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Ⅲ
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会議前夜のオフィスは、いつもより静かだった。
照明の半分が落とされたフロアに、蛍光灯の白い光がぼんやりと机を照らしている。
残っているのは俺ひとり。
昼間、課長に指摘された箇所の、最終データを確認していた。
集中していると、背後でドアの開く音がした。
「……まだ残ってたのか」
顔を上げると、白鷹課長が立っていた。
スーツの上着を脱いで腕に掛け、ネクタイを少し緩めている。
いつもよりも少し疲れた表情。
けれど、目は鋭いままだ。
「あ……はい。最終チェックがまだ終わってなくて」
「舟形のやっていたとこもか」
「はい。自分ができるとこはまとめておこうと思って」
「そうか。……助かる」
短い言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
“助かる”なんて、白鷹課長の口から聞いたのは初めてかもしれない。
ふと横に立たれ、画面を覗き込まれる。
近い。
思わず背筋が伸びる。
白鷹課長の指先が、ディスプレイの数字を示した。
「ここ、桁がずれてるな」
「あ……すみません、すぐ直します」
「いや、他の部署のデータが古いんだ。おまえのせいじゃない」
低い声でそう言われて、直樹は少しだけ息を詰めた。
いつもは冷静で、淡々とした指摘しか受けない。
けれど今夜は、どこか柔らかい。
「白鷹課長、こんな時間まですみません」
「お互い様だ」
そう言って、白鷹課長は書類の束を差し出した。
「これ、確認してくれるか。
舟形に任せようとしてたが……おまえ、数字に強いだろ」
「えっ、あ、はい……ありがとうございます」
頼られたことが嬉しくて、つい顔が熱くなる。
自分はオメガ。
嫌われる側の人間なのに。
白鷹課長に部下として、評価されたことが嬉しかった。
横顔を見たとき、ふと、思った。
――この人、本当はそんなに冷たい人じゃないのかもしれない。
気づかれないように目を伏せ、画面に戻る。
カタカタとキーボードを叩く音が、静かな夜にやわらかく響いた。
舟形先輩は会議の日になんとか復活。
「……悪かったな、小国。大丈夫だったか」
「はい、昨日は課長と」
俺が作った資料を見ながら、課長も「よくまとめたな」と小さく頷いた。
ほっとしたのと同時に、疲れがどっと出る。
初めての大きな仕事で、心も体もヘトヘトだ。
会議は無事成功した。
白鷹課長に「助かった」と言われたことと
舟形先輩の代わりにちゃんと務めを果たせたとで、達成感がいっぱいだった。
仕事を認められたって思いなのか、
胸がじーんと熱くなった気がした。
会議の後は、他部署合同で打ち上げがあった。
金曜日ということもあって、飲み会モード。
白鷹課長も普段より少しだけ緩んでいる気がする。
俺は、正直お酒は苦手で、
料理を運んだり後片付けを手伝ったりと雑用ばかりしていた。
打ち上げの席も終盤、笑い声の絶えないテーブルの端で、俺はふと視線を上げた。
白鷹課長が、グラスを置いて席を立ったところだった。
少し顔色が悪い。
人に酔うようなタイプでもないのに――と気になって、俺は思わず後を追った。
「課長、大丈夫ですか?」
トイレの前、廊下の明かりの下で声をかける。
白鷹課長がゆっくりと振り返った。
いつもの冷静な目ではなく、どこか焦点の定まらないような眼差し。
シャツの襟もとがわずかに乱れている。
「……舟形の部下は、心配性だな」
「えっ、あの……顔色が、悪いので」
直樹が一歩近づいた瞬間、ふいに腕を掴まれた。
力は強くない。
けれど、そのまま引き寄せられる。
驚いて息を呑む間もなく、視界が暗くなった。
唇に、何かが触れた。
柔らかく、でも一瞬で離れた。
……え?
思考が追いつかない。
何が起きたのか、理解できなかった。
白鷹課長の手が離れる。
息が少し荒い。
課長自身も驚いたように、ほんのわずか後ずさった。
「……すまん」
それだけ言って、白鷹課長は背を向けた。
そのままトイレの中へ消えていく。
俺は、残されたままで、ただ立ち尽くすしかなかった。
胸の奥がざわざわしている。
何で今――?
どうして、課長が――?
頭の中で、考えが空回りする。
けれど、答えはどこにもなかった。
照明の半分が落とされたフロアに、蛍光灯の白い光がぼんやりと机を照らしている。
残っているのは俺ひとり。
昼間、課長に指摘された箇所の、最終データを確認していた。
集中していると、背後でドアの開く音がした。
「……まだ残ってたのか」
顔を上げると、白鷹課長が立っていた。
スーツの上着を脱いで腕に掛け、ネクタイを少し緩めている。
いつもよりも少し疲れた表情。
けれど、目は鋭いままだ。
「あ……はい。最終チェックがまだ終わってなくて」
「舟形のやっていたとこもか」
「はい。自分ができるとこはまとめておこうと思って」
「そうか。……助かる」
短い言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
“助かる”なんて、白鷹課長の口から聞いたのは初めてかもしれない。
ふと横に立たれ、画面を覗き込まれる。
近い。
思わず背筋が伸びる。
白鷹課長の指先が、ディスプレイの数字を示した。
「ここ、桁がずれてるな」
「あ……すみません、すぐ直します」
「いや、他の部署のデータが古いんだ。おまえのせいじゃない」
低い声でそう言われて、直樹は少しだけ息を詰めた。
いつもは冷静で、淡々とした指摘しか受けない。
けれど今夜は、どこか柔らかい。
「白鷹課長、こんな時間まですみません」
「お互い様だ」
そう言って、白鷹課長は書類の束を差し出した。
「これ、確認してくれるか。
舟形に任せようとしてたが……おまえ、数字に強いだろ」
「えっ、あ、はい……ありがとうございます」
頼られたことが嬉しくて、つい顔が熱くなる。
自分はオメガ。
嫌われる側の人間なのに。
白鷹課長に部下として、評価されたことが嬉しかった。
横顔を見たとき、ふと、思った。
――この人、本当はそんなに冷たい人じゃないのかもしれない。
気づかれないように目を伏せ、画面に戻る。
カタカタとキーボードを叩く音が、静かな夜にやわらかく響いた。
舟形先輩は会議の日になんとか復活。
「……悪かったな、小国。大丈夫だったか」
「はい、昨日は課長と」
俺が作った資料を見ながら、課長も「よくまとめたな」と小さく頷いた。
ほっとしたのと同時に、疲れがどっと出る。
初めての大きな仕事で、心も体もヘトヘトだ。
会議は無事成功した。
白鷹課長に「助かった」と言われたことと
舟形先輩の代わりにちゃんと務めを果たせたとで、達成感がいっぱいだった。
仕事を認められたって思いなのか、
胸がじーんと熱くなった気がした。
会議の後は、他部署合同で打ち上げがあった。
金曜日ということもあって、飲み会モード。
白鷹課長も普段より少しだけ緩んでいる気がする。
俺は、正直お酒は苦手で、
料理を運んだり後片付けを手伝ったりと雑用ばかりしていた。
打ち上げの席も終盤、笑い声の絶えないテーブルの端で、俺はふと視線を上げた。
白鷹課長が、グラスを置いて席を立ったところだった。
少し顔色が悪い。
人に酔うようなタイプでもないのに――と気になって、俺は思わず後を追った。
「課長、大丈夫ですか?」
トイレの前、廊下の明かりの下で声をかける。
白鷹課長がゆっくりと振り返った。
いつもの冷静な目ではなく、どこか焦点の定まらないような眼差し。
シャツの襟もとがわずかに乱れている。
「……舟形の部下は、心配性だな」
「えっ、あの……顔色が、悪いので」
直樹が一歩近づいた瞬間、ふいに腕を掴まれた。
力は強くない。
けれど、そのまま引き寄せられる。
驚いて息を呑む間もなく、視界が暗くなった。
唇に、何かが触れた。
柔らかく、でも一瞬で離れた。
……え?
思考が追いつかない。
何が起きたのか、理解できなかった。
白鷹課長の手が離れる。
息が少し荒い。
課長自身も驚いたように、ほんのわずか後ずさった。
「……すまん」
それだけ言って、白鷹課長は背を向けた。
そのままトイレの中へ消えていく。
俺は、残されたままで、ただ立ち尽くすしかなかった。
胸の奥がざわざわしている。
何で今――?
どうして、課長が――?
頭の中で、考えが空回りする。
けれど、答えはどこにもなかった。
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