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心象
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白霧の深まる穏やかな昼下がり、視界で認識できる限界の僅か先から急に、お洒落に身を落とした着飾りの著しい人々がぬっと現れては過ぎ去っていく。
花崗岩を磨いて敷き詰めた石畳の上を軽快に進みゆき、楽しそうに口元を綻ばせながら軽い足取りで私の目の前を通り過ぎて行く街の住人達を眺めていると、次第に私の心は沈んでいった。
決して彼らが悪いわけでも、何かしらの気分を害るするような行為をした訳でもなく────恋人とのデートが約束されていた日に朝目覚めたら、烈しい雨が降り落ちていて予定が帳消しになってしまった時のように、彼らに悪気や悪意がある訳ではなく、ただ一方的に私の心が沼に嵌って捕われたかのように沈んでいくのだった。
もしかしたら、私にとって心の沈まぬ一日など有り得ないのかもしれない、風が強い日でも弱い日でも、太陽が昇ろうと沈もうと、月が満ちていても欠けていても変わりなく憂鬱な心持ちなのだ。
そう考えるとこの心境を、浮かれ気分で歩み去り、くだらない家族の話なんかで楽しそうに華やいでいる婦人型の所為にしてしまうのは大変おこがましく、厚かましいことだ。
私は、少しばかりの反省の気持ちを抱きつつも、やはり彼らを見ると心が沈んでしまうのであった。
空も暗灰の雲で濁り、次第に霧も深まりつつあるように見える。
まるで、私の心境を投影しているかのようだ。
街道に並ぶ樹木は、枯れ切ったように黙り込んで、遥か先にある故郷の山林を恋しく想い、足元にある僅かばかりの土塁の下でその太く生え広がった根を悲しく蠢かしている。
古くからある伝統を引き継いだ、真紅の三角屋根が平坦に続く大通の家々。
雨樋の一角に巣を作った白銀の鳩が、屋根の上を飛び跳ねながら空々しく叫んでいるのだが、その訴えは街に住まうどの住人にも届いてはいないようだった。
そのことを受けて、白銀の鳩は寂しげな瞳を覗かせ街をみやりながら、たおやかな胸元をゆっくりと上下させて息づいていた。
初めて訪れた喫茶店の、街通りに面した椅子に腰を据えながら珈琲を片手に、まるで精巧に作られた銅彫像のように私は長いことそこに座り込んで人々の流れの動きを眺めていた。
稀に、私の視線に気が付いて憤慨する者や恥じらうように俯く者や興味を抱くにさえ値しないそこら辺の落ち葉を眺めるような目付きで見返してくるものも居れば、すぐ5cmばかり前を通っても見向きもしない者もいたりするし、上空から白い糞を私の靴の上に垂らし、さも申し訳ないとばかりにわざとらしくひと声鳴く黒々とした鳥も居る。
色々だ。まさにそう思ったし、実際にそうだった。
店に雇われている若い男性がテーブルまでやってきて私に声をかけてくる。
その男は書画学生らしく、長い艶光する黒髪を日本製の和紙紐で頭の後ろに結わえていて、襟足の所で遊んでいる後れ毛にほんの僅に赤い絵の具が付着しているのが見て取れた。
何一つとして不自由することの無い人生を歩んでいる若者の常で、薄ぼんやりとした虚ろな眼差しを携えていたが、こんな所で働いているのを想うと幾分苦労している身なのかもしれない。
その若者が、だらしのない口調で話す。
「飲み物のお代わりか、注文はあるかい?」
空っぽの部屋に問いかけるような心のない響きだった。
「いいや、まだ大丈夫だよ。それよりも少し尋ねたいことがあるのだけれど、いいかな?」
私の声にも意識せず心の奥にある暗がりが含まれてしまったように思えて一瞬ドキリとしたが、相手には概して伝わらなかったようだ。
若者はやや訝しむ目付きになり、初めてまともに私の事を視界に入れて認識したかのように怪しみながらじろりと見てきたが、やや間を置いてから答えた。
「ああ、別に構わないよ。何の事だい?」
「うん、どうにも天気が優れないものだからね。ひとつ丘の見える公園にでも行ってみたく思ったのだけれど、まだここへ越してきたばかりなものでね。地理にはまるっきり疎いときた。どうだろう、ひとつ昵懇の仲として教えては貰えないだろうか。君が、如何わしくチャチな女共を連れ込むうらぶれた公園なんかでもいいのだけれど。」
そこまで言ってから私は、自分の口から出た言葉が相手の気持ちを害する可能性を秘めていることに気が付いて慌ててつけ加えた。
「もちろん。就労態度の真面目な君の事だからそんな辺鄙な場所は知らないだろうけれども。」
男性はこの言葉の群れを耳ではなく口で飲み込んだかのように数回口を動かし咀嚼して、音の振動を噛み砕いてから答えた。
「どっちも知ってるよ。俺としちゃ丘の見える方がお勧めだね。なんせあっちの公園は人が少なく緑が豊かで景色も申し分無し、一方のこちらはどこのベンチも盛ったカップルだらけ。足場の殆どは白濁したもんでベトベトするし、匂いも最悪。 まぁ、安い値段で温もりは求められるだろうけど。それで、どっちが知りたいんだ?」
若者は銀の盆を右手に、腕を組んでこちらを見た。
「そうだな…」
私はあえてわざとらしく、考えるように黙り込み、男性と同じように腕を組んでみた。
しかし、考え込んでいたのは本当だ。
私は真剣にどちらが良いものかと悩んだのだ。
正直なところ性欲が体を支配しようと必死に、理性の重い鉄扉をこじ開けようとしていたのだ。
それでも何とか負けることなく、そいつの野郎を締め出すことに成功した。
「丘の方がいいかな。こんな天気の日にはさぞかし壮大な風景を覗ぞめることだろう。地をかける天使や吹きすさぶ歌声とも出会えるかもしれない。」
私の言葉を聞いて、若者は怪訝な表情になった。
「本気かい?女共を待たせて、あんな辺鄙な所へ心から行きたい奴なんて居ないはずだろう?男同士の仲間なんだし、恥ずかしがらなくたっていいんだぜ。」
私が首を横に振るのを見て、若者は心から驚いたようだ。
「丘の方は冗談かと思ったのにな。すまなかったね、勘違いをしたみたいだ。」
「いいんだ、中にはそういう人間もいるのだろうが、私はそこへ心から行きたいと願う変わった種類の人間だってだけの話しさ。」
若者は頷いて、右側の通路を指さした。
そちらを見やると人波はよりまばらで家の影も乏しく、街路樹は既に廃れていて疲弊した過重労働者のようにその身を傾しいで突っ立っていた。
花崗岩を磨いて敷き詰めた石畳の上を軽快に進みゆき、楽しそうに口元を綻ばせながら軽い足取りで私の目の前を通り過ぎて行く街の住人達を眺めていると、次第に私の心は沈んでいった。
決して彼らが悪いわけでも、何かしらの気分を害るするような行為をした訳でもなく────恋人とのデートが約束されていた日に朝目覚めたら、烈しい雨が降り落ちていて予定が帳消しになってしまった時のように、彼らに悪気や悪意がある訳ではなく、ただ一方的に私の心が沼に嵌って捕われたかのように沈んでいくのだった。
もしかしたら、私にとって心の沈まぬ一日など有り得ないのかもしれない、風が強い日でも弱い日でも、太陽が昇ろうと沈もうと、月が満ちていても欠けていても変わりなく憂鬱な心持ちなのだ。
そう考えるとこの心境を、浮かれ気分で歩み去り、くだらない家族の話なんかで楽しそうに華やいでいる婦人型の所為にしてしまうのは大変おこがましく、厚かましいことだ。
私は、少しばかりの反省の気持ちを抱きつつも、やはり彼らを見ると心が沈んでしまうのであった。
空も暗灰の雲で濁り、次第に霧も深まりつつあるように見える。
まるで、私の心境を投影しているかのようだ。
街道に並ぶ樹木は、枯れ切ったように黙り込んで、遥か先にある故郷の山林を恋しく想い、足元にある僅かばかりの土塁の下でその太く生え広がった根を悲しく蠢かしている。
古くからある伝統を引き継いだ、真紅の三角屋根が平坦に続く大通の家々。
雨樋の一角に巣を作った白銀の鳩が、屋根の上を飛び跳ねながら空々しく叫んでいるのだが、その訴えは街に住まうどの住人にも届いてはいないようだった。
そのことを受けて、白銀の鳩は寂しげな瞳を覗かせ街をみやりながら、たおやかな胸元をゆっくりと上下させて息づいていた。
初めて訪れた喫茶店の、街通りに面した椅子に腰を据えながら珈琲を片手に、まるで精巧に作られた銅彫像のように私は長いことそこに座り込んで人々の流れの動きを眺めていた。
稀に、私の視線に気が付いて憤慨する者や恥じらうように俯く者や興味を抱くにさえ値しないそこら辺の落ち葉を眺めるような目付きで見返してくるものも居れば、すぐ5cmばかり前を通っても見向きもしない者もいたりするし、上空から白い糞を私の靴の上に垂らし、さも申し訳ないとばかりにわざとらしくひと声鳴く黒々とした鳥も居る。
色々だ。まさにそう思ったし、実際にそうだった。
店に雇われている若い男性がテーブルまでやってきて私に声をかけてくる。
その男は書画学生らしく、長い艶光する黒髪を日本製の和紙紐で頭の後ろに結わえていて、襟足の所で遊んでいる後れ毛にほんの僅に赤い絵の具が付着しているのが見て取れた。
何一つとして不自由することの無い人生を歩んでいる若者の常で、薄ぼんやりとした虚ろな眼差しを携えていたが、こんな所で働いているのを想うと幾分苦労している身なのかもしれない。
その若者が、だらしのない口調で話す。
「飲み物のお代わりか、注文はあるかい?」
空っぽの部屋に問いかけるような心のない響きだった。
「いいや、まだ大丈夫だよ。それよりも少し尋ねたいことがあるのだけれど、いいかな?」
私の声にも意識せず心の奥にある暗がりが含まれてしまったように思えて一瞬ドキリとしたが、相手には概して伝わらなかったようだ。
若者はやや訝しむ目付きになり、初めてまともに私の事を視界に入れて認識したかのように怪しみながらじろりと見てきたが、やや間を置いてから答えた。
「ああ、別に構わないよ。何の事だい?」
「うん、どうにも天気が優れないものだからね。ひとつ丘の見える公園にでも行ってみたく思ったのだけれど、まだここへ越してきたばかりなものでね。地理にはまるっきり疎いときた。どうだろう、ひとつ昵懇の仲として教えては貰えないだろうか。君が、如何わしくチャチな女共を連れ込むうらぶれた公園なんかでもいいのだけれど。」
そこまで言ってから私は、自分の口から出た言葉が相手の気持ちを害する可能性を秘めていることに気が付いて慌ててつけ加えた。
「もちろん。就労態度の真面目な君の事だからそんな辺鄙な場所は知らないだろうけれども。」
男性はこの言葉の群れを耳ではなく口で飲み込んだかのように数回口を動かし咀嚼して、音の振動を噛み砕いてから答えた。
「どっちも知ってるよ。俺としちゃ丘の見える方がお勧めだね。なんせあっちの公園は人が少なく緑が豊かで景色も申し分無し、一方のこちらはどこのベンチも盛ったカップルだらけ。足場の殆どは白濁したもんでベトベトするし、匂いも最悪。 まぁ、安い値段で温もりは求められるだろうけど。それで、どっちが知りたいんだ?」
若者は銀の盆を右手に、腕を組んでこちらを見た。
「そうだな…」
私はあえてわざとらしく、考えるように黙り込み、男性と同じように腕を組んでみた。
しかし、考え込んでいたのは本当だ。
私は真剣にどちらが良いものかと悩んだのだ。
正直なところ性欲が体を支配しようと必死に、理性の重い鉄扉をこじ開けようとしていたのだ。
それでも何とか負けることなく、そいつの野郎を締め出すことに成功した。
「丘の方がいいかな。こんな天気の日にはさぞかし壮大な風景を覗ぞめることだろう。地をかける天使や吹きすさぶ歌声とも出会えるかもしれない。」
私の言葉を聞いて、若者は怪訝な表情になった。
「本気かい?女共を待たせて、あんな辺鄙な所へ心から行きたい奴なんて居ないはずだろう?男同士の仲間なんだし、恥ずかしがらなくたっていいんだぜ。」
私が首を横に振るのを見て、若者は心から驚いたようだ。
「丘の方は冗談かと思ったのにな。すまなかったね、勘違いをしたみたいだ。」
「いいんだ、中にはそういう人間もいるのだろうが、私はそこへ心から行きたいと願う変わった種類の人間だってだけの話しさ。」
若者は頷いて、右側の通路を指さした。
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