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エピローグ
◆
しおりを挟む結論から言うと、ヤルシンは捕えられた。あっけなく、大人しく。 私とがっちりと固い握手を交わした後のヤルシンは、顔中汗まみれなのに、何故か誇らしげに笑みを浮かべたまま、私の手を取って、高々と掲げた。私は何が起こっているのか分からず、彼にされるがままになっていた。
湧き上がる観衆の中、私とヤルシンは二階席から階段へと降り立ち、それから彼は、驚いたことに、私の前に膝をついた。
「何のつもり? ヤルシン。気でも触れたの?」
彼は私の手を取ったまま、少しばかり黙っていたが、やがて小さな声で呟くように言った。
「……俺は、今までどんな国でも、街でも、負けたことがなかった。生まれて、ジャガコンガという競技を初めて知ったその日から、俺は、俺以外の誰かから、『負け』の味を味わされることがなかったんだ。この、今日という日を除いてな。
引き分けは負けじゃない? いいや、負けだな。ジャガコンガは、基本的に引き分けを許さない。許されない競技なんだ。許しちまったら、賭けにならねえからな。確実に勝敗が出るように設計されている、そういう、情け容赦のない設計が、俺は大好きだったんだ。
でも、いつからか、俺は負けるのを怖がるようになっていた」
私は何も言わず彼の言葉を待っていた。
「俺はいつからか、誰か相応しい人間になら、負けてもいいと思うようになった。『呪い』と言ったな。それはまあ殆ど間違っちゃいねえよ。俺の住む餓狼族の集落には、何故か始祖の記録がたんまりと残されていてな。俺はその歴史と棋譜を覚えて育ったんだ。
いつからか俺の周りには人がいなくなった。餓狼族の仲間達は、俺に敵わないと知って賭けに乗らなくなった。当たり前だ。賭ける物がなくなれば、後に残されているのはそいつの命だけだからな。命を賭けてまで娯楽に興じる馬鹿は、そうはいねえ。
でもお嬢様、お前とあの姉さんは違ってた」
私はふふん、と鼻で少し笑った。誇らしい気持ちは嘘ではなかった。でも今の状況は、とても奇妙に感じられる。
巨大な、鋭い爪の生えた毛むくじゃらの掌に包まれていると、自分の持っている手の、柔らかさや、小ささが、とても脆く危ういもののように感じられる。
ヤルシンは深く息を吐いた。
「俺は今、生まれて初めて土をつけられた。正直、今回も負けるとは思っちゃいなかった。今回も圧勝して、ふんぞり返っている王族の命を一つか二つ奪って、奴隷を作って、それで……また違う街に向かうつもりだった。
お嬢様、あんたはすげえよ。一体、どんな研究を続けてきたんだ?」
「私の力だけじゃないわ。あなたの言うように、あの紫色の美人のお姉さんがいなかったら、私は負けていた。二日目、私は本当に投了しようと思っていたのだもの」
「そうだな、そうすると思っていた。それが蓋を開けてみれば、これだ。引き分けは俺にとっては負けを意味する。無敗は、勝つからこそ無敗たり得るんだ。特にこの競技においてはそうさ」
「いい加減、手を離してくれないかしら? それにあなた、いつまでその格好でいるつもりなの? 後ろにいるお仲間さん達が悲しい顔をしてるわよ」
私にそう言われ、ヤルシンは黙って後ろを振り返った。彼の後ろで小さく固まって立っているギャラリー達は、何故か彼の顔を見るのを嫌がっていた。
現実を直視したくないのかもしれない。いや、それとも別の何かか。
「お前達」
はい、とか、へえ、とか、弱々しい情けない声が聞こえてくる。ヤルシンは私の手を掴んだまま、彼らに最期の言葉をかけた。
「もう、俺に縛られなくていいんだ。ここはいい国だ。俺が捕まれば、お前達までは罪を被らなくて済むだろう。実際、事を起こしてきたのは俺だけで、お前達は付いてきただけなんだからな」
私は彼らに向かっても、付け加えるように言う。
「こいつが王族の命を奪ってきた事実は消えない。エクスの塔で賭けに負けた今、彼は命を差し出すつもりでいる。あなたたちも、逃げるなら今のうちよ。ここにうちの兵士たちが入ってくることはまだないでしょうけど、こいつと一緒にいたら、当然捕まるわ」
私がそう言うと、やがて彼らは小さく親方、ヤルシン親方ぁ、と呟きながら、その場でシクシクと泣き始めた。腕に目を埋めて。
「じゃあ、そろそろ行くかね」
そう言い、彼は立ち上がると、私を残して、あの大股で堂々とした雰囲気のまま、階段を降りていった。
私も彼の背中を見ながら、聴衆に見られながら、階段を降りていった。
階下まで行くと、牢から出された紫のドレス姿のゼニファーが、私の元へと駆けてきた。ぎゅっと強く、でも優しく、抱きしめられた。
「よくご無事で。ヤルシンに手を伸ばされた時は、どうなることかと思いました」
「あいつはあいつで、人には言えない矜持があったみたいだよ。あの競技に一番賭けていたのは、あいつだったのかもね」
彼女は身を離し、私の目を見つめながら言った。
「それでも奴のしてきたこと、しようとしたことは許されることではありません。これからジャガコンガは、この国でも禁じられることになるでしょう。もう二度と、今回のようなことが起こらないように」
「そうなると、少し寂しくなるね」
ちら、とエクスの塔の入り口を見ると、もう何人かのカナンの兵士たちが待っていて、ゆっくりと出てきたヤルシンに、腕枷をつけようとしていた。
私は去ろうとする彼の後ろ姿に、何かを感じて、思わず声を出していた。
「ヤルシン!」
振り向いた彼の顔は、どこか晴れやかで、だが少し寂しげだった。
「また、機会があったら戦おう。今度は王宮とか王族とか、無敗とか関係なくさ。ジャガコンガ、楽しいじゃん」
お嬢様! 後ろからゼニファーの声が聞こえてきたが、私はその時ばかりは聞こえないふりをした。
彼は去る前に、少し笑った気がする。
「そうできればいいけどな」
私と彼女を残して、エクスの塔はその重たい門を閉じた。
それからの私は、些か忙しかった。
今回の一件で、王と王女に謁見する機会を何度も賜り、そしてその度に、ゼニファーを慌てさせる事を何度も言った。
その殆どが、ヤルシンについてだった。
王に意見することなど、いくら王女であってもそう許されることではない。だが私は、王女の端くれである前に、一人の人間として、言いたいことを言ってしまいたかった。
具体的には、私は彼の減刑を求めた。死罪ではなく、一生を掛けた償いの道を選ばせてあげてほしい、と。
私にとって良かったのは、実際武力では敵わないヤルシンを止め、他の王女達の命を守ったことで、私の発言力が少しは上がったことだった。ただの第九位の王女であった頃よりも。
私は、彼が牢から出て庭の手入れをするその日を待っている。
重たい荷を背負わされながら、王族の人間達にこき使われながら、それでも従順に日々をこなし、そして時々は、人々の目を盗んで、私と一緒に賭けをするのを。
今では私は、棋譜や研究本のなくなった書斎で、ゼニファーと時折、ジャガコンガをする。
その内、三人で遊べる日が来ることを、私は密かに待ち望んでいる。
世界がその競技のことを忘れ去ってしまっても、私とその二人だけは、例え死んだとしても、永遠に覚えていることだろうから。
競技にのめり込んだ者たちだけが持つ、あの火炎のように危うい希望の光を、胸に宿し続けながら。
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