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第14話 十月下旬
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鼻をくすぐるキンモクセイの香りに幾度目かのため息をはいた。
晴れ渡る空の下、靴を見つめながら通学路をゆっくりと進む。吹きすさぶ冷たい風は足取りをさらに遅くするように吹いていた。
「はぁ……」
ため息が雲になって太陽を隠したりしないだろうか。青々と広がる空は眩しく、それでいてどこか押しつぶされそうで目を背けたくなる。
考えのまとまらない頭は、何度も現実逃避を繰り返す。現実味のないことから、随分と日常的なことまで。
一度立ち止まり、深く呼吸する。風に吹かれて荒ぶる髪が、頬や首、ブレザーに当たって音を立てる。右手に持っている本の紙端が捲れて、暴風ではないにも関わらず前に進むのが飛び切り大変に感じられた。
吸い込んだ空気に混じってキンモクセイの香りが体内に入る。その香りによって呼び起される記憶に、吸い込む息の量が増えた。
吸って、吐いて。胸を張って、姿勢よく。学校に着いたらいつも通りに教室に入って、クラスメイトに挨拶をして、先生に挨拶をして……。
――体を壊さないように気を付けてください。
呻き声と共にその場でうずくまる。自責の念に襲われ、髪を掻き乱そうするが本を持っていたため手が止まった。
「うぅ……」
バスを降りた時にリュックに仕舞えばよかった。体を左右に振って先生との会話をかき消そうとする。
七日前からこんな調子だ。母におかゆを作ってもらった時も、布団にくるまって横になっていた時も、何度も先生の言葉が脳裏をよぎった。それだけ修学旅行に心躍らせていた。先生と見る、北海道の景色に。
学校の外で会えることなんて、もうないかもしれないから。
今日はこのまま学校へ行くのをやめようか。
うずくまったまま、ずっと頭の中で巡っている考えを検討し始める。前日に何度も考え、学校にいくと決めたのに気持ちがいとも簡単に揺らぐ。
すぐに頭を振って、ため息が雲になる以上にありえないと考えを打ち消した。
幸い、今日の授業に古典はない。自ら先生の居そうな場所へ行かなければ、朝と夕方のホームルームでしか会わないだろう。
事実、自分から動かなければなにもない。どうしたって距離は縮まらない。
自身を安心させる言葉が大きな石ころとなって沈む。眼前に広がるアスファルト上の砂利にうなだれた。
沈んだ気持ちを抱えたまま学校に行って、先生に会うのを回避したい。それ以上に先生との貴重な時間を自分で手放すようなことはしたくない。
向かい風に吹かれ、地面をじっと見つめる。辺りは風に揺れる植物の音で支配されていた。
先生の姿を思い浮かべ、緩慢とした動きで立ち上がる。足取りが重くとも、歩いていればいずれ学校に着く。着実に進むために今まで動いてきた。
活を入れるために左手で頬を叩いた。いつもより力のない活が、頬をすべって落ちていく。なんとか奮起し、前へ進むと強い向かい風に阻まれた。キンモクセイの香りが叩きつけられるようだ。
とっさに顔を覆う。頬をすべっていく風はひどく冷たく、内から凍えていくようだった。
音を立てて吹く風は、すぐにおさまった。
安堵して腕をさげると手から本が抜け落ちる。落ちていく本に手を伸ばすも指先に触れただけ。
本の間に挟んでいたアプローズのしおりがひらひらと歩道脇の花壇へと落ちていく。本は足元に落ち、しおりは手を伸ばす間もないまま、花壇に植えてあるワレモコウのそばへ落ちた。
「――」
何かがせりあがってきて息が詰まる。何が起きたのか理解が追いつかず、体が固まったように動かない。ワレモコウの赤い色から目を外せない。
本を拾って、ふらふらと花壇へ近づく。しおりを拾い、ひっくり返して確認すると土汚れがついていた。ラミネートを使わず厚紙だけで作ったため、汚れた部分に触れると茶色が桜色の紙に広がっていく。しおりが浸食されていくようだ。
本についた砂利を叩く。数回叩いてやっと、ざらざらとした手触りから書店でかけてもらったブックカバー本来の手触りになった。
しおりを落とす原因をつくったのは自分だ。揺れる息を無理に吐きながら、リュックを体の前に移動させて重要な書類を入れるために持ってきていたクリアファイルにいれる。押し花が汚れなかっただけ幸いだろう。クリアファイルと本を仕舞ってジッパーを締めると、リュックの背に顔を埋めた。
学校へ行かなければと思うのに、足が押さえつけられたように動かない。ありえないと打ち消した考えが、また頭の中で巡り始めていた。
とぼとぼと廊下を歩く。修学旅行を終えて土日を挟んだ後の登校に、廊下は明るい声で満ちている。
抜けるような青空を背に話す生徒たちの表情に、足早にその場を離れた。こんな状態で今日一日、いつものように過ごせるだろうか。
急かされるように足を動かしていると教室の扉の前に着いた。
深呼吸をして扉を開ける。扉越しにくぐもって聞こえていたクラスメイトの声が鮮明になっていき、額に冷や汗が浮かんだ。
教室の中は普段よりも眩しく見える。自分の影が色濃く落ちているような錯覚に、自分の席だけを見て教室の中を進む。
「花ヶ前さん、おはよう」
滑舌のいい穏やかな声の方へ顔を向けた。
目の前にいたのは一年の時も同じクラスだった桜谷さんだった。一年生の出し物決めから目標としてる人だ。準備の良さは相変わらずで、演劇部で培われていく観察眼も鋭い。何もかもが見透かされそうで、開いた口を一度閉じてから声を出した。
「お、おはよう……」
上擦った声で挨拶を返す。桜谷さんの綺麗な眉が下がった。
「体調はどう? 無理はしてない?」
首を傾げる動きに合わせて黒髪のショートヘアが流れる。いつもの桜谷さんなら、さらっと不調を見抜いて言葉少なにクラスメイトを保健室へ促しているのに。ここまで何かを問う姿を見るのは初めてかもしれない。私の勘違いだろうか。
問われたことに困惑しつつ答える。
「あ、う、うん。もう大丈夫だよ」
言葉がうまく出ず、つっかえながらも答える。体調管理を怠ったせいで行けなかった修学旅行の想像がぶわっと脳内に広がり陰鬱とした気持ちが湧き上がる。精神が安定していないことを悟られたくなくて、逃げるように机へ向かった。
机の上にリュックを置くころには、よく話すクラスメイト四人に机の周りを囲まれていた。内心慌てふためくも、顔を見ていなくても自然なように教科書を出し、皆の挨拶に言葉を返す。
「花ヶ前さん、これ……」
「……?」
机の中に教科書を入れ終えると左側にいる麻田さんに何かを差し出だされた。
受け取った細長く白いラッピング袋に包装されたそれは、固い質感だった。ラッピング袋の柔らかくつるつるとした質感に、表面を指の腹で撫でる。
「開けてみて!」
隣にいる木梨さんにそう言われ、袋が破れないように気を付けて開ける。袋を止めていたテープは簡単に取れて、中から薄紫色のボールペンと茶色いクマが顔を覗かせた。
「これ……」
自然と顔が上がる。目の前の四人は、四人とも優しい表情をしていた。ボールペンをそっと袋から出す。
真ん中に濃い紫のラインが入っているボールペンは、クリップ部分にはラベンダーの花を模したものが付いている。教室に差し込む柔らかい光で、ボールペンはちらちらと輝いていた。
クマのキーホルダーも手のひらへ出す。
茶色いクマのキーホルダーは金属製で硬いものの、全体的にふわふわとした見た目で硬さを感じない。クマの柔らかい笑みが皆の表情と被る。
北海道のラベンダーと熊を思い起こさせるそれらは、修学旅行のお土産だった。
「皆で選んだんだ。花ヶ前さん、ボールペンの消費早いみたいだし」
栗色のボブヘアを揺らしながら米田さんがそう言ってボールペンを指した。
「花ヶ前さん、修学旅行をすごく楽しみにしていたようだったし、今までのお礼もしたかったから」
「……お礼?」
桜谷さんの言葉に首を傾げる。
「うちらに勉強おしえてくれたじゃん? お礼はその場でしたけど、学校でお返しに渡せるのって自販機の飲み物か購買のおやつくらいだったし、ちゃんとお返ししたくてさ。花ヶ前さんのおかげで成績上がったし」
快活に笑う木梨さんの言葉に三人とも頷く。
四人と教室で行った勉強会を思い返す。教えたといってもわかる範囲だけで、私が教えてもらうこともあった。
「……」
四人にお礼を伝えなければと思うのに、沢山の言葉が頭に浮かんでは消えていく。
「……花ヶ前さん?」
麻田さんがお土産を見つめたまま黙っている私の顔を覗き込んだ。肩にかかるおさげがブレザーの上をすべる。
「あ、ありがとう。大切に使う」
回らない頭ではそう伝えるので精一杯だった。もっと伝えたいことも伝えるべきこともあるはずなのに。
手にのってる二つの重みが増したように感じた。
「あ、それと写真!」
木梨さんがそう言って、スカートのポケットからスマホを取り出す。
「花ヶ前さんも写真とるって言ってたから、余計かもしんないけど色々撮っといたんだ」
「先生たちのこともけっこう撮らせてくれたんだよねー」と言って、スマホの画面を近づけられる。
「先生」の言葉に慕う人の姿を思い描いてしまい顔を背ける。
「――今は! ……いいかなっ」
木梨さんの優しい気持ちを無碍にするような行為に、うなじにじんわりと汗が浮かんだ。
「そっか。見たくなったり欲しくなったら言って。うち以外も撮ってるから、あとの三人でもいいし」
細かく頷いて、お土産を片手に持ち直して汗を拭おうとする。
うなじに触れた指先は冷えていて、手のひらへ視線を向けた。指先は赤くなっていて、両手とも指先から冷え切っていた。
汗を拭うのをやめて前へ目を向けると、米田さんと麻田さんがスマホを、桜谷さんは自分の机から印刷した写真を持ってきて見せてくれた。スマホの画面も写真の表面もどんな風景を写しているのか分からない。四人の気遣いに感謝の気持ちでいっぱいになる。
「印刷した写真が欲しくなったら言ってね」
桜谷さんの言葉に頷くと、扉を開く音がした。音がした方へ目を向けると先生の姿がクラスメイト達の間から見えた。予鈴の音がショートホームルームの開始を知らせ始める。
教室に入った先生は教卓へ移動せず、持ち物を抱えたまま教室内を見まわしている。
先生の何かを探すような動きが気になってブレザーの襟を握って覗き見ると、こちらの方へ視線を向けた先生と視線が交わった。
お互いの表情がくっきり見えるほどに視界が開けると先生は目を丸くし、安堵したように笑みを浮かべた。外されることのない視線に動揺していると、何かに気づいた先生が慌てて教卓へ向かう。
「じゃ、また後でね」
木梨さんが自身の席へ移動しながら手を軽く上げ、そう言って離れていく。教室に鳴る椅子を引く音や、机の向きをなおす音に頭を振った。
他の三人も挨拶をして自分の席へ戻っていく。動揺した気持ちを抱えたまま椅子を引いて、席に座った。ボールペンとキーホルダーをそれぞれペンケースとリュックに仕舞う。しおりの入ったクリアファイルは見ないようにして。
「――おはようございます」
頭を下げて挨拶を返す。
出席を取る先生の声を聞くも、自然と窓の外へ顔が向く。
空の色が朝の冷たい青色から全てを包み込むような温かい青色へ変わっていた。変わる気配のない空模様から目を離し、黒板近くに掛けられた時計を一瞥した。
下校時間よりもずっと遠くにある針に、息をはいた。
「いっ……」
痛みのまだ残る二の腕を摩る。ティーシャツの袖から見えるそこは、擦ったように赤くなっていた。
「はぁ………全然、普段通りじゃない」
クラスメイト達の明るい声に包まれる更衣室の中で、そうこぼす。クラスメイトが使用する汗拭きシートの香りにどんよりとした気持ちになる。
不注意でボールにぶつかり体調を心配され、見学になった私はほとんど汗をかいていなかった。多少は動けたというのに。
焦燥感が胸を駆け巡る。普段ならばと考えてしまう。
着替えようと冷たい指先が体に触れるたび、筋肉がこわばった。見学になったとはいえ動いたのにも関わらず、体は冷たい。少し赤みがかった手のひらに眉を寄せて、急いで制服へと着替える。
更衣室にじんわりと広まっていく柑橘系の香りに逃げ出したくなった。
「花ヶ前さんっ!」
ほとんど着替え終わり、ブレザーのボタンを留めていると後ろから快活とした声が届く。振り返ると頬が少し赤くなっている木梨さんがいた。
「ボールが当たったところ、平気?」
暑いからかワイシャツの袖を捲っている木梨さんが左腕へ目をやる。怪我をしてないか案じる瞳に顔をそむけたくなった。
優しい気持ちや言葉をかけてもらうのがつらい。
「――うん、大丈夫だよ」
じわじわと未だに痛む腕に手を当て、笑みで返す。
「んー、そっか」
口をムニムニさせながら、頷いてくれた。口元の動きに違和感を覚えていると、桜谷さんが前から近づいてくるのに気付く。
「二人とも着替え終わった?」
きっちりと制服を着こんだ桜谷さんの言葉に頷き、忘れ物がないか周囲を確認する。近くで着替えをしていたクラスメイトはすでにおらず、更衣室に残っている生徒は少ない。急いで着替えたにも関わらず、普段よりも時間がかかったことに気づいた。
「じゃあ、教室に戻ろうか」
三人で連れ立って更衣室を出る。廊下は換気のために窓が開けられていて、少し肌寒い。暑そうにしていた木梨さんも『これじゃ風邪ひく』と言って、いそいそとシャツの袖を直していた。
他の生徒の楽し気な声が響く中、言葉少なに進む。木梨さんが腕のことについて聞いてくることはなく、肩の力を抜いた。
二人の後ろから見た空は、相も変わらず雲一つなかった。
教室までの道のりを、二人の会話に頷きながら進んだ。
二人の後頭部がくっきりと見え、木梨さんの綺麗な金髪が光に透けている。廊下に流れ込む風に吹かれる長い金髪をぼーっと眺めていると、桜谷さんが購買で直面した出来事に、頭の後ろで手を組んだ木梨さんが大笑いしていた。陰りのない二人の笑い声につられてしまい私も口元の筋肉を緩めた。
「――ん! 米田と麻田さんだ」
会話がとまり、教室の前、話しながらハンカチで手を拭く二人へ視線がいく。声に気づいたのか、二人が手を止めてこちらを見た。
木梨さんが手を振って駆け寄る。二人も笑みを浮かべて手を振り返した。仲のいい光景に目尻も下がる。
桜谷さんと連れ立って木梨さんの後を追う。後ろから見る桜谷さんは姿勢よく、何事にも動じないように見えた。それでいて自分は、と自分の影へ目がいく。
三人のもとに着くと笑い声の輪ができていた。
「あ、さっき思ったんだけどお昼、みんなで食べない?」
何の会話をしていたのか分からないまま、木梨さんがそう話し出す。急な提案に体が一瞬こわばった。
「いいね」
桜谷さんがそう返す。あとの二人も一緒に食べようと返していた。
「花ヶ前さんはどう? 他の人と食べる予定があったり、忙しかったら無理しなくていいんだけど……よければ花ヶ前さんと一緒に食べたいな」
皆の視線がこちらに向く。賑やかな声が耳を通っていくのに、辺りから切り離されたかのようだ。
断る言葉がぽつぽつと浮かぶ。どの言葉も口にする気にはなれず、提案に頷いた未来を想像すると、未だ沈んだままの気持ちが浮くように感じた。
「どうかな……?」
様子を窺う声に逡巡するも、迷いを捨てるように大きく頷いた。
「やった!」
米田さんがガッツポーズをする。似たような反応をしている皆に目を瞬いた。弾んだ声でお昼の話をしはじめた一人ひとりの顔は喜色に満ちていて、久々に誰かとお昼を食べることに気が付く。
視界にかかった靄が薄れたようだった。
どこで食べるかの話になり、ゆっくり食べたいからと教室で食べることになった。
「じゃ、ちゃちゃと授業を終わらせよ! で、次の授業ってなんだったっけ」
「……あんたの苦手な数学だけど……」
「――なっ」
木梨さんと米田さんのやり取りに笑い声を零し、お昼への期待を抱えて教室に入った。
何も書いていないノートの上で、もらったボールペンをいじる。クリップ部分のラベンダーは細かい作りで自然と北海道に咲いているラベンダーを想像させた。四人はきっと花好きなのを考慮してこのボールペンを買ってくれたんだろう。
四人との勉強会は、木梨さんと米田さんの苦手教科を克服するために開かれた。二人にそれぞれついて、全教科成績のいい麻田さんは補佐をしてくれた。
一年生の頃よりも更にクラスメイトとやり取りすることが減っていたため、勉強会でのやり取りは幸福感で表情が緩む。文房具の話や部活動の話、最寄りの駅構内にあるコンビニで出会った可愛い子供の話。とめどなく続く会話に心が弾んだ。
先に帰る私へお礼にと、校内で買ってくれたお茶に紅茶、暑い場所でも溶けないチョコレートとオレンジ味のグミ。どれも一度は口にしたことがあったけれど、もらったものはどれも特別な味がした。自販機やコンビニで商品を見かけるとその時のことを思い出すほどには、記憶に残るものだった。
私はお土産のお返しに何を渡そう。皆は何が好きだろう。普段はなにを食べていただろうか。
――思い返してみればみんなのことをよく知らない。なにが好きで、どんなものを欲しがっているのかも分からない。
勉強会での会話も基本、四人の好みが窺い知れるような話はなかった。記憶を掘り起こせど、なにも答えは出てこない。
二年生になってから同じクラスになった子と違って、桜谷さんとは一年生の時もクラスメイトだった。文化祭の出し物決めから、クラス演劇の練習のあとも何かと話す機会はあったのに用意周到な性格で気配り上手。体育会系に分類できるほどの演劇部での運動量に、スポーツドリンクをよく飲んでいることぐらいしか知らない。
――四人のこと、何も知らない。
「花ヶ前さんどうしたの? 具合悪い?」
横から聞こえた先生の小声に持っていたボールペンをノートに落とした。
とっさに居住まいを正して首を振って答える。
「大丈夫です。ぼんやりとしていました」
黒板を一瞥すると綺麗な字で数式が書かれており、クラスメイト達は問題に取り組んでいた。生徒の質問に答えるために先生は教室内を見て回っていたようだ。
「そっか……病み上がりなんだから無理はしないでね。何かあれば手を上げたり合図をくれればいいから」
「……はい。ありがとうございます」
心配そうな面持ちのまま先生が教卓へ向かうのを目で追っていると、廊下側の最前列に座っている桜谷さんと目が合った。そのまま桜谷さんが口をパクパクとさせる。口の動きに目を凝らすと「大丈夫?」と言っているようだった。頷いて答えると一瞬、何かを考える素振りをしてそっかと視線を外した。私も頭を振って問題に取り組み始めた。
「やっと終わったー!」
終業のチャイムが鳴るや否や椅子を動かす音をさせて、こちらへ来た木梨さんがそう言って伸びをする。
「お腹空いたねー」
他の三人も集まって机を移動させ始めた。
周囲に気を使ってか音は静かで、両隣に一つずつ前に二つ、机が置かれた。あっという間に準備は終わり、みんなのお昼が並べられる。お弁当やコンビニのサンドイッチと様々だ。私も机の横にかけていたリュックサックからお弁当を取り出す。
「あ、席を使っていいか許可はとってるから気にしなくていいからね」
お弁当箱の蓋を開けていると、隣で五つある保存容器の蓋を開け終えた桜谷さんがそう話す。
「そ、そうなんだ」
「……ほんと準備いいよなー」
こういったことに先に気づき、何も言わずに動けるのが桜谷さんだ。この二年間でその能力を発揮しているのを何度も見かけた。少しは近づけていると思ったけれど、修学旅行の前に風邪を引いてしまうあたり未熟だ。
「どした? 早く食べよう」
「う、うん。いただきます」
下を向いていた顔を上げ、食べ始める。他の子も一様に食べ始めた。
「――ん! これ、美味しいっ」
ゆっくりと昼食を食べすすめていると木梨さんが驚きの声を出す。手に持っているサンドイッチを見つめて驚いた表情をしている。
「あ! それって新作のサンドイッチじゃん! くっ……いつものじゃなくてそれにすればよかった」
木梨さんが食べているサラダチキンにレモンソースのかかったサンドイッチを見て、同じコンビニで販売されているおにぎりを持った米田さんが悔しそうな声を出す。
「じゃ、食べる?」
もう一つのサンドイッチが入ったパックごと米田さんの机へ移動させる。
「いいの?」
「うん。皆も食べる? 五等分になるけど」
木梨さんの言葉に一考し、食べると返す。あとの二人も同じように返した。
流石に誰も切り分けるためのナイフを持っていなかったので、桜谷さんが予備のためにもってきていた割り箸で分ける。チキンは繊維に沿って切れたが、パンがうまく切れずところどころ潰れている。桜谷さんが「ごめん……」と謝罪するとみんなで気にしていないことと感謝を伝えた。
サンドイッチがみんなの手元に渡り、一斉に口へと運んだ。
「……美味しい」
口の中にレモンの香りと味が広がる。レタスの食感もよく、サラダチキンとレモンの相性は抜群でさっぱりとしていて食べやすく、食べている内にお腹が空いていたことに気づいた。サンドイッチを食べきり、木梨さんにお礼を言って持ってきたお弁当を食べすすめる。彩りよくおかずが詰められたお弁当は見た目もよく、箸がすすむ。
前日も朝方もお弁当を作る気になれず、見かねた母が作ってくれた。全ての調理をしてもらうのは、料理の大変さを知っているために申し訳なく一品は作った。
久々に食べる母のお弁当は私の作るものとどこか違く、材料や調味料、調理方法を同じにしても敵わないのだろう。料理の上達のために出来るだけ難しいものを作るようにとしてきたが、本当に料理がうまくなったのか不安に駆られる。ただただ無意味なことをしていただけではないのだろうか。
母の作る料理とはなにが違うのか。
綺麗に巻かれた卵焼きをかじる。幼い頃から食べ慣れた味がじんわりと口の中に広がり、母が台所で手際よく調理する姿を思い浮かべた。
母のようになれるのだろうか。家事全般をこなし、時としては共働きの父よりも忙しくとも分担された家事は完璧にこなす、そんな母に。
父は『前から年下とは思えないほどそつのない人だったよ』と語ってくれた。胸を張って先生の隣に立つには母のようになるべきだろう。
卵焼きを飲み下すと隣で麻田さんが動く気配がしてそちらへ顔を向ける。
「えっと、手を付けてないからもしよかったら……」
差し出された小さな保存容器には、白身魚をカレー粉をまぶして焼いたおかずが詰めてあった。他の容器も見せてくれたが、サラダや量の少ないものだったりともらうのが申し訳なくて、最初に見せてもらったおかずをもらって、それ以外のは断った。
「よかったら、私のもどうぞ」
いつもよりも多くおかずが詰められた弁当箱を差し出すと、麻田さんがお礼と共に私がかろうじて作れた根菜類をごまと酢で和えたものを取る。
お互いに交換したものを口にした。
「! これ美味しいね」
和食を中心に調理していたため、なんだか久々にだしや醤油以外の味を味わったように思う。カレー風味に脂ののった魚がとても合い、ご飯が進む。
「このごま酢和えもとっても美味しいよ。もしかして花ヶ前さんの手作り?」
「うん」
美味しそうに食べる麻田さんの姿に喜ばしい気持ちになる。
「そうなんだ。花ヶ前さんが調理実習のときに手際よくお料理してるのをみて、美味しそうだなって思ってたんだ。家庭科の先生とお料理のこと話してるのも見たことがあったし」
「え……」
麻田さんの言葉に目を剝いていると、前の席で口いっぱいに頬張って食べていた木梨さんが何度も首を縦に振っていた。
「私も一度、見かけたな。それと忙しそうにしてなければ部活に誘ったのにって話してるのを職員室で聞いたよ」
すでにお弁当を半分ほど平らげた桜谷さんが柔らかい笑みをこぼしていた。
「確かにいっつも忙しそうだよね。お昼もすぐに食べちゃってどっか行っちゃうし……お昼に誘おうとしても昼休み始まってすぐなのにいなかったりするし」
「その言い方は誤解させちゃうでしょー!」
木梨さんがおでこを叩かれた。二年生になってすぐ、何度か誘ってもらったのを思い出す。
「そんなに忙しそうだったかな……」
お弁当をつつく手を止めて、普段の行動を思い返す。
午前中は授業を受けて、授業前の休み時間に予習復習の確認。昼休みには図書室でそのとき必要な本を借りて、お昼は手早く済ませて午後の授業が終わり、園芸部の活動がなければ大半は下校している。どれも先生に徒情ではないと行動で示すために必要なことだ。
「なんていうか、すんごく急いでるように見える。何かに急かされて追いつめられてるっていうか」
「あー……花ヶ前さんに失礼かもしれないけど、私もそう思った」
木梨さんたちの評価に今までのことを振り返ると、どこか腑に落ちたように感じた。
同い年で目線が近いであろう桜谷さんも母も行動にゆとりがある。
三年間という長くない期間に焦って、急いでいないと言えば噓になる。三年生になれば受験も大きく関わってくる。それまでの間にできることはしておきたかった。その焦りがきっと見て取れたんだろう。自分の中では余裕をもって動けていると、他者にはそう見えていると思っていた。
「そっか……」
彼女たちの評価に首肯すると、慌てた様子の米田さんが手を振って謝罪の言葉を口にする。
「気分悪くさせてたらごめんね」
謝罪されるようなことはなにもない。
「ううん。大丈夫だよ。みんなにどう見えてたのか知って、思い返してみたら納得したんだ」
「答えるのいやだったら無理に答えなくていいんだけどさ……なんでそんなに急いでるの?」
木梨さんが真剣な声色で問いかけてくる。問われた言葉に対して、先生への想いが溢れ言葉になっていく。答えるかどうか逡巡するも私らしくもないとどこか軽い心持ちで答えた。
「好きな人が告白の返事をくれるように。何も気にせず隣に立てるようになったのなら胸を張って立てるように。――総じて言えば、将来のためかな」
すんなりと口をついて出た言葉は話すことはないと思っていたことで、胸がすく。何故だかまた視界が開けたようだった。
口を閉じている皆へ目を向けると桜谷さん以外が顔を赤らめ、目を点にしている。皆の反応に困惑していると目の前に容器が置かれた。容器の中には切り分けられたオレンジが。
水滴をまとったオレンジは随分とおいしそうで、容器を置いた理由を問うために桜谷さんへ目を向ける。
「よかったら、どうぞ食べて」
戸惑うもお礼を言ってオレンジをもらい、依然として固まったままの面々を眺めた。
「――あ、えっと! それなら頑張っちゃうよね」
「でも、頑張りすぎな気も……」
「うん。気負いすぎっていうかなんていうか」
桜谷さん以外が目を見交わす。
「そうかな――そうかもしれないな……」
オレンジを咀嚼しながら記憶を探ると、料理の失敗や成績についてなんでうまくできないんだと責めた。
ずっと焦っていた。今までこんなに何かに実直に向き合ってきたことがなかったから。小学生のころも中学生のころもなんとなくで生きてきた。
変わっていく環境に、街を歩けば見かける大人として社会にいる人たちに、三年間なんてあっという間だぞと言われてるようで。
それがきっと今回の風邪につながったんだろう。焦るばかりで体調を考慮していなかったから前へと進もうとする心に体が止まれと声をかけたのだろう。
「みんなの言う通りだ」
視界が滲む。手に持っているオレンジの輪郭がぼやけて、夕焼けに照らされるキンモクセイを思い浮かべた。
「花ヶ前さんのタイミングがいいときでいいんだけどさ、これからはもっとお昼に誘っていい?」
目元をさっと拭って頷く。オレンジに触れた手で拭ったためにしみて痛かったが、自然と笑みがこぼれた。
「よし!」
ガッツポーズをする米田さんの姿に更に頬が緩んだ。
「私も声かけるね」
「うちも!」
「私も」
みんなの言葉に何度も頷く。先生との将来を掴み取るためと、周りを目に入れずに過ごしてきた。でも、もっと色々なことを話せばよかったかもしれない。こうやって声をかけてくれる人たちがいるのだから。
でもまだ、一年もある。先生のことも高校生活もまだ終わったわけではない。みんなのことをこれから知っていけばいい。先生ことだってゆっくりと知っていったのだから。
オレンジをまた頬張った。とても甘く、それでいて酸っぱい。きっとこの味も記憶も、オレンジを見るたびに思い出すのだろう。
唇に触れた指先はもうかじかんでいなかった。
朝からずっと晴天のまま太陽が校舎を照らしている。夏の十五時ごろとなんら変わりない空模様に口角を上げた。
教室の窓から手元にある日差しを浴びて、表面が少し温かいグミの袋へ顔を戻す。お昼休みの後、木梨さんにもらったものだ。
『話していいから話してくれたんだろうけど、聞いちゃったのはうちだから』と渡されたときに言っていた。気にしなくていいと返すも、『できれば受け取ってほしい』と返されたので遠慮なくいただいた。
こそばゆい気持ちでいちごの描かれたパッケージを眺めていると教室のドアが開く。
「すみません、遅れてしまって」
クリアファイルや茶封筒をもって先生が急ぎ足で入ってくる。先生の姿を見ても、普段と大差ない心境でいられた。
「お知らせがひとつだけあります」
先生が持ってきた茶封筒の中から紙束を取り出し、手際よく各列の人数分に分けて配っていく。回ってきた紙には図書室に入った新しい本についての詳細が載っていた。
「あの本も図書室に入ったんですね……」
先生がそう独り言ちる。
先生はたくさん本を読む。園芸部での活動中に先生が読書家だと知った。今まで読んだ本についていくつか話すと、目を輝かせて手に土がついたままおすすめの本について語ってくれたことがある。あの時の先生は普段の凪いだ声とは違って、とても弾んだ声をしていた。
表情も大輪が咲いたような笑顔で、今日と同じくらい天気のいい日だったから笑顔が随分と眩しかった。
図書室からのお知らせにさっと目を通す。何冊か気になる本を見つけた。
「お知らせは以上です。怪我などに気を付けて帰ってくださいね」
椅子や机を動かす音が鳴り、クラスメイト達が挨拶をして帰っていく。人の流れが落ち着くと持ち物を確認して教卓の方へと移動した。
「日和先生、また明日」
普段よりもゆとりをもった挨拶ができた。お昼にみんなと話したことがよかったんだろう。他のクラスメイトと挨拶が被ってしまい先生からの反応はない。少し残念に思うもそのまま教卓の前を通る。
「あ、ちょっと待って!」
「え? あ、」
先生の声に振り返ろうとすると机の脚にかかとをぶつけて、バランスを失った。何とか後ろに倒れないようにするために前かがみになる。それでも勢いは収まらず、前へと体は傾く。
「――」
教卓へ手を伸ばし掴もうとする。
指先は教卓に届かず、来るであろう衝撃に目をギュッと瞑った。
誰かが何かにぶつかったような音がして目を開けると、先生が前から支えてくれていた。先生の後ろで教卓に置かれたクリアファイルが床へと落ちていく。
「大丈夫ですか!」
距離の近さに瞠目し、何度も頭を縦に振る。真っ白になった頭は淡い花の香りだけ認識した。
「すみません、急に声をかけてしまって。足は痛くないですか」
声が出ず、頷いて返事をすると先生は安堵したように息をはいた。脈打つ心臓に手を当てて固まっていると、もう一度謝罪の言葉を口にした先生が後ろを向く。
教卓の横に落ちたクリアファイルを拾い、中からOPP袋を取り出した。
「声をかけたのはこれをお渡ししたくて。修学旅行のお土産です」
渡されたのはラベンダーの押し花で作られたしおりだ。理解が追いつかず、呆然と先生の顔を見つめた。
「お土産屋さんで販売していたんです。しおりなら邪魔になることもないでしょうし、少し前にしおりの端が切れていたのを見かけて」
咄嗟に土汚れのついたしおりを思い浮かべた。
「もしよければ、使ってください」
柔和な先生の笑みに強張った体の力が抜けていく。
告白した日のことを思い出した。あの日もこうやって、あまり気づかれないことに気づいてくれた。今日は大切な物が三つも増えた。先生からのお土産はきっと、休んだ生徒になら別の物であれ、渡されるものだろう。それでも、嬉しい気持ちが押し寄せてくる。
受け取ったしおりを指先で撫でる。
「ありがとうございます!」
今なら四人にもきっと沢山の言葉で感謝の気持ちを伝えられる気がした。
「おぉ、めっちゃいいじゃん!」
後ろから柔らかい声色の声が聞こえて振り向く。後ろには桜谷さんたちが笑みを浮かべて立っていた。
「もしよかったら一緒に帰れないかなって思って」
朝、俯いて歩いた通学路も四人となら顔を上げて歩ける気がする。ワレモコウを見ても苦しくならないだろう。
「――うん!」
誰かと一緒に帰るなんて久しぶりだ。
「怪我や事故に気を付けてくださいね」
先生の言葉に破顔し、皆と返事を返した。
急いで疲れてしまわないように、この高校生活も先生とのやり取りも楽しめるように。
晴れ渡る空の下、靴を見つめながら通学路をゆっくりと進む。吹きすさぶ冷たい風は足取りをさらに遅くするように吹いていた。
「はぁ……」
ため息が雲になって太陽を隠したりしないだろうか。青々と広がる空は眩しく、それでいてどこか押しつぶされそうで目を背けたくなる。
考えのまとまらない頭は、何度も現実逃避を繰り返す。現実味のないことから、随分と日常的なことまで。
一度立ち止まり、深く呼吸する。風に吹かれて荒ぶる髪が、頬や首、ブレザーに当たって音を立てる。右手に持っている本の紙端が捲れて、暴風ではないにも関わらず前に進むのが飛び切り大変に感じられた。
吸い込んだ空気に混じってキンモクセイの香りが体内に入る。その香りによって呼び起される記憶に、吸い込む息の量が増えた。
吸って、吐いて。胸を張って、姿勢よく。学校に着いたらいつも通りに教室に入って、クラスメイトに挨拶をして、先生に挨拶をして……。
――体を壊さないように気を付けてください。
呻き声と共にその場でうずくまる。自責の念に襲われ、髪を掻き乱そうするが本を持っていたため手が止まった。
「うぅ……」
バスを降りた時にリュックに仕舞えばよかった。体を左右に振って先生との会話をかき消そうとする。
七日前からこんな調子だ。母におかゆを作ってもらった時も、布団にくるまって横になっていた時も、何度も先生の言葉が脳裏をよぎった。それだけ修学旅行に心躍らせていた。先生と見る、北海道の景色に。
学校の外で会えることなんて、もうないかもしれないから。
今日はこのまま学校へ行くのをやめようか。
うずくまったまま、ずっと頭の中で巡っている考えを検討し始める。前日に何度も考え、学校にいくと決めたのに気持ちがいとも簡単に揺らぐ。
すぐに頭を振って、ため息が雲になる以上にありえないと考えを打ち消した。
幸い、今日の授業に古典はない。自ら先生の居そうな場所へ行かなければ、朝と夕方のホームルームでしか会わないだろう。
事実、自分から動かなければなにもない。どうしたって距離は縮まらない。
自身を安心させる言葉が大きな石ころとなって沈む。眼前に広がるアスファルト上の砂利にうなだれた。
沈んだ気持ちを抱えたまま学校に行って、先生に会うのを回避したい。それ以上に先生との貴重な時間を自分で手放すようなことはしたくない。
向かい風に吹かれ、地面をじっと見つめる。辺りは風に揺れる植物の音で支配されていた。
先生の姿を思い浮かべ、緩慢とした動きで立ち上がる。足取りが重くとも、歩いていればいずれ学校に着く。着実に進むために今まで動いてきた。
活を入れるために左手で頬を叩いた。いつもより力のない活が、頬をすべって落ちていく。なんとか奮起し、前へ進むと強い向かい風に阻まれた。キンモクセイの香りが叩きつけられるようだ。
とっさに顔を覆う。頬をすべっていく風はひどく冷たく、内から凍えていくようだった。
音を立てて吹く風は、すぐにおさまった。
安堵して腕をさげると手から本が抜け落ちる。落ちていく本に手を伸ばすも指先に触れただけ。
本の間に挟んでいたアプローズのしおりがひらひらと歩道脇の花壇へと落ちていく。本は足元に落ち、しおりは手を伸ばす間もないまま、花壇に植えてあるワレモコウのそばへ落ちた。
「――」
何かがせりあがってきて息が詰まる。何が起きたのか理解が追いつかず、体が固まったように動かない。ワレモコウの赤い色から目を外せない。
本を拾って、ふらふらと花壇へ近づく。しおりを拾い、ひっくり返して確認すると土汚れがついていた。ラミネートを使わず厚紙だけで作ったため、汚れた部分に触れると茶色が桜色の紙に広がっていく。しおりが浸食されていくようだ。
本についた砂利を叩く。数回叩いてやっと、ざらざらとした手触りから書店でかけてもらったブックカバー本来の手触りになった。
しおりを落とす原因をつくったのは自分だ。揺れる息を無理に吐きながら、リュックを体の前に移動させて重要な書類を入れるために持ってきていたクリアファイルにいれる。押し花が汚れなかっただけ幸いだろう。クリアファイルと本を仕舞ってジッパーを締めると、リュックの背に顔を埋めた。
学校へ行かなければと思うのに、足が押さえつけられたように動かない。ありえないと打ち消した考えが、また頭の中で巡り始めていた。
とぼとぼと廊下を歩く。修学旅行を終えて土日を挟んだ後の登校に、廊下は明るい声で満ちている。
抜けるような青空を背に話す生徒たちの表情に、足早にその場を離れた。こんな状態で今日一日、いつものように過ごせるだろうか。
急かされるように足を動かしていると教室の扉の前に着いた。
深呼吸をして扉を開ける。扉越しにくぐもって聞こえていたクラスメイトの声が鮮明になっていき、額に冷や汗が浮かんだ。
教室の中は普段よりも眩しく見える。自分の影が色濃く落ちているような錯覚に、自分の席だけを見て教室の中を進む。
「花ヶ前さん、おはよう」
滑舌のいい穏やかな声の方へ顔を向けた。
目の前にいたのは一年の時も同じクラスだった桜谷さんだった。一年生の出し物決めから目標としてる人だ。準備の良さは相変わらずで、演劇部で培われていく観察眼も鋭い。何もかもが見透かされそうで、開いた口を一度閉じてから声を出した。
「お、おはよう……」
上擦った声で挨拶を返す。桜谷さんの綺麗な眉が下がった。
「体調はどう? 無理はしてない?」
首を傾げる動きに合わせて黒髪のショートヘアが流れる。いつもの桜谷さんなら、さらっと不調を見抜いて言葉少なにクラスメイトを保健室へ促しているのに。ここまで何かを問う姿を見るのは初めてかもしれない。私の勘違いだろうか。
問われたことに困惑しつつ答える。
「あ、う、うん。もう大丈夫だよ」
言葉がうまく出ず、つっかえながらも答える。体調管理を怠ったせいで行けなかった修学旅行の想像がぶわっと脳内に広がり陰鬱とした気持ちが湧き上がる。精神が安定していないことを悟られたくなくて、逃げるように机へ向かった。
机の上にリュックを置くころには、よく話すクラスメイト四人に机の周りを囲まれていた。内心慌てふためくも、顔を見ていなくても自然なように教科書を出し、皆の挨拶に言葉を返す。
「花ヶ前さん、これ……」
「……?」
机の中に教科書を入れ終えると左側にいる麻田さんに何かを差し出だされた。
受け取った細長く白いラッピング袋に包装されたそれは、固い質感だった。ラッピング袋の柔らかくつるつるとした質感に、表面を指の腹で撫でる。
「開けてみて!」
隣にいる木梨さんにそう言われ、袋が破れないように気を付けて開ける。袋を止めていたテープは簡単に取れて、中から薄紫色のボールペンと茶色いクマが顔を覗かせた。
「これ……」
自然と顔が上がる。目の前の四人は、四人とも優しい表情をしていた。ボールペンをそっと袋から出す。
真ん中に濃い紫のラインが入っているボールペンは、クリップ部分にはラベンダーの花を模したものが付いている。教室に差し込む柔らかい光で、ボールペンはちらちらと輝いていた。
クマのキーホルダーも手のひらへ出す。
茶色いクマのキーホルダーは金属製で硬いものの、全体的にふわふわとした見た目で硬さを感じない。クマの柔らかい笑みが皆の表情と被る。
北海道のラベンダーと熊を思い起こさせるそれらは、修学旅行のお土産だった。
「皆で選んだんだ。花ヶ前さん、ボールペンの消費早いみたいだし」
栗色のボブヘアを揺らしながら米田さんがそう言ってボールペンを指した。
「花ヶ前さん、修学旅行をすごく楽しみにしていたようだったし、今までのお礼もしたかったから」
「……お礼?」
桜谷さんの言葉に首を傾げる。
「うちらに勉強おしえてくれたじゃん? お礼はその場でしたけど、学校でお返しに渡せるのって自販機の飲み物か購買のおやつくらいだったし、ちゃんとお返ししたくてさ。花ヶ前さんのおかげで成績上がったし」
快活に笑う木梨さんの言葉に三人とも頷く。
四人と教室で行った勉強会を思い返す。教えたといってもわかる範囲だけで、私が教えてもらうこともあった。
「……」
四人にお礼を伝えなければと思うのに、沢山の言葉が頭に浮かんでは消えていく。
「……花ヶ前さん?」
麻田さんがお土産を見つめたまま黙っている私の顔を覗き込んだ。肩にかかるおさげがブレザーの上をすべる。
「あ、ありがとう。大切に使う」
回らない頭ではそう伝えるので精一杯だった。もっと伝えたいことも伝えるべきこともあるはずなのに。
手にのってる二つの重みが増したように感じた。
「あ、それと写真!」
木梨さんがそう言って、スカートのポケットからスマホを取り出す。
「花ヶ前さんも写真とるって言ってたから、余計かもしんないけど色々撮っといたんだ」
「先生たちのこともけっこう撮らせてくれたんだよねー」と言って、スマホの画面を近づけられる。
「先生」の言葉に慕う人の姿を思い描いてしまい顔を背ける。
「――今は! ……いいかなっ」
木梨さんの優しい気持ちを無碍にするような行為に、うなじにじんわりと汗が浮かんだ。
「そっか。見たくなったり欲しくなったら言って。うち以外も撮ってるから、あとの三人でもいいし」
細かく頷いて、お土産を片手に持ち直して汗を拭おうとする。
うなじに触れた指先は冷えていて、手のひらへ視線を向けた。指先は赤くなっていて、両手とも指先から冷え切っていた。
汗を拭うのをやめて前へ目を向けると、米田さんと麻田さんがスマホを、桜谷さんは自分の机から印刷した写真を持ってきて見せてくれた。スマホの画面も写真の表面もどんな風景を写しているのか分からない。四人の気遣いに感謝の気持ちでいっぱいになる。
「印刷した写真が欲しくなったら言ってね」
桜谷さんの言葉に頷くと、扉を開く音がした。音がした方へ目を向けると先生の姿がクラスメイト達の間から見えた。予鈴の音がショートホームルームの開始を知らせ始める。
教室に入った先生は教卓へ移動せず、持ち物を抱えたまま教室内を見まわしている。
先生の何かを探すような動きが気になってブレザーの襟を握って覗き見ると、こちらの方へ視線を向けた先生と視線が交わった。
お互いの表情がくっきり見えるほどに視界が開けると先生は目を丸くし、安堵したように笑みを浮かべた。外されることのない視線に動揺していると、何かに気づいた先生が慌てて教卓へ向かう。
「じゃ、また後でね」
木梨さんが自身の席へ移動しながら手を軽く上げ、そう言って離れていく。教室に鳴る椅子を引く音や、机の向きをなおす音に頭を振った。
他の三人も挨拶をして自分の席へ戻っていく。動揺した気持ちを抱えたまま椅子を引いて、席に座った。ボールペンとキーホルダーをそれぞれペンケースとリュックに仕舞う。しおりの入ったクリアファイルは見ないようにして。
「――おはようございます」
頭を下げて挨拶を返す。
出席を取る先生の声を聞くも、自然と窓の外へ顔が向く。
空の色が朝の冷たい青色から全てを包み込むような温かい青色へ変わっていた。変わる気配のない空模様から目を離し、黒板近くに掛けられた時計を一瞥した。
下校時間よりもずっと遠くにある針に、息をはいた。
「いっ……」
痛みのまだ残る二の腕を摩る。ティーシャツの袖から見えるそこは、擦ったように赤くなっていた。
「はぁ………全然、普段通りじゃない」
クラスメイト達の明るい声に包まれる更衣室の中で、そうこぼす。クラスメイトが使用する汗拭きシートの香りにどんよりとした気持ちになる。
不注意でボールにぶつかり体調を心配され、見学になった私はほとんど汗をかいていなかった。多少は動けたというのに。
焦燥感が胸を駆け巡る。普段ならばと考えてしまう。
着替えようと冷たい指先が体に触れるたび、筋肉がこわばった。見学になったとはいえ動いたのにも関わらず、体は冷たい。少し赤みがかった手のひらに眉を寄せて、急いで制服へと着替える。
更衣室にじんわりと広まっていく柑橘系の香りに逃げ出したくなった。
「花ヶ前さんっ!」
ほとんど着替え終わり、ブレザーのボタンを留めていると後ろから快活とした声が届く。振り返ると頬が少し赤くなっている木梨さんがいた。
「ボールが当たったところ、平気?」
暑いからかワイシャツの袖を捲っている木梨さんが左腕へ目をやる。怪我をしてないか案じる瞳に顔をそむけたくなった。
優しい気持ちや言葉をかけてもらうのがつらい。
「――うん、大丈夫だよ」
じわじわと未だに痛む腕に手を当て、笑みで返す。
「んー、そっか」
口をムニムニさせながら、頷いてくれた。口元の動きに違和感を覚えていると、桜谷さんが前から近づいてくるのに気付く。
「二人とも着替え終わった?」
きっちりと制服を着こんだ桜谷さんの言葉に頷き、忘れ物がないか周囲を確認する。近くで着替えをしていたクラスメイトはすでにおらず、更衣室に残っている生徒は少ない。急いで着替えたにも関わらず、普段よりも時間がかかったことに気づいた。
「じゃあ、教室に戻ろうか」
三人で連れ立って更衣室を出る。廊下は換気のために窓が開けられていて、少し肌寒い。暑そうにしていた木梨さんも『これじゃ風邪ひく』と言って、いそいそとシャツの袖を直していた。
他の生徒の楽し気な声が響く中、言葉少なに進む。木梨さんが腕のことについて聞いてくることはなく、肩の力を抜いた。
二人の後ろから見た空は、相も変わらず雲一つなかった。
教室までの道のりを、二人の会話に頷きながら進んだ。
二人の後頭部がくっきりと見え、木梨さんの綺麗な金髪が光に透けている。廊下に流れ込む風に吹かれる長い金髪をぼーっと眺めていると、桜谷さんが購買で直面した出来事に、頭の後ろで手を組んだ木梨さんが大笑いしていた。陰りのない二人の笑い声につられてしまい私も口元の筋肉を緩めた。
「――ん! 米田と麻田さんだ」
会話がとまり、教室の前、話しながらハンカチで手を拭く二人へ視線がいく。声に気づいたのか、二人が手を止めてこちらを見た。
木梨さんが手を振って駆け寄る。二人も笑みを浮かべて手を振り返した。仲のいい光景に目尻も下がる。
桜谷さんと連れ立って木梨さんの後を追う。後ろから見る桜谷さんは姿勢よく、何事にも動じないように見えた。それでいて自分は、と自分の影へ目がいく。
三人のもとに着くと笑い声の輪ができていた。
「あ、さっき思ったんだけどお昼、みんなで食べない?」
何の会話をしていたのか分からないまま、木梨さんがそう話し出す。急な提案に体が一瞬こわばった。
「いいね」
桜谷さんがそう返す。あとの二人も一緒に食べようと返していた。
「花ヶ前さんはどう? 他の人と食べる予定があったり、忙しかったら無理しなくていいんだけど……よければ花ヶ前さんと一緒に食べたいな」
皆の視線がこちらに向く。賑やかな声が耳を通っていくのに、辺りから切り離されたかのようだ。
断る言葉がぽつぽつと浮かぶ。どの言葉も口にする気にはなれず、提案に頷いた未来を想像すると、未だ沈んだままの気持ちが浮くように感じた。
「どうかな……?」
様子を窺う声に逡巡するも、迷いを捨てるように大きく頷いた。
「やった!」
米田さんがガッツポーズをする。似たような反応をしている皆に目を瞬いた。弾んだ声でお昼の話をしはじめた一人ひとりの顔は喜色に満ちていて、久々に誰かとお昼を食べることに気が付く。
視界にかかった靄が薄れたようだった。
どこで食べるかの話になり、ゆっくり食べたいからと教室で食べることになった。
「じゃ、ちゃちゃと授業を終わらせよ! で、次の授業ってなんだったっけ」
「……あんたの苦手な数学だけど……」
「――なっ」
木梨さんと米田さんのやり取りに笑い声を零し、お昼への期待を抱えて教室に入った。
何も書いていないノートの上で、もらったボールペンをいじる。クリップ部分のラベンダーは細かい作りで自然と北海道に咲いているラベンダーを想像させた。四人はきっと花好きなのを考慮してこのボールペンを買ってくれたんだろう。
四人との勉強会は、木梨さんと米田さんの苦手教科を克服するために開かれた。二人にそれぞれついて、全教科成績のいい麻田さんは補佐をしてくれた。
一年生の頃よりも更にクラスメイトとやり取りすることが減っていたため、勉強会でのやり取りは幸福感で表情が緩む。文房具の話や部活動の話、最寄りの駅構内にあるコンビニで出会った可愛い子供の話。とめどなく続く会話に心が弾んだ。
先に帰る私へお礼にと、校内で買ってくれたお茶に紅茶、暑い場所でも溶けないチョコレートとオレンジ味のグミ。どれも一度は口にしたことがあったけれど、もらったものはどれも特別な味がした。自販機やコンビニで商品を見かけるとその時のことを思い出すほどには、記憶に残るものだった。
私はお土産のお返しに何を渡そう。皆は何が好きだろう。普段はなにを食べていただろうか。
――思い返してみればみんなのことをよく知らない。なにが好きで、どんなものを欲しがっているのかも分からない。
勉強会での会話も基本、四人の好みが窺い知れるような話はなかった。記憶を掘り起こせど、なにも答えは出てこない。
二年生になってから同じクラスになった子と違って、桜谷さんとは一年生の時もクラスメイトだった。文化祭の出し物決めから、クラス演劇の練習のあとも何かと話す機会はあったのに用意周到な性格で気配り上手。体育会系に分類できるほどの演劇部での運動量に、スポーツドリンクをよく飲んでいることぐらいしか知らない。
――四人のこと、何も知らない。
「花ヶ前さんどうしたの? 具合悪い?」
横から聞こえた先生の小声に持っていたボールペンをノートに落とした。
とっさに居住まいを正して首を振って答える。
「大丈夫です。ぼんやりとしていました」
黒板を一瞥すると綺麗な字で数式が書かれており、クラスメイト達は問題に取り組んでいた。生徒の質問に答えるために先生は教室内を見て回っていたようだ。
「そっか……病み上がりなんだから無理はしないでね。何かあれば手を上げたり合図をくれればいいから」
「……はい。ありがとうございます」
心配そうな面持ちのまま先生が教卓へ向かうのを目で追っていると、廊下側の最前列に座っている桜谷さんと目が合った。そのまま桜谷さんが口をパクパクとさせる。口の動きに目を凝らすと「大丈夫?」と言っているようだった。頷いて答えると一瞬、何かを考える素振りをしてそっかと視線を外した。私も頭を振って問題に取り組み始めた。
「やっと終わったー!」
終業のチャイムが鳴るや否や椅子を動かす音をさせて、こちらへ来た木梨さんがそう言って伸びをする。
「お腹空いたねー」
他の三人も集まって机を移動させ始めた。
周囲に気を使ってか音は静かで、両隣に一つずつ前に二つ、机が置かれた。あっという間に準備は終わり、みんなのお昼が並べられる。お弁当やコンビニのサンドイッチと様々だ。私も机の横にかけていたリュックサックからお弁当を取り出す。
「あ、席を使っていいか許可はとってるから気にしなくていいからね」
お弁当箱の蓋を開けていると、隣で五つある保存容器の蓋を開け終えた桜谷さんがそう話す。
「そ、そうなんだ」
「……ほんと準備いいよなー」
こういったことに先に気づき、何も言わずに動けるのが桜谷さんだ。この二年間でその能力を発揮しているのを何度も見かけた。少しは近づけていると思ったけれど、修学旅行の前に風邪を引いてしまうあたり未熟だ。
「どした? 早く食べよう」
「う、うん。いただきます」
下を向いていた顔を上げ、食べ始める。他の子も一様に食べ始めた。
「――ん! これ、美味しいっ」
ゆっくりと昼食を食べすすめていると木梨さんが驚きの声を出す。手に持っているサンドイッチを見つめて驚いた表情をしている。
「あ! それって新作のサンドイッチじゃん! くっ……いつものじゃなくてそれにすればよかった」
木梨さんが食べているサラダチキンにレモンソースのかかったサンドイッチを見て、同じコンビニで販売されているおにぎりを持った米田さんが悔しそうな声を出す。
「じゃ、食べる?」
もう一つのサンドイッチが入ったパックごと米田さんの机へ移動させる。
「いいの?」
「うん。皆も食べる? 五等分になるけど」
木梨さんの言葉に一考し、食べると返す。あとの二人も同じように返した。
流石に誰も切り分けるためのナイフを持っていなかったので、桜谷さんが予備のためにもってきていた割り箸で分ける。チキンは繊維に沿って切れたが、パンがうまく切れずところどころ潰れている。桜谷さんが「ごめん……」と謝罪するとみんなで気にしていないことと感謝を伝えた。
サンドイッチがみんなの手元に渡り、一斉に口へと運んだ。
「……美味しい」
口の中にレモンの香りと味が広がる。レタスの食感もよく、サラダチキンとレモンの相性は抜群でさっぱりとしていて食べやすく、食べている内にお腹が空いていたことに気づいた。サンドイッチを食べきり、木梨さんにお礼を言って持ってきたお弁当を食べすすめる。彩りよくおかずが詰められたお弁当は見た目もよく、箸がすすむ。
前日も朝方もお弁当を作る気になれず、見かねた母が作ってくれた。全ての調理をしてもらうのは、料理の大変さを知っているために申し訳なく一品は作った。
久々に食べる母のお弁当は私の作るものとどこか違く、材料や調味料、調理方法を同じにしても敵わないのだろう。料理の上達のために出来るだけ難しいものを作るようにとしてきたが、本当に料理がうまくなったのか不安に駆られる。ただただ無意味なことをしていただけではないのだろうか。
母の作る料理とはなにが違うのか。
綺麗に巻かれた卵焼きをかじる。幼い頃から食べ慣れた味がじんわりと口の中に広がり、母が台所で手際よく調理する姿を思い浮かべた。
母のようになれるのだろうか。家事全般をこなし、時としては共働きの父よりも忙しくとも分担された家事は完璧にこなす、そんな母に。
父は『前から年下とは思えないほどそつのない人だったよ』と語ってくれた。胸を張って先生の隣に立つには母のようになるべきだろう。
卵焼きを飲み下すと隣で麻田さんが動く気配がしてそちらへ顔を向ける。
「えっと、手を付けてないからもしよかったら……」
差し出された小さな保存容器には、白身魚をカレー粉をまぶして焼いたおかずが詰めてあった。他の容器も見せてくれたが、サラダや量の少ないものだったりともらうのが申し訳なくて、最初に見せてもらったおかずをもらって、それ以外のは断った。
「よかったら、私のもどうぞ」
いつもよりも多くおかずが詰められた弁当箱を差し出すと、麻田さんがお礼と共に私がかろうじて作れた根菜類をごまと酢で和えたものを取る。
お互いに交換したものを口にした。
「! これ美味しいね」
和食を中心に調理していたため、なんだか久々にだしや醤油以外の味を味わったように思う。カレー風味に脂ののった魚がとても合い、ご飯が進む。
「このごま酢和えもとっても美味しいよ。もしかして花ヶ前さんの手作り?」
「うん」
美味しそうに食べる麻田さんの姿に喜ばしい気持ちになる。
「そうなんだ。花ヶ前さんが調理実習のときに手際よくお料理してるのをみて、美味しそうだなって思ってたんだ。家庭科の先生とお料理のこと話してるのも見たことがあったし」
「え……」
麻田さんの言葉に目を剝いていると、前の席で口いっぱいに頬張って食べていた木梨さんが何度も首を縦に振っていた。
「私も一度、見かけたな。それと忙しそうにしてなければ部活に誘ったのにって話してるのを職員室で聞いたよ」
すでにお弁当を半分ほど平らげた桜谷さんが柔らかい笑みをこぼしていた。
「確かにいっつも忙しそうだよね。お昼もすぐに食べちゃってどっか行っちゃうし……お昼に誘おうとしても昼休み始まってすぐなのにいなかったりするし」
「その言い方は誤解させちゃうでしょー!」
木梨さんがおでこを叩かれた。二年生になってすぐ、何度か誘ってもらったのを思い出す。
「そんなに忙しそうだったかな……」
お弁当をつつく手を止めて、普段の行動を思い返す。
午前中は授業を受けて、授業前の休み時間に予習復習の確認。昼休みには図書室でそのとき必要な本を借りて、お昼は手早く済ませて午後の授業が終わり、園芸部の活動がなければ大半は下校している。どれも先生に徒情ではないと行動で示すために必要なことだ。
「なんていうか、すんごく急いでるように見える。何かに急かされて追いつめられてるっていうか」
「あー……花ヶ前さんに失礼かもしれないけど、私もそう思った」
木梨さんたちの評価に今までのことを振り返ると、どこか腑に落ちたように感じた。
同い年で目線が近いであろう桜谷さんも母も行動にゆとりがある。
三年間という長くない期間に焦って、急いでいないと言えば噓になる。三年生になれば受験も大きく関わってくる。それまでの間にできることはしておきたかった。その焦りがきっと見て取れたんだろう。自分の中では余裕をもって動けていると、他者にはそう見えていると思っていた。
「そっか……」
彼女たちの評価に首肯すると、慌てた様子の米田さんが手を振って謝罪の言葉を口にする。
「気分悪くさせてたらごめんね」
謝罪されるようなことはなにもない。
「ううん。大丈夫だよ。みんなにどう見えてたのか知って、思い返してみたら納得したんだ」
「答えるのいやだったら無理に答えなくていいんだけどさ……なんでそんなに急いでるの?」
木梨さんが真剣な声色で問いかけてくる。問われた言葉に対して、先生への想いが溢れ言葉になっていく。答えるかどうか逡巡するも私らしくもないとどこか軽い心持ちで答えた。
「好きな人が告白の返事をくれるように。何も気にせず隣に立てるようになったのなら胸を張って立てるように。――総じて言えば、将来のためかな」
すんなりと口をついて出た言葉は話すことはないと思っていたことで、胸がすく。何故だかまた視界が開けたようだった。
口を閉じている皆へ目を向けると桜谷さん以外が顔を赤らめ、目を点にしている。皆の反応に困惑していると目の前に容器が置かれた。容器の中には切り分けられたオレンジが。
水滴をまとったオレンジは随分とおいしそうで、容器を置いた理由を問うために桜谷さんへ目を向ける。
「よかったら、どうぞ食べて」
戸惑うもお礼を言ってオレンジをもらい、依然として固まったままの面々を眺めた。
「――あ、えっと! それなら頑張っちゃうよね」
「でも、頑張りすぎな気も……」
「うん。気負いすぎっていうかなんていうか」
桜谷さん以外が目を見交わす。
「そうかな――そうかもしれないな……」
オレンジを咀嚼しながら記憶を探ると、料理の失敗や成績についてなんでうまくできないんだと責めた。
ずっと焦っていた。今までこんなに何かに実直に向き合ってきたことがなかったから。小学生のころも中学生のころもなんとなくで生きてきた。
変わっていく環境に、街を歩けば見かける大人として社会にいる人たちに、三年間なんてあっという間だぞと言われてるようで。
それがきっと今回の風邪につながったんだろう。焦るばかりで体調を考慮していなかったから前へと進もうとする心に体が止まれと声をかけたのだろう。
「みんなの言う通りだ」
視界が滲む。手に持っているオレンジの輪郭がぼやけて、夕焼けに照らされるキンモクセイを思い浮かべた。
「花ヶ前さんのタイミングがいいときでいいんだけどさ、これからはもっとお昼に誘っていい?」
目元をさっと拭って頷く。オレンジに触れた手で拭ったためにしみて痛かったが、自然と笑みがこぼれた。
「よし!」
ガッツポーズをする米田さんの姿に更に頬が緩んだ。
「私も声かけるね」
「うちも!」
「私も」
みんなの言葉に何度も頷く。先生との将来を掴み取るためと、周りを目に入れずに過ごしてきた。でも、もっと色々なことを話せばよかったかもしれない。こうやって声をかけてくれる人たちがいるのだから。
でもまだ、一年もある。先生のことも高校生活もまだ終わったわけではない。みんなのことをこれから知っていけばいい。先生ことだってゆっくりと知っていったのだから。
オレンジをまた頬張った。とても甘く、それでいて酸っぱい。きっとこの味も記憶も、オレンジを見るたびに思い出すのだろう。
唇に触れた指先はもうかじかんでいなかった。
朝からずっと晴天のまま太陽が校舎を照らしている。夏の十五時ごろとなんら変わりない空模様に口角を上げた。
教室の窓から手元にある日差しを浴びて、表面が少し温かいグミの袋へ顔を戻す。お昼休みの後、木梨さんにもらったものだ。
『話していいから話してくれたんだろうけど、聞いちゃったのはうちだから』と渡されたときに言っていた。気にしなくていいと返すも、『できれば受け取ってほしい』と返されたので遠慮なくいただいた。
こそばゆい気持ちでいちごの描かれたパッケージを眺めていると教室のドアが開く。
「すみません、遅れてしまって」
クリアファイルや茶封筒をもって先生が急ぎ足で入ってくる。先生の姿を見ても、普段と大差ない心境でいられた。
「お知らせがひとつだけあります」
先生が持ってきた茶封筒の中から紙束を取り出し、手際よく各列の人数分に分けて配っていく。回ってきた紙には図書室に入った新しい本についての詳細が載っていた。
「あの本も図書室に入ったんですね……」
先生がそう独り言ちる。
先生はたくさん本を読む。園芸部での活動中に先生が読書家だと知った。今まで読んだ本についていくつか話すと、目を輝かせて手に土がついたままおすすめの本について語ってくれたことがある。あの時の先生は普段の凪いだ声とは違って、とても弾んだ声をしていた。
表情も大輪が咲いたような笑顔で、今日と同じくらい天気のいい日だったから笑顔が随分と眩しかった。
図書室からのお知らせにさっと目を通す。何冊か気になる本を見つけた。
「お知らせは以上です。怪我などに気を付けて帰ってくださいね」
椅子や机を動かす音が鳴り、クラスメイト達が挨拶をして帰っていく。人の流れが落ち着くと持ち物を確認して教卓の方へと移動した。
「日和先生、また明日」
普段よりもゆとりをもった挨拶ができた。お昼にみんなと話したことがよかったんだろう。他のクラスメイトと挨拶が被ってしまい先生からの反応はない。少し残念に思うもそのまま教卓の前を通る。
「あ、ちょっと待って!」
「え? あ、」
先生の声に振り返ろうとすると机の脚にかかとをぶつけて、バランスを失った。何とか後ろに倒れないようにするために前かがみになる。それでも勢いは収まらず、前へと体は傾く。
「――」
教卓へ手を伸ばし掴もうとする。
指先は教卓に届かず、来るであろう衝撃に目をギュッと瞑った。
誰かが何かにぶつかったような音がして目を開けると、先生が前から支えてくれていた。先生の後ろで教卓に置かれたクリアファイルが床へと落ちていく。
「大丈夫ですか!」
距離の近さに瞠目し、何度も頭を縦に振る。真っ白になった頭は淡い花の香りだけ認識した。
「すみません、急に声をかけてしまって。足は痛くないですか」
声が出ず、頷いて返事をすると先生は安堵したように息をはいた。脈打つ心臓に手を当てて固まっていると、もう一度謝罪の言葉を口にした先生が後ろを向く。
教卓の横に落ちたクリアファイルを拾い、中からOPP袋を取り出した。
「声をかけたのはこれをお渡ししたくて。修学旅行のお土産です」
渡されたのはラベンダーの押し花で作られたしおりだ。理解が追いつかず、呆然と先生の顔を見つめた。
「お土産屋さんで販売していたんです。しおりなら邪魔になることもないでしょうし、少し前にしおりの端が切れていたのを見かけて」
咄嗟に土汚れのついたしおりを思い浮かべた。
「もしよければ、使ってください」
柔和な先生の笑みに強張った体の力が抜けていく。
告白した日のことを思い出した。あの日もこうやって、あまり気づかれないことに気づいてくれた。今日は大切な物が三つも増えた。先生からのお土産はきっと、休んだ生徒になら別の物であれ、渡されるものだろう。それでも、嬉しい気持ちが押し寄せてくる。
受け取ったしおりを指先で撫でる。
「ありがとうございます!」
今なら四人にもきっと沢山の言葉で感謝の気持ちを伝えられる気がした。
「おぉ、めっちゃいいじゃん!」
後ろから柔らかい声色の声が聞こえて振り向く。後ろには桜谷さんたちが笑みを浮かべて立っていた。
「もしよかったら一緒に帰れないかなって思って」
朝、俯いて歩いた通学路も四人となら顔を上げて歩ける気がする。ワレモコウを見ても苦しくならないだろう。
「――うん!」
誰かと一緒に帰るなんて久しぶりだ。
「怪我や事故に気を付けてくださいね」
先生の言葉に破顔し、皆と返事を返した。
急いで疲れてしまわないように、この高校生活も先生とのやり取りも楽しめるように。
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