たった数ヶ月前の事なのに、遠い昔のように感じるのはどうしてだろう。私が横浜を離れたせいだろうか。
「いまでも、カフェには通っています。車で十五分の農村カフェに」
「あはは、農村カフェいいじゃん」
「とれたての野菜プレートと無農薬ジュースが美味しいんですよ」
「今度連れてってよ」
「もちろんです。一緒に行きましょう」
ビールとジンジャエールがテーブルに運ばれてきて、私たちは「再会に乾杯!」と言ってグラスを合わせた。
「ねぇ、あれから何してるの?」
「病院やめて少しゆっくりしてます」
「実家の薬局はどう?」
「退屈すぎて、友達のキャベツ畑のお手伝いしてます。どっちかっていったら農家のほうが専業かも」
「じゃぁ、もう病院には戻ってこないの?」
「もう病院はいいかなって思ってます。なんか頑張るのに疲れちゃったから」
「そっか」
あれから、働く気力を失ってしまった。中村さんがいなくなって、しばらくは業務に穴が空いたけれど、それもすぐに誰かが埋めていった。そのうちひょっこり出勤してくるかも、なんて思ってみたけれど、戻ってくることなんてなくて、中村さんは病院に最初からいなかったような雰囲気にさえなってしまった。
どうしてみんな中村さんがいなくなっても普通でいられるのだろう。もうこれ以上ここにはいたくないと思うようになり、本牧病院は退職した。
「小山ちゃんがいなくなったあと、薬剤部はさらにひどい状態になったよ。急ぎの薬も上がってくるのに三十分もかかるし、薬取りに行った時に調剤室を覗いたけど、みんなおしゃべりしてるの。しゃべっている時間があるなら早く仕事しろって思うんだけど、注意する人だれもいないみたい」
中村さんがいたらスタッフに嫌な顔をされるのはわかっていても、絶対に注意していただろう。
「そういえば、松岡さんは、主任に出世したらしいですね」
「まぁね。今の病院で十年やってるから」
「このまま続けるんですか?」
「とりあえずはね。辛い事もあるけど、仕事をしてると嫌な事を忘れられるから、主任になって忙しくなったのはちょうどいいくらい」
私は中村さんの事を思い出しちゃうのが嫌で職場を離れたけど、松岡さんは職場に残って戦っている。松岡さんが言った「嫌なこと」っていうのは、きっと中村さんのことだろう。
「でも、まじで最近の若手はほんっと使えないよね。メモは取らないし、先輩が残業してても声もかけずに帰るし。周りに配慮できないっていうか。そういうのだから、患者のちょっとした異変に気づけないんだよね。この前なんてさ、心電図モニターのアラームがなったの。VFを起こしていたんだけど、最初に駆けつけたのがリーダーの私。すぐにおさまったから良かったけど、そのあとすぐに医師に報告して、十二誘導心電図つけて心電図とって、バイタル取り直して、全部やって、終わった後にのこのこと担当が来て言ったのが『松岡さん、何かあったんですか?』だって。『何かあったんですか?』じゃなくて、最悪の場合、死ぬかもしれなかったんだぞって言ったんだけど、全然理解してくれなくて『何をしてたの?』って聞いたら『退院の患者さんと話していました』って馬鹿じゃん」
松岡さんはジョッキに残っていたビールを一気に飲み干す。
「あいつ、優先順位が全然わかってないし、緊急アラームに反応できないなんて、看護師辞めたほうがいい。マジで」
松岡さんの仕事の愚痴を聞くのは久しぶりだ。仕事に対する熱い気持ちが懐かしく感じて、ちょっとにやけてしまった。けれど、気づかれていないようだ。
「ところで、三浦って潜れるところある? 最近スキューバダイビングにハマっててさ」
ひととおり愚痴ると、すぐに話と気分を切り替える事や、スキューバダイビングにはまっているなんて、いかにも松岡さんだなぁって思う。よく見ると、肌が日に焼けているのはスキューバダイビングのせいだろう。
「最初は海に潜ればなかむーがいるんじゃないかと思って潜ったんだけどさ。ほら、海に散骨したって言ってたじゃん。だから一度でいいから、幻で良いから、また会えないかなぁって思ってダイビングの体験してみたんだよね。でも、一回潜ってみたら綺麗な海とか魚とかにハマっちゃって。もう海の虜。めっちゃ楽しい。ほら、この写真みて」
松岡さんはスマホを出して、どうやって撮ったのかはわからないけれど、潜水中の写真や魚の群れの写真を見せてくれた。眩しい光が差し込む青の世界はとても綺麗で私も一度見てみたいと思った。
「三浦でも潜れるところはたぶんあると思います」
「ほんと? じゃあ、今度一緒に潜ろうよ!」
「お誘いは嬉しいんですけど、実はいま妊娠していて……」
「やっぱり? なんかおかしいと思ってたんだ。あの小山ちゃんがビール飲まないし」
「安定期に入ったら話そうと思っていたんです。それで、今日がその時かなぁと思って」
「そっかー。おめでとう。小山ちゃんももうママかぁ」
「もうって言っても三十歳ですけどね」
「あたしの年を知ってて言ってる?」
「あっ、それはその……」
「あははっ。冗談だよ。相手は前に話していた高校の同級生で消防士の彼氏?」
「そうです」
「あの時は別れるかもしれないって言ってたじゃん?」
「そんな気持ちの時もありました。でも、授かった時に想像以上に喜んでくれて、そのままプロポーズされちゃいました」
「なにそれー、ドラマみたーい」
松岡さんは口を尖らせて愚痴っていた表情から一変、目尻が垂れ優しい笑顔に変わっていた。
『授かった』なんて言ってみたけれど、本当は私が仕組んだことだった。
中村さんがいなくなって、全てが嫌になって、どうしようもなくさびしくなって、彼氏に『今日はつけなくていいよ』っていったら喜んでそのまましてくれた。そして、妊娠した。
子供ができれば結婚することになるだろう。結婚すれば一人にならなくて済むし、子供や旦那さんのために生きていけそうな気がした。だから、子供を作ってしまいたかったんだ。
「それで、入籍は? 結婚式はいつあげるの?」
「実は入籍だけはしたんですけど、まだ式の予定はなくて。でも、式場は海が見えるところで、本当に仲のいい人たちだけを集めてこぢんまりした式をあげたいねって、話しながら探しているところなんです」
「わー、なんか幸せそう。羨ましい。絶対わたしも誘ってよ」
「もちろんです!」
松岡さんは本当に仲のいい人に入っている。中村さんもそうだ。でも、兄のような人だったから家族枠という感じもする。結婚式に出席して欲しかったけれど、それはもう叶わない。
「あー、私も結婚したいなぁ」
「前に付き合っていた、フランス人の彼氏はどうしたんですか?」
「わがままに付き合えなくなった。やっぱ、フランス人って自己中」
「あはは」
松岡さんと一緒にいると心から笑える気がした。彼氏と一緒にいる時も笑うけど、ちょっと違う。同じ苦しみを抱えている私たち。泣きながら笑っている感覚に近い。
ふと、会話が少しだけ止まってしまった。
その間にテーブルに残った料理を食べ進める。焼き鳥盛り合わせのレバーや山盛りすぎるポテトサラダがあり、松岡さんの隣の席には炭酸の抜けたコーラと手付かずの小松菜も並んでいる。
「今日はなかむーの百日目だけどさ、一周忌もここで集まろう。その先もずっと。絶対」
「うん」
私は松岡さんの言葉に胸が苦しくなり涙が溢れそうになった。しばらく俯いてなんとか涙をこらえて顔を上げて松岡さんを見ると上を見上げていたけれど、眼からは涙が溢れていた。
「あー、ダメだね。今日は泣かないって決めてたのに。ダメダメ」
松岡さんは涙を掌でゴシゴシと拭って、はーっとため息を吐いた。
「じゃあ、今日は小山ちゃんの懐妊に乾杯しよう!」
涙で目を赤くはらせた松岡さんは右手にビールジョッキ、左手にコーラのジョッキを掲げた。
「小山ちゃんもグラス持って!」
まだ喪中な気がするけど、祝い事なんてしても良いのだろうか。躊躇っていると「ほら、早く!」と、せかされるまま、グラスを握って少しだけ上げた。
「かんぱーい」
私のウーロン茶のジョッキとグラスを合わせた。
松岡さんは残ったビールを飲み干し、コーラも勢いよく飲んでいく。
「生きていかなきゃね」
ぼそっと松岡さんが呟いて、私は小さく頷いた。
「中村さん」
中村さんの骨は横浜の海に散骨された。この広い海のどこかにいる気がして呟いてみたけれど、返事があるはずもない。
スマホで実習最終日に二人で撮った写真は、中村さんが笑顔で写っている。
中村さんは過労死だ。
しかし、過労死は告発しなければ認められない。それができるのは私しか残っていない。
「絶対に負けないから」
そう言って、拳を強く握った。
神奈川県病院薬剤師会の理事長選が一ヶ月後に迫って来た。
立候補のための書類の所属の欄に本牧病院薬剤部、名前の欄に「渡辺一敬」、ふりがなに「わたなべかずたか」と記入する。最終学歴は横浜国際大学薬学部卒。偏差値が五十程度の薬学部であり、学士だ。立候補者の大半が最終学歴では修士や博士が増えてきている中、決して学歴が優れているとは言い難い。しかし、低学歴だとしても、今回の理事長選は選ばれる自信がある。
「ようやく俺もここまで来たか」
デスクに飾ってある写真を見つめる。俺と親父がスーツ姿で写っている。昨年の病院薬剤師学会の時の写真だ。『病院薬剤師の働き方改革』というテーマで発表したときのものだ。
ちょうどその頃「働き方改革」という言葉が出てきて、流行に乗るように「薬剤師の働き方改革」と銘打って薬剤部の改革を行った。
超勤をする際には事前に超勤申請の提出をさせ、最長でも超勤は十九時までとし、とにかく早く帰らせた。その結果、平均超勤時間が四十時間から二十時間に減らすことができ、事務長からも高く評価され、それを学会にて発表した。学会での発表は特に他病院の薬局長から評判がよく、学会賞をいただいた。学会賞を受賞したのはうれしかったが、学会の会長である親父から賞をもらったことはそれ以上に誇らしくもあった。
そんな親父も今年で病院薬剤師会の理事を退くことを表明している。
親父は薬剤師に関する書籍を多数出版している有名人で、就職するときは親父の口利きで簡単に大学病院へすんなり入れたし、県病院薬剤師の理事も親父に近い人のおかげで選ばれることができた。自分がここまでこられたのは、一概に親父のおかげと言える。親の七光りだのなんだの言われようとも、使えるものは使い切り、偉くなったものが勝ちだ。
書類の最後の抱負の欄に「薬剤師改革を行う」と、記入する。具体的に何をどう改革するなんて考えはない。あとで決めれば良いことだ。曖昧でも熱い一文が人を動かすらしい。
書き終わった紙を眺めているとよくできた内容だと我ながら思う。
その時、部長室のドアがノックされたので「どうぞ」と言って、紙をデスクに置いた。
ドアを開けたのは今年で五年目の薬剤師である小山智子だった。
「中村さんが出社していません。携帯に電話しても出ないんです」
どうせ寝坊か何かだろうと思っていた俺は「そうか」とだけ答えてPCに画面に目を映す。メールチェックがまだ終わっていなかったことを思い出した。
理事選には票集めが重要だ。今回の選挙は中小病院と大学病院の対立構造になっている。
今回の選挙のテーマは「タスクシフト」だ。
大学病院は医師の残業時間を減らすため、薬剤師に処方権をタスクシフトしている。薬に詳しい薬剤師が医師に代わって処方する。そのこと自体は悪いことではない。しかし、十分に能力を持った薬剤師が大勢いる大学病院だからこそできることなのだ。中小病院では専門性の高い薬剤師は少ないどころか、薬剤師数も少ない。この流れになってしまったら、医師の仕事を薬剤師に押し付けられ、中小病院の薬剤師はパンクするだけだ。
三百床の当院は中小病院派閥に属していて、大学病院派閥の旗手である有名教授を落とそうと企んでいる。そのためにはなるべく中小病院からの票を集めなければならない。
各中小病院の薬局長にメールを送っていて、その返事がちらほら返ってきている。しかし、まだ味方の数は十分ではない。
「あの、部長、中村さんが……」
なんだ、まだいたのか。顔をあげると小山がまだ立っていた。
「何回も電話したのですが、携帯の電源が入っていないみたいで、全然出ないんです」
「寝坊じゃないのか?」
「中村さんが寝坊することなんてないじゃないですか。朝だっていつも一番に来ているのに」
そういえば俺が出社した時には必ずいる。確か朝一で患者情報を取っているらしい。
「だから、ちょっと心配で」
PCから顔を上げて小山を見つめるとやけに心配そうな顔をしている。ただの寝坊ではないのだろうか。
「部長、様子を見に行った方がいいんじゃないかと思って」
小山の言葉に少しだけ背筋が寒くなる。
中村に何かあったのではないか、ということか。
理事長選挙を控えたいま、何かがあっては困る。
「わかった。ちょっと様子を見てこよう。携帯を持っていくから、中村が出社したら教えてくれ」
「はい、お願いします」
そう言うと、小山は部長室を出て行った。
俺は未読のメールを確認したかったが、とりあえず中村の件を優先するためしぶしぶメーラーを閉じた。
中村の自宅の場所を確認するため、総務課に電話をすると、調べて折り返す、とのことだったので、この間にメーラーを開き直す。
医療情報サイトからのメールが来ており、ついつい気になる見出しをクリックしてしまう。
『薬剤師の働き方改革』
どんな内容かと思いきや、すでに聞いたことがある内容だった。それも、中村から。
俺がこの病院の薬局長に就任したあと、働き方改革が世の中に流行した。その流行に乗って行った「薬剤師の働き方改革」は、大失敗だった。
勤務時間を最大十九時までとし、その後の業務は許さないこととした。すると、今まで二十二時まで残業していたスタッフの勤務時間が一斉に十九時までとなった。しかし、仕事の質は急激に低下した。やるべき仕事をやらずに帰る者が増えたのだ。
その時、中村が部長室に来た。目の前にどかっと座り俺に説教を始めた。
「働き方改革は時短をするだけではない」
「仕事のクオリティが下がれば、薬剤師の立場も下がる」
「そもそも働き方改革は、ドイツで行なわれたものを日本政府が参考にしており、そのドイツにおいて医業での定時帰宅はできていない」
など、刻々と聞かされた。
腹わた煮え繰り返るような気分であったが、そこまで言うならお前がやってみろ、ということで全て中村にやらせることにした。
中村は「無駄・無理・ムラを無くす業務改革」と、銘打ち、社内SNSを活用し、時短ノウハウの共有、web勉強会の開催などを推進していった。すると、無駄・無理・ムラは徐々に減少し、モチベーションの低下した薬剤部は少しずつ活気を取り戻していった。
メールの記事は中村の話よりクオリティが低く、まだこんなことを言っているのかと、鼻で笑ってしまった。
そろそろかと思ってPHSを見るとちょうど電話が鳴った。総務からだ。
住所を調べて地図を印刷したから、今から部長室に持っていくとの事だったが、時間が無駄な気がして取りに行く事にした。
席を立ちメーラーを閉じようとすると、ちょうど井土ヶ谷病院薬剤部の薬局長である鈴木君からメールが来ていた。
件名はない。
病院薬剤師会HPに掲載する記事の件だろうか、それとも今回の理事長選の件か。内容が気になりはしたがどちらにしても急いで返事をしなくても問題はない。それに確認して、返信をしていたら中村の元へいつになっても行けないだろうと思い、メーラーを閉じた。
白衣を脱いでジャケットを羽織り、財布と携帯電話をポケットに入れて総務へ向かった。
総務課に入るとスタッフが俺に気づき、印刷した地図を渡してくれた。
場所を簡単に説明してくれたが、さっぱりわからないので、とりあえず、それを持ってタクシー乗り場へ向かう。タクシー運転手に地図を見せると、カーナビに場所を打ち込み発進した。
中村の電話番号をスマホの電話帳から呼び出し、電話をかけてみたけれどコール音が鳴る事なく、留守番電話サービスに繋がった。小山の言う通り、携帯電話の電源が入っていないということか。
留守番電話サービスに折り返し電話をするようにメッセージを入れると電話を切った。
その後、車中で携帯電話に着信がないか数回確認した。出社したら電話をするように依頼していたが、やはり着信はない。
少しずつ嫌な予感が膨らんでくる。
中村に万が一の事があったら、俺の築きあげてきた地位はどうなってしまうのだろうか。
責任を問われた場合、病院薬剤師会の理事長になるどころか、本牧病院の薬剤部長の立場も追われてしまうかもしれない。
車中が暑いわけではないのに額から出てきた汗をハンカチで拭った。
「着きましたよ。たぶん、このアパートです」
タクシーは二階建ての古びたアパートの前で止まった。代金を支払いタクシーを出ると、握りしめていた携帯電話が鳴った。薬剤部からだ。
「もしもし」
「小山です。お疲れ様です」
「中村が出社したのか?」
「いえ、違うんです」
「なんだ、違うのか」
わざわざ電話をしてくるということは重要な用事なのだろうな。たいした用事でなければ怒鳴りつけてやろう。
「麻薬が紛失したかもしれません」
「何!?」
つい、大声が出てしまった。
「在庫と棚表の数が合わないんです」
「まずいな」
麻薬が紛失したとなると一大事だ。病院薬剤師会の理事長になる事はおろか、事件として新聞沙汰になる可能性が高い。
「探したのか?」
「はい、探したのですが見つからなくて」
「スタッフ全員に聞いたのか?」
「今日来ているスタッフには聞いたのですけど、心当たりがないって……」
小山の声は泣き出しそうだ。自分の声が荒々しくなっていたことに気づく。
「休みのスタッフには聞いたのか?」
「それは、まだ……」
「全員に電話をかけろ。それでもわからないならまた電話してくれ」
「は、はい……」
携帯電話の終話ボタンを思い切り押した。
くそ、こんな時に限ってトラブルか。
イライラした気持ちを抱えていると、再び携帯電話が鳴った。今度は病院からだ。
「渡邊です」
「清水です」
早くも院内安全管理室の清水二郎に話がいってしまったか。これはめんどくさいことになった。
清水は病院内の安全管理を専門としていて、薬の紛失に関しては特にうるさい。
「渡邊部長、麻薬が紛失したというのはお聞きになりましたか?」
「まだ紛失と決まったわけではない。現在捜査中だ」
「いま、どちらにいらっしゃるのですか? 少しお話がしたいのですが」
話といっても薬品管理についてのお説教だろう。
「いま、所用で外にいる。病院に戻ったあと、こちらから連絡する」
「そうですか、本日は何時頃にお戻りになられますか?」
「まだわからん」
「ちなみに、どのようなご用件なのですか?」
「所用だ。もう切るぞ」
「」
相手の返事を待つ前に電話を切ってやった。清水二郎に長話をされてはかなわない。
まったく、どうして今日に限って面倒なことが一度におこるのか。
はぁ、と大きなため息をついてスマホをポケットにしまった。
いや、ちょっと待て。中村が出社していない、麻薬が紛失した。
まさか、中村が麻薬を盗んだってことはないだろうか。
もし、そんな事が起きていたらタダでは済まない。中村は逮捕されるだろうし、上司としての責任も問われる。マスコミが病院に押しかけあることないこと報道されるだろう。想像しただけで背筋が寒くなる。
まずは中村の件から解決してしまおうと、アパートに小走りで向かう。
二階建てのアパートは近づいてみると、築二十年は経過していそうなほど古い。
いくら病院の給料が安いといえど、もう少し良いアパートに住んでも良いのではないだろうかと思ってしまうくらいだ。
もしかして、中村は金に困っていた?
だからこんなアパートに住んでいたのだろうか。いや、中村に関して金に悪い噂は聞いたことがない。ギャンブル好きだとか、女遊びをしているとか、ましてや借金があったなんて考えられない。
一度中村を疑ってしまうと悪い考えばかりが浮かんでくる。頭を振って断ち切るべく進む。
一階の奥、表札を確認すると「中村宏」と書かれている。家はここで間違いはない。
インターホンを押す。部屋でピンポーンと音が鳴ったのがドア越しに聞こえる。しかし、中で何かが動いた気配はない。
再度、インターホンを押す。ピンポーンと音が鳴るが物音はしない。
休暇届も出ていなかったし、昨日も話はしたが変わった様子など見られなかった。しかし、中村が何も言わずにどこかに行くとも思えない。
これは絶対におかしい。
玄関のドアを開けようとしてみたが、鍵がかかっている。ドアについたポストから中を覗いたけれど、室内が見えないようになっていて中を確認できない。しかし、ポストから異様な匂いが漂ってきた。
もしかしたら、最悪のケースもあり得るかもしれない。
心拍数が徐々に上がっていき、手のひらに汗がじわりじわりと滲み出てくるのがわかる。
どこかに家の中を覗ける場所はないかと思っていると、足元に黒猫が現れ、にゃーと鳴いた。
黒猫はアパートの横にある狭い砂利道に進むと、一度こちらを振り向いた。まるでついてこいと言っているかのようで追いかけると、時折振り返っては進んでいく。そのままついていくと中村の家のベランダ側に出た。ベランダ側にはガラス戸があり、カーテンが閉まっていたものの、少しだけ隙間が開いていて、そこに猫が飛び込んでいった。
隙間からは嫌な匂いが漂ってくる。
重いガラス戸をゆっくりとスライドさせ、カーテンを開けた。
部屋の中央に人が倒れている。中村だ。
「中村、おい、中村!」
部屋の外から声をかけるが、ぴくりとも動かない。
「おい、入るぞ」
普段なら靴を脱ぐところだが、嫌な予感がして靴のまま部屋に上がった。
ゆっくりと倒れている中村に近づく。
足元にはエナジードリンクの空き缶や書類が乱雑に置かれており、それを蹴飛ばして進む。
「中村!」
返事がない。
両肩を叩き、もう一度「中村!」と呼びかける。
中村はピクリとも動かない。
うつ伏せになった中村をひっくり返すと、顔は青白い。
胸の動きがあるかどうか確認する。
ダメだ、呼吸をしていない。
頸動脈を探すが脈は触れない。目蓋を開けても瞳孔が動いた様子はなかった。
そして、死臭がした。
中村が死んでいる。
結局、病院に戻って来たのは十七時を過ぎていた。
警察に通報し、同じことを何度も聞かれ、何度も同じように答えた。しかし、第一発見者の俺を殺人犯だと疑っているのか、なかなか帰してもらえなかった。
やっとの事で部長室に戻るや否や、小山が駆け込んできた。
「中村さんは?」
「ちょっとドアを閉めてくれるか?」
部長室のドアは女性と一緒にいる時は閉めないようにしている。密閉空間だとセクハラを疑われてしまうからだ。しかし、これは誰かに聞こえて良いような内容ではない。
小山がドアを閉めた事を確認し、ぎりぎり聞こえる小声で言った。
「中村は死んだ」
「え?」
小山は聞き返す。
「俺が家に行った時には、すでに心肺停止していた」
「そんな……」
小山は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。
「いま、警察で検死を行なっている。事件の可能性もゼロではないから、この事は誰にも言うな」
小山が小さく頷いた。
その瞬間、PHSが鳴った。電話の相手は清水二郎だ。俺が帰ってきたのも見えているかのようなタイミングだ。
「渡邊だ」
「清水です。病院に戻られたようで」
どこからの情報かはわからないが、鋭い嗅覚を持っている事は確からしい。
「ちょっといま忙しい。もう少しあとにしてくれるか?」
「いつでしたら良いでしょうか?」
この後、中村の件を最低でも院長と事務長に報告しなければならない。
「あと一時間後だ」
「わかりました。また、その時にお電話いたします」
清水の丁寧な言葉使いがいちいちカンに触る。
「小山、こんなときにすまないが、例の麻薬の件について報告をしてもらって良いか?」
「は、はい」
涙を掌で拭ってポケットから折りたたんだ紙を取り出した。
「簡単な報告書を作成しておきました。概要はこんな感じです」
麻薬紛失に関しての報告書を受け取ると時系列で起こった事や確認した事が書かれている。
俺が最初に電話で報告を受けたのが九時半。新人のスタッフが慌ててしまい全病棟に麻薬がないか電話で確認をした。それが原因で清水二郎に情報が伝わってしまったらしい。それから、全スタッフに確認し終えたのが十時。確認が取れなかったのが休みだった粕谷と田中。田中はすぐに折り返し電話があり今回の件に関しては心当たりがないと返事があった。そして、十二時過ぎに粕谷に再度電話したところ、オペ室に払い出したが記帳忘れをしていたとのことだった。つまり、麻薬は紛失していなかった。ということか。
「粕谷か」
まったくカスだな。
粕谷は他の施設から当院に来た。最初は普通のスタッフに見えたが、じょじょに粕谷の本性はわかってきた。表面上はいい人を装ってはいるが、陰でスタッフの悪口を言ったり、嘘の噂を流したり、とにかく人の足を引っ張る。それだけではなく、仕事をせずおしゃべりばかりしていて、本当に薬剤部のお荷物的存在だ。
「まあ、今回は紛失ではなかったということだが、対策はしないといけないな」
麻薬紛失の件はなんとかなりそうだ。
腕時計をみるとすでに十五分が過ぎていた。
「小山、すまないが俺は院長と事務長に中村の件と麻薬の件を報告に行かなければならない」
「はい」
「くれぐれも、他言無用で頼むぞ」
「はい」
掠れてほとんど聞こえない声で返事した小山は、部長室を出るとまっすぐトイレへ向かっていった。それを横目に俺は院長室へ向かった。
院長に中村の件を報告するとすぐに院長室に事務長を呼んだ。そして三人で顔を見合わせながら週明けまでは他言無用、対応は検死の結果を待ってからという事になった。
麻薬の件も念のため報告したが、今回はお咎めなしで終わった。
院長室を出て、部長室に戻りPCの電源をいれてメーラーを立ち上げる。まだ清水の次郎長がくるまで時間がある。理事選のメールだけは確認しておきたかった。
鈴木君からのメールを開く。
私立大の名門、野口大学出身で中小病院の薬局長。四十歳とまだまだ若いが、若手教育にも熱心で影響力も少なくない。味方にできれば心強いが、敵になった時には状況がひっくり返る可能性がある。
「渡邊さんには大変お世話になっております。しかし、今回の件は単純ではありません。少し考えさせてください」
と、書かれていた。
鈴木君は野口大学出身だ。そして、今回落選させたいのが野口大学の教授。出身大学の恩師にバツを入れるのに躊躇はするだろう。
時計を見ると二十時。今から鈴木君と電話で直接話すには少し遅いし、心身ともに疲れ果てているので、説得する気力もない。返事は返さず、そのままメーラーを閉じた。
「渡邊部長、失礼します」
顔を上げると清水がいた。
返事をする気にもなれず、黙ってデスクから応接用の椅子に移動して座ると、清水が堰を切ったように話を始める。
医療安全とは何か、医薬品管理とは何か、そもそも最近の薬剤部ではインシデントが多すぎるのではないか、今回の件と関係ない事までクドクドと話をする。
もちろん耳には入っているが、頭の中には入っていない。頭の中では、今後の中村の対応をどうするべきか、その事ばかりを考えていた。
ちょうど清水の話にキリがついたころ、携帯電話が鳴った。見たことのない番号だったが、おそらく警察だろう。
「もしもし、渡邊です」
「こちら中区警察署の〇〇です。中村さんの検死の結果が出ましたのでお伝えしたいのと、ご遺体の引き取りに来ていただきたいのですが」
「わかった、すぐに行く」
ちょうどよく電話が来たことで、清水の話は強制的に終わらせた。
「ちょっと急用ですまない」
俺はわざと慌てた様子で身支度を始める。清水も渋々と席を立った。
タクシーで検死を行ったクリニックに向かい、居合わせた警察官と病理医から検死の報告を受けた。こんな簡単な説明で終わってしまうのかというほど、すぐに終わった。
身寄りのいない中村の遺体は中村の自宅に送ることにして、俺が身元引き受け人となることにした。
警察も本人の自宅へ戻すことは渋ったが、その自宅の保証人が俺であり、きちんと葬儀まで行うことを説明すると、なんとか引き下がった。
俺の家には妻と反抗期真っ最中の高校生の娘がいる。部下の遺体を持ち帰ったりしたら、何を言われるかわからない。
家に電話をしてしばらく帰れない事を報告すると、何と言ったら良いのかわからないのか、妻は「大変だね」と言って電話を切った。
しばらく中村の家で中村の遺体と過ごさなければならない。
病院のそばの葬儀屋に電話をするとすぐに車を手配し、警察から指定された検視を行った医院へ向かってくれるという。葬儀屋の仕事の速さと丁寧さには恐怖を覚えるほどだ。
三十分後に葬儀屋の車は到着し中村の家を地図を見せて伝えると車が走り出した。
そういえばと思い、先程検死してもらった医師を検索サイトに打ち込む。医師の名前になんとなく聞き覚えがあったからだ。検索結果を進めていくと、やはりあった。
「手抜き検死医師」
以前、医療情報サイトでも話題に上がっていた医師だ。
その時はシロとなっていたが、そもそも何度も検死を希望する家族なんていない。手抜きかどうかの真相はグレーのままであったが、医学的な矛盾や批判されたページも複数見つかった。
もしかして、中村の検死も手抜きされてはいないだろうか。
警察から聞かされた検死結果は『心臓発作』だった。
まだ三十代後半なのに、そんなことが起こりうるのだろうか。
死亡診断書を読み進めていく。違法薬物の結果は陰性、ベンゾジアゼピン等の向精神薬や睡眠薬は陰性。危険薬物や麻薬は陰性。陽性項目は、エフェドリンとカフェインとテオフィリン。喘息を患っていたから、テオフィリンは検出されてもおかしくない。カフェインだってエナジードリンクを飲んでいたら検出されるだろう。不審な項目はない。
中村は本当に心臓発作で死んだのだろうか?
「到着いたしました」
いつの間にか、中村のマンションに到着していた。
家の鍵は中村のズボンのポケットに入っており、警察から預かった。その鍵を開けて中に入ると、朝のままの状態残されている。決して広くはないワンルームの中央にはテーブルが置いてあったので、それを端によせると棺桶を入れるスペースができた。
あとは葬儀屋から今後の予定について書類をもらい、必要なところにサインをした。
一通り終わり、葬儀屋が家を出ると、その場に座りこんだ。
疲れた。こんなに疲れたのは生まれて初めてだ。
棺桶を開けるとドライアイスの冷気とともに中村の安らかな顔が見える。
「なんで死んだんだよ」
声をかけたところで、返事はなかった。
「渡辺さん、大変申し訳ないのですが、家の保証人になって欲しくて」
そう言ってきたのは三年前。
今住んでいるマンションが道路の拡張工事のために潰されてしまうから出て行かなければいけない、とのことで俺に保証人を頼んできた。
部下といっても、保証人になることは嫌だった。
中村は嘘をつくような人間ではないし、家賃の滞納をするようなほどガサツではない。それはわかっているのだが、保証人という響が判断をにぶらせた。
「お前、親や親戚はいないのか?」
「はい。母は他界していますし、親戚も付き合いがありません」
この時まで中村に身寄りがないなんて知らなかった。三十代で身寄りなしという環境を不憫に思った俺は、中村を信用することにして保証人を引き受けることにした。
「わかった。俺が保証人になろう」
そう言うと、後日書類を持ってきてサインと印鑑を押した。
「渡辺さん、この書類は大切なものなので、家の鍵のかかった引き出しに入れておきます。そして、鍵は1番の箱に入れておきますので、万が一のことがあったら、よろしくお願いします」
「なんだよ、万が一って縁起でもない」
中村は「あはは」と笑っていたけれど、目が笑っていなかった。
ハッとして目を覚ました。
夢を見ていたのか。その鮮明さに夢か現実かわからないほどだった。
そういえば、夢の中でも言っていた鍵のかかった引き出しはどこにあるんだ?
母が亡くなった時に銀行の口座やガスや電気の支払いなどの連絡で苦労した覚えがある。きっとそこに必要な全ての書類があるだろう。
重い体をなんとか起こし、部屋の電気をつける。机には書類やガイドライン、論文など書類が散らかっている。パソコンを見ると書きかけの論文と院内勉強会用と思われる作成中のスライドが表示された。
中村が働き者だった事は知っている。だが、俺の把握している以上の仕事を抱えていたのか。
生きていれば、きっと鈴木君のようになったはずだ。薬局長の座は俺が定年退職したあとに譲るつもりであった。さらに外での仕事を増やしていくつもりだったのに。惜しい人材をなくしてしまった。
中村が言っていた引き出しは机の引き出しのことだろう。鍵がかかっており開かない。
「鍵の入っている、1番の箱ってなんだ?」
それらしき箱がないだろうかと、とりあえず、家の開けられるところを開けてみる。靴箱、キッチンの流しの下、冷蔵庫、カバンの中、薬箱の中。調べて見たがそれらしき箱が見当たらない。
そもそも、1番ってなんだ。箱に1番とでも書かれているのだろうか。
1番?
再度、薬箱を開ける。いくつか薬の箱が無造作に置かれており、その一つが「葛根湯1」と書かれていた。
1番の箱というのはこれか。
漢方薬はメーカーによっては数字が振られている。葛根湯なら1、芍薬甘草湯は68、のように。
葛根湯の箱を開けて葛根湯を出すとその一袋に鍵がテープで貼られていた。
用心深いのか、それとも……。
鍵を使って引き出しを開けると、通帳や書類の束、そして厚みのある茶封筒が三つ出てきた。
茶封筒にはメモがついていた。
渡辺さんへ
これを読んでいるということは私に万が一のことがあった時だと思います。
様々な届出や葬儀など面倒があるかと思いますが、最後のお願いになりますので、何卒よろしくお願いたします。
メモがあるということは、自分が死ぬということを想定していたということか。
メモの下には三本の茶封筒があった。ずっしりとしたそれは、開けてみると現金が入っていた。新札で帯のついている一万円札が百枚。三本の茶封筒の中身は全て同じだった。
わざわざ面倒なところに鍵を隠した理由はこれか。
そして付箋で、「手数料です。使ってください。相続的なことが面倒なので、最初から渡辺さんのお金だと思って使ってくれれば大丈夫です。バレません(笑)」
と、書かれていた。
「馬鹿野郎。こんな金使えるか」
そして、全て出し終わった箱の奥には、遺書と書かれた封筒が入っていた。
俺の名前が書かれていて、恨みを連想するような内容だったら、俺の人生は終わる。その時は燃やして捨ててしまおうか。
遺書を取り出すと、冒頭部分に弁護士事務所の連絡先とサインがある。つまり、弁護士がコピーを保管しているということだ。燃やしたりでもしたら、私文書毀棄罪になる。つまり、俺は逃げられないということだ。
二話 看護師 松岡香織
「ぜんぜん美味しくない。ねぇ、なんで? 焼き鳥もお造りも。鯵のたたきもぜんぜん美味しくない」
ドスンとビールのジョッキをテーブルに置く。割り箸に刺さったきゅうりの一本漬けをつかみ、そのままボリボリとかじる。少し塩辛いきゅうりを食べるとビールが欲しくなり、ジョッキに残ったビールを一気に飲み干す。
「ビールおかわり」
店員を見つけて注文した。
「ちょっと松岡さん、飲み過ぎじゃない?」
「いいの。小山ちゃんも飲みなよ。すいませーん、ビールやっぱり二つで」
小山ちゃんは一杯目のビールだけを飲み干してからは注文をしていない。
「ぜんぜん飲んでないじゃん」
「今日は飲む気になれないよ」
「なんで? 一ヶ月前から予約してたんだよ? 飲もうよ、食べようよ」
私は串焼盛り合わせの皿を小山ちゃんの前に突き出す。普段ならもっとガツガツ食べて飲む。呑んべいの私と飲み比べても劣らないほど。そして、 普段なら聞いてもいない恋バナを延々と話し続けて、上司の愚痴を言いながら大声で笑って、将来の夢について熱く語る。でも、今日は下を向いて黙ったまま。
「つまんなーい。せっかくの小松菜会なんだからさ」
「そうだけど……」
小山、松岡、中村の頭文字を取って『こまつな会』。
なかむーが焼き鳥屋の鳥しげに来ると、焼き鳥はあまり食べずに小松菜の胡麻和えばかり食べるから小松菜会でもあった。今日も小松菜の胡麻和えは頼んだけれど、手付かずで残っている。
「先月も先々月も小山ちゃんが忙しくて集まれなかったんだよ? 三ヶ月ぶりなんだからさー。彼氏との話も聞きたいんだけどー」
店員がビールを目の前に置き、空のジョッキが片付けられる。
「んぐっ、んぐっ……。ぶはっ……」
息が苦しくなるまでビールを飲み込んだ。いっそのこと、このまま窒息死してしまおうかと思うくらいクソみたいな気分だ。
それもこれも全部なかむーのせいだ。
「なかむー、なんでいないの? 一緒に飲む約束してたじゃん。せっかく予約が取れたのに。ここ本当に予約取れないんだから。一ヶ月前に予約して三人で飲もうねって言ったのに」
なかむーが約束破ったことなんてなかった。時間にも遅れたこともない。生真面目な男だった。
なかむーは私たちが上司や新人の悪口を言いすぎていると、まぁまぁなんて言いながらなだめてくれた。楽しくなると隣に座るなかむーを叩いたり、酔っぱらうとハグはんかしちゃってたけど、嫌な顔一つしていなかった。
私の隣にはもう誰もいない。
「なかむー、なんで死んじゃったのよ……」
言葉にすると涙が急に溢れてきた。天井を見上げても涙が溢れて止まらない。頰を伝って首筋まで垂れてくる。涙の後に嗚咽も出てきた。号泣といってもいいかもしれない。
周りのお客さんは私の号泣に気づいて明らかに引いている。でも、そんな事は関係ない。気がすむまで思いっきり泣いてやった。
でも、涙はそのうち枯れ果てるもので、意外にも私の涙は五分で底をついた。たった五分で涙が出なくなった事が悔しかった。私の想いは五分で枯れるほどじゃないのに、なんで涙が止まっちゃうのだろう。
小山ちゃんは何をしているのかと思って見てみると、先ほどと何も変わらず小松菜の胡麻和えをじっとみつめている。
「ねぇ、小山ちゃんは悲しくないの? なんで泣かないの? ねぇ、なんで?」
涙を流さない小山ちゃんが腹立たしい。こっちは涙が枯れた事でさえ悔しいと思っているのに。
「部長から中村さんが亡くなった事を聞いた日にはずっと泣いていました。でも、誰にも言うなって言われて。この気持ちを誰にも言えなくて。私も辛かったのは、わかってください」
「ごめん。そうだよね。小山ちゃんは私よりも先に辛い思いしてるもんね」
小山ちゃんだって辛かったんだ。私は一番辛いのが今だけど、小山ちゃんはもっと前に一番辛い時をすごしていたのだ。小山ちゃんの事情なんて何も考えていなかったことを反省した。
「それと、中村さんが死んだって、まだ思えないんです」
ハッとして顔を上げる。
「部長から直接死んだって聞いたんでしょ? それに、院内のイントラネットで訃報が配信されたじゃん」
「でもっ!」
私の話を小山ちゃんが遮った。
「中村さんがどうして死んだのかわからないし、遺体も見てないから死んだっていう実感がないんです。中村さんが亡くなった時ずっと泣いていたんですけど、泣き止んだら本当は嘘なんじゃないかって思って。ただ体調悪くて休んでいるだけかもしれない、って」
なかむーが実は生きているんじゃないかっていう気持ちはわかる。
「でも、お葬式の日程も出てたじゃん。さすがにお葬式の日程が出て、実は冗談でしたー、なんて事はありえないよ」
「わかってます。でも、中村さんの遺体には会えていないし、カルテだってロックされていて、詳細がわからないし」
小山ちゃんの言う通り、なかむーの遺体には会えていない。検死の詳細だって知らされていない。だから現実感が無い。
「ってか、なんでなかむーのカルテが見れなくなっているの? 普通、患者さんが亡くなってもカルテは見られるようになってるじゃん。もしかして、病院が何か隠しているって事?」
小山ちゃんはハッと顔を上げた。
「隠してる……。何をですか?」
「何って……。例えば、なかむーの死因が言えない、とか」
前のめりになった小山ちゃんの勢いに押されるように、少し後ろへのけぞってしまった。
「死因は心臓発作って言っていました。それなのに何でカルテがロックされているのですか?」
「わかんないけど、何か隠す理由があるからじゃない?」
こちらの質問に質問で返されて、イラつく。しかも、その質問に答えられないからなおさら。
「じゃぁ、小山ちゃんはどう思うの?」
ムカついたからこっちも質問で返してやった。
「中村さんの死は公にできない理由なんじゃないかって思っているんです」
「例えば……。他殺とか?」
きゅうりの一本漬けをかじりながら適当に言った。
「他殺はたぶんないと思います。それならもっと事件性があるから、警察とかテレビとかが病院に来そうだし」
「まぁ、そうだよね。でも、薬剤部長が一日戻ってこなかったって噂で聞いたけどやっぱり何かあったんじゃないの?」
「噂の通り、一日戻って来なかったのですけど、第一発見者ってことで、いろいろ事情徴収を受けていたみたいです」
「もしかして、心臓発作とか言っていたけど、薬剤部長が殺したってこと?」
「変な事言わないでください!」
あまりに小山ちゃんの顔が怖かったので一瞬たじろいだ。
「ごめん……」
酔っ払った勢いとなかむーがいなくなったことによる投げやりな気分であまりに適当な発言をしてしまった。
「疑わない気持ちはない事もないのです。薬剤部の事で意見が合わずに部長と中村さんが喧嘩をしているのは何度も見ていたので」
「なかむーはここでも愚痴ってたしね」
部長となかむーが衝突していたのは私も知っている。
「でも、薬剤部長は人を殺すような人じゃないと思うんです。それにお葬式の喪主を務めるみたいだし、喧嘩はしてもそれなりの信頼関係はあったのだと思うんです」
院内のイントラネットで回って来た電子回覧板は月曜日に葬儀が行われる予定で、喪主は確かに、薬剤部長の名前だった。
「でも、なんで親族でもない薬局長が喪主なわけ?」
「中村さん、家族いないから」
「えっ、そうなの?」
驚いてきゅうりの一本漬けを落としてしまって、あわてて拾った。
「五年前、お母さんが亡くなったから、もう誰も身内はいないです。松岡さんが他の病院にヘルプに行っていた時だったから、中村さんは言わなかったのかも」
親族は母親だけだとは知っていたけど、亡くなっていたのは知らなかった。
「言ってくれれば、お葬式だって行ったのに、なんで言ってくれなかったんだろ?」
「中村さんはあんまり自分のことをさらけ出すタイプじゃないし、他人に心配をかけるのが嫌いなので。私にもお葬式のことは知らせてくれませんでしたし」
「まぁ、そういう人だよね。ネガティブなことはあんまり言わないし、自分が我慢すればいいって思うタイプだよね。私たちには我慢せず自分をさらけだしてくれても良かったのに」
ジョッキの三分の一くらい残ったビールを一気に飲み干す。
「すいませーん」
「松岡さん、もう飲むのやめましょう?」
「わかってるって、ウーロン茶ひとつ」
なんだか飲みたい気分は一気に冷めてきた。それよりも、どうしてなかむーが死んだのかが気になって仕方がない。
「小山ちゃんはなかむーに最後に会ったのっていつ?」
「亡くなる前日です」
「なんか、様子は変じゃなかった?」
「いつも通りでした」
「じゃぁ、なんで死んだの? 死因は心臓発作だとしても、それを誘発するような持病なんてあった?」
「持病は喘息と花粉症とアレルギー性鼻炎と、腰痛と、偏頭痛と……」
「なかむー、病気だらけだね。まぁ、見た目も元気で骨太ってタイプじゃないもんね。どっちかっていったら、虚弱体質系だし。でも死ぬような病気なんてないじゃん」
「あとは……」
他に何か死ぬような病気はないだろうか。死ななくても、何かしらのきっかけになる疾患でも構わない。なんでもいいから天井を見上げてそれらしき疾患が無いか思い出してみるけれど、他に何も思いつかない。
「あとは、たぶんED……」
「EDって、アレが勃たなくなるED?」
「はい……」
「なんでそんなこと知ってるの? もしかして小山ちゃん、なかむーとそういう関係じゃないよね?」
「違います! 前、EDの薬について患者さんに聞かれて、答えられなかったから中村さんに聞いた時があって、その時「俺も飲んだことある」って言ってたから、たぶんEDかもしれない、かなぁって思っただけで」
「それはEDじゃなくて、試しに自分で飲んでみただけでしょ? 薬剤師なら薬の試し飲みくらいはすることあるよ」
「まぁ、そうですけど……」
「ねぇ、もう一回きくけど、なかむーと何も無いよね?」
二人が私の知らないところで「そういう関係」だったら絶対に許さない。
小山ちゃんの目をじっと見つめる。小山ちゃんが嘘をつく時は必ず目が震える。十秒間凝視しても変化がなかったということは、嘘をついていない。
「無いならいい」
小山ちゃんは私からの疑いが晴れてホッとした様子だ。
「でもさ、なかむーってそういう話無いよね。誰かと付き合ったとか別れたとかさ」
「実は、無いこともなくって」
「えっ? あったの? ってか、なんで知ってるの? やっぱり小山ちゃん、なかむーと付き合ってた?」
やっぱり二人の関係はまた疑わしくなってきた。それに、私だけ知らないことがあることも悔しくなって、小山ちゃんを睨む。
「だから、中村さんとは何も無いです。これは信じてください。中村さんはお兄ちゃんみたいな存在だし。お互い迫られてきたら拒否する感じです」
「じゃぁ、なんでそんなことまで知ってるの?」
「薬剤部で抗がん剤を混注するときに二人一組でやるんです。片方が薬を混ぜて片方が確認してみたいな感じで。その時中村さんと一緒になる時があって、いろいろ聞いたんです」
「ここでは話さないのに、そういうところでは喋るんだ」
「私がしつこく聞き出したみたいなところがあるんですけどね」
小山ちゃんは恋話が好きだから誰それ構わず聞いたり話したりすることがある。なかむーが困り顔で答えているのも想像に難くない。
「そもそも中村さんってお酒弱いから飲むと喋らなくなるので、シラフの時に聞いてみたのですけど、ここ数年は彼女はいなかったみたいです。でも、言い寄られている人はいたみたいで……」
「誰から?」
「ちょっと、顔近いです」
あまりの興奮に前のめりになってしまって、小山ちゃんの鼻と私の鼻がくっつきそうな距離まで顔を近づけてしまっていたことに気づき、体を後ろに引く。
「中村さん、実習生に言い寄られていたみたいなんです」
「実習生?」
「薬学部の五年生が年に三回、二ヶ月半の実習に来るのですけど、中村さんをすごく気に入っていた女の子がいて。結構可愛くて、あの子は私から見ても、中村さんのことが好きなんだなぁってことがわかるくらいの態度でした」
「実習生と付き合ってたってこと?」
「実習中は一定の距離を保っていたし、普通の子と同じように接していました。でも、一ヶ月前に二人で歩いていたのを偶然見ちゃったんです」
「どこで?」
「だから、顔近いですって」
私はゆっくりと顔を遠ざける。
「横浜駅の鶴屋町。あの辺りはラブホもあるし、もしかしてって思って。本当なら今日聞こうと思っていたんですけど……」
「でもさ、あの辺は飲食店も多いし、ラブホから出て来たのを見たわけじゃないんでしょ?」
「まぁ、そうですけど」
「じゃぁ、二人が付き合っていたかはわかんないじゃん」
なかむーが若い女と仲良くしていたなんて知らなかった。なぜかすごくイライラしてくる。
「それに付き合ってたら、なんだっていうの? なかむーが死ぬ理由になるわけ?」
これ以上なかむーの恋話を聞きたくなくて無理やり話を戻した。
「なりません」
「じゃぁ、どうして死んだの?」
「薬局長の言う通り、心臓発作だと思うのですけど」
「心臓発作ってVF(心室細動)ってことだよね?」
「たぶん」
「でも、既往歴に心疾患あった?」
「ないです」
「お酒も飲まなかったし、たばこも吸わなかった。脂物もそんなに好きじゃなかったし、他にVFを起こしそうなリスクは……」
「閉店のお時間になります」
店員が私の肩を叩いて伝票を差し出した。
「あっ、すいません。もうこんな時間か」
腕時計を見るとすでに二十三時を過ぎている。明日も日勤だからそろそろ帰らなければいけない。私たちは代金を支払い、店を出た。
結局、なかむーがどうして心臓発作を起こしたのかわからないままだったし、小松菜も手付かずで残ったままだった。
翌日、スマホのアラームが鳴って目が覚めた。
カーテンを開けるとまだ外は薄暗い。いつも通りに支度をしていつも通りに家を出た。
いつにも増して空が青く澄んでいるのが腹立たしい。
電車は時間通りに来たし、車内ではいつもの席にサラリーマンが座ってスマホをみているし、ドアの前では女子高生たちがいつもと同じようにおしゃべりをしている。
なかむーがこの世にいなくなっても世界は何も変わらない。私は喪失感でこんなに苦しいっていうのに。
病院に到着して更衣室でナースウェアに着替える。体から若干の酒臭さがするような気もしたけれど、制汗剤をいつもより多めにスプレーし、フリスクを大量に食べることで誤魔化した。
病棟のスタッフステーションに到着して、今日の勤務表を見てみると自分がリーダー看護師になっていた。完全に忘れていた。でも、昨日の飲み過ぎで若干気持ち悪さがあったので、リーダーのほうがオムツ交換などをしなくて済むのでまだ良かったと思う。ケアをしていたら、たぶん途中で嘔吐していたかもしれない。
八時三十分になると朝礼がいつも通り始まる。なかむーがいなくなってからなんとなく病棟の空気が重く感じる。
うちの病棟は珍しくナースマンのいない女子だけの職場だった。女子だけの職場だと陰口も多くなり面倒なことも少なくない。そんな殺伐とした中になかむーが病棟担当薬剤師としてやって来た。男性が一人いることでスタッフの雰囲気が少しずつ変わっていった。
いつもすっぴんで来ていた四十代のスタッフは軽く化粧をしてくるようになったし、愚痴ばっかりだったスタッフもなかむーに愚痴ると上手くなだめられるためか、穏やかになっていった。
それはなかむーが男子だったことだけではなくて、仕事ぶりをみんなが認めていたからだと思う。カンファレンスでは医師にどんどん意見を言うし、薬の事でわからない事があって聞いたらなんでも答えてくれるし、困った時になかむーに相談するとなんでも解決してくれた。本当に頼れる男だった。だけど、なかむーはもういないのだ。
いつも通り朝礼が終わって夜勤帯で取り逃がしている指示が無いかを電子カルテで確認する。すると、医師からの指示が一つ残っていた。
『アムロジピン2.5mg追加。病棟に上がり次第内服』
リウマチ科の患者である田中さんに降圧剤のアムロジピン追加の指示が出ていた。検温表を見てみると朝の血圧が180mmHgを超えていた。飲ませたかどうか、夜勤の看護師に聞こうかと思っていると、ちょうどその夜勤の安井ちゃんがこちらに向かって来た。
「あの、松岡さん」
「なに?」
「田中さんの朝から開始の薬が無くて」
「もしかして、この八時二十五分の指示のアムロジピン?」
電子カルテの指示を指差して言うと、安井ちゃんは頷いた。
「そうです。まだ飲ませていなかったので、指示は未読にしておいたんです」
安井ちゃんは昨日の夜勤のリーダー看護師だ。夜勤が終わるギリギリの時間でもしっかりと指示を見逃していなかったし、あえて未読にしておくところが偉い。
「薬剤部には電話した?」
「電話はしたのですが、わからないって言われました」
「はぁ!? わからない。そんな無責任な事ある? ってかそれ誰?」
「粕谷さんって人でした」
粕谷という名前に心当たりがある。なかむーが珍しく愚痴ったことのあるババアだ。仕事せずおしゃべりばかりで、注意すると嫌がらせをしてくるババアらしい。気をつけたほうが良いかもしれない。
「じゃあ、今日、病棟来てくれる薬剤師に頼んでみるから。夜勤の安井ちゃんはもうあがっていいよ」
「はい、すみません」
安井ちゃんは少しだけすまなそうに頭を下げた。
「安井ちゃんのせいじゃないから、気にしないで。お疲れ様」
「あっ、はい。お疲れ様でした」
安井ちゃんは夜勤明けで少し疲れた様子でスタッフステーションから出て行った。
とりあえず、もう一度薬剤部に電話をかけてみると、違う男の薬剤師が出たので田中さんのアムロジピンについて聞いてみると、しばらくして「ありましたのでパスボックスに入れておきます」と言われた。あるのかよ、と口に出しそうになったけれどなんとか堪えた。
看護助手さんに薬を取って来てもらおうと思ったけれど、今日は朝からお風呂の介助で全員出払っていたので、仕方なく自分が取りに行く事にした。
最近の病院ではエアシューターが付いていて、すぐに薬が届く仕組みがあるのだけれど、うちの病院はまだその仕組みがない。数年後の改築では取り入れるらしいけど、まだ歩いて取りに行かなければならない。めんどくさいなぁと思いながら薬剤部に向かう。
そういえば、なかむーに「薬が無い」って言ったらすぐに持って来てくれたっけ。少しだけ息があがっているけど、何事もなかったようにしれっと持ってきてくれた。たぶんこの道を小走りで駆けてきてくれたのだろう。たったそれだけのことだけど、いまではとてもありがたいことに感じる。そういえば、病棟で毎朝行われる朝礼に薬剤師はいなかった。なかむーはいつも朝礼にいたのに、別の薬剤師に変わると朝礼には出なくなるのだろうか。
薬剤部に入ろうとすると、一人の薬剤師が出て来た。顔はシミだらけで小汚い五十代過ぎのババアだ。名札を見てみると「粕谷理美」と書かれていた。
こいつがなかむーに嫌がらせをしたババアか。急に心拍数が上がって全身から汗が吹き出してくる。
もしかして、こいつがなかむーを殺したのではないか。直接的ではないが、間接的に。ババアが嫌がらせをして、ストレスを与え続けたからなかむーが死んだ。
ありもしない想像が頭をよぎる。
でも、本当にありもしない想像なの?
ほとんど愚痴を言わないなかむーが私たちに愚痴っていたくらいだ。相当なストレスが溜まっていたに違いない。でも、ストレスだけで死ぬほどヤワじゃなかったはず。
はぁとため息をついて振り向くと、ババアはいつの間にかいなくなっていた。
やっぱり死んだ理由は他にある。
そういえば、ここに来たのはババアに会うためではなく薬を取りに来たのだったと思って、薬剤部にあるパスボックスから薬を取り出す。
ババアがわからないっていったのに、薬はあった。どこにあったかは知らないけれど。
あのババアは薬を探さず、適当に返事をしたのではないだろうか。
無駄にイライラは溜まっていく。こんなことでは、仕事に支障をきたしてしまうので一度トイレに行って落ち着いてから病棟へ戻った。
病棟に戻って田中さんの薬を担当看護師へ渡し、医師からの指示を取っては担当看護師へ仕事を振っていく。
昨日飲みすぎたせいで胃がもたれてしまい、朝食を食べてこなかったのでお腹が減ってきた。時計を見ると十二時なので、新しい指示が無ければ休憩に入ろうかと思っていると、リウマチ膠原病内科の下田医師が声をかけて来た。
「松岡さん、今日はリーダー?」
「そうですけど、何か?」
声を掛けられたということは新しい指示が出るということだ。しかも口頭で言われるということは、おそらく急ぎの指示だ。お腹が空いていたのでちょっとだけ態度が悪くなってしまったのに気付いたけれど、悪びれるつもりなんてない。
「佐藤さんのプレドニゾロンを増量したら血糖が200まで上がっちゃって、ナテグリニド処方したから、昼から飲ませてくれる?」
ナテグリニドは血糖降下薬で、食前に服用する事で食後の血糖を抑えられる。
「先生、もう十二時ですけど」
私はスタッフステーションの壁掛け時計を指差して言った。
ここの病棟は昼食が十二時十五分に運ばれて来る。食前に飲ませるには薬剤部に電話をしてすぐに薬を作ってもらわなければならない。それでも患者さんが薬を食前に飲ませることは難しくて、ご飯を食べるのを待ってもらわなければならないこともある。
「じゃぁ、中村くんに電話しておくよ」
「は? 先生何言ってんの?」
下田先生は自分のPHSのボタンを押して、電話をかけようとする。
「いや、中村くんならすぐにやってくれるでしょ? もしかして今日は休みなの? 病棟にいないみたいだけど」
「冗談で言っているんですか?」
はぁと大きなため息が出てしまう。
下田医師は悪い人じゃないのだけど、こういうところが嫌いだ。
「いつも電話するとすぐにやってくれるから頼めばいいじゃない」
「先生、もしかして知らないの?」
「何を?」
スタッフステーションにいた看護師や事務スタッフの視線が一斉に下田医師に集まる。下田医師はあたりを見回す。何が起こっているのかわからない様子だ。本当に知らないらしい。
「中村さんは、もういないんです」
「あっ、今日は当直明けだった?」
ダメだ。はっきり言わないとわからないみたいだ。
「中村さんは死んだんです」
「えっ、何それ。悪い冗談やめてくれる?」
「冗談はどっちですか。中村さんは死んだんです。何度も言わせないでください」
「いや、そんなわけないじゃん」
下田先生はPHSのボタンを押して電話をかけた。
「もしもし……。中村くん、じゃないの? え、あぁ、そう。じゃぁいいや」
PHSの終話ボタンを押して胸ポケットにしまった。
「ねぇ松岡さん、下田先生は昨日まで学会じゃなかった?」
スタッフステーションにいたメディカルクラークの高橋さんが私に駆け寄り、耳元で囁いた。
「先生、学会に行ってたから知らないの?」
「あぁ、昨日まで学会で神戸にいた」
そういうことか。下田先生は学会に行っていたからなかむーが死んだことを知らなかったのか。それにしても情報に疎すぎやしないだろうか。
「ちょっと待って」
下田先生はPCデスクに戻りカルテを開く。名前検索で中村宏と入れて、カルテを開けようとした。
「先生、カルテを見ようとしても無駄ですよ」
「ロックされてる」
PCの画面には「閲覧は制限されています」のポップアップが表示され、カルテん画面を開けることはできない。何度もIDを入力してみるけれど、結果は同じだ。
「どうして中村君のカルテが開けないの?」
「そんなの、こっちが聞きたいですよ」
「ちょっと待って。いや、なんで、どうして?」
下田医師は困惑した様子であたりを見回す。
「訃報はイントラネットに出ていますから、信じられないのなら確認してください」
下田医師は言われた通りにイントラネットを開き、インフォメーションで訃報を見つけた。画面を見たままピクリとも動かない。
「先生は中村さんの事、何か知らない? 様子が変だったとか」
「わからない。でも、二週間前に診察していて、喘息の発作が起きたからプレドニンを処方した。喘息の調子が悪いのは知っていたけど、死ぬような病気ではないし……」
下田先生は表情が一変し青ざめている。
「あぁ、中村さんのいない病棟は考えられない。進行中の臨床研究だって途中なのに。どうしたらいいんだ」
なかむーは下田先生にも頼られていた。研究まで一緒にやっているとは知らなかったけど、病棟でいつもディスカッションをして薬を決めていたのは覚えている。看護師の私もそうだけれど、下田先生にとっても、なかむーの喪失は大きいのだろう。
「先生、薬はどうするの?」
「えっと、何の薬だっけ?」
「佐藤さんのナテグリニド!」
「あぁ……。夕食前からでいいや」
そう言うと、下田医師はブツブツと何かを呟きながら、ふらふらとした足取りでステーションを出て行った。
「はぁ、ダメだな。ありゃ」
私と医療事務の高橋さんが顔を見合わせて言った。
とりあえず、昼からの薬の指示はなくなったわけだし、スタッフに声をかけて休憩に入ることにした。
休憩室で出勤時に買ってきたパンを食べながらスマホを見ると、小山ちゃんからメッセージが届いていた。
『仕事が終わったら、中村さんの家に行きませんか? 中村さんの葬儀は中止みたいで、明日火葬される予定なので、中村さんに会えるのは今日で最後かもしれません』
即座に「行く!」と返事を送る。
『じゃあ、終わり次第連絡します』
と返信が来て「了解」と即レスした。
葬儀は中止か。うちの病院では福利厚生の一環として、スタッフや一親等以内の親族が亡くなると葬儀は病院持ちで行われる。葬儀が行われない場合は、本人が希望した時。
ということは、なかむーは自分が死ぬことを想定していたということ?
どうして自分が死ぬことがわかっていたのだろう?
葬儀不要の意思を書面か何かで残していたということ?
もやもやした気持ちの中、休憩は終わってしまった。
休憩から戻るとメディカルクラークの高橋さんが声をかけてきた。
「即入来たよ」
即入というのは即入院の略で、外来や救急外来で体調が悪い患者を自宅に帰さずに入院させる場合だ。
「何の患者?」
「あの佐藤さんがまた入院だって」
「またー?」
高橋さんと一緒にがっくりと肩を落とした。
佐藤さんは十代で一型糖尿病を発症し、入退院を繰り返している。カルテを開いてみると、メンタルの不調でインスリンの自己注射をせず高血糖、DKA(糖尿病性ケトアシドーシス)にて入院、と書かれている。
「ほんと、こんな勝手なことやめて欲しい」
これが三度目の入院だ。前回の入院も同じ理由だった。その時に散々医師に怒られたっていうのに、懲りない人だ。
「あと、花井さんは早く来たからお部屋に案内しちゃった」
佐藤さんのカルテを閉じて花井さんのカルテを開ける。乳がん、全身に転移あり。緩和ケア目的に入院。予後二週間程度。他院からの紹介。病院で亡くなることを希望して当院へ。
「乳がんターミナル。予後二週間か」
私たちの西2階病棟は混合病棟で複数の診療科を受け入れている。リウマチ・膠原病科、内分泌科、緩和ケア科。急性期もお看取りも診るので大変だけれど、いろいろな患者を看ることができるから、それはそれで楽しかったりもする。
今日の担当看護師表を確認すると、担当してもらう看護師は二人とも休憩中だった。本当は代わりの看護師に依頼するところだけれど、ちょうど手が空いていたので入院時に記載してもらう書類を渡しに行くことにした。
「佐藤さーん」
佐藤さんは四人部屋の窓際のベッドで、私がカーテンを開けるとかぶっていた布団から顔をだした。顔はノーメイクだし髪はフケだらけだし身なりがだいぶ荒れている。二十歳のくせに若さのきらめきは何一つ感じられない。
「あんた、インスリンを打たないと、こうなることはわかってるでしょ? もう三回目じゃん」
「うっさい」
そう言うと佐藤さんは布団をかぶった。普通の患者さんとはこんな口調でやりとりはしない。佐藤さんの入院は三回目だし、以前の入院時に韓流アイドルの話で意気投合したこともあり、それからタメ語で話すようになっていた。
「なんでインスリン打たなかったのよ」
「死にたかったから」
「なんで?」
「推しに彼女がいた」
「やっぱり。そうだと思った」
そういえば、先日の週刊誌に佐藤さんの推しの韓流アイドル『ミンジュン』のベッド画像が流失して話題になっていた。しかし、ミンジュンだって現実では一人の男だ。女を抱くだろうし、そのうち結婚だってするだろう。そうは言っても、熱烈なファンとしては現実を突きつけられると辛いという気持ちは理解ができる。
「私もショックだったよ。ミンジュン好きだし。でも、それでインスリンを打たないってのは、ないよ」
「あんたにとってミンジュンはその程度のものなんでしょ? 私にとってはミンジュンが全てなの。もう生きる意味がない」
そう言うと佐藤さんは布団を頭まで被ってしまった。こうなったら何をいっても無駄だ。
アイドルは偶像。手の届かないものだけど、ファンにとっては自分の命よりも大切だと思う人もいる。でも、ファンが流出画像をみてショックで死んだところで、アイドルにとってはなんにもならないのだけど。
「入院の書類を置いておくから書いてね。あと、持ってきた薬があったら出しておいて。薬剤師さんが回収しにくるから」
入院書類をサイドテーブルに置いて病室を出た。
はぁと大きくため息をつく。このままじゃいけないと思って、顔を横に振り気持ちを切り替えてから、花井さんの病室に向かった。花井さんは個室希望で病棟で一番奥まった病室に入っている。
「失礼します」
ネームプレートを確認し、ノックをしてから病室のドアを開けた。
「よろしくお願いします」
花井さんはベッドの上で小さく頭を下げた。花井さんは七十代で白髪だけれど綺麗に整えてあり、唇にはうっすらと口紅が塗られている。アイドルのスキャンダルで荒れ果てた身なりの佐藤さんとは大違いだ。
「こちらが入院の書類になります」
一通り入院時の注意点やお願いなどを説明すると、「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
「最近は家で息をひきとることが主流なのでしょう?」
「えぇ、まぁ……」
たしかに余命があとわずかとわかっている場合、病院で亡くなるよりも最後の時間を家族と一緒に家で過ごしてもらうことのほうが主流になってきている。
「本当は家で死にたいのだけど、主人は認知症で施設に入っているし、息子たちは海外で仕事をしているから、家には私一人。だから、ここで死なせてもらうの」
花井さんのように、家で亡くなることができない人は必ずいる。当院はそういう患者を受け入れている。
「いえ、何か困ったことがあったら仰ってくださいね」
「あと少しの間、よろしくお願いします」
花井さんが深々と頭を下げた。それに応えるように私も深くお辞儀をした。
人生に希望を失った二十歳と残り少ない人生を穏やかに過ごそうとする七十歳。
まったく対照的な二人。
生きるって何? 死ぬって何?
そんな新人看護師のような青臭い想いが、久しぶりに湧き出てきてむず痒くなった。
それから、なかむーの代わりの薬剤師さんが病棟に来ると、佐藤さんと花井さんの薬を回収したらすぐに薬剤部へ戻ってしまった。なかむーなら病棟で全ての業務を行っていたけれど、今日の薬剤師はそうではないらしい。
薬を預かったのは、持参薬鑑別といって、入院した患者さんが持ってきた薬の数や使い方を書面にしてくれる業務のことだ。鑑別書を医師に確認してもらい、薬の継続指示をもらって患者さんに返す。しかし、今日はその持参薬鑑別が四時半になってもできなかった。薬剤部に電話するとあと十分はかかるということだ。四時半からは夜勤への申し送りがあるので、他の看護師に持参薬鑑別が終わったらすぐに主治医に確認するよう伝えた。
なかむーなら遅くても四時には持参薬鑑別を仕上げてくれる。仕事は早いし、こちらの事情も見越して仕事をしてくれる。本来なら時間通りに進む仕事が進まないことにまたイライライしまう。仕事が終わったら小山ちゃんとなかむーの家に行く約束をしているので、定時で仕事を終わらせたいのだ。
一度深呼吸をして心を落ち着けてから、夜勤看護師への申し送りを始めた。
申し送りが終わって薬の事を担当看護師に聞くと、持参薬鑑別も終わって主治医に指示をもらえたそうだ。
残りの細かい仕事を終わらせると十七時三十分。小山ちゃんにスマホで連絡をすると、ちょうど仕事が終わったらしく、病院の入り口で落ち合うことにした。
「あっ、小山ちゃんおつかれー」
「お疲れ様です」
小山ちゃんが小走りで駆けて来て、そのまま二人でタクシー乗り場まで向かうと、ちょうどタクシーがやって来て、なかむーの家までの道を伝えると走り出した。
「今日、仕事大変だった?」
「一人足りないので大変でしたけど、何とかなりました」
「私も無理矢理終わらせた」
私も小山ちゃんも、なかむーがいなくて大変だったけれど、最終的にはなんとかなってしまった。
「なかむーがいないのに仕事が回っちゃったのが、ちょっと悔しいんだよね。なかむーがいればすぐに済むこともたくさんあるけど、いなくてもどうにかできちゃったのが悔しい」
小山ちゃんは小さく頷いた。
「例えば、病気で誰か休んだとするじゃん? そうすると周りはその穴を埋めようする。やってみるとその穴って意外に埋まっちゃったりするの。それなら最初から一人いなくても良かったんじゃないかって思っちゃう。もちろん、周りが頑張っているからなんだけど、その頑張りを毎日続けるのは大変だからやっぱりその人はいたほうがいいよねって事になる。でも、なかむーはそういうのじゃないと思うの。代わりがいなくて、誰かが代わりをしようとしても、やっぱり違うなって思うんだよね。うまく説明できないけど、貴重な存在だった」
「薬剤部には他に二十人薬剤師がいるのですけど、たぶん中村さんの代わりをできる人はいないと思います」
「やっぱりそうだよね」
なかむーのアパートの近くでタクシーは止まって、代金を支払って降りた。
以前に何回か行ったことがあるのでうっすら覚えていたのだけれど、改めて見るとなかむーのアパートはボロい。おそらく平成初期に建てられた単身者、学生向けのアパート。玄関口でインターホンを押すと「はーい」と返事がしてしばらくするとドアが開いた。
出てきたのは薬局長だった。白衣は着ていないけれど見たことはあったので顔はわかる。ただ、だいぶやつれている。
「あっ、お疲れ様です」
小山ちゃんは頭を下げて、私もちょこっと頭を下げた。
「どうぞ」
私たちは狭い玄関で靴を脱ぎ部屋に入る。1Kのアパートはキッチン兼廊下の反対側にバストイレがあり、そこを覗くとゴミ袋が三つ積み重なっている。
「これでもだいぶ整理したんだけどね、まだまだ時間がかかりそうだよ」
リビングの真ん中には棺桶があり、その周りは綺麗に片付けられている。
私たちはなかむーの元までゆっくり進み、一度顔を見てから線香をあげて、空いているスペースに腰を下ろした。
「そちらは?」
私の方を向いて聞いてきた。私は薬局長の事は知っているけれど、向こうは私を知らなかったらしい。
「西二階病棟の看護師の松岡です。中村さんとは一緒に仕事をしていて、いつも助けてもらっていました。今回このような事になってしまったのは、とても残念です」
「あぁ、そうだな」
「あの……。し、死因は?」
聞こうかどうか躊躇していたが、質問が口から滑り出てしまった。
「心臓発作だ」
噂通りの病名だった。
でも、本当?
もしかして、何かを隠してない?
どうせ私の事なんて覚えていないのだ。仕事で支障が出ることもなさそうだし、聞きたいことは全て聞いてやろうと前のめりになる。
「それならどうしてカルテが開けないようになっているのですか?」
「スタッフが中村のカルテを開けようとしてサーバーがパンクした。システム課曰く、業務に支障が出たそうだ。だからロックした。誰であれ、他人のカルテをただの興味本位で見るのはいけないことだ。プライバシーだからな」
薬局長はギロリとこちらを見た。釘を刺されてしまった。少しの罪悪感で次の言葉に詰まってしまって沈黙が訪れる。
「そういえば、薬剤部はどうだ? ちゃんと回っているか?」
「はい。一人少なくて大変ですけど、なんとか」
小山ちゃんと薬局長が仕事の話を始めた。私は横ですることがないので部屋を見渡していた。かつて三人で飲み明かしたこともある部屋ではあるが、あの時よりだいぶ散らかっている。
本棚には相変わらず本がびっしり並んでいるし、入りきらない本は床に積まれている。八割医療系の本で二割がビジネス書。なかむーは本が大好きだった。通勤中に歩きながら本を読んでいるのを何度か見たことがあったことを思い出す。
そして、本棚の横の壁に一枚の写真が画鋲で貼られていた。
なかむーと女の子が一緒に薬剤部で写っている。なかむーの髪型が今と違うから数年前のものだろう。女の子は二十代くらい、おそらく薬学部の実習生が実習に来た時だろう。先日の飲み会で小山ちゃんが話していた実習生とはこの子のことかもしれない。
わりと綺麗めですらっとしたその女の子は、なかむーの好きなタイプではなさそうだし、仲は良さそうな気はするけれど、男女の関係と言うよりも師弟関係のように見える。
二人並んで笑顔でピースサインをしている。写真を見るともうこの笑顔が見れないなんて思うと胸が苦しくなってくる。
「いろいろ終わるまでここにいるつもりだから、薬剤部を頼むぞ」
「はい」
二人の話が終わったみたいだ。
「もう一度、顔を見てもいいですか?」
「ああ」
あまり長居をするのも良くないと思い、もう一度顔を見たら帰ろうと思った。
さっきは線香をあげるため、じっくり顔は見れていなかったので、こんどはゆっくりと棺桶の中を上から覗く。なかむーの肌は艶がなく青白い。やはり眠っているのではなく、死んでいることがわかる。
「なかむー、なんで死んじゃったのよ。また一緒に鳥しげ行くって言ったじゃん。なかむーがいないと病棟回らないよ。なかむーじゃなきゃダメなんだから」
仕事で何度も見た人間の亡骸。見慣れているはずなのに。顔を見ると涙と一緒に本音も溢れてしまった。
「ねぇ、なかむー。なんとか言ってよ」
死人に何を言っても返事がないことくらいわかっている。でも、一度出た言葉はなかなか止められない。
「私、結構なかむーのこと好きだったんだから」
そう言ったら涙が滝のように流れ出してきて、大きな声を出して泣いた。
しばらくすると涙は枯れてしまって、小山ちゃんが私の肩にそっと手を当てた。
「ごめん」
一人で大泣きしてしまった。
「もう帰ろう」
小山ちゃんの声にゆっくりと頷いて、荷物を持って玄関に向かった。
「じゃあ、私たちはこれで失礼します」
小山ちゃんが言うと、薬局長は何も言わず深々と頭を下げた。そのまま私たちはなかむーのアパートを出た。
「公園で休んでもいいかな?」
「うん」
小山ちゃんが公園のベンチに座ると、そのまま顔を両手で覆い下を向いた。手の隙間から涙がポタポタと垂れている。私は小山ちゃんの横に座り優しく抱き寄せる。
「さっきは一人で泣いてごめんね。小山ちゃんだって辛かったのに」
ううん、と首を振った。
もう涙が枯れたかと思った私もまたじわじわと涙が溢れてきて空を見上げた。
輝いている満月は涙で歪んでいた。
なかむーは死ぬ前にどんなこと考えていたのだろう。
苦しかったかな? それとも苦しまずに逝ったのかな?
私たちには何もわからない。本当に何も。
小山ちゃんが泣き止んで帰ろうとした時、一人の女性がなかむーのアパートに向かっていく。そのまま目で追っているとそのまま部屋に入っていった。
その女性は写真に写っていた女の子によく似ていた。
三話 薬学生 八田梨花子
中村さんから資料が送られてきたのが昨日の夜。内容を確認し「金曜日に打ち合わせをしましょう。金曜日の十九時にご自宅に伺います」とメッセージを送った。
中村さんの自宅に行く事にしたのは、オンラインでの勉強会はネット環境や映像映えなどの確認が必要で、なんて言い訳をつけたけれど、実際は前回のデートが原因だ。
先日の学会で中村さんに再開し、食事をした。その後、中村さんの家に行ったのだけれど、私が酔っ払って眠ってしまった。きっと何かをされるものかと思って期待していたけれど、何もされず紳士な対応をされてしまい、悔しかった。
酔っ払って寝てしまった事も申し訳なかったし、好きな人の家に行ったにも関わらず一度も触れられなかった事も自分に魅力が無いようで情けない。
紳士的な対応は私を想ってのことだったのかもしれない。でも、中村さんが私に気があるかどうかきちんと確かめたかった。だから言い訳をつけて、再度自宅にお邪魔することにしたのだ。
金曜日の夜は電車も少しだけ人が多かった。駅のトイレで身なりを整えて中村さんの家に向かう。
準備は万全にしてきたはずだ。普段はパンツにブラウスというシンプルな服装で出かけるけど、今日は女の子らしい服が良いかと思って、ベージュのコートの下には白のニットワンピースを着て来てしまった。ちょっと可愛すぎてキャラじゃないかもしれないけれど、頑張ってみようと思って先週買ったものだ。
話す内容だって決まっている。事前資料の内容で掘り下げたい箇所についても考えてきたし、それが終わった後のおしゃべりのテーマまで考えて来た。手土産だってリュックに入っている。デパートで買っておいたクッキーと紅茶だ。食べながらおしゃべりをしたらきっと楽しいだろう。考えただけでウキウキしてくる。中村さんのマンションが見えてきた。気持ちを抑えられず小走りになってしまう。
一度、表札を確認し呼び鈴を押す。ピンポーンと音がなり、ドアが開いた。中村さんが出てくるのを笑顔で待ち受けた。しかし、そこから出て来たのは中村さんではなかった。
「えっと、どちらさまでしょうか」
年齢が五十代前後と思われる男性が立っている。部屋を間違えたのかと思い、表札を確認したけれど、やはり中村と書かれている。もしかして、この人は中村さんのお父さんだろうか。いや、顔は全く似ていない。でも、どことなく見覚えのある顔を記憶の奥から引っ張り出す。しかし、思い出すことができない。このまま何も言わないのは失礼かと思い、とりあえず挨拶をしようと思った。
「私、八田と言います。中村さんには実習でお世話になりました」
実習と口に出した瞬間に記憶が蘇った。この人は中村さんの病院の薬剤部長だ。
「あぁ、あの時の。本日はお忙しい中、来ていただいてありがとうございます。どうぞ中へ」
薬剤部長の妙な敬語と中村さんが出てこなかったことに違和感を覚えながらも「はい」と言って玄関で靴を脱ぐ。
「あの、中村さんは」
「こちらです。良かったら声をかけてやってください」
薬局長が手を差し出した先には、棺があった。
まさか、そんなことがあるはずはない。
恐る恐る棺に近づき、小窓を開ける。
するとそこには真っ白の顔の中村さんが眠っていた。
私はその場に膝から崩れ落ちた。
三年前、中村さんと出会った。
私はみなとみらい大学薬学部の五年生で、本牧病院に実習に向かった。
実習初日は八時十五分に来るように言われていたけれど、道に迷って遅刻してはいけないと思い、七時半には病院に到着していた。
薬剤部の場所は病院入口の地図を見て探した。迷うかと思ったけれど、むしろちょっと早く着いてしまい薬剤部の前をウロウロしていると、スタッフが薬剤部から出てきて、薬剤部の休憩室で待っているように言われて案内された。
これからどんな実習になるのだろう。ワクワクした気持ちが強かったけれど、一抹の不安もあった。すでに病院実習を済ませた友人の話だと病院薬剤師は必ず怖い人がいるらしい。病院という厳しい世界で働いていると、性格もきつくなるらしいのだ。
担当する薬剤師が怖い人だったらいやだなぁと思って待っていると、狐のようにつり上がった目をした男性が入ってきた。
「おはよう、実習担当の中村です。これからよろしく」
目つきは悪いけれど、話し方が予想外に優しかったので拍子抜けしてしまう。
「早いね」
「いえ」
腕時計を見るとまだ八時前。確かに約束の八時十五分よりもだいぶ早い。
「中村さんはいつもこの時間には仕事しているのですか?」
「七時半には病院にいるかな。早いドクターは七時に来ているし、普通じゃないかな」
始業時間の一時間前に来て仕事をしている。それが病院薬剤師にとって普通なのだろうか。
中村さんは休憩室の冷蔵庫を開けてエナジードリンクを取り出して一気に飲み干すと、そのままゴミ箱に捨てた。一気飲みしないでください的な注意書きが書いてある気がして、心配になってしまう。
「じゃあ、ちょっと仕事してきていい? 時間になったら戻ってくるから。それまでにこの資料に目を通しておいて」
実習予定表と調剤マニュアル、病院パンフレットなどの書類を私の前に置くと、返事も聞かずに早足で出て行ってしまった。
それからしばらくして、次々とスタッフが休憩室に入って来る。私は「おはようございます」と「これからよろしくお願いします」を交互に言っては頭を下げた。他のスタッフはもう少し来るのが遅く、のんびりと仕事の準備をしはじめていた。
調剤マニュアルを読みながら待っていると、中村さんは約束通り八時十五分ぴったりに戻ってきた。
「それじゃあ、今のうちに実習の話をしておくね」
息が上がったまま中村さんは話を始めた。八時三十分に薬剤部で朝礼があること、使って良いロッカーの事、お昼ご飯の事、これからの実習で注意しなければならない事などを早口で説明した。
「それと、実習を行うにあたって目標を立てて欲しいんだ」
「目標……」
実習を通じてなるべく多くのことを学びたいと思っている。でも、目標を聞かれると明言できない。
「すぐには見つからないと思うし、途中で修正しても良いと思っている。でも、なるべく具体的にして欲しいんだ」
具体的な目標を立てられるだろうか。そう思って顔を上げると中村さんの顔があった。とりあえず、中村さんから学べることをしっかり学ぼうと思った。
中村さんの話ぶりは生き生きしていて、ちょっとかっこよかった。大学でこういう人はあまりいなかったので新鮮に感じていて、素敵な薬剤師と一緒に実習ができることに胸をときめかせていた。
しかし、その胸のときめきはすぐに崩れた。
最初の二週間は調剤室での実習で、午前中は調剤や監査の仕方について学んだり、午後はがんや感染症などの専門薬剤師から講義を受けたりした。その間に気付いたのだけれど、中村さんは目つきが悪いくせに、いじられキャラだった。
「なかむらさーん、ちょっとそれとってー」
「なかむらさーん、トイレ行き過ぎじゃなーい?」
「なかむらさーん、わたし来月誕生日なんだけどー」
十歳以上年下と思われる薬剤助手(薬剤師ではないスタッフ)に、いつもいじられていた。それでも嫌な顔などせず、ヘラヘラとしていた。堂々としていれば良いのに言われるがままで、出会った時の素敵な印象はすぐに消え去っていた。
いじられている様子は、まるで近所に住んでいた私の弟分だった。いじめられてはいつも私が助けていた。私を姉のようにしたってくれたけれど、それは小学生までの話で背が伸びるにつれて逞しくなっていき私に頼ることはなくなってしまった。もうそれからは会っていないけれど、もしかしたら今は中村さんのようになっているのかもしれないなと思った。
でも、ヘラヘラしていたのは年下だからだったみたいだ。
ある日、中村さんが薬剤部長に強い口ぶりで怒っているのをみた事があった。
昼休みに薬剤部長室の前を通り過ぎようとすると、中村さんと薬剤部長の声が廊下まで聞こえてきた。
「どうして実習生のための時間を減らすのですか」
「スタッフの超勤時間を減らすためだ」
「実習生はどうだっていいって言うのですか?」
「そうは言ってない。実習生よりスタッフのほうが優先順位が高い。それはわかるだろう?」
「実習生からは実習費を一人あたり約三十万もらっているんですよ。それに値する実習を提供しないとそれは詐欺です」
「充分な内容は提供しろ」
「ですから、そのための時間をください」
「それはできない。時間内でやれ」
「もっと優先順位の低い仕事がたくさんあるのに、学生実習のための時間を後回しにするのはおかしいですよ」
立ち聞きするつもりはなかったのだけれど、足を止めてしまっていた。これ以上は立ち聞きするのは良くないと思い、立ち去ろうとすると隣に粕谷さんがいた。
「あの人、時々ああなっちゃうのよ。怖いでしょう?」
「いえ」
「私も一緒に病棟をやっていた事があったのだけど、強い口調で言われて怖かったのよ。あれがダメだ、これがダメだとかね。ちゃんとやっているのにね」
粕谷さんには悪いけれど、粕谷さんはたぶん本当にダメだったのだろう。仕事ぶりを見ていればわかる。調剤室にいても、ほとんどおしゃべりばかりで仕事をしていない。ちょっと調剤室を出たと思えば一時間は帰ってこない。こうやって人の悪口を言って足を引っ張ることが好きなのだろう。
「それでね、あのひと」
粕谷さんが何かを言いかけた時、部長室から中村さんが出て、早足でどこかへ向かっていく。
「すいません、ちょっと用事思い出しちゃって」
「あら、そう」
この人と一緒にいると無駄に嫌な気持ちが増殖してきそうで、嘘をついて中村さんを追った。
中村さんは廊下を早歩きで進んでいく。私は後ろから駆け寄り声をかけた。
「あの、中村さん」
中村さんは驚いた様子で振り向いた。
「あの、さっきの」
慌てて追いかけてきたら息が上がってしまったこともあり、言葉に詰まってしまった。
「もしかして部長室での話、聞いてた?」
中村さんは気まずそうな顔をしている。
「すみません。外まで聞こえてました」
「そっか」
「私たちのために、ありがとうございます」
追いかけても、どうしても伝えたかった。こんなに熱い気持ちで実習をしてくれているのが嬉しかった。でも、中村さんは小さく首を振った。
「ちがうんだ。良い実習を提供はしたいとは思っている。でも、それ以上に自分の仕事に納得できないのが悔しい」
なんとなくわかるような、わからないような気分で言葉が出なかった。
「ちょっと嫌な気分にさせちゃったかな。午後の実習は気分を切り替えて、頑張ろうね」
私が「はい」と返事をすると早足で病棟へ行ってしまった。
二週間の調剤室での実習が終わると、病棟での実習が始まった。
病棟実習で中村さんと一緒に灰谷新一さんを担当した。
灰谷さんは小学校教員で体育の授業中に呼吸が苦しさを自覚するようになり、近所のクリニックに受診したところ喘息と診断されたが、薬を使用しても良くならないため当院へ受診した。たまたまリウマチ膠原病科の幸田先生が内科外来の担当だったため、血液検査に膠原病の項目を追加していて強皮症、間質性肺炎が発覚し、即日入院となった。
「持参薬はあった?」
「はい、前医の喘息の薬だけで、先ほど主治医の幸田先生から全て中止の指示をもらっています。その旨はリーダー看護師さんにも伝えておきました」
「さすが、仕事が早いね」
私はフフンと鼻をならす。中村さんから言われそうなことは想定済みだった。
「それじゃぁ、今日から使用しているステロイドと免疫抑制剤に加えて、明日にシクロホスファミドを投与することになったってことは幸田先生から聞いているね?」
「はい、聞いています」
「ステロイドと免疫抑制剤のシクロスポリンについては俺の方から説明しておいかたら、あとはシクロホスファミドの説明なんだけど、準備は出来てる?」
「バッチリです」
中村さんから事前にやることは聞かされていたので、準備の時間をもらって説明書を作成し、薬についても質問が来ても良いように、しっかり勉強はしておいた。
「じゃぁ、灰谷さんの部屋に行こうか」
中村さんと一緒に灰谷さんの部屋に向かい、ノックをしてから病室に入室する。奥さんが小さな息子を抱っこして一緒に部屋にいた。それぞれに頭を下げ「実習生の八田です。よろしくお願いします」と言ってから薬の説明を始める。点滴の作用や副作用、点滴時間や注意点などを説明し、書面を渡した。
内容は理解してもらえたみたいで説明書きを受け取ると、灰谷さんはベッドに背中を預けた。すこし呼吸が苦しそうにみえる。酸素2Lを鼻から投与しているがサチュレーションモニターを見るとSPO2は95%前後。普通の人なら血中酸素濃度は100%から99%なので少し低いことがわかる。
「それでは、また伺いますね」
小さく頭を下げて部屋を出た。
「薬が効くといいですね」
明日から始まるシクロホスファミドはリンパ球の数や機能を下げることで、抗炎症効果をもたらし、間質性肺炎を改善させる効果がある。これできっと良くなるだろうと思っていた。しかし、中村さんの表情は渋い顔をしている。
「ところで、シクロホスファミドはどういう目的で使用するかわかる?」
「間質性肺炎の治療目的です」
当たり前のことを聞かれて、拍子抜けしてしまう。
「灰谷さんは確かに間質性肺炎なんだけど、皮膚筋炎を合併している。それがどういうことかわかる?」
「えっと……」
昨日は間質性肺炎とシクロホスファミドの勉強ばかりで、皮膚筋炎の勉強はしていなかった。皮膚筋炎が間質性肺炎に関係しているかなんて見当もついていなかったので、勉強を後回しにしていたのだ。
「進行性皮膚筋炎に間質性肺炎が発症すると、予後が悪い。二週間以内に亡くなった症例も報告されている」
「えっ……」
効くといいですね、なんて言ってしまった自分が恥ずかしい。効くといいですねではなくて、効かないと命を落とすかもしれないということだ。
「でも、いくつか結果待ちの検査値がある。それで予後が良いのか、悪いのかがわかる。結果が出るまでに勉強しておいてね」
「はい……」
自信を持って薬の説明はしたけれど、患者さんの予後なんて考えてもいなかったし、病気のことも勉強が浅かった。自分の至らなさを痛感した日だった。
シクロホスファミド投与後、副作用はなく二週間が過ぎたけれど、状態の改善はなかった。
「おはよう。今日も早いね」
「おはようございます」
薬剤部のPCで患者さんの情報をみていると中村さんがやってきた。中村さんの出社時間はだいたい七時半。それよりも早く来れば中村さんより早く患者さんの情報を得ることができるので、七時に来ることにしている。
「八田さん、灰谷さんは今日二回目のシクロホスファミドの投与予定だけど、今の状態はどう評価しているかな?」
「SPO2(血中酸素濃度)が少しずつですが下がってきていて、呼吸状態は悪化していていると言わざるを得ません。血液検査は炎症を表すCRPは横ばいか少しだけ上昇、間質性肺炎の状態を表すKL -6も低下していません。全体的に状態は悪化しています」
「MDA-5とフェリチンは?」
前回、勉強していなかった検査値だ。
「低下していません」
「つまり、どういうことかわかる?」
私の口から言えということか。
「MDA-5とフェリチンが高値の場合、皮膚筋炎を伴う急速進行性間質性肺炎の予後は不良です」
「そうだ。データは良く読めているね」
「本日は二回目のシクロホスファミドの投与予定です。それで良くなればいいのですが……」
シクロホスファミドを投与しても、大きな改善は見られなかった。今回効いてくれればいいけれど、希望は持てない。
「これから何かできることはないかな?」
「えっと……」
何をしたら良いのだろうか。このまま死を待つだけなのだろうか。
考えて見たものの、自分にできることが思いつかず、うつむいてしまった。
「じゃぁ、灰谷さんのところに行こうか。答えがあるかもしれない」
「はい」
答えは現場にある。それが中村さんの口癖だった。
私たちは薬剤部を出て一緒に病棟に向かう。ここで悩んでいても仕方がない。答えを求めて歩き出すしかないのだ。
始業前の病棟までの道は朝食の片付けや朝の投薬やらで看護師がバタバタしている。それを横目に西二階病棟へ向かっていくのだけど、その間は、ちょっとだけおしゃべりの時間がある。
「中村さんは何かスポーツをしていましたか?」
後ろ姿を見ていると、左右のバランスが悪い。体幹が弱い気がして聞いてみた。
「高校まではサッカーをしていた」
「えっ!? 嘘?」
「嘘って、どういう意味?」
「サッカーやっていたわりに、体幹弱くないですか? 歩くとき芯がブレていますよ」
「まぁ、だいぶ衰えちゃったから」
高校生の中村さんが生き生きとサッカーをしていた姿を想像するとちょっとかっこいいけれど、今の姿じゃ五分で足がつっている想像しかできない。
「もうサッカーはやらないのですか?」
「仕事が落ち着いたらやりたいけどね。でも、喘息もちょっと悪くなってきているから始まってすぐに走れなくなりそう」
中村さんはそう言って、自虐的に笑った。
そういえば、中村さんは吸入薬を吸っているのを見たことがある。やっぱり喘息だったのか。
「でも、水泳の寺川綾さんやスピードスケートの清水宏保さんは喘息でもメダリストですよ」
「あれは特別な人たちだから」
「そんなことないですよ。中村さんだってきっと」
「喘息もあるけど、もともと体力はないから一緒にしないで欲しいよ。風邪ひいたって治るまでに二週間かかるくらいだし」
「弱っ」
ついつい本音が出てしまった。しまったと思い、中村さんをチラ見したけれど、聞こえなかった様子で廊下を歩いていく。
「八田さんは何かスポーツをしてた?」
「剣道をやっていました。初段です。インターハイではベスト16までいったんですよ。それと、最近はフルマラソンにも挑戦していて、この前のレースでは四時間を切ったんです」
「すごいじゃないか」
えっへんと胸を張る。努力をして結果を出すことは好きだ。
「中村さんもフルマラソン走りませんか?」
「僕は無理だよ」
「やらずに諦めちゃダメですよ。夢は必ず叶うって高橋尚子さんが言っていましたし」
「諦めちゃダメか……。酷なことを言うんだね」
「大抵の事は努力すればなんとかなります!」
ガッツポーズをしながら言うと中村さんは苦笑していた。
楽しいおしゃべりの時間はあっという間で、灰谷さんの部屋の前についた。
「失礼します」
ノックをして部屋に入ると、灰谷さんは背中を約60度まで上げられたベッドに体をあずけている。横になっているよりも起きているほうが呼吸をするのにラクなのかもしれない。
「おはようございます」
入室した私たちに気づいたのか、うっすらと眼を開けて言った。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
「まあまあかな」
「息苦しさは先週と比べていかがですか?」
「ちょっと悪くなっている気がするよ」
二週間前は酸素を鼻から投与していたけれど、今は酸素マクスで投与しており、流量を見ると6Lだった。酸素流量を上げていても、息苦しさは悪化しているみたいだ。酸素投与量を増やした方が良いかもしれない。
「もう少し酸素量を増やせないか、先生と相談してみますね」
「お願いします」
中村さんにアイコンタクトを送ると、中村さんは小さくうなずいた。酸素流量を増量するのは問題ないということだ。
「本日は二回目のシクロホスファミドの投与になります。前回と同じスケジュールでおこないます。何か気になることはありませんか?」
「大丈夫です」
灰谷さんは今のところ息苦しさ以外に自覚する体調不良はなさそう。息苦しさが一番の問題点だろう。
「それでは、また伺いますね」
私たちは灰谷さんに軽く頭を下げると病室をでた。すると、ちょうど主治医の幸田先生を廊下で見つけたので駆け寄る。
「幸田先生、灰谷さんなのですが息苦しさが悪化しているようなので、酸素流量を6Lから8Lにあげてはどうかと思うのですが、いかがでしょうか?」
「いいよ、8Lにあげようか」
「はい!」
提案を幸田先生が受け入れてくれて、よし、と心の中でガッツポーズをする。
「じゃあ、よろしくね」
幸田先生は中村さんを見てそう言うと、別の患者さんの病室へ入って行った。
「提案が通って良かったじゃない」
「えっ、あっはい」
違う。私の提案は通ったけれど、後ろに中村さんがいたから提案が通ったのだ。だって、幸田先生は私のことを全然見ていなかったもの。
幸田先生の中村さんへの信頼は絶大なことは知っている。自分は学生で実力が不十分だってこともわかる。早く中村さんのように認められたい。
「じゃあ早速、酸素流量を上げてこようか。それと担当看護師さんにもこの旨は伝えておくように」
「はい」
認められるようになるには、成長するしかない。そのためには、やるべきことを一つ一つこなしていくしか道はない。去りゆく中村さんの背中を見て、早く一人前の薬剤師になりたいと思った。
二回目のシクロホスファミドを投与したあと、状態は右肩下がりだった。
カルテを見ながら大きなため息をつく。
「おはよう」
「あっ、おはようございます」
振り返ると中村さんは今日も左手にエナジードリンクを右手にゼリー飲料を持ち、交互に口をつけている。
「それ、朝ごはんですか? もうちょっと、ちゃんとしたものを食べたほうがいいんじゃないですか?」
「そう思うけど、なかなかできないんだよね。八田さんはちゃんと朝ごはん食べてくるの?」
「今日は目玉焼きと焼き鮭とコールスローサラダとご飯を食べてきました」
「八田さんは一人暮らしだったよね。自分で作っているの?」
「もちろんです。朝食は一日を過ごすための大事なエネルギーです。朝早く起きて、朝ごはんとお弁当を一度に作っちゃうんです。そうすれば効率もいいし、食費も節約できるので」
「すごいね」
「中村さんはご飯作ってくれる彼女とかいないんですか?」
「いないよ」
「じゃあ今度、中村さんのご飯も作ってきます。おにぎりでいいですか?」
「いや、でも……」
「気にしないでください。一人分作るのも二人分作るのも手間はそれほど変わらないんで。それに中村さんの体調も心配ですし」
中村さんを見ていると薬剤師としての頼り甲斐はあるはずなのだけれど、無理をしているようにも見えるから、世話を焼きたくなってしまう。ちゃんとご飯は食べて欲しいし、元気でいて欲しい。彼女がいないのなら、私がご飯を作ってあげないと倒れてしまうかもしれない。
「じゃあ、今日も張り切っていきましょう!」
私が右手を挙げると、中村さんは苦笑した。そして、灰谷さんの病室へ向かった。
ノックをして入室すると、灰谷さんは眠っていなかった。
「こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
苦しそうな様子はあるものの、笑顔を向けてくれたのは調子が良いことの証拠だろう。
ふと、ベッドテーブルを見ると便箋とペンが置かれている。
「手紙を書いていたのですか?」
「妻と、子供と、生徒にね」
苦しさがひどいのか、言葉は途切れ途切れに紡がれる。
灰谷さんはまだ三十八歳。お子さんも小さい。亡くなったあと、残された家族はどうなるのだろう。
「今のうちに、伝えたいことを、手紙に、しておかないと」
頭の中で「手紙」という言葉に「遺書」というルビが振られる。灰谷さんは死を覚悟している。
「これ、生徒に、向けた、手紙、なのだけど、内容が、これで、良いか、読んで、くれないか」
灰谷さんはテーブルの上の手紙を差し出した。
『三年二組のみんなへ
先生は肺の病気になってしまって、
どんどん息が苦しくなっています。
ちかいうちに呼吸ができなくなり、
先生の人生は終わるでしょう。
みんなが卒業する姿を見られなくて、とても残念です。
そして、最後まで授業ができなくて、ごめんなさい。
お見舞いに来てくれて、ありがとう。
みんなと一緒に過ごせた時間は、最高の宝物です。
これから、辛いことはたくさんあると思うけれど、
楽しいことは、それ以上にある。
みんなも精一杯生きて欲しい。
灰谷新一』
私は涙を流しながら手紙を返した。
「どうかな?」
「わかりやすくて、よかったと思います」
自分の言葉があまりにありふれたつまらない言葉で嫌になる。
「でも、どうして私に見せたのですか?」
「がんばっている、生徒を、見ると、応援したく、なるから」
そう言うと、灰谷さんは笑顔で目を閉じた。
頑張っている生徒というのは、きっと私のことだろう。灰谷さんに私ができることは何もないと思っていたけれど、何かあるはずだ。もう一度考えてみよう。
それから、灰谷さんの酸素投与量は8Lに上げて、二回目のシクロホスファミドを投与したけれど、息苦しさは変わらず、SPO2はついに90%を切ってしまった。
他に方法はないか。私はずっと考えていた。家に帰って来て教科書を見直したり、土日には大学の図書館に行って専門書を読み漁った。やはり、現在の治療方法はステロイド大量療法、シクロスポリン、シクロホスファミドの三剤併用療法は標準的だ。それでも諦めたくなくて、他に方法はないかと、論文検索サイトで探してみると今と少し違う治療方法を見つけた。この方法なら良くなるかもしれない。明日のカンファレンスで提案してみよう。
「おはようございます」
「あっ、おはよう」
今日は中村さんの方が出社が早かった。というよりも、私が遅くなってしまった。
「中村さん、朝ご飯はもう食べましたか?」
「まだだけど」
「良かったらこれ食べてください」
「これは?」
「中村さんの朝ごはんです。ついでに作ってきちゃいました」
カバンから包みを出して差し出す。出社が遅れた理由は中村さんの朝ごはんをつくってきたからだ。お弁当箱を開き「おー」と小さく感嘆した。
「卵焼きと唐揚げとおにぎりが二個も入ってる。すごいね」
えへへと鼻の下をこすりながら緩くなった口元を手で隠す。
「おにぎりはおかかと鮭です。からあげは昨日の夕飯の残りを入れてきました」
中村さんは嬉しそうに、でもちょっと恥ずかしそうにそれを頬張った。それを見ていると一生懸命作った甲斐があったというものだ。あっという間に食べきり歯磨きも終えると一緒に病棟に向かった。
「朝ごはん、ごちそうさま」
「お粗末様でした。あと、お昼のお弁当は休憩室の冷蔵庫に入れておいたので、それも良かったら食べてください。朝と同じランチクロスで包んでありますので」
「ありがとう。でも、ここまでしてもらってなんか悪い気がするな」
「気にしないでください。好きでやっていることですから。もし嫌なら言っていただければやめますので」
「ありがとう。でも、八田さんは大変じゃない?」
「朝早いのはは慣れています。高校生の時まで朝五時に起きて部活の朝練行ったりしていたので、早起きは得意なんです」
「僕は朝苦手だからなぁ。羨ましいよ」
中村さんはそう言って、エナジードリンクを飲みほした。
「でも、中村さん無理してませんか?」
「まぁ、してないことはないな」
「どうして頑張るのですか?」
「どうしてだろう。使命というか、責務というか、やらなきゃいけないって思うんだよね。でも、以前に比べたら手は抜いているほう。昔はもっとクレイジーに仕事をしてた。倍ぐらいの仕事量を倍のスピードでやってた。でも、働き方改革で超勤時間に制限がかかっちゃったから仕事量を減らさないといけなくなっちゃって、それからはだいぶ仕事を減らしたよ」
「中村さんって意外にも上の言うことに従うんですね」
「サラリーマンだからね」
中村さんはいじられキャラで放っておけない感じだけど、仕事はちゃんとしているし、熱意がある。素敵だなぁと思って、視線を向けたけれど、急に早足になってしまい背中しか見えなかった。
灰谷さんの様子を確認しに訪室したけれど、眠っていたしバイタルや検査値に大きな変化がなかったので、そのまま薬剤部に戻ることにした。
薬剤部での朝礼が終わり、病棟のスタッフステーションに到着すると、朝のカンファレンスが始まった。私と中村さんはスタッフステーションの空いている席に座り、夜勤看護師からの申し送りや連絡事項を聞く。
「灰谷さんがもしかしたらICUに転棟するかもしれません」
「えっ? どうして?」
つい声が出てしまい、スタッフの視線が私に向く。
「あっ、すいません」
夜勤のリーダー看護師だった松岡さんは私を一瞥したけれど、すぐに話を続けた。
今日の朝に灰谷さんのカルテを見たときには、バイタルは昨日と大きく変わっていなかった。それなのにどうしてICUに入らなければならないのだろうか。
「それと、今日は退院が五人、入院が午前三人、午後二人います。午後はリウマチ膠原病カンファレンスと忙しいですが、声をかけあって乗り切りましょう。それでは、今日も一日よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
スタッフステーションにいたスタッフが散り散りに出ていく。
「灰谷さんがどうしてICUに?」
中村さんに聞いたつもりだったけれど、松岡さんも聞こえていたらしくこちらを振り返ってくちを開いた。
「土曜日に家族に病状の説明をしたの。それでその話になったみたい。詳しくは午後のカンファレンスで話をすると思うから、その時に聞いてみたらいいんじゃない?」
「そうですね」
土曜日は学生実習は休日とされているが、本牧病院では土曜日の午後は半日出勤となっている。その日、主治医の幸田先生が出勤で家族に話をしたのだろう。詳しい話は松岡さんの言う通り、カンファレンスで聞けるはずだから、それを待っても遅くはない。
「じゃぁ、今日は退院が五人いるから、二人で協力して退院指導を終わらせちゃおうか。そのあと入院患者さんの面談も半分ずつで。それと、午後はリウマチ膠原病科のカンファレンスだから準備しておいてね」
退院指導や初回指導は一人でやらせてもらえるようになった。他の施設に実習に行っている大学の友人に話を聞くと珍しいことらしい。たいてい指導薬剤師が行なっていることを後ろでみているか、自分でやらせてもらったとしても、後ろに薬剤師がいることがほとんどらしい。
中村さんがしっかりとフォローしてくれているということもあるけれど、私も努力していないわけじゃない。実習費は約三十万円と、決して安くない。元は取ってやろうと思うし、成長だってしたいと思っている。
退院する患者さんに退院後に内服する薬について説明しながら薬を渡し、お薬手帳に入院中使用した主な薬や、アレルギー、副作用の有無について記載したシールを貼り付ける。五人分の退院指導はそれほど時間がかからず終えることができた。そのあとに本日入院される患者さんの情報を取り、持参薬を回収し病棟に上がってきたため面談に向かう。薬の使用状況を確認し、医師に報告する。
手際よく業務が進んだので、中村さんを見つけて報告すると、症例発表のための時間をいただけた。実習最終日には症例発表を行う予定になっていて(もちろん灰谷さんの症例を報告する予定なのだけど)これまでの経過をまとめることにした。
灰谷さんは強皮症を併発する急速進行性間質性肺炎。ステロイドと免疫抑制剤、シクロホスファミドの三剤併用療法を行うも、改善はみられない。そして、予後の指標となるMDA-5やフェリチンは依然として高い。
手立ては残されていないのだろうか。
もう一度、教科書やガイドライン、専門書を見返す。けれど、現時点の治療が最善としか思えない。でも、諦めたくない。もっと何か、できることはないだろうか。
もしかしたら、教科書やガイドラインにまだ載っていない論文があるかもしれない。
PCのブラウザを開き、論文検索サイトに「皮膚筋炎」「間質性肺炎」などのキーワードを打ち込んでいく。たくさんの論文が表示され、どれを見て良いのかさっぱりわからない。とりあえず、役に立ちそうなものを直感で拾い読みしていく。どれも現状の治療と大きく変わりはない。そろそろお昼休憩に入ろうと思って、最後の論文を開いた。
「あっ、これなら……」
急いで昼食を食べ、カンファレンスの準備にかかる。灰谷さん以外にもリウマチ科の患者さんの病態を理解しておく必要があるため、カルテを開いて患者さん毎に使用している薬や状態をメモしておく。全員を担当している訳ではないけれど、少しでも勉強のためにと思ってやっている。それが終わったら灰谷さんのための時間だ。論文のポイントとなるところにラインを引き、どんな言葉で提案しようかシュミレーションしておく。灰谷さんはきっと良くなるはずだ。
カンファレンス五分前にスタッフステーションで座っていると、横に中村さんがやってきた。
「早いね」
「灰谷さんのことで提案したいことがあるんです。シクロホスファミドを増量してみたらいいんじゃないかと思っていて」
「あっ、それなんだけどね……」
「カンファレンス始めまーす」
いつの間にかスタッフが全員揃っていて、松岡さんの掛け声でカンファレンスが始まってしまった。中村さんの言いかけていたことは最後まで聞けなかった。
「それでは、灰谷さんから」
松岡さんの声にリウマチ膠原病科についている研修医が反応し、プレゼンを開始した。
「灰谷さん、強皮症を併発した急速進行性間質性肺炎です。明日、シクロホスファミドの三回目の投与予定でしたが、本人と話をした結果、中止となりました」
「えっ、どうしてですか?」
驚いて席から立ち上がって声を出してしまった。スタッフの視線が集まる。
「もう治療しないってことですか?」
「そうだ」
中村さんが言った。
「まだ治療できます。シクロホスファミドを増量すれば良くなるかもしれません。現にSPO2は二回の投与で維持できているし」
「八田さん、いったん落ち着こうか。ちょっと座ってくれるかな」
中村さんはいつものゆったりとした口調で言った。あまりにも冷静に対処するので、よけいに腹立たしくなってくる。
「僕から後で説明しておきます。カンファレンスを続けましょう」
諭されるまま、椅子に座った。
「今後の方針はウロミテキサンを使ってBSC」
納得がいかない。どうして、シクロホスファミドを投与しないのだろう。投与しないということは治療を諦めた。つまり、このまま亡くなるのを待つだけ……。
「呼吸器についても本人と家族に話をしましたが、判断しかねています。挿管を希望するのであればICUに。希望しないのであればこの病棟で見ていく事になります」
研修医が早口で話を続ける。
本人と家族とどんな話をしたのだろう。
聞きたいことは山ほどあったけれど、先ほど立ち上がってしまったせいで、言いづらくなって聞くことができなかった。
カンファレンスが終わって、私は中村さんを睨みつける。
「どういうことですか? どうしてシクロホスファミドを投与しないんですか?」
「まぁまぁ、ちょっと落ち着いて」
落ち着いてと言われても、高ぶった気持ちを抑えることができない。心臓はバクバクしているし、顔が熱い。
「灰谷さんには会いに行ったかい?」
「はい、行きました。でも、今日は訪室時に眠っていたので話はできていません」
「何か気になったこととか、変わったことはなかった?」
「酸素が6Lから8Lに上がっていました」
「今日の血液ガスの結果は?」
「PaO2が60でした。現状維持です」
「酸素濃度が上がっているのに、血液中の酸素が上がっていない。つまり、どういうことかわかる?」
「肺が酸素を取り込めなくなってきています」
「それは、どうして?」
「間質性肺炎が進行しているからです。だからシクロホスファミドを投与しないとダメだと思うんです。それに投与量を上げたら良くなるかもしれません」
午前中に見つけた論文、高用量で投与行なって改善した報告を中村さんに突きつける。
「よく勉強しているじゃないか。でもね、もっと大切な事がある」
中村さんは腕を組んで天井を見上げた。
「じゃぁ、聞くけど、今日のヘモグロビンの値は?」
「ヘモグロビン……」
私は慌ててカルテを開く。ヘモグロビンは見ていなかった。
「8.9です」
時系列のボタンを押して推移を確認する。今週になって右肩下がりだ。急激に下がっていなかったから注意していなかった。でも、まだ慌てるような数値ではないはずだ。
「どうして下がっているのかわかる?」
「シクロホスファミドによる貧血だと思います」
「他には?」
「他には……。消化管出血? ステロイドを使っているし」
「ステロイド単剤では消化管出血は起こらない。NSAIDs(解熱鎮痛剤)を併用した時にリスクは上がる。しかし、今はNSAIDsは使用していない」
「じゃぁ……」
ハッとして顔を上げる。
「シクロホスファミドによる出血性膀胱炎」
「そうだ」
「いつからですか?」
「ヘモグロビンがじわじわ低下していから今日寝ているところを起こして聞いてみた。予想通り尿に血が混ざっていたそうだ。ちょうど今日のIC前。本人はたいしたことないだろうと黙っていたからカルテにも記録がなかった」
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「君には後で話そうと思っていた。しかし、他の業務で忙しかったから声をかけられなかった。それにステーションにもいなかったから」
症例をまとめたり論文を探すために薬剤部に降りてきてしまったから、声をかけてもらえなかったのか。
「でも、副作用の時に使える薬があります。えっと、その、あれ、あれ」
薬品名がとっさに出てこなかった。シクロホスファミドの副作用を軽減する薬。
「ウロミテキサン。カンファレンスでも言っていたようにウロミテキサンは使うよ」
カンファレンスで言っていた?
あの時、熱くなってしまったから覚えていない。無理やり記憶を呼び戻してみると、確かに研修医の先生が言っていたような気がする。
「それを使えば出血性膀胱炎が治療できるし、シクロホスファミドによる治療が続けられるはずです」
「ウロミテキサンで出血性膀胱炎は治療する。でも、シクロホスファミドを再開するかどうかは別の話だ」
「どうしてですか? シクロホスファミドを増量すれば良くなるのに」
「良くなる、というのはどういう意味だい?」
「間質性肺炎の進行を抑えます」
ふうと中村さんはため息をつく。
「はっきり言ったほうが良いかもしれない。灰谷さんはあと数週間だ」
「……」
絶句してしまった。中村さんの見込みはどうしてそんなに短いのだろう。
「シクロホスファミドを増量すれば少しは余命が伸びるかもしれない。でも、これまでの臨床経過を見る限り寛解へは持ち込めないだろう。できたとしても少しだけ余命が伸びるくらいだ」
「でも、余命が伸びれば家族と一緒に過ごせる時間ができるし」
「永遠に余命が伸びるわけじゃない。薬の副作用でより苦しい時間になるかもしれない」
「そんなのわかってます! でも……。でもっ」
「八田ちゃん、私ね、土曜日の話に同席していたんだけど」
リーダー看護師の松岡さんが見るに見かねたのか、仕事の手を止めて話に入ってきた。
「灰谷さんの目標は二週間後の息子の誕生日まで生きる事なの。私の見立てでも、二週間後に意識が保てているかどうかはわからないわ」
「そんなに短いのですか?」
「たぶんね。でも、これは看護師としての勘だけどね」
「じゃぁ、これからどうするんですか?」
「だから、BSCってカンファで言ってたじゃん。ほんっと何も聞いてなかったのね」
「BSC……」
「ベストサポートティブケア。積極的に治療をするのではなくて、苦痛をとってあげるための治療のこと」
「灰谷さんは、それを望んでいるんですか?」
松岡さんに食いついているっていうことはわかっている。でも、納得できない。
「それは僕から説明しようかな。主治医だし」
「幸田先生!」
声の方向を振り返ると、主治医であるリウマチ膠原病科の幸田先生がいた。
「ステーションでだいぶディスカッションが盛り上がってるって安井さんから聞いて、つい覗いてみたくなってきちゃったよ」
幸田先生は私をちらりと見た。恥ずかしくなり顔を伏せる。
「じゃぁ、病状から整理していこう」
ペンとメモ帳を取り出して、一言一句逃すものかと気合を入れ直す。
「灰谷さんは皮膚筋炎からの間質性肺炎。間質性肺炎だけならともかく、皮膚筋炎がベースにあると、予後が悪い。特に重要な検査値があるのだけど、八田さんそれは何だかわかる?」
「えっと、IL-6とか、CK、MDA-5とフェリチンなどです。いずれも高値です」
「そう。とくにフェリチンとMDA-5が予後不良の因子として知られている。二つが陽性の場合、死亡率はどれくらい?」
「二ヶ月で約20%という報告があります」
これくらいは勉強してある。
「おそらく灰谷さんはその20%に入っている」
「それは、どうしてそう思うのですか?」
「病状を見ればわかる。三剤併用療法に反応していない。だから、土曜日に家族を呼んで話をしたんだ」
「でも、シクロホスファミドを増量すれば効果も上がるかもしれません」
「論文をみせてごらん」
幸田先生は私の握っている論文を見て言った
「えっ、あつ、はい」
強く握ってぐしゃぐしゃになった論文を幸田先生に渡す。
「よく勉強しているじゃないか。たしかにこの報告ではシクロホスファミドを増量して投与している。そして効果も出ている」
「それなら……」
「しかし、この治療法はまだ一般的なものではないし、効果が出た症例も決して多くはない。著者も最後に『症例の蓄積と病態研究が必要である』と述べている」
「でも……」
「もちろん増量は頭にはあったよ。標準的な投与量で投与を二回行った。三度目には患者の希望があれば増量しようと思っていた。でも、出血性膀胱炎が起きてしまった。もちろん最初から高用量で投与していたら良かったのかもしれないけれど、それ以上に進行が早かったから高用量で投与していても、状態を大きく改善するほどの差はでていなかっただろう」
何も言葉が出てこなかった。
何をやっても無駄なのだろうか。
私には何もできないのだろうか。
「これでわかってもらえたみたいだね」
小さくうなずくしかなかった。
「先生はこの論文を知っていたんですね」
ぼそっと呟く。
「専門医をなめられちゃ困るね」
そう言って幸田先生は中村さんと顔をみあわせて笑った。中村さんも笑っているということは、中村さんもこの論文について知っていたんだ。
一生懸命探したこの論文も二人にとっては常識なのか。
「それでだ。今後の治療方針を共有しておこうと思う。灰谷さんの希望は息子さんの誕生日まで生きること。生きることはギリギリ出来ると思う。ただその時には大量の酸素投与が必要になってくる。挿管すれば二週間後まで生きることはおそらく出来る。その代わり喋れなくなる。一方、挿管しないでNHF(ネーザルハイフロー)という呼吸器で鼻から大量に酸素投与する方法もある。これは口をふさがないから喋ることはできる。そのかわり呼吸が弱くなった場合、二週間持たない可能性が出てくる」
「じゃぁ、どうしたら……」
「それを本人が迷っているところだ」
もはやシクロホスファミドを増量する、しないのレベルではなかったのだ。改めて自分の考えが浅はかだったことに気づかされる。
「とりあえず、血液ガスの結果を見てからNHFには切り替える予定だ。何か質問は?」
「いえ、特に」
「じゃぁ、レクチャーは終了。あとは中村君よろしく」
「はい」
「あっ、そうだ。中村君、今回の学生はずいぶんやる気があるじゃないか。良い事だよ」
幸田先生がステーションを出て行ったのを確認すると、緊張の糸が切れ、肩の力ががくっと抜けた。
「少し考えをまとめておくといいよ。僕はその間、今日の入院さんに会いに行ってくるから」
はい、と返事をする前に中村さんは行ってしまった。
ステーションでノートを広げて教えてもらった事についてまとめておく。そして私が出来ることは何だろうか。治療以外で医療者としてできることは。
「あんた、結構やるじゃない。なかなかあそこまで食らいつくのは看護師にもいないよ」
「松岡さん、ありがとうございます。でも、これからどうしたらいいかわからなくて。治療もできないし。そのまま亡くなるのを待つだけなんでしょうか」
「あはは。やっぱりあんた、まだまだね。灰谷さんが何をしたいか考えて。わからなければ、本人に聞いて。それを叶えるために自分たちは何ができるか考えるの。やるべきことは医学的なことだけじゃないはずよ」
「そうですよね。ちょっと灰谷さんのところに行ってきます」
私は灰谷さんの病室へ早足で向かった。病室のドアを開けると灰谷さんがベッドで眠っている。
「灰谷さん、こんにちは」
声をかけても眠ったまま反応はない。声が小さかったのかと思い、もう一度「こんにちは」と言ってもダメだったので、少しだけ肩を叩くと、ゆっくりとまぶたを開いた。「あぁ」と言ってこちらを見たけれど、すぐに目をつぶった。
ベッドサイドをみると水分補給の点滴と鎮静剤が投与されている。鎮静剤は息苦しさを軽減する目的で投与されている。もしかしたら、この鎮静剤が効きすぎているのかもしれない。流量をみるとミダゾラム 0.5ml/hr。最低流量に設定されている。
「灰谷さん、いまは息苦しさはありますか?」
肩を叩きながら声をかけると顔をななめに曲げた。
「息苦しさは10段階でどれくらいですか?」
ゆっくり指で3を作った。
以前の苦しさは5から6。ひどい時は8くらいだったけれど体が慣れてきたのだろうか。
ふとテーブルに目をやると、手紙が書きかけで止まっている。以前、言っていた息子さんへの手紙だ。おそらく眠気が強くて手を止めてしまったのだろう。
鎮静薬を他の薬に変えられないだろうか。もう少し眠気の弱いものへ。それが無理なら鎮静を切ってもらっても良いかもしれない。
幸田先生に言うべきか。でも、その前に中村さんに相談したほうが良いかもしれない。でも、今日は中村さんも忙しそうだしどうしたら良いだろう。前回のシクロホスファミドでの失敗でつい慎重になってしまう。とりあえず、ステーションに戻ってきてパソコンの前に座った。
「ねぇ、灰谷さんのところ行ってどうだった? 何かできる事は見つかった?」
松岡さんが心配してくれたのか、声をかけてくれた。
「一つできそうな事を見つけたんです。でも、提案していいのかどうか」
「なに弱気になっているのよ。言ってみなさい」
「灰谷さんの部屋に行ったら書きかけの手紙が置いてあったんです。でもミダゾラムの影響だと思うのですけど、だいぶ眠そうにしていて。他の鎮静薬に変えられないかなと思っているんです」
「ほかのって、例えば?」
「デクスメデトミジンとか……」
「ふーん。それなら眠くないわけ?」
「眠気は比較的弱いはずです。呼吸苦は慣れてきているから今はそれほどつらそうじゃないし、せめて手紙が書き終わるまで起きていられたら良いかもしれないと」
「なるほどね」
松岡さんがそう言うと、PHSを取り電話をかけた。
「もしもし、なかむー? 八田ちゃんがさ、灰谷さんのミダゾラムをデクスメデトミジンに変えたらどうかって。そう、過鎮静だから。うん、そうそう。じゃあ、なかむー的にはおっけーね。わかった、幸田先生に聞いてみる」
PHSの終話ボタンを押して、そのまま私に差し出してきた。
「なかむーはおっけーだって。幸田先生に言ってみたら?」
「あっ、はい」
PHSを受け取り幸田先生の電話番号を探す。幸田先生は中村さんと同じようなタイプでほとんど怒らないし、話は聞いてくれる。でも、失敗のトラウマがまだ残っているため、本当に変更して良いのかという気持ちもあって、ボタンを押せない。
「ビビってるの?」
「えっ?」
図星で言葉に詰まる。
「ダメだったら、ダメでいいじゃない。それに、失敗したら元に戻せばいいだけの事。何もしないよりマシ。どうするの、提案するの? しないの?」
「し、します」
松岡さんに押し切られるように「します」と言ってしまった。でも、この勢いを借りて電話をしてしまうしかない。思い切って幸田先生の番号を押した。
「実習生の八田です、灰谷さんのことで伺いたいのですが……。はい、それで、鎮静剤なのですが……」
何回も言葉に詰まりながら薬の変更について幸田先生に伝えた。電話を切った時には緊張で手に汗がびっしょりだった。
「どうだった?」
「変更するって」
「良かったじゃない」
えへへと頭をかいた。
「でも、本当に大事なのはこれからだからね」
「はい」
それから灰谷さんの病室には毎日伺った。中村さんからは灰谷さんのことを全て任せてもらっていた。息苦しさは相変わらずだけど、眠気は改善して、日中は起きていられるようになっていた。
「八田さん、息子の誕生日プレゼントは、どっちがいいかな」
タブレット端末には知育玩具とヒーロー変身ベルトが写っている。
「この二択なら変身ベルトが良いと思います」
「やっぱり、そうか」
「私の五才の従兄弟もクリスマスプレゼントにこれをもらってすごく喜んでいましたから」
「わかった。これにしよう。それと……」
引き出しを開けて、封筒を取り出した。宛先は「みんなへ」と、書かれている。
「それを預かっていてくれないか? 私が息を引き取ったら生徒へ渡してほしい」
「わ、私がですか?」
「君の活躍や、想いは、幸田先生からも、聞いている。最後まで、面倒をみて、くれないか?」
本当に私で良いのだろうかと思う反面、認めてもらえた気がしてちょっと嬉しかった。
「わ、私でよければ」
「ありがとう。じゃぁ、ついでに、これも頼むよ」
生徒への手紙に加えて、もう二つ封筒を渡された。
「これって……」
「妻と息子への手紙だ。引き出しに、入れておいて、読まれて、しまったら、困る、からね」
私は両手でそれを受け取り、時が来るまで大切にすることにした。
週明けの月曜日に朝早く病院に来てカルテを開く。週末で灰谷さんの状態が悪化していて、もう数日かもしれない。そう聞かされても私は訪室することをやめなかった。
息苦しさはまた悪化し、鎮静剤がミダゾラムに戻った。息苦しさは少し軽減した代わりに眠っている時間がまた増えてしまった。
眠っていはいるものの、眉間にしわを寄せ苦しそうな顔をみて、何もすることもできずスタッフステーションへ戻った。スタッフステーションでは中村さんと幸田先生がPCを睨みつけていた。
「中村さん、何を見ているんですか?」
声をかけると二人は同時に振り向いた。
「状態が急に悪化した原因は細菌性肺炎かもしれない。画像をみると間質性肺炎の肺炎像以外に新しく肺炎が起きている。ただ……」
カルテは灰谷さんの画面で、先日採った痰の培養結果が表示されている。
「緑膿菌ですか?」
「ただの緑膿菌じゃない。MDRP。多剤耐性緑膿菌だ。培養結果でも全ての抗菌薬が耐性になっている」
「じゃぁ、治療はできないってことですか?」
「あぁ。でも、絶対に治療できないというわけじゃない。複数の抗菌薬を併用すれば効果が出ることもある」
「それなら、治療を……」
「多剤耐性緑膿菌は、おそらく原因菌ではない。今回の肺炎は、鎮静剤が効き過ぎて、唾液を誤嚥したことによる誤嚥性肺炎だろう。でも、MDRPが原因だったとしても、灰谷さんは治療をするべきではない」
私は「どうしてですか?」と喉元まで出かかったけれど、ぐっと堪えた。たぶん、以前の私なら勢いに任せて聞いてしまっただろう。でも、今はわかる。灰谷さんに抗菌薬治療をしても無駄なことが。
「この状態で治療することは抗菌薬の副作用のデメリットもあるが、治療しても十分な改善が見込めない。治療するべきではないだろう。それに、本人がこれ以上の治療は望んでいない」
黙って頷くことしかできなかった。
想像していた日本の医療は、もっと進歩していて、治療できない病気なんてほとんどないものかと思っていたけれど、現実はそうではなかった。まだまだどうにもならないことや、わからないことが山ほどある。
翌日、灰谷さんは一気に病態が悪化し、息を引き取った。
私は心電図がフラットになる時に病室へ駆け込み、家族と一緒にその瞬間に立ち会った。
主治医の幸田先生が死亡確認をすると、一度部屋を退出した。
家族だけの時間を過ごしてもらいたかったのと、手紙を取りに戻ったためだ。
しばらくしてから、再度訪室すると奥さんも息子さんも泣き止んではいたけれど、目が真っ赤に腫れていた。
「あの、灰谷さんから預かっているものがあるんです」
奥様が少しだけ顔を上げてこちらを見た。
「奥様と息子さんへの手紙です」
奥様に手紙を渡すと、涙をこぼしながら受けとった。封筒を開けて、時折涙を拭いて、時折吹き出したりしながら、ゆっくりと読んでいった。
「ありがとうございます」
読み終わると奥様は深々と頭を下げた。
「あなた、まだ学生さんなんですよね」
「はい」
「きっと素敵な薬剤師さんになると思います」
「ありがとうございます」
今度は私が深々とお辞儀を返した。
「お疲れ様」
ステーションに戻って来ると中村さんが笑顔で言った。
「私ができることは全てやったと思います。だから悔いはありません」
そう口にして見たものの、やっぱり涙が溢れてきてしまう。
悔しい。やっぱりもっと何かできたのではないだろうか。
「葬儀屋さんがきたみたいだから、お見送りに行こうか」
「はい」
私と中村さんと幸田先生と松岡さんで灰谷さんが霊柩車に載せられ病院を出ていくのを頭を下げて見送った。
人間が死ぬということを生まれて初めて体験した。言葉では表現しづらい。でも、こういうことか、ということは少し理解できた気がする。
「皆さまお忙しい中、学生実習の報告会にお集まりいただきありがとうございます。本日は実習最終日となりますので症例報告会を始めたいと思います」
中村さんがこちらに視線を向けたので、私は小さくうなづいた。
症例報告会の準備は十分やってきたはず。でも、マイクを握る手は汗ばんでいるし、全身に緊張が走っているのが自分でもわかる。普段からあまり緊張はしないほうではあるけど、薬剤部スタッフの全員の視線がこちらに向くと少し怖く感じてしまった。
「それでは、八田さんお願いします」
「みなとみらい大学の八田梨花子です。よろしくお願いします。今回取り上げる症例ですが……」
症例はもちろん灰谷さんで、先週末から何度も話す練習はしてきた。いつもどおり、台本通りに話を進めていくと、練習通りに話せるようになり、緊張も少しずつ解けていく。
「というわけで、本日の症例報告を終了したいと思います。ご静聴ありがとうございました」
私が話し終わると、パラパラと拍手が起こった。その後、二、三質問に答えて症例報告会は終わった。
「お疲れ様」
中村さんがすぐに声をかけて来てくれた。
「緊張しちゃいました」
額の汗をぬぐいながら、前髪をなおす。
「いい発表だったよ。内容はきちんとまとまっていたし、今回の実習中にできたことと今後の課題がしっかりとスライドに入っていたのが良かった。薬剤師になっても課題は山積みだけど、一つ一つやっていこうね」
実習が終わったという達成感と中村さんの優しい声で、目に涙が溢れてくる。
「やだ、泣きそう」
涙はこぼれるまえにハンカチで拭って、上を見上げる。
涙が落ち着いて、中村さんを見てみると、しょうがないなぁというような表情をしていた。
中村さんは言葉数は多くないけれど、こういう時に黙って寄り添ってくれるところが、優しいと思う。
ふと、あたりを見回してみると片付けは終わっていて、会議室には私と中村さんだけになっていた。窓からは夕日が差し込んできて、オレンジ色に会議室が染まっていた。
症例発表が終わったら、中村さんに伝えようと思っていたことがある。それは私のいまの気持ちだ。二人きりの今なら伝えられるかもしれない。
「私、中村さんの事……」
初めて会った時のことや、お弁当を食べて笑顔になってくれたこと、私が失敗したときに寄り添ってくれたこと。様々な思い出がよみがえる。
中村さんは私の言葉に応えるように、じっと見つめてくる。
「尊敬しています」
好きです、という言葉が喉元まででかかったけれど、何かが引っかかって言葉にならなかった。代わりに尊敬しています、という言葉になってしまった。
本当は「好き」と伝えようとしていたけれど、やっぱり好きとは違うような気がしたし、実習生である自分の立場では言ってはいけない気もして言えなかった。
「ありがとう。これから薬剤師になるために、卒業試験や国家試験の勉強が大変だと思うけど、八田さんなら乗り越えられると思う。それと、薬剤師になったら、立場は同じ。一緒に頑張っていこうね」
薬剤師になったら立場は同じ、という言葉を聞いて、告白するならその時でも良いかと思った。それに自分の気持ちが本当に『好き』で正しいのかはっきりさせる時間も欲しかった。
「はい」
私が元気よく答えると、中村さんは右手を差し出して来たので、私も右手を出し強く握手をした。
「いたい、いたい」
「あっ、ごめんなさい」
中村さんの手を離したくなくて、強く握りすぎてしまい、中村さんが痛がってしまった。普通は逆なのに、こういう女子っぽさがやっぱり可愛い。
やっぱり、中村さんのことが好きって思った。
こうして、私の病院実習は終わった。
棺の窓を開けて覗き込むと青白い中村さんの顔がある。以前も顔色は白くて血色が良いとは言えなかったけれど、まったく血色のない肌の白さは命の火が消えてしまったことがわかる。
「どうして死んでしまったの?」
こぼれる涙を止めることができない。
悲しい気持ちがあふれてきたあと、悔しさの波が押し寄せてくる。
死因は心臓発作だと薬局長が言っていた。でも、それは本当の死因じゃない。
中村さんの年齢で既往歴に心疾患がなければ、心臓発作を起こすにはそれなりの理由が必要だ。私が連絡したときも忙しそうにしていたし、この論文や書籍で散らかった部屋を見ればわかる。中村さんは無理に無理を重ねていた。
中村さんは過労死だ。
でも、どうして言ってくれなかったの?
「わたしなら、中村さんを救えたのに」
四話 薬剤師 中村宏
箱根駅伝の走者は、握りしめていた襷を渡すとその場に倒れこんだ。
立ち上がる力は残っておらず、チームメイトに抱きかかえられ、画面から消えた。
その様子を学会の資料を作りながら見ていた。
俺も襷を渡したら走るのをやめても良いだろうか?
いや、襷を渡せるチームメイトなんていないか。
今年の箱根駅伝は珍しく学生連合が奮闘していて、一区は五位で襷を渡していた。しかし、二区の選手が五人に抜かれ、三区ではさらに二人に抜かれた。
予選会で行われるハーフマラソンの個人タイムでは他の学生に引けを取らないはずだ。しかし、駅伝となると往路だけで十分以上の差ができてしまうことから、駅伝はチーム競技であることがわかる。
そもそも学生連合というのは予選敗退した大学の選抜チームだ。しかも、個人の記録は参考記録となり公式なものにはならず、チームとしても順位はつかない。そのため、自大学で出場しているチームとは結束力もモチベーションも違う。それなのにどうして死ぬ思いで走るのだろうか、という意見もあるようだが、たとえ記録がつかなくとも全力で走ろうとするランナーとしてのプライドはわかる気がする。
そして、奮闘していた学生連合が五区の山登りに差し掛かり、明らかにスピードが落ち次々と追い抜かれていく。そして、ついには「走り」は「歩き」にかわり、その数歩後に前のめりに倒れた。すぐに救護車から医療スタッフが駆け出し、ランナーは搬送された。
おそらく低体温症だろう。箱根では雪がぱらついている。こんなコンディションで日陰の山を走れるというのは尋常ではない。
仕事は走ることに似ている。
毎日病院に行って、入院している患者の薬物治療に介入し、少しだけ良い薬に変える。
入院患者は約五十人いるので、全員に使用されている薬を調剤し、内容をきちんと確認するだけでも定時を過ぎてしまう。
薬剤師が薬物治療に介入することで患者はより良くなり、医療経済にも貢献できる。そんな論文は多数報告されていて、薬剤師の業務に対する算定も増えてきている。
薬剤師は評価されてきているが、それでも自問自答することはたくさんある。
毎日毎日こんな小さい事ばかりをやっていて意味があるのだろうか。
薬剤師なんていなくていいのではないだろうか。
自分一人が頑張っても意味がないのではないだろうか。
自分が生きている価値なんてないのではないだろうか。
最近は考えすぎてしまうことも少なくない。
仕事を辞めてしまいたいという気持ちに加え、人生からリタイアしてしまいたいという気持ちが日々強くなってきている。
吸入薬を吸ってサチュレーションモニターを人差し指に挟みSPO2を測ると、96%と表示された。健常者は100%なのだが、ここ数ヶ月その数字をみたことがない。喘息が悪化してきている。
このまま全て投げ出して死んでしまおうか。
守るべきものはないし、もう十分頑張っただろう。
作成途中の学会資料を保存し、ノートパソコンを閉じてベッドに体を投げ出すと、スマホが鳴った。
「ご無沙汰しております。実習でお世話になった八田です。今週末の学会は参加されますか?」
Facebookのメッセンジャーアプリで八田梨花子からメッセージだ。
八田は二年前、自分が勤める本牧病院に実習に来た女の子だ。
実習が終わって、国家試験合格後に病院に挨拶に来てくれた。その時からFacebookで繋がっている。
お互い仕事は忙しく、タイムラインだけは確認していたが、直接のやりとりはしていなかったので、メッセージが来たことに少し驚いた。
「学会は参加するよ。ポスターを出す予定」
出す予定だが、先ほど作成途中でPCを閉じたところだ。このままいくと出せないかもしれない、なんて思って一人で苦笑してしまった。
返事を送ると、すぐにメッセージが来た。
「私もポスター出します! 良かったら見に来てください」
一年目なのにポスター発表を行うなんて珍しい。そういえば、実習の時も人一倍熱意を持って取り組んでいたことを思い出す。
「楽しみにしているよ」
と返すと、八田からはウサギがお辞儀をしているスタンプが送られてきた。
八田の熱量が少しだけ自分に届いたのか、ベッドから起き上がりノートパソコンを開いて資料作成を再開した。
箱根駅伝をみると、学生連合が一つだけ順位を上げていた。
資料の作成を再開して少しすると、カリカリと何かをひっかく音がする。
音がする方向であるすりガラスのサッシを見ると、黒い何かが動いている。サッシを開けると、勢いよく猫が部屋に飛び入って来た。
半年前くらいから遊びに来るいつもの野良猫だ。
ある雪の日にベランダにいた猫を見つけ、サッシを開けてみると家に入って来て、適当に食べ物をあげると喜んで帰っていった。
それから週に数回は家にくるようになり、適当なものをあげるよりはきちんとした食べ物を与えようと、コンビニで猫用のフードを用意するようになった。
台所の引き出しから猫用のドライフードを小皿に出し、黒猫に差し出すとガリガリと勢いよく食べる。一生懸命食べている姿は愛おしい。
「猫はアレルギーになるから飼えないわよ」
母親に言われたことがある。当時、猫アレルギーの検査はしていなかったはずだ。でも、それを信じていた。もともとアレルギー体質だから、猫アレルギーがあってもおかしくない。実際、喘息が悪化しているのも、猫に出会ってからの気がする。
一度、吸入薬を吸ってから、猫を撫でる。
こんなに可愛いのだから、たとえアレルギーが出てもいいか。
守るべき家族もいない。俺に寄り添ってくれるのはこの猫ぐらいなものだ。
猫はフードを食べ終えると、にゃーとお礼を言ってから家を出ていった。
ポスター発表の示説が終わり、聴講者の質疑応答に答える。その聴講者の一番後ろに八田の姿を見つけた。八田もこちらの視線に気づいたのか、右手を振った。
「お久しぶりです」
聴講者すり抜けるようにして近づいて来た八田は、パンツスーツ姿で学生時代よりも少し凛々しく感じられる。
「中村さん、示説お疲れ様です。勉強になりました。やっぱり地域的に耐性菌が増えてきているのは問題ですよね」
今回のポスター発表は「地域における多剤耐性緑膿菌の報告数と当院における緑膿菌にスペクトルを持つ抗菌薬の使用状況」というものだ。
「耐性菌が増えている原因は緑膿菌に効く抗菌薬を乱用しているからなんだけど、やはり当院においても使用数は増える一方でね。今年、院内でアクションを起こしてやっと横ばいになったくらい。八田さんのところはどう?」
八田はみなとみらい大学病院に勤めていて、当院と同じ横浜市にあたる。
「うーん、うちはどうなのでしょう。感染のことは感染担当が全てやっているので把握していません。すみません」
聞いてはみたけれど、想像通りの答えだった。
大学病院は組織が大きすぎて、専門外のことは情報が回ってこない。ましてや一年目の薬剤師には知る由もないだろう。
「八田さんの示説は次だっけ?」
「はい。入り口付近の所なので、ぜひ来てください」
「もちろん、行くよ」
八田はいくつか質問をした後「そろそろ行きますね」と言って、自分のポスター展示に向かっていった。
あたりを簡単に片付けた後、八田のポスター展示へ向かうと、すでに人だかりができていた。
ピシッと指し棒を使用して示説を行っている姿は立派で、質疑応答にも理路整然と答える。発表が終わって、散り散りになるまでしばらく時間がかかった。
「素晴らしい示説だったよ」
「ありがとうございます。実習で中村さんに教えてもらった事が今も活きているのだと思います」
ポスターに近づき細かい点もマジマジと見てみると、デザインといい内容といい良くできている。
「一年目の発表とは思えないね」
「そう言ってもらえて嬉しいです」
ポスターのテーマは「web勉強会の利点と欠点」という内容だった。
昨年、新型感染症が流行し、集合型の勉強会が密集にあたるということで、行えなくなり、こういったwebでの勉強会は増えてきている。
「このWeb勉強会っていうのは、誰でも見られるの?」
「はい、SNSでも勉強会の動画を流しているので是非みてください。それと……。もしよかったらなのですが、中村さんも出てくれませんか?」
「えっ、俺が?」
「是非!」
目をキラキラさせてじっと見つめられる。きっと本気なのだろう。
「でも、どんな内容で話をしたら良いのかわからないよ」
「今後、とりあげたいテーマがあって『薬剤師の師弟関係について』だったり、『薬剤師になったきっかけ』や、『病院薬剤師になれ! なるな!』みたいなテーマの話をやりたいんです」
「へー、だいぶフランクな内容だね」
「こういう内容ってあまり学会では話が出来なかったりするじゃないですか。だからそういうのをWebで取り上げたいと思っているんです」
「面白い内容だね」
ポスターには過去取り上げたテーマとして「薬剤師の今後の展望」や「病院薬剤師と薬局薬剤師の役割」「薬剤師国家試験について薬剤師が語る」が記載されている。現場の薬剤師が現場を語るというのがコンセプトのようだ。
「あっ、立ち話もなんですから、中村さんこの後予定ありますか? よかったらご飯でも食べながら話をしませんか?」
「いいよ」
自分の発表も終わり、この後の予定はない。
「じゃぁ、片付けしたら連絡しますね。えっと、連絡先教えてください」
形式的に名刺交換してみたものの、結局スマホを出し電話番号とLINEのIDを交換した。
「じゃあ、俺もポスターを片付けたら連絡する」
「はい」
久しぶりに異性と二人きりで食事をすることに少しだけ緊張しながら、自分のポスターを剥がしたあと、他のポスター発表を見て時間を潰した。
十五分もすると八田から電話がかかってきて、学会会場であるパシフィコ横浜の入口で落ち合った。
八田に気付いて右手を上げると満面の笑顔で、小走りで駆け寄ってきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
「じゃあ、さっそくですけどお店を予約しておいたので行きましょう」
「準備がいいね」
八田は「えへっ」と笑顔を見せた。
パシフィコ横浜から歩いてすぐのクイーンズスクエアに向かい、エレベーターで三階に上がってすぐのカフェレストランに入るとすぐに店員に奥まった二人がけのソファー席に案内された。うすいカーテンで仕切られていて半個室の席だ。おそらくこの席を指定して予約したのだろう。あいかわらず、準備が良い。
ポスターケースやカバンなど学会の荷物を床におろしソファーに腰をかける。柔らかく上質なソファーが体を包み込む。ふぅと一息ついたものの、ゆっくり休む間も無く店員がやってきた。
「本日はご来店ありがとうございます。お飲み物は何にいたしますか?」
店員がドリンクメニューを広げて言った。
「シャンパンでいいですか?」
「えっ、あぁ。うん」
普段は酒を飲まないけれど、学会発表のご褒美に少しくらい飲んでも良いだろう。
「食事はカジュアルのコースでいいですか?」
八田はこちらを見て言った。何もわからないので任せておいた方が無難だろうと思い頷く。
「かしこまりました」
八田がオーダーすると、店員が軽くおじぎをして席を離れた。
「いいところを知っているね」
「病院の近くだし、同僚とよく来るので」
八田のみなとみらい病院は名前通り、みなとみらいにある。こんなおしゃれなお店に同僚とよく来るなんて、ドラマのような生活だなぁと思ってしまう。
「こちらが本日のシャンパンになります」
店員がシャンパンのラベルを見せてからグラスに注ぐ。黄金色に輝いた液体の底からふつふつと泡が浮かんでくる。
「それじゃあ、乾杯しましょう。学会お疲れ様でした。乾杯」
「乾杯」
グラスを掲げて、シャンパンを口に含むと白ぶどうの香りが口いっぱいに広がった。久しぶりに飲むシャンパンは、疲れた全身に広がり緊張を解いてくれる気がした。
「さっそく、Web勉強会の話なのですが」
八田はカバンからタブレット端末を取り出した。
「勉強会はYou tubeにもあげていて、見てもらった方が早いと思うので、見てもらってもいいですか?」
動画を見てみると、とても素人とは思えないほどよく出来たものだった。
「みたいな感じです。どうですか? 引き受けてもらえそうですか?」
「いいよ」
勉強会のターゲットは若手薬剤師だけれど、面白そうな内容でそれほど手間もかからなそうだと思い、引き受けることにした。
「やったぁ! じゃぁ、日程は……」
日程は一月の二週目の土曜日の夜。一週間前にスライドを送ることになった。
「今回のテーマが『私と私の先輩』という内容です。このテーマは薬剤師の予備校とコラボしていて、動画は私たちが配信して内容は文章に起こされて雑誌に掲載される予定です。雑誌は以前、中村さんがコラムを連載していたものです」
「あぁ、あれか」
薬剤師の予備校がフリーペーパーを出していて、その中で薬剤師国家試験について三年間、現場の薬剤師としてコメントをつけていた。
「今日中に、中村さんの背景についてある程度お話を伺っておこうかと思うんです。いいですか?」
「いいよ」
八田のペースで話はどんどん進んでいく。前のめりで楽しそうに話す姿は昔の自分の姿を重ねてしまう。それと同時に、今の自分には前のめりになれるほどの元気が無くなってしまったことに気づき、年取ったなぁと痛感する。
「じゃぁ、いきますね」
八田はプレゼンアプリを閉じてメモアプリを起動させた。すでに質問内容は決まっているらしい。
「では、最初の質問です。中村さんはどうして薬剤師になったのですか?」
背景というのはそういうことか、と理解しつつも、ずいぶん簡単な質問に少しだけ驚いた。
「小学生の頃、小児喘息で何回か入院して、病院にはお世話になっていたから、その頃から医療には興味があった。もともとは野口英世に憧れて、薬の研究をしたかったけど、研究に進むには大学院に進学しなければいけなかったし、お金もなかったから薬剤師として働くことにした」
「もし、お金があったら進学していましたか?」
「お金があったら大学院に進学していたかもしれないな。でも、母子家庭だったからありえない話だけどね。奨学金は借りていたけど、大学まで行かせてくれたことは感謝しかないよ」
中学生の時に親は離婚し、俺は母方についた。母は俺のために一生懸命働いて養ってくれた。薬学部へ進学させるための学費を稼ぐことがどれだけ大変だったかは働いてやっとわかったことだ。
「親御さんは今の中村さんに何と言っていますか?」
「何と言っているかなぁ。もう亡くなってしまったからわからないよ」
「あっ、ごめんなさい」
八田は口元を押さえて俯いた。
「いいよ」
なんて言いつつも、母の姿が脳裏をよぎる。もし、無理して学費を稼ごうとしなければ、母は死なずに済んだのでは無いだろうか。
過ぎたことに「たられば」を並べても仕方がないが、今でも自分の責任に感じてしまう。
「では、次の質問です。中村さんが大学を卒業してからどう過ごしていましたか?」
八田は気持ちを切り替えたのか、次の質問をした。
「大学卒業してからは、奨学金を返済するためドラッグストアに勤めたんだ。給料も良かったし、学生並の生活をしていたから六百万円の奨学金は五年で返済した。それから好きなことをやろうと思って病院に勤めた」
「ってことは、私が実習に伺った時は……」
「病院薬剤師八年目のときだね」
真剣に頷きながらメモをとる八田はさながら取材をする記者のようだ。
「それでは、最後の質問です。これから中村さんがやりたいことは何ですか?」
「抗菌薬の適正使用を推進して、耐性菌を減らすこと」
「どうしてそれをしようと思ったのですか?」
「母の死因が肺炎だったのだけれど、原因菌が多剤耐性緑膿菌だった」
「あっ……」
八田がメモする手を止めた。またしても聞いてはいけないことを聞いてしまった、というような表情をしている。
「もう過去のことだし、気にしないで。それより、仕事の話はここまでにしてそろそろ食べない?」
話に夢中になっていたので次々と料理が運ばれて、テーブルの上は料理でいっぱいだった。
「あっ、はい」
八田は慌ててタブレットをカバンにしまった。「いただきます」と手を合わせて、ぶりのカルパッチョをフォークで口に運んだ。
「うまい」
ふと漏れ出してしまった声に八田が笑顔で答える。
久しぶりにちゃんとした料理を食べたせいか、そうでなくても味は美味しかった。
どんどん食と酒が進んでいく。生ハムのサラダも牛フィレのグリルも、雲丹のカルボナーラも全て美味しかった。その美味しさのため、ついつい食べ急いでしまい、八田より早く食べ終わってしまった。フォークとナイフを置き、シャンパンを含みながら八田を見つめる。
顔立ちは以前から整っていると思っていた。学生実習に来ていた頃はまだ学生の幼さが残っていたけれど、社会人になった今の姿は凛としていてランウェイを歩くモデルのようにも見える。
「顔に何かついてます?」
「えっ、いや」
気がついたら八田に見とれてしまっていた。シャンパンで酔っ払ってしまったからかもしれない。
一度視線を外しても、ついついその美しさに見入ってしまう。フォークとナイフで綺麗に食べる仕草が妙にセクシーに感じてしまう。
また視線を八田に気づかれたのか「ん?」と上目遣いで言った気がしたので、慌てて外を見ると観覧車が目についた。
「か、観覧車が見えるね」
下心を悟られないように慌てて話を変える。観覧車はLEDの光で虹色に輝いている。
「食べ終わったら、乗りませんか?」
「えっ? いや、そういう意味で言ったわけじゃないんだけど」
「もしかして高いところ苦手ですか?」
「苦手じゃないけど」
「じゃあ、乗りましょう」
えへへ、といたずらな笑みを浮かべる。
「八田さんってこんなキャラだったの?」
「まぁ、こんな感じです。実習中は粗相がないように気をつけていたのですけど、もうそういう仲じゃないじゃないですか。中村さんも最後に言っていたように、薬剤師になったら立場は一緒じゃないですか?」
たしかに実習最終日にそんな事を言ったような気がするが、厳密にはそういう意味で言ったつもりはない。
「じゃあ、観覧車は乗るということで」
と言って、八田はグラスに残ったシャンパンを一気に飲み干し、お代わりを注文した。少し頰が赤くなっているが、飲み過ぎてはいないだろうか。
「美味しかった」
最後のデザートも食べきり、二人で顔を見合わせると自然に笑顔がこぼれた。
会計を済ませ、レストランを出ると観覧車へ向かった。
「あっ、まだ時間が早いから観覧車だけじゃなくて、他のアトラクションも乗りませんか?」
腕時計を見るとまだ十九時。レストランに入ったのが十七時と早かったので、まだまだ遊ぶ時間はある。
「いいよ」
「やったー!」
八田はチケット売り場に駆けて行き、チケットを買ってくると一枚を俺に手渡した。
「五千円分チケット!?」
五千円分のチケットは、ほぼフリーパスと同義だ。
「せっかくだから、思いっきり遊びたいじゃないですか」
「ま、まぁ……」
遊びたい気持ちはわかる。しかし、今の自分に全てのアトラクションを制覇するだけの体力があるだろうかと自問自答してみたけれど、ここで「やっぱり観覧車だけにしよう」というのもカッコ悪い気がした。
「あっ、これ私の奢りです。というか、次の勉強会で話をしてもらうためのギャラって事にしてもらってもいいですか?」
うむ、と言わせる間も無く踵を返し、一番近くのアトラクションへ駆けて行き、振り返って「はやくー」と言って俺に手招きをした。
大きなブランコのような乗り物に乗って空をくるくる回るものから、子供向けのジェットコースター、高いレールの上を自転車で漕いでまわるもの、寒いだけの部屋、メリーゴーランド、VRシアター。とにかく片っ端から遊んでいく。
「楽しいですね」
「あぁ」
体に溜まっていた疲れよりも、楽しさが上回り、意外にも遊園地を楽しめていた。
こんなに遊ぶのは何年ぶりだろうか。
前に彼女がいたのも五年前になる。それ以来こんなデートみたいなことはしたことがなかった。
仕事ばかりで人生に息詰まっていた日々に少しだけ光が差し込む。
「ありがとう」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
聞こえない声で言ったつもりだったのに、聞こえてしまっていた。もう少しだけ生きようと思った。
結局、アトラクションは全て制覇し、残るは観覧車だけになった。
観覧車に乗るべく列の最後に並ぶ。周りはカップルばかり。俺たちも周りから見たら付き合っているように見えるのだろう。順番を待つ間、少し無言の時間もあったが、はしゃいでいた時間の余韻を楽しむ時間のようで嫌ではなかった。
自分たちの番になり観覧車に乗り込む。外周側に座ると八田は向かい合わせではなく、隣に座ってきた。狭い座席では足が触れて八田の体温を感じる。
「楽しかったぁ」
八田は俺の顔をみつめて笑顔で言った。笑顔が可愛過ぎて、胸がときめく。それを悟られまいと景色に目を移した。
「夜景が綺麗だな」
少しずつ観覧車は高度を上げていく。ランドマークタワーや学会会場のパシフィコ横浜を見渡せる。その逆側にはベイブリッジが光っていて、横浜の夜景が一望できた。
「私、実習中から中村さんに憧れていました。今日の学会で中村さんと再会できるのをずっと楽しみにしていたんです。でも、ちゃんと認めて欲しかったから、学会で発表はしなきゃなって思って、入職時から発表できるテーマを考えていたんです。私にもすぐにできるテーマで結果も出るようなものを選びました」
「そっか……。学会発表はよくできていたと思うよ」
「ありがとうございます」
観覧車が頂上に到着すると、前のゴンドラでは、カップルがキスをしていた。俺は気まずくなり目を逸らす。
「このあと中村さんの家に行きたい」
「えっ!?」
驚いて八田を見ると、恥ずかしそうに下を向いている。
「でも、俺の家汚いよ」
なんて言いながらも、期待は勝手に膨らんでいくと同時に、この展開に混乱してしまう。
「多少汚くても気にしません」
俺の右手の上に八田の手が添えられる。八田の柔らかくて暖かい手を少しだけ握ってみると、握り返してきた。
「じゃぁ、家に来ていいよ」
そう言うと、八田は頭を俺の肩に預けた。
観覧車から降りても手は繋いだまま少しだけ歩いた。
夜の遊園地はキラキラしていて、あれだけ遊んだのにまだ名残惜しい気持ちになった。
少し歩いてタクシーを拾うと、家の方向を告げて乗り込む。家の近くでおろしてもらい、コンビニに寄った。小腹が空いてしまったのでつまみと飲み物を買う。八田も缶チューハイや何か雑貨を買っていた。
「オッケーです。おまたせしました」
コンビニを出ると八田は買った缶チューハイを早速開けて口にする。家に着くと俺もビールを開けた。すこし酔いが覚めてしまっていたので、もう一度酔いたい気分だった。
「へぇー、ここが中村さんの家なんだ。おじゃましまーす」
八田はパンプスを脱ぐと、キョロキョロとしながら奥へ進む。
「適当に座って」
ワンルームの部屋で座ることができる場所はパソコンのあるデスクかベッドのどちらかだ。
八田はベッドに腰をかけた。俺はパソコンの方に座る。
「たくさん本がありますね」
壁際に並ぶ本棚を見て、気になった本を取り出してはしまう。
「この本、借りてもいいですか?」
そう言って一冊の本を棚から取り出した。
「裸でも生きる」
「その人、俺と同い年なんだ。マザーハウスってカバン屋さんの社長」
壁にかけてあるカバンを指差して言った。
「素敵なカバンですね」
すでに三年使用しているカバンは使うほどに牛皮の味が出てきている。
「あっ、本にサインも入ってる」
「お店に社長が来たときがあってね、その時にサインをしてもらったんだ」
「この人みなとみらい大学総合政策学部なんだ。学部は違いますけど私の先輩です! この本借りていきます。あとは、これと、これと、これ。すごい、中村さんの本棚って名著揃いですね」
八田はウキウキした様子で本棚を見ている。本好きとしては好きな本に共感してもらえるのは嬉しい限りだ。
「頑張っている人の話を読むのが好きで、こういう本を読むと少しだけやる気が出てくるし、自分も頑張らなきゃって思える」
「そっかー、そうですよね。なんとなくわかります」
八田が本を手にしてベッドに座る。缶チューハイ片手に黙々と読み進める姿をじっと見ていた。こんなに明るくて魅力的な女性だったのだろうか。それとも酔っ払っているからなのだろうか。すぐそこにいる八田に触れてしまいたくなる。
「この本に載っているカバンって中村さんのものと同じじゃないですか?」
八田は手招きをしたので、俺は隣に座り本を覗き込む。
「やっぱりキラキラしている人って、たくさん努力はしているし、辛い思いもたくさんしていますよね。たぶん中村さんも……」
今まで、たくさんの努力をした。山ほど辛い思いもしてきた。その人生をつい先日まで、もう辞めてしまおうと思っていた。
「いままで、いろいろあったな」
右を見ると八田の顔が近くにあって、息がかかる距離だ。ふんわりと缶チューハイの桃の香りが漂ってくる。スーツのワイシャツもいつのまにかボタンを一つ開けていて胸元が少しだけ見えた。それもあり、心拍数がどんどん上がってくる。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
その場を逃げ出すようにトイレへ駆け込む。別にトイレに行きたかったわけじゃない。ただ、 久しぶりのこういう雰囲気に戸惑っていた。
どうしたらいい。八田を抱いていいのか?
ここには男と女が二人きり。それに誘ったのは俺じゃない。向こうから誘っておいて断られることはないだろう。八田はもう学生じゃない。いまなら何の問題もないはずだ。
しかし、久しぶりにセックスができるだろうか。
俺はズボンを脱いで自分のそれを見る。こんな状況にも関わらず大きくなっていない。日中服用した鼻炎薬に血管収縮剤が配合されていたことを思い出した。それは血管の拡張で大きくなるわけだが、鼻炎薬により血管が収縮されて大きくなりにくくなってしまっていた。
やっぱり抱けない、と思ったけれど、薬箱にバイアグラがあるのを思い出した。
あれを飲めばなんとかなるかもしれない。ただ、あれはいつもらったのかも記憶が曖昧だ。使用期限が切れている可能性だってある。飲むにしても八田の目を盗むか、ビタミン剤だとか適当に嘘をついて飲むしかない。八田だって薬剤師だ。薬の形を見られたらそれだけでバイアグラだとわかってしまうかもしれない。
「はぁ……。やっぱり無理か」
しょんぼりとした気持ちでトイレを出て部屋に向かうと、八田はすでにベッドで寝息を立てていた。
酒の飲み過ぎだ。足元に転がる缶チューハイの空き缶を見て思った。
結局、抱けないのならトイレで悩んでいたことがバカらしく思えて少し笑ってしまった。
八田にそっと毛布をかけてやり、自分はベッドの横にタオルを数枚敷いて眠ることにした。
翌朝、「あっ!」という八田の声で目が覚めた。
「どうした?」
「寝ちゃった」
一瞬、虫でも出たのかと思ったけれど、そんなことかと胸をなでおろした。
「いびきをかいて気持ちよさそうに寝てたぞ」
「やだっ、わたしいびきかいてました?」
「嘘だよ」
「もー」
そう言いながら八田は自分の身なりを確認する。
「言っておくが、何もしてないからな」
「えっ、はい。でも、どうして?」
「はぁ?」
どうしてというのは、どうして抱かれなかった、という事だろうか。
「酒に呑まれちゃう女は魅力がないってことかな」
なんてカッコつけて見たものの『やれるものならやりたかった』というのが本音だ。ただ、眠っている女を襲うほどゲスでもないし、そもそも勃たなかったからできなかったのだ。
「はぁ……」
八田は大きくため息をついた。その直後「うっ」と口元を押さえる。
「お手洗い借ります」
トイレに駆け込むと、盛大に嘔吐している音が聞こえてきた。
八田は昨日、酒の力を借りて無理をしていたのかもしれない。ドアを開けて背中をさすると振り返り「すみません」と涙目で言った。
八田と再開してから何回か一緒に食事をしたけれど、関係は平行線のままだった。親密な関係になりたいと思っていたものの、きっかけを失ってしまっていた。
そんなある日の昼休み、スマホを見ると八田からのメッセージが来ていた。
「資料の進捗はいかがですか?」
そういえば、勉強会の日程が来週に近づいていた。資料は半分くらい作ってはいたものの、忙しくなってしまい、まだ完成はしていない。「鋭意作成中」と返事を送った。
返事を待つ間に、スマホで医療系のニュースをチェックしていると「中国で爆発事故」「医薬品工場で火災」の見出しが目に飛び込んで来た。報道した記事の写真ではメラメラと燃える大規模な工場の写真が載っている。
医薬品の原薬はほとんどが中国だ。原薬が手に入らないとなると、医薬品が欠品する可能性がある。何の医薬品工場かが重要だ。
ニュースサイトの情報元や各種SNSをみて何か情報はないかと検索する。すると、抗菌薬の原薬を作っている工場である事がわかった。
これはまずいと思い、食べかけのメロンパンを慌ててビニール袋に戻し、ゼリー飲料をロッカーから取り出し、十秒で吸う。ゴミをゴミ箱に放り投げると、すぐに薬剤部に向かい、抗菌薬の在庫を確認する。
あの原薬を使用している抗菌薬は主にAとB。細かいものは他にもあるけれど、めったに使わないので欠品しても大きな問題はないだろう
抗菌薬Aの在庫は2000バイアル。ひと月約1000バイアルを使用するので、このまま使えば二ヶ月で在庫がなくなる。抗菌薬Aの代替薬はカルバペネム系を使用されるだろう。耐性菌や下痢のリスクを考慮するとカルバペネム系を乱用するべきではないが、使われることは間違いない。代替薬の在庫は2000バイアル。例年通りの使用料では二ヶ月分。さらに代替として使用されれば、一ヶ月でなくなってしまうかもしれない。
薬剤部の電話を取り、医薬品卸に電話をかける。
医薬品Aの在庫を一ヶ月分1000バイアル確保。医薬品Bは2000バイアルを継続して納品してもらう約束をした。他に、代替薬になり得る医薬品CとDについても追加の発注と定期納品の約束を取り付けた。しかし、約束といっても口約束だ。医薬品卸だってメーカーから薬が制限されれば、こちらに納品することはできなくなる。加えて、大口取引先の大病院を優先するだろうから、当院のような中小病院では軽く扱われる可能性だってある。納品されなければ感染症の治療が十分出来なくなる。十分な治療が行われなければ、感染症による死亡率はあがり、耐性菌も増えていく。耐性菌が増えればさらに死亡率があがる。悪いスパイラルに陥ることは避けられない。しかし、自分ができる事はやったはずだ。部長室へ報告に向かい現状を一通り報告した。
「わかった。俺からも一度、各卸に一言入れておこう」
「よろしくお願いします」
部長は有名薬剤部長の二世だ。有名薬剤部長は業界では権力の塊のような男で、今でも病院薬剤師会の重鎮として居座っている。そのため息子のうちの無能部長でさえ各方面に顔が効く。
「ところで、国産の抗菌薬ないのか?」
「国産の抗菌薬はあります。原薬から全て日本製というのはあるかはわかりませんが」
「ちょっと調べてみてくれ。今まではコストを優先していたが、これからは流通を優先させなければいけないな。少し高くてもいい。これからはそこから買ってくれ」
「はい」
「そもそも、日本は中国に全てを頼りすぎなんだよな。衣食住あらゆるものが中国製だ。コストを下げるために中国製にした結果、自給自足できなくなっちまった。まあ、ここで言っても仕方がないがな」
どこで覚えて来たのか、珍しく真っ当な事を言ったことに驚いた。
部長がここに来た時は酷いものだった。あまりにもバカ過ぎて何度も喧嘩をしたが、今では少しずつ変化が起きているような気もしている。
それを表しているのが部長室の本棚だ。医学専門書ばかりだったが、上段はビジネス書に変わっている。飾りかと思っていたら、少しずつ本棚に増えているので実際に読んでいるという事だろう。
「じゃあ、頼むぞ」
失礼しますと頭を下げて部長室を出て、純国産の抗菌薬を探してなんとか在庫は確保することができた。これでしばらくは感染症の治療が通常通りできるはずだ。
安心して時計を見るとすでに十七時五分前だった。
今日は当直だ。救急室にブリーフィングのために急いで向かう。小走りをしていると呼吸が苦しくなってきたので、白衣のポケットに入れている吸入薬を吸った。炎症を抑えるステロイドと気管支拡張薬が配合されており、少しだけ呼吸を楽にしてくれる。
救急室に入ると本日の当直スタッフが揃っており、ちょうど十七時になったところでブリーフィングが始まった。
「当直課長の田口です。今日は輪番の当番日になりますので救急車の受け入れをお願いします。また、病床は各病棟全て空いておりますので入院は可能です。各課から何かありますでしょうか?」
今日は輪番制の救急車当番日のようだ。救急は地域で輪番制をしいており、当番である日は基本的に救急車をすべて受け入れることになっている。簡単に言うと、忙しい日という事だ。
「それでは、今日もよろしくお願いします」
ブリーフィングが終わり散り散りになった瞬間、田口さんのPHSがなった。救急車受け入れの電話のようだ。
田口さんは西2病棟の看護師長であり、師長の中でも一番の働き者で有名だ。仕事というのは不思議なものでよく動く人について回るものらしく、田口さんが当直課長の日は必ず忙しい。
「今日は眠れなさそうだな」
呟きながら薬剤部へ戻る途中に自分のPHSにも電話がかかってきた。
「夕食後から開始の薬がでたので、お願いします」
「はーい」
と、生返事をして小走りで薬剤部に駆け戻る。
薬は日勤時間帯の十七時までに処方するのが院内のルールだが、午後に外来を持っている医師や午後にオペを行う外科医は処方が遅れてしまう事が少なくない。もちろんそれ以外にも、夕方まで処方を忘れているからという場合もある。そのような場合には薬剤師が当直時間帯に薬を調剤することになる。もちろん、たいていの薬は前もって処方してくれていればこのようなことになることはないのだが。
必要な薬をあらかた調剤して、パスボックスへ入れ終わったのがだいたい二十時。処方や電話が止まったところで、休憩をとる。買い置きしていたカップ焼きそばを取り出し、お湯をいれたところでPHSがなった。
「救急外来受診の患者に薬が出たのでお願いします」
調剤室に戻り薬を調剤し救急室に持って行き、患者に説明して渡し、休憩室に戻る。
十五分もかからず戻ってこれたのだが、カップ焼きそばのふたを開けると完全に水分を吸っていて倍以上の太さになっていた。しかたなくソースをかけて食べてみたけれど、美味しいはずもない。
当直中は汗を掻くからか、しょっぱいものが食べたくなるので、ついついカップラーメンやカップ焼きそばを食べようとするとたいていPHSがなるのだ。とりあえず必要なカロリーを摂取するべく無理やり腹に収めた。
それから、救急外来に受診した急性腸炎や外傷患者に薬を渡していると二十二時を過ぎていた。その間に二人が入院した様子なので、その患者の内服と注射を用意する。一人は循環器で緊急カテーテルをやり、もう一人は脳出血。循環器の患者はとにかく内服している薬が多い。十種類の内服薬を調剤してパスボックスに入れる。脳外科の患者は挿管したらしく、鎮静剤や医療用麻薬やら注射をたくさん払い出した。
そんなこんなで、二十四時を過ぎた。
そういえば歯磨きもしていなかったことに気づき、歯磨きをしていると、救急外来から電話がきた。またインフルエンザの患者だ。
どうして夜間にわざわざ救急外来に受診をしにくるのか不思議でならない。昼間だって熱くらいはあったはずだ。しかも、横浜市は夜間救急があり、そちらに受診することが順序としては正しい。それなのに当院にくるというのは、医療者の無駄な仕事を増やしているとしか思えない。なるべくイライラした雰囲気を出さないように意識しながら薬を渡して当直室に戻った。
ベッドに体を預け、時計を見てみると二時になっていた。体は重く、横になると間も無く眠りに落ちたが、すぐにPHSの音で起こされた。
PHSの音は最小にしていても驚いてしまい、心拍数が急に上がる。そのためすぐに眠気が吹き飛んでしまう。
今度は抗菌薬を調剤し、救急外来に薬を渡しに行く。カルテを見ると風俗店勤務、性感染症疑い。抗菌薬を処方し、明日かかりつけ医へ受診させる。と記載されている。薬を片手に、救急外来へ向かう。
明日かかりつけ医へ受診するなら、七日分も薬は必要ないだろう。けれど、深夜の二時にわざわざ医師に問い合わせるのもおっくうであり、医師がどのような説明をしているのかはわからないので、そのまま渡すことにした。
本当に今日は不要不急な受診が多い。いったいどんなやつだと思いながら救急外来へ向かうと、そこで待っていたのは、いかにも普通を絵に描いたような女性だった。名前と生年月日を確認し、簡単に薬の説明をして渡した。
女性は薬を受け取り待合のベンチから立ち上がったが、歩みが重かったので心配になり、行方を目で追っていると、病院玄関で待っているスーツの男と一緒に車に乗っていった。
性風俗業は感染のリスクを伴う。仕事内容も決して楽ではないだろう。いかにも普通を絵に描いたようなその女性は健康を犠牲にしてまでお金を得なければいけないのだろうか。詳しい事情はわからないが、少しだけ社会の闇を垣間見た気がした。
そして、薬剤部に戻ると休む間も無く、病棟からの問い合わせの電話がかかってきた。
先ほど脳外科で入院した患者の点滴ルートについて問い合わせが来た。配合変化表で同じルートで投与ができる薬を確認し問い合わせに返答した。
こういうたいしたことのない問い合わせも人を選んでいるらしい。病棟でもあの薬剤師には問い合わせはしないという話を看護師がしていたのを聞いたことがある。必要とされるのはありがたいことではあるが、大変でもある。
「疲れた」
ついつい口から漏れ出てしまった。ベッドに横になって時計を見ると三時。目を瞑ると、そのまま意識を失うように眠りに落ちた。
場末のスナックのカウンターに座り、飲めないくせに頼んだウイスキーのロックを見つめている。カウンター越しのママと中年男性客とのおしゃべりが聞こえてくる。
「ママは病気ないの?」
「あたしは、COPD。タバコは止めるように言われているんだけど、ダメね」
「もしかして、この前お店来なかったのもそのせい?」
「そうなの。ちょっと息が苦しくなっちゃって。でも抗生物質もらったらすぐに良くなった。お医者さんは七日分くれたけど三日で良くなっちゃったの。私ってすごくない?」
「残った抗生物質はどうしたんだい?」
「次に悪くなったときのために取っておくの」
「ママ、ダメだよ。医者に出された薬はちゃんと飲まないと」
「いいの。良くなったんだから」
抗生剤はきちんと飲まないと耐性菌ができる。お客さんの言う通りだ。
注意をしようと思い顔を上げてみると、ママは死んだはずの母親だった。
左手にタバコ、右手にはグラスを手にしていて、俺には普段見せないような女の顔をしていた。「母さん」と口に出してみてもこちらを見ない。まるで俺が存在しないかのように客とおしゃべりを続けている。
無視されたような気分になり、煽るようにウイスキーを流し込む。するとすぐに酒が回ってきて顔が熱くなり、呼吸が苦しくなる。アルコールが原因で喘息の発作が起きたのだ。
ヒューヒューという呼吸音が聞こえてきて、あたりが徐々に暗くなっていく。
息が苦しい。
もうだめだ。
プルルルル……。
PHSの音で目を覚ました。
「救急外来です。薬をお願いします」
わかりました、と目をつぶりながら返事をして、重い体を無理やり起こす。
「夢だったのか」
死んだ母が夢に出てきた。働いているところは見たことはないけれど、もしかしたらあんな様子だったのだろうか。
夢から覚めても呼吸は苦しかった。吸入薬を二回吸ったものの、息苦しさはほとんど改善しない。
やはり当直室はダニがいるらしく、ダニアレルギーの俺は当直をすると、時々喘息の発作が起きてしまう。カバンからテオフィリンを一錠取り出し服用した。効果が出るまでには少し時間がかかるからそれまでは我慢するしかない。
救急外来を受診した患者に薬を渡したあと、七時を過ぎていたため、始業業務を始めた。パソコンを再起動したり、冷蔵庫の温度を確認したり、当直帯の業務を記録したり、ルーチン業務を行った。
始業業務が終わる頃にやっとテオフィリンが効いてきて喘鳴は少し収まったものの、少し吐き気がするし、脈が早くなっている。テオフィリンの副作用が出てしまったようだ。
「おはようございます」
小山が調剤室に朝一でやってきた。
「中村さん、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「あぁ、当直明けなんてこんなもんだよ」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
そういうと、小山は調剤された薬をいくつか持って、調剤室を出て行った。
そういえばトイレに行った時、自分の顔を見たけれど、確かに元気とは言い難い顔だった。眠れないと目の下にクマができるし、当直明けはまったく覇気が無くなる。さらに息苦しさが表情にでていたら、それは酷い顔だっただろう。
今日はすぐに帰って寝よう。そう思った矢先だった。
「中村、ちょっといいか?」
部長が調剤室に来て声をかけてきた。面倒が起こりそうな予感しかない。
「抗菌薬はどうだ? 入荷出来そうか?」
「えぇ、昨日卸には約束したので大丈夫だと思います」
「そうか、それなら良かった。あと、今日のニュースを見たか?」
「ニュース?」
朝はテレビをつける暇もなかった。スマホでニュースもチェックしていない。
「昨日のテレビで多剤耐性緑膿菌が特集された。やはりニューキノロン系抗菌薬が槍玉に挙げられていた。院長からうちの使用状況について話がくるだろうから調べておいてくれないか」
「わかりました」
想像通り、面倒ごとではあったが院内の抗菌薬についての仕事であれば、感染対策担当としてやらねばなるまい。
調剤室に戻り、空いているPCでニューキノロン系抗菌薬を使用している患者のデータを抽出する。
ニューキノロン系抗菌薬は多くの菌に効果があり、内服薬があるため外来で処方される機会も多い。しかし、使えば使うほど耐性菌の報告は上がっていくため、乱用が問題なのだ。
データはすでに抽出され、少しだけ見やすくした後、部長にメールし、紙に印刷して部長室へ持参する。
「助かるよ。きっと院長から何か話がくる気がしてさ。おっと、院長から電話だ」
俺は小さく頭を下げて、部長室を出た。昔は何かが起きてから言い訳するような部長だったのに、最近では先読みができるようになったみたいだ。
病院を出たのは十四時過ぎだった。当直明けはタクシーを使うことにしており、病院の前でタクシーを拾うと自宅の場所をおおよそ告げて目を瞑った。
場末のバーでまた酒を飲んでいた。
「ママの息子さんは何をしているんだい?」
五十代くらいの小太りのサラリーマンがハイボールを飲みながら母に聞いた。
「病院で薬剤師やっているのよ。すっかり立派になってね。この間雑誌にも載ってね。ほら、これ」
「いやぁ、立派じゃないか」
「自慢の息子よ。本当に」
「息子さんのために元気でいたほうがいいんじゃないかい?」
「いいのよ、私は。もう十分やることをやったし」
雑誌の連載を始めた頃、ちょうど奨学金は完済していた時だった。後で知った事だけれど、借りた奨学金は俺の給料だけで返済したわけではなく、母が気づかぬうちに大部分を返済していたのだ。
「母さん」
カウンター越しに呼びかけたけれど、こちらを見向きもしない。声が小さかったのかと思って、もう一度「母さん」と言ってみたけれど同じだ。
俺は母さんに何も恩返しができなかった。お金に余裕ができたからどこか旅行でも連れて行こうかと思ったけれど、仕事が忙しくなり、それどころではなくなってしまった。
カウンターの向こうでは、母がゴホゴホと咳をしながらも煙草をくわえている。
「母さん、いつまでも煙草なんて吸っていちゃダメだ。薬もきちんと飲まないと耐性菌ができて薬が効かなくなる」
聞こえていない、届いていない。それでも声を張り上げる。
「母さん! まだ死なないでくれ」
席を立って大声で叫ぶと、母さんはやっとこちらを向いて「ごめんね」と一言だけ言った。
「お客さん、着きましたよ」
目を開けるとタクシーは家の目の前に止まっていた。お金を払ってタクシーを出た。
家に帰ると息苦しさが増していて、SPO2を測ってみると94%と低い。
ステロイドを服用しよう薬箱の中を探したけれど、在庫は切らしていた。
こんな事なら帰り際に外来に受診しておけばよかった。
仕方なくテオフィリンを一錠服用した。
シャワーを浴びて布団に入りスマホを見ると、八田からのメッセージが来ていた。
「明日の資料はいかがですか?」
そういえば、資料は当直中に仕上げようと思っていたけれど、忙しくて忘れていた。確かに約束は今日の昼までだった。
鋭意作成中と返信してからノートPCを開き、資料を修正する。半分はできていたのであと半分だけだ。途中で強い眠気が襲ってきたので、エナジードリンクの小さい缶を半分まで飲むと少しだけ眠気が和らいだ。その勢いを借りて資料を完成させた。完成したのが十九時。
資料を添付し八田に送ると「ありがとうございます」と、すぐに返事が来た。これで休めると思い、ベッドに横になり目を瞑ると、またスマホが震えた。八田からメッセージだ。
「土曜日に家に伺っても良いですか? お借りした本を返したいのと、web勉強会をするにあたって、通信環境も確認しておきたくて」
もちろん答えはイエスだ。すぐにスタンプで◯と送る。
八田に会えると思うと、顔がほころぶ。あわよくば、前回来たときに出来なかった事ができるかもしれないと胸が高鳴り、にやけながら眠りに落ちた。
目覚まし時計を見ると朝六時。音がなる前に目が覚めた。
息が苦しい。完全に喘息発作を起こしてしまった。呼吸を吐くたび喘鳴がなる。加えて、当直明けの次の日特有の体の重さがのしかかる。
辛い……。
冷蔵庫を明けて、エナジードリンクの小さい缶を取り出し、テオフィリン一錠を口に含み、エナジードリンクで飲みこむ。テオフィリンの飲み過ぎだという事はわかっている。でも、受診するまでこの息苦しさは耐えられそうになかった。加えて、なんとなく胃がスッキリしなかったので、胃薬を飲もうと薬箱を漁るとシメチジンを見つけた。これでいいかと服用する。
はっきり言って薬漬けだ。薬がないと生きていけない。もう少し体が強ければよかったのにと思う。
気分を変えるためにサッシを開けて、部屋の空気を入れ替え、洗面所で寝癖を直そうと鏡をみると自分で見ても酷い顔をしている。当直明けの顔が「この世の終わりのような顔」していると言われたことがあったけれど、今日もそんな感じだ。
使い捨てカミソリで髭を剃ろうとするも、手が震えてうまくいかない。テオフィリン中毒だろう。心拍数も高く、胸を強く打っている。
なんとか動悸と吐き気と倦怠感をこらえながら、身支度を行う。
七時には支度が終わり家を出ようと思ったけれど、眠気が襲って来たので冷蔵庫を明けて、もう一つエナジードリンクを取り出し、半分ほど飲んだ。
「今日だけ乗り切れば明日は休みで八田に会える」
今日だけ乗り切ろうと思い、カバンを持った瞬間、胸が締め付けるように苦しくなり、その場にうずくまる。吐き気と頭痛が酷い。耐えきれずトイレで嘔吐し、横になろうと布団へ戻る。
ドクン。
心臓が強く打つ。
呼吸ができない。いや、呼吸をしていても酸素が取り込まれない。
ドクン。
陸にあげられた魚のように口をパクパクさせて少しでも空気を取り込もうとするが、苦しさは変わらない。
ドクン
これはまずいと思って、最後の力でスマホを探す。
ドクン。
カバンに入れたスマホはボタンを押しても画面が黒いままだ。
ドクン
何度もスリープ状態を解除しようとするとするが電源がつかない。
ドクン
そういえば、充電せずに眠ってしまった。画面が黒いのは故障ではなく電池切れだ。
ドクン
最後の一拍かのように心臓が強く脈を打った。
俺の人生もここでおしまいか。
徐々に意識が薄れてくる。
暗くなる視界の中でいつもの猫が枕元にやってきてニャーと鳴いた。
最終話
神奈川県病院薬剤師会総会の会場では仏頂面のスーツの男たちが舞台に上がり、椅子に腰を下ろしていく。舞台の上にいるのは現在の理事。口元はヘラヘラとしている者もいるが、その目は笑っておらず舞台全体に緊張感が漂っている。
「渡邊さん、勝てそうですね」
隣に座った鈴木理事が耳もとで呟く。鈴木理事も中小病院派閥で理事選に立候補している。
俺と対角線上に座っているのが大学病院派閥の山田太郎だ。
口を一文字に締めて腕を組んでいる。
もう一度、会場全体を見回して参加者を数える。二人がけの長テーブルが五十ほど並べてあり、少しずつ空席が埋まっていく。
当選ラインは百と読んでいる。百人以上だと大学病院派閥が弾を持ってきた可能性が高い。数で戦った場合、中小病院はどうやっても敵わない。しかし、まだ少しだけ空席があるということは、百は超えていないということだ。謀反が起こらない限り選挙に勝利することができる。
「それでは定刻となりましたので、神奈川県病院薬剤師会総会を始めたいと思います」
司会は中小病院の若手のホープが担う事になっており、ややたどたどしい進行で進む。
「まずは本日の参加者を確認いたします。しばらくお待ちください」
司会が数取器を使い出席者数を確認していく。過半数を越えれば成立となるが、事前に書面で代議員を立てており、過半数はすでに超えているのは知っている。
「本日の参加者は九十人です。よって、本日の理事会は成立しました」
よし、心の奥でガッツポーズをする。この人数なら勝てる。しかし、結果がでるまでは気を抜けない。ペットボトルのお茶に口をつけるがその手が小刻みに震えてしまっている。
第一議案である本年度の事業報告が台本通りに進んでいく。年次報告の内容なんて誰も気にしてはいない。質問はなく次々と議案は進んでいく。
そして、最後の議案である理事選挙になった。
「それでは最終議案の理事選挙になります。投票用紙には不信任の場合のみ、バツをつけてください。それでは、出席者の方は廊下にございます投票所へお進みください」
バラバラと席を立ち、出席者が廊下に出て行く。投票所には渋滞ができてしまい、すぐに行列になった。俺はその様子を他の理事とともに舞台の上で眺めている。
投票の列は少しずつ進んでいく。進みが遅いというのは×を書いているからだろう。
十五分くらいだろうか。想像していたよりも投票に時間がかかった。
議長が席に戻り、マイクのスイッチを入れた。
「それでは、投票の結果を発表します」
議長は五十音順で名前と投票数を読み上げていく。
ほとんどの票数が九十人の満票で進む。
「山田太郎、三十四票」
山田太郎は過半数の支持を得られず落選。
予想以上の低い票数だ。これは中小病院派閥だけでなく、大学病院派閥においても×がついたという事になる。
「渡邊一敬、八十九票」
当選。しかし、満票ではない。
誰が×を入れた?
「渡邊さん、当選しましたね」
「あ、あぁ……」
もし、×を入れたのが新理事だとしたら理事長になるのは難しい。理事長になったとしても、いずれは不信任で追い出されてしまう可能性だってある。
山田が落とされることに気づいて俺に×をつけた?
いや、それならもっと多くの理事候補に×をつけるはずだ。
山田を見てみると俺のいる方向をを見ないどころか、黙って目をつぶりうつむいている。
×を入れたのは山田ではない気がする。
ということは、謀反というよりも大学病院派閥が票を入れたということか?
それなら一票の×だけでは済まないはずだろう。
もしかして、もっと身近な人物か?
例えば、隣に座る鈴木だとしたら。
いや、鈴木は完全に俺の仲間だ。
俺は会場をぐるっと見渡す。この中に×をつけた人がいる。山田は黙って目をつぶっているし、他の理事も談笑している。フロアの参加者も近くの同僚たちと話をしていて、少し緊張感が解けている様子だ。
×をつけたのは一体誰だ?
もう一度会場全体を見回すと、出口付近に退出しようとしている若い女性がいた。その女性はドアを開けると一度こちらを向いてから、退出していった。
あいつが、俺に×をつけたのか?
若い女に恨みを買うような事をした覚えなどない。しかし、顔にはどことなく見覚えがあるが思い出す事ができない。
「それでは、本日の総会は終了となります。理事に選出されたかたは、理事長を選出しますので舞台の上でお待ち下さい。皆さま本日はお忙しい中ご参加ありがとうございました」
議長の挨拶で総会は終了した。
山田は無言で壇上を降りていく。胸を張って降りていく姿は負けてもなお勇ましい。
「それでは、このあたりで」
船が徐々に減速し、海上で止まった。横浜ベイブリッジが遠くに見える。
葬儀屋が小さな骨壺を手渡す。俺は骨壺の蓋を開けて、船の上から海に撒いた。
白い灰となった骨は弧を描いて海に落ちていく。
骨の海上散布は中村の希望だ。中村の墓はない。なぜなら管理する家族がもういないからだ。
中村は用意周到だった。預金通帳や印鑑、電気やガス、水道など公共料金の支払い書など、必要書類は全て一箇所にまとめてあった。それに加えてエンディングノートも入っていた。エンディングノートには希望する医療行為や、亡くなってからの対応、法律的に有効に書かれた遺書までも入っていた。
結局、中村の死因は心臓発作による死亡に変わりはなかった。自殺や過労死の場合、責任者として責任が問われる可能性はある。しかし、これ以上中村の死を掘り下げようとするものは誰もいなかった。
散骨が終わり、壺を葬儀屋へ返すと、船は再び走り出し、船着場まで戻った。
陸に上がり葬儀屋に頭を下げてから、病院に戻った。
「八田さん、お疲れ様。いま仕事から帰ってきた」
受信時間23:45
「やっとポスターのデータを送ったところ」
受信時間22:30
「当直明けだけど、やっと家に帰ってこれた」
受信時間18:57
中村さんとメッセージアプリでやりとりをした記録のスクリーンショットをとる。全て返信は22時を超えている。計算すると時間外労働の時間が月八十時間を超えている。
先日、知人の紹介してもらった弁護士に相談したところ、メッセージアプリに記載されているメッセージの送信時間や既読時間は訴訟の証拠になるらしい。
訴訟を起こすべきだろうか。そして、勝てるだろうか。
中村さんが亡くなり、悔しい思いでいっぱいだった。その勢いで訪ねた弁護士事務所の弁護士さんには証拠さえあれば勝てると言ってくれた。しかし、家族でもなく正式にお付き合いもしていなかった私がここまでするのは違和感があると言われてしまった。それは協力しないという意味ではない。訴訟を起こせば勝てる可能性はある。しかし、神奈川県病院薬剤師の会長に楯突いたということで、薬剤師としての立場が悪くなるだろう、ということだ。家族ならそれを差し引いても家族の弔い合戦を行う理由はある。しかし、私は他人だ。そこまでする理由があるのかどうか。よく考えて欲しいと。
部長室に戻り背もたれに体を預け、手帳を開く。箇条書きにしたタスクを確認し「中村の散骨」の記載に取り消し線を引く。これで中村の件は終わりだ。そう思うと、肩の荷がおり体がやけに軽くなった気がした。
PCを開き院内回覧を確認すると、先日のストレスチェックの結果が集計され、送付されていた。ストレスチェックというのは名目上のもので、当院においては部署の評価として使用されている。ストレスが高いというのは、その職場が働きづらい職場であるとされてしまうのだ。
そうは言っても薬剤部に不満を持つ中村はいなくなったため、ストレスチェックは受験していない。他のスタッフにトラブルがあるという話は聞かない。特に問題はないだろうと、ファイルをダブルクリックしPDFを開く。
「なんだ、これは」
表示された内容は疑ってしまう内容だった。本当にこれが薬剤部の結果なのだろうか。間違えて検査課のファイルではないかと確認したが、PDFファイルの左上に薬剤部と書かれている。
ストレスチェックは主に三項目で評価される。『仕事のストレス要因』『心身のストレス反応』『周囲のサポート』。最高は5点、最低は1点で点数化されひし形の形で視覚化されている。
三年分のデータがひし形になっているのだが、年が経つたびに少しずつ小さくなってきている。加えて、それぞれの平均点が去年は2点台だったのが、1点台に下がっている。
「なぜだ」
超勤時間を減らしたから、仕事は楽になったはずだ。やりたい仕事だってやらせているはず。ストレスなんて感じるはずがない。
大分類の三項目は確かに低い。さらにその小項目についても目をやる。
『時間内に仕事が処理しきれない』1.2点
『活気がわいてくる』1.8点
『どのくらい気軽に上司と会話ができますか?』1.1点
なぜだ。
スタッフはきちんと十九時で帰っているはずだ。勤怠管理システムにおいても超勤はなくなった。それなのになぜ『時間内に仕事が処理しきれない』のだろうか。時間内に仕事が終わらなかったなんて報告は一度も上がってきたことなどない。『活気がわいてくる』の点数が低いのは中村の死にショックを受けていることが影響しているのかもしれない。スタッフの死はすくなからずモチベーションを下げるのは仕方がないことだ。『どのくらい気軽に上司と会話ができますか?』が1.1点と、ここまで低いのはあり得ない。昼休みにはスタッフとおしゃべりをしてやっている。飲み会だって年四回も開催している。思い返せば、少し下ネタも多かったかもしれない。それを差し引いたとしてもなぜ、こんなに点数が低いのか。
PDFを印刷し、老眼鏡をかけてまじまじと眺めてみる。やはり、この結果は納得がいなかない。そう思っていると、部長室のドアをノックする音がし「どうぞ」と声をかけた。ドアを開けたのは小山だった。
「部長、少しお時間よろしいでしょうか?」
「いいぞ、どうした」
小山はゆっくりと部長室に入り、俺の前に立つ。
「実は……。退職をしようと思っていて」
「いや、ちょっと待て」
小山を見ても俯いて目を合わせようとしない。
「どうしてだ?」
「地元に帰ろうと思って」
「地元は横浜じゃないのか?」
「いえ、三浦です」
「なんだ。近いじゃないか。辞めることはないだろう?」
「実家の父の体調があまりよくないみたいで」
「三浦なら横浜から京急で一時間だろう。すぐじゃないか」
「実家に帰って父の薬局を継ごうと思っていて……」
退職の理由は実家を継ぐか。本当の理由かどうかはわからないが、退職の決意は堅そうに見える。
「退職はいつ頃を予定しているのだ?」
「なるべく早い方が……」
小山の親父さんは三浦市薬剤師会で理事を勤めている。この間、学会で会った時には元気そうにしていたが、わからないものだ。
「退職に必要な書類は院内ウェブでダウンロードできるから、記入したら持ってきてくれ。総務には俺の方から伝えておく」
「よろしくお願いします」
「しかし、残念だな。小山さんには将来的に係長を担ってもらいたかったのだが」
小山はしばらく黙って俯いていたが、小さく頭を下げると部長室を出て行った。役職をちらつかせてみたが、ダメか。最近の若いものは出世欲というものが無いらしい。
小山の退職について総務に一報入れておこうと思い、デスクの電話の受話器を取り、総務の内線番号を押す。1コールで総務につながり総務部長へかわった。小山の退職の件を伝え、電話を切ろうとすると、
「渡邊さん、いただいた電話で申し訳ないのですが、お伝えしたいことが二つありまして、そちらへ伺ってもよろしいでしょうか?」
「あぁ、いまなら大丈夫だ」
「どうぞ」
この後の予定はなかったため、部長室へ来るよう伝えた。
総務部長が来る間にPCにてメールのチェックを行う。理事長の仕事は確認と承認ばかりだ。ある程度想定していたことだが想像以上に煩雑だった。
「渡邊さん、失礼します」
総務部長が薬剤部長室に入ってきたので、応接用のソファーに座らせ、俺も目の前に座った。
「小山の退職の件だが、」
「書類が揃いましたら、提出ください」
「ん? もしかして、小山の退職について知っていたのか?」
「噂程度ですが。総務にはいろいろな噂が入ってきますので」
俺の耳には噂は入ってこなかったのに、総務部長は知っているということに少しだけ背筋が寒くなる。
「ところで、ここにきた用事はなんだ?」
「まずは、こちらです」
総務部長がクリアファイルから差し出したのはストレスチェックの結果だった。
「ストレスチェックの結果が、三年連続で悪化しています。この結果、いかがお考えでしょうか?」
ストレスチェックの内容は先ほど見た通りで、三年連続悪化している。そんなこと言われなくてもわかっている。
「何が言いたい?」
「管理職としての責任を、いかがお考えでしょうか?」
くそが。俺が悪いというのか。
「薬剤部の超勤時間は他の部署と比べても少ない。総務は人件費を削減している薬剤部を評価するべきなのではないか?」
「おっしゃる通り、薬剤部の超勤時間は院内で一番少ないのは事実です。しかし、薬剤部のスタッフが夜遅くに退社している姿を複数回確認しております」
「時間外におしゃべりでもしていて、帰るのが遅くなったのだろう」
「果たして、そうでしょうか?」
総務部長の視線は私の目から、ストレスチェックの結果用紙に再び落とした。総務部長の右手は『時間内に仕事が処理しきれない』1.2点を差している。
超勤時間を減らしてやったのに、こんなことまで言われなければならないのか。
だんまりを決め込んでいると、総務部長がしびれを切らしたのか、
「この結果は、また後日お話いたしましょう。どうぞ、こちらはお持ちください」
と言って、ストレスチェックの結果を差し出してきた。「もう持っている」と答えると、総務部長の口元が少し緩み「失礼しました」と言った。持っていることは知っているくせに。馬鹿にしやがって。
「それと、もう一つ」
また、クリアファイルからA4サイズの茶封筒を差し出した。
「まだ何かあるのか?」
「先日、当院に届いた履歴書です」
「あぁ、中村君の代わりの採用か」
「えぇ、当院のHPで薬剤師の中途採用の募集をかけて、その当日に希望者から連絡がありました。渡邊さんが不在だったので、とりあえず履歴書を送ってもらうように依頼したら、すぐに履歴書が届きまして」
「中身を見せてくれ」
俺は茶封筒からクリアファイルに入った履歴書を取り出す。
名前は八田梨香子。職務経歴を見るとみなとみらい病院に勤務していたようだ。みなとみらい病院は大学病院派閥ではなく、中小病院派閥になる。
勤務年数は二年目のようだが、もう転職とは少し早いな。若手の方が給料が安いからコストダウンにはもってこいだろう。
履歴書の顔写真をもう一度見るとピンときた。
「あはははははは」
俺は笑いが堪えられず、のけぞって笑った。
「渡邊さん?」
総務部長の顔は何が起きたのかわからず、ぽかんとしている。
そういうことか。
こいつが俺に×をつけた女だ。総会の会場で俺を睨んでいた。そういえば、中村の家にも線香をあげに来ていた。病院実習にも来ていた気がする。中村とはどのような関係かはよくわからないが、面接くらいはしても良いかもしれない。
「渡邊さん、この子はどうなさいますか?」
「面接に進めてくれ」
総務部長は不審な顔をしている。
「大丈夫だ。問題ない」
面接で何を聞いてやろうか、それとも入社させて潰してやろうか。どちらにしても面白い。
「そうですか」
「他に用事は?」
「以上になります」
総務部長はゆっくりとソファーから立ち上がり、訝しげに部長室を去っていた。
自分の椅子に戻り、背もたれに体を預ける。
薬剤部スタッフのストレス軽減なんて、係長の責任として全て押し付けておけば良いのだ。そうすれば俺の立場は守られ、そいつらはいずれ潰れる。中村のように。
鳥しげに入って、いつもの席だろうと奥の座敷へ進むと松岡さんはやっぱりそこにいた。松岡さんが私に気づきビールジョッキをかかげて「小山ちゃん、ここ! ここ!」と大きな声で私を呼んだ。大きな声で呼ばれるのは少し恥ずかしかったけど、久しぶりの再会に嬉しくなり顔がほころぶ。小走りで席に向かうと、松岡さんは席を立ち、両腕を開いてテーブル越しにハグしてきた。子供の頃アメリカに住んでいた松岡さんにとっては、ハグは日常の挨拶なのかもしれないけれど、抱きしめられたこの温もりが愛おしく感じた。
「ビールでいい?」
「ごめん、今日はジンジャエールで」
「すいません、ジンジャエールと生ひとつ」
松岡さんは店員を捕まえ注文し、その合間に席にすわる。いつもの四人席は私たちの居場所な気がして気分が落ち着く。
「久しぶりだねー」
「ほんと、久しぶりですよね。鳥しげに来るのも久しぶりだし、そもそも三浦から出たのも久しぶりで電車を降りた桜木町がすごく眩しかったです。三浦は夜になると真っ暗なのに、桜木町は明るいですよね」
「なんか、すっかり田舎者になっちゃったね。前はみなとみらいのカフェバーとか通っていたじゃん」
「たくさん一緒に行きましたよね。石川町の立ち飲み屋とかも」
「懐かしいね」
たった数ヶ月前の事なのに、遠い昔のように感じるのはどうしてだろう。私が横浜を離れたせいだろうか。
「いまでも、カフェには通っています。車で十五分の農村カフェに」
「あはは、農村カフェいいじゃん」
「とれたての野菜プレートと無農薬ジュースが美味しいんですよ」
「今度連れてってよ」
「もちろんです。一緒に行きましょう」
ビールとジンジャエールがテーブルに運ばれてきて、私たちは「再会に乾杯!」と言ってグラスを合わせた。
「ねぇ、あれから何してるの?」
「病院やめて少しゆっくりしてます」
「実家の薬局はどう?」
「退屈すぎて、友達のキャベツ畑のお手伝いしてます。どっちかっていったら農家のほうが専業かも」
「じゃぁ、もう病院には戻ってこないの?」
「もう病院はいいかなって思ってます。なんか頑張るのに疲れちゃったから」
「そっか」
あれから、働く気力を失ってしまった。中村さんがいなくなって、しばらくは業務に穴が空いたけれど、それもすぐに誰かが埋めていった。そのうちひょっこり出勤してくるかも、なんて思ってみたけれど、戻ってくることなんてなくて、中村さんは病院に最初からいなかったような雰囲気にさえなってしまった。
どうしてみんな中村さんがいなくなっても普通でいられるのだろう。もうこれ以上ここにはいたくないと思うようになり、本牧病院は退職した。
「小山ちゃんがいなくなったあと、薬剤部はさらにひどい状態になったよ。急ぎの薬も上がってくるのに三十分もかかるし、薬取りに行った時に調剤室を覗いたけど、みんなおしゃべりしてるの。しゃべっている時間があるなら早く仕事しろって思うんだけど、注意する人だれもいないみたい」
中村さんがいたらスタッフに嫌な顔をされるのはわかっていても、絶対に注意していただろう。
「そういえば、松岡さんは、主任に出世したらしいですね」
「まぁね。今の病院で十年やってるから」
「このまま続けるんですか?」
「とりあえずはね。辛い事もあるけど、仕事をしてると嫌な事を忘れられるから、主任になって忙しくなったのはちょうどいいくらい」
私は中村さんの事を思い出しちゃうのが嫌で職場を離れたけど、松岡さんは職場に残って戦っている。松岡さんが言った「嫌なこと」っていうのは、きっと中村さんのことだろう。
「でも、まじで最近の若手はほんっと使えないよね。メモは取らないし、先輩が残業してても声もかけずに帰るし。周りに配慮できないっていうか。そういうのだから、患者のちょっとした異変に気づけないんだよね。この前なんてさ、心電図モニターのアラームがなったの。VFを起こしていたんだけど、最初に駆けつけたのがリーダーの私。すぐにおさまったから良かったけど、そのあとすぐに医師に報告して、十二誘導心電図つけて心電図とって、バイタル取り直して、全部やって、終わった後にのこのこと担当が来て言ったのが『松岡さん、何かあったんですか?』だって。『何かあったんですか?』じゃなくて、最悪の場合、死ぬかもしれなかったんだぞって言ったんだけど、全然理解してくれなくて『何をしてたの?』って聞いたら『退院の患者さんと話していました』って馬鹿じゃん」
松岡さんはジョッキに残っていたビールを一気に飲み干す。
「あいつ、優先順位が全然わかってないし、緊急アラームに反応できないなんて、看護師辞めたほうがいい。マジで」
松岡さんの仕事の愚痴を聞くのは久しぶりだ。仕事に対する熱い気持ちが懐かしく感じて、ちょっとにやけてしまった。けれど、気づかれていないようだ。
「ところで、三浦って潜れるところある? 最近スキューバダイビングにハマっててさ」
ひととおり愚痴ると、すぐに話と気分を切り替える事や、スキューバダイビングにはまっているなんて、いかにも松岡さんだなぁって思う。よく見ると、肌が日に焼けているのはスキューバダイビングのせいだろう。
「最初は海に潜ればなかむーがいるんじゃないかと思って潜ったんだけどさ。ほら、海に散骨したって言ってたじゃん。だから一度でいいから、幻で良いから、また会えないかなぁって思ってダイビングの体験してみたんだよね。でも、一回潜ってみたら綺麗な海とか魚とかにハマっちゃって。もう海の虜。めっちゃ楽しい。ほら、この写真みて」
松岡さんはスマホを出して、どうやって撮ったのかはわからないけれど、潜水中の写真や魚の群れの写真を見せてくれた。眩しい光が差し込む青の世界はとても綺麗で私も一度見てみたいと思った。
「三浦でも潜れるところはたぶんあると思います」
「ほんと? じゃあ、今度一緒に潜ろうよ!」
「お誘いは嬉しいんですけど、実はいま妊娠していて……」
「やっぱり? なんかおかしいと思ってたんだ。あの小山ちゃんがビール飲まないし」
「安定期に入ったら話そうと思っていたんです。それで、今日がその時かなぁと思って」
「そっかー。おめでとう。小山ちゃんももうママかぁ」
「もうって言っても三十歳ですけどね」
「あたしの年を知ってて言ってる?」
「あっ、それはその……」
「あははっ。冗談だよ。相手は前に話していた高校の同級生で消防士の彼氏?」
「そうです」
「あの時は別れるかもしれないって言ってたじゃん?」
「そんな気持ちの時もありました。でも、授かった時に想像以上に喜んでくれて、そのままプロポーズされちゃいました」
「なにそれー、ドラマみたーい」
松岡さんは口を尖らせて愚痴っていた表情から一変、目尻が垂れ優しい笑顔に変わっていた。
『授かった』なんて言ってみたけれど、本当は私が仕組んだことだった。
中村さんがいなくなって、全てが嫌になって、どうしようもなくさびしくなって、彼氏に『今日はつけなくていいよ』っていったら喜んでそのまましてくれた。そして、妊娠した。
子供ができれば結婚することになるだろう。結婚すれば一人にならなくて済むし、子供や旦那さんのために生きていけそうな気がした。だから、子供を作ってしまいたかったんだ。
「それで、入籍は? 結婚式はいつあげるの?」
「実は入籍だけはしたんですけど、まだ式の予定はなくて。でも、式場は海が見えるところで、本当に仲のいい人たちだけを集めてこぢんまりした式をあげたいねって、話しながら探しているところなんです」
「わー、なんか幸せそう。羨ましい。絶対わたしも誘ってよ」
「もちろんです!」
松岡さんは本当に仲のいい人に入っている。中村さんもそうだ。でも、兄のような人だったから家族枠という感じもする。結婚式に出席して欲しかったけれど、それはもう叶わない。
「あー、私も結婚したいなぁ」
「前に付き合っていた、フランス人の彼氏はどうしたんですか?」
「わがままに付き合えなくなった。やっぱ、フランス人って自己中」
「あはは」
松岡さんと一緒にいると心から笑える気がした。彼氏と一緒にいる時も笑うけど、ちょっと違う。同じ苦しみを抱えている私たち。泣きながら笑っている感覚に近い。
ふと、会話が少しだけ止まってしまった。
その間にテーブルに残った料理を食べ進める。焼き鳥盛り合わせのレバーや山盛りすぎるポテトサラダがあり、松岡さんの隣の席には炭酸の抜けたコーラと手付かずの小松菜も並んでいる。
「今日はなかむーの百日目だけどさ、一周忌もここで集まろう。その先もずっと。絶対」
「うん」
私は松岡さんの言葉に胸が苦しくなり涙が溢れそうになった。しばらく俯いてなんとか涙をこらえて顔を上げて松岡さんを見ると上を見上げていたけれど、眼からは涙が溢れていた。
「あー、ダメだね。今日は泣かないって決めてたのに。ダメダメ」
松岡さんは涙を掌でゴシゴシと拭って、はーっとため息を吐いた。
「じゃあ、今日は小山ちゃんの懐妊に乾杯しよう!」
涙で目を赤くはらせた松岡さんは右手にビールジョッキ、左手にコーラのジョッキを掲げた。
「小山ちゃんもグラス持って!」
まだ喪中な気がするけど、祝い事なんてしても良いのだろうか。躊躇っていると「ほら、早く!」と、せかされるまま、グラスを握って少しだけ上げた。
「かんぱーい」
私のウーロン茶のジョッキとグラスを合わせた。
松岡さんは残ったビールを飲み干し、コーラも勢いよく飲んでいく。
「生きていかなきゃね」
ぼそっと松岡さんが呟いて、私は小さく頷いた。
「中村さん」
中村さんの骨は横浜の海に散骨された。この広い海のどこかにいる気がして呟いてみたけれど、返事があるはずもない。
スマホで実習最終日に二人で撮った写真は、中村さんが笑顔で写っている。
中村さんは過労死だ。
しかし、過労死は告発しなければ認められない。それができるのは私しか残っていない。
「絶対に負けないから」
そう言って、拳を強く握った。
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