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2-3.
しおりを挟む突然、食堂の喧噪が遠くなった気がした。
夫……?夫って……伴侶のこと?私が?……え?私、結婚なんてしてないけど?
頭の中でぐるぐると疑問の嵐が吹き荒れる。
夫……?こんな浮世離れしたカッコいい人が……?
ちらり、と今度は違う意味で目の前の男を盗み見る。
いやぁ、ない……!ないない……!
リナリアは頭の中で可能性を否定する。だって、悲しいかな自分は特別美人でもなければ、可愛くもない。平凡を絵にかいたような日本人顔だ。そんな自分が、こんないかにも生まれながらにして勝ち組の道を歩んできたような人物と、結婚などするわけがない。
「……どなたかと勘違いしてません?」
思わず嘘をつくな、という不審そうな声音が出てしまう。フィグルドはぐ、と膝の上においた握り拳に力を込めると答えた。
「事実だ」
「……だって私、結婚なんてしてない」
「……」
絶対、誰かと間違えている。いや、でも、妻を他人と間違えるだろうか?自分と見た目がそっくりとか?……そんなまさか。
リナリアの眉間の皺が深くなっていくのを見てとると、フィグルドは懐から一枚の新聞の切り抜きを取り出して、机の上に置いた。
そこには、豪華で美しい薄黄色のウェディングドレスを着た自分と、聖騎士としての礼服を着たフィグルドが並んで立つ絵姿が描かれていた。記事の見出しに「聖騎士フィグルド様、聖女リナリア様、ご結婚」という文字が躍っている。
リナリアは思わずその新聞の切り抜きを手元に引き寄せて穴が空くほど見つめた。
どう見ても、描かれているのは自分だ。そして隣に立つ夫は、目の前の彼だ。だけど、リナリア当人にはまったく身に覚えがない。
「捏造……?」
ここが現代日本だったら、いくらでもフェイクニュースは作れる。だが、リナリアは知っている。この世界にそういった技術も魔法も存在はしていないし、何より……。
「……聖騎士は偽証を行えばその資格を剥奪される。これは……君が書き置いたものだ」
そう言いながら、もう一枚のくしゃくしゃになった紙を差し出してきた。そう、聖騎士は神のいとし子でもある。そのため、彼らは祝福を受けた後、神の意思に反することは行えなくなる。危機を回避する嘘は許されても、人を傷つける嘘はついた瞬間に聖騎士たる資格を失う。それを知っていたからこそ、リナリアは知らない彼の話を聞くくらいなら、と思ったのも事実だ。
リナリアはその紙を受け取ると、書かれた文字に目を走らせる。
そこには、確かに自分の筆跡で、別れを告げる言葉が綴られていた。
拝啓、聖騎士様
もうすぐ貴方を忘れるから離縁しましょう
それは、どこかで見た言葉。リナリアは慌てて鞄の中にしまった手記を取り出すと、手紙と見比べた。確かに、同じ筆跡。同じ言葉。
これを握りしめていた自分と「貴方を忘れる」という文字に、リナリアは知らずこくりと喉を鳴らした。
あまりにも奇妙な符号の一致。
「……俺を忘れる、という意味が今ようやくわかった」
リナリアと同じ答えに辿りついたのか、フィグルドが静かにそう口にした。手紙から顔を上げると、まっすぐ自分を見つめるタイガーアイの瞳に射すくめられる。
知らないはずなのに、リナリアの背筋がぴりりと震えた。
なんだろう……表情は変わらないのに……どこか、願うような……
「リナ……、いやリナリア。もう一度、俺に機会をくれないか」
「……機会……?」
鸚鵡返しすると、彼は肯定するように一つ頷くと、席を立った。何事かと身構えるリナリアの傍に来ると、膝を折る。
ざわ、と食堂の他の客の目が二人に集まった。
「……!」
そっとフィグルドに手をとられ、目を見つめられたまま、真摯に語り掛けられる。
「君が何故、記憶を失ったのかは俺にはわからない。だが、その記憶を取り戻す手伝いをさせてほしい。……その上で、もう一度君に求婚したい」
「……ええ?」
リナリアは困惑する。
そんな宣言をされても正直困る。自分は彼のことを知らないし、失った記憶を取り戻したいと思っているわけじゃない。記憶は欠けていても、これからの人生を生きていくにおいて大きな不都合を感じなかったからだ。
確かにフィグルドのことは「素敵」だと思うけれど、知らない人をさすがにいきなり好きになったりはしないので、好意を向けられても戸惑いしか感じない。
それに、リナリアは穏やかに生きていきたいのだ。やっと聖女という身の丈に合わない役割から解放されたのに、こんな派手な人間が傍にいたら、目立って仕方がない。先ほどの新聞に描かれたような、見世物のような人生は、リナリアの性には合わない。
「……でも、私は貴方のことを忘れたくて忘れたのかもしれないですよ?」
だから、諦めてくれ、と言外に伝える。
私はセカンドライフを心穏やかに楽しみたい!
念を送るように瞳に力を込めて見つめ返していると、フィグルドは少しだけ間を空けて、答えた。
「もし君が、俺のことを忘れたくて忘れたとしても……、記憶を取り戻せなくても……俺は君に心を捧げている」
そして、そっと手の甲に唇を寄せた。
騎士の誓いに、リナリアはなんだか頬が熱くなるのを感じた。失敗した。これでは、言わせたみたいじゃないか。
彼の気持ちを。
記憶が取り戻せなくても、愛を誓うように。
リナリアは、ちらりと机に出したままの手記の表紙を見る。
彼に書き置いた別れの言葉は、多くを語ってはいなかった。では、この手記は?厚みのあるこの手記には、一体何が書いてあるのだろう。
記憶を取り戻せば……自分が何を思い、彼と別れることにしたのかわかるのだろうか。
わずかに灯ったそれは、探求心、だったのかもしれない。もしくは、目の前の男の自分を見ながらもその先にいる「聖女リナリア」を見つめる瞳に興味を惹かれただけかもしれない。
自分のことなのに、知らない自分がいる。それはどこか不思議な感覚だった。
思考が沈みかけたその時、ピュウと誰かが口笛を吹いた。
「プロポーズ受けてやれよ!嬢ちゃん!」
「うらやましい~!」
昼間から酒盛りをしていた酔っ払い達が、はやし立ててきた。フィグルドが何を言ったかまでは聞こえなくても、二人の動きや雰囲気から、求婚をしたのだと勘違いされたことがわかる。
目立ちたくないと思っていたのに、さっそく目立ってしまったことに、リナリアは慌てた。フィグルドから自分の手を取り返すと、顔を赤くして鞄に手記と新聞の切れ端、離縁の言葉を記した紙を詰め込む。そのまま机の上に二人分の食事代を置いて、立ち上がった。
急に動き出した自分を不思議そうに見上げているフィグルドとは裏腹に、食堂内は一気に祝福モードだ。あちこちから祝いの言葉が二人に投げかけられる。
新聞で絵姿まで描かれた二人だ、正体に気づかれたらもっと騒ぎになるかもしれない。
これ以上は、耐えられない。
リナリアは勢いでフィグルドの手首を掴むと、引っ張るように食堂の出口へと向かった。彼は大人しくついてくる。もう騒げればなんでもいい陽気な客たちの喧噪を抜けて、店の外に出る。それからリナリアは不本意な表情を隠すことなく振り返ると、背の高いフィグルドを見上げた。
「……取り戻せなかったら、諦めてくださいね」
これだけは、と釘を刺して伝える。ずっと変わらなかったフィグルドの表情が本日初めて、わずかに柔らかくなった。
「……あぁ。感謝する」
その声音は安堵に包まれていて、どこかリナリアの胸の奥をざわめかせた。
さっさと諦めてもらって、セカンドライフを楽しむため。
うん。それだけ。
そうじゃないとこの人さっきみたいなことをまたしてきそうだもの。
私の平穏を守らなくちゃ……!
リナリアは、自分の感じた奇妙な感覚に気づかぬふりをすると、言い聞かせるように心の中で繰り返したのだった――――。
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