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一豊の涙
しおりを挟む粗方の用件を済ませ、やっとのことで紫苑の部屋を訪れた一豊の目に入ったのは【今までお世話になりました 紫苑】と書かれたあまりにも簡素な文だった。
一豊がすぐさま追いかけるべく馬に跨り、四つあるうちのまずは東門に向かった。
血相を変えた一豊に驚いた門番が、すぐさまひれ伏した。
一豊が馬上から紫苑の特徴を話し、この門を通ったか否かを尋ねると「知らぬものはねずみ一匹通しておりません」と青ざめながら応えた。
次に南門にすぐさま向うため一豊が馬の尻を強く蹴った。
その頃、門番に外に出してもらえずに紫苑が困りはてていた。「殿の許可を得て入ったものは、殿の許可なく出すことは出来ない」と門番に言われてしまったからであった。
一豊に顔を合わせたくない紫苑が、門番二人を睨み、対峙する様に立ち尽くしていた。
馬の蹄の音で門番がそちらに気をとられた一瞬の隙に、紫苑が脱兎の如く門を飛び出した。門番に追いつかれないようにひたすら紫苑が門を後に駆け抜けた。
しかし無我夢中で走っていたはずの紫苑の体は、あっという間に馬上にあった。なぜなら、予め予想していた一豊が紫苑の姿を捉えるや否や、猛進していたからであった。
紫苑がはたと気づいて見上げた先には、恐ろしいほど鬼気迫る形相の一豊がいた。
恐ろしさと絶望、ない交ぜの紫苑がいたたまれずに暴れだす。
「僕を離して。もうここには居たくない」
紫苑がポカポカと一豊の胸を叩くが、馬上ではどうする事もできなかった。
どんなに紫苑が暴れようと、一豊が力を緩めることは無く、もといたの部屋に連れ戻された紫苑に、変わらずに鬼気迫った面持ちで一豊が、じりじりと間合いを詰めた。
万事休す、紫苑がギュッと目を閉じた。次の瞬間、紫苑の体が一豊の腕の中に包まれた。
「どこへも行ってはならぬ。わしから離れないでくれ。
紫苑、お主までわしから去るのか? わしを一人にするのか?
わしは、お主を…好いておるのだ。
初めは茜の弟と思うと可愛くて、弓や剣の稽古といってお主に構っておった。
しかし、茜がいなくなって気づいたのだ。お主への気持ちに。
不謹慎とは思った。だが、お主のことも愛しくて堪らないのだ。
紫苑、お主までわしを置いていかないでくれ」
一豊の肩が小刻みに震えていた。
「どうしたらお主はわしの傍にいてくれるのだ?
わしはお主に何をすればいい?
教えてくれ、紫苑」
涙声で一豊が体を震わせながら紫苑に抱き縋った。
今までの自信溢れる一豊の、繊細な一面を見せられた紫苑の脳裏に、茜の遺言が舞い降りた。
【優しくて、繊細で、寂しがりだから】茜の遺言が紫苑の体の中に、奥深くに染み込んでいく。
(ごめん兄さん、僕はやっぱり一豊様が好き)
紫苑が心の中で茜に謝った。
ともすると流れ落ちてしまいそうな涙を堪え、紫苑が一豊の背に両手を回した。
ビクッっと、一豊の体が怯えるように強張るのが紫苑には分かった。
「僕は、もうずっと前から一豊様のことが好きです。
兄に嫉妬もしました。しかもあいつにこんな体にされたのに、一豊様を欲しいと思ってしまう浅ましさに僕は耐え切れなかったんです。
忘れたいのに一日に何度もあいつを思い出してしまうんです。
それでも、そんな僕でいいのなら、一豊様のお傍に置いてもらえますか?
兄の代わりに、お傍に置いてもらえますか?」
振り絞るような紫苑の告白に、一豊が紫苑の体が折れるほどの力を込めて抱きしめた。
「わしは紫苑、お主でなけれなダメなのだ。
茜とお主は比べる事は出来ぬ。わしはズルイ男じゃ。お主を好いておっても茜の事も忘れられぬ。酷い男と罵ってくれても良い。でも、それでもわしの傍で生きてくれぬか」
初めて見る一豊の泣き顔に見つめられ、紫苑の顔が火を噴きそうな程真っ赤になった。
複雑な気持ちを抱えながらも一豊への思慕を忘れられない紫苑が返事の変わりに一豊に、触れるだけの口付けをした。
刹那、一豊が紫苑を抱き締めたまま大喜びではしゃぎだしだ。
(まるで子供みたい)心に溜まった澱をようやく吐き出すことが出来た紫苑が、すっきりしたように一豊を見つめていた。
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