箱庭物語

晴羽照尊

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ロングイェールビーン編

26th Memory(ノルウェー/ロングイェールビーン/10/2018)

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 2018年、十月。ノルウェー、ロングイェールビーン。
 男が一人、極北の荒野に佇んでいる。
 十月という時期にもかかわらず、気温は氷点下から抜け出すことはない。雪こそさほど多くないものの、それゆえに、町全体が凍っているかのような冷たさが見ているだけで伝わる。いや、事実凍っているといっても過言ではないだろう。

 男は黒のスーツに、ぼろぼろの茶色のコート。顔色を隠すようなボルサリーノを深くかぶり、申し訳程度にマフラーを巻いていた。両手には黒革のグローブ。靴はハイカットブーツ。末端部分はちゃんと温めているのか、双方とも履き口にファーが覗いている。
 男は荒野に佇み、どこか一点を見ている。ただ茫然と立ち尽くしているというよりは、しっかとした目的があるようだ。
 やがて目的を達したのか、あるいは寒さに耐えきれなくなったのか、男はひとつ身震いをして、その場を去って行った。

        *

「死ぬのか。あるいは誰かを殺しそうな顔をしてらっしゃる」

 不意の言葉に男は顔を上げた。

「お互い様だ。寒すぎんだよ、ここは」

 言うと、男はグラスに残っていたウォッカを飲み干した。
 宿泊している宿のダイニングだ。バーなどという洒落た設備ではないが、宿主が気を遣って、酒とつまみをふるまってくれていた。この時期に宿泊客が来るのは珍しいのだという。

 男は先刻までの思案を一度、わずかに散らかしたまま置いておくことにした。考え事はひとりのときに限る。でなければ、現実の会話に引っ張られて、想像だにしない意外な結論に至ってしまう場合がある。

「死ぬといやあ、こんだけ寒いんだ、凍死なんてのもザラにあるんじゃねえか?」

 素朴な疑問だったが、それを聞いて宿主は、わずかに声をあげて笑った。ウォッカのおかわりを注ぎながら、言う。

「ご存じないようで、お客さん。ロングイェールビーンでは、『死ぬこと』ができないんですよ」

「なんだ? 不死の手術でも受けてんのか? あるいは宗教的なアレか?」

「いえいえ、法的な問題です。ここロングイェールビーンは寒すぎて、死体に残る病原体が冷凍保存されてしまう危険性があるため、この町で死ぬことが禁じられているんです」

 どこか誇らしげに宿主は言った。

「そりゃあ、なんつーか。……長生きできそうだな」

 褒めるつもりも貶すつもりもなかった男の言葉は、ポジティブに受け取られたようだ。宿主は皺を深くし、また笑った。

        *

 アルコールには強い自信があったが、わずかに高揚している。男は客観的に判断した。
 部屋に戻り、ベッドに横たわる。傍らの窓から、凍える町が覗く。

「眠ろう。起きたら動けばいい」

 曖昧なプランを呟く。声にすることで潜在意識に働きかける。いま、これから行動しては、なにかをしくじるだろうという予感があった。そしてアルコールの高揚感が、男をいますぐ行動させようとしていた。男はそれを拒絶するように無理やり目を瞑る。ボルサリーノで光を遮る。

「目星はついている。あとは、どう接触するか」

 男は念のため、母国語で呟いた。だがさらに念を押し、続きは声に出さなかった。

『シェヘラザードの遺言』。世界に散らばる776の『異本』のひとつ。
『シェヘラザード』シリーズは世界的に有名な絵本だ。あらゆる知識を物語調に仕上げたもので、全6巻構成とされている。だがそれらはただの小児教育向けの絵本に過ぎず、『異本』と呼べるものではない。
『異本』としての『シェヘラザード』シリーズは、この6巻のように世に出ることはなかった、いわゆるボツ作品。『シェヘラザードの歌』、『シェヘラザードの虚言』、そして、『シェヘラザードの遺言』の3作品。販売どころか製本すらされていないので、原作者が個人的に所有していたものだが、いまではひとところに纏まっていないはずである。
 そしてそのうちの一冊が、この町にある。
 男はそれを手に入れるために、こんな極北の町へと、やってきたのだ。

        *

 わずかな熱に呼び起された。男は瞬間、自分がどこにいるかを把握できなかった。

「……声か?」

 外が騒がしい。腕時計を確認、よほど長く眠っていたのでなければ、午後の十時過ぎだ。人口が少なく、観光客もまばらなはずのこの日、この時間に、外が騒がしいのは普通ではない。男は弾かれたように起き上がった。

「……火?」

 男は自身の目を疑った。もちろんいくら寒いとはいえ、火くらい起きるだろう。だが、長く寒さに震えてきたせいで感覚が麻痺している。火というものが発生するという理屈が理解できなくなっている。だから一瞬、夢だと思った。
 だが男は、次の瞬間、アルコールよりも熱く、体が燃えるのを感じた。考えるより先に、体が動いた。

「火事みたいですね」

 ラウンジを駆け抜けるとき、宿主の言葉が聞こえた。それを認識したのは、外に出てからだった。
 男が泊まっている宿から、200メートルほど先だ。男がこの数日間、ずっと見てきた家。
『シェヘラザードの遺言』の所持者が現在、生活している家だった。

        *

 轟々と立ち込める噴煙。細く空まで登る炎。男が現場に辿り着くころには、すでに建物は半壊していた。
 おそらく、消防施設くらいあるのだろう。だが、いまだ到着していないようだ。さほど多くはないが、野次馬も群がっている。飛び込んでいきたいが、どこから侵入すべきか、どう探索し、どこから脱出すべきか、男は決めあぐねる。
 男には命を賭しても『異本』を集める決意があった。しかし、命を賭けることと、命を無駄に捨てることは違う。そもそも『遺言』は、あの建物内にあるのか? 誰かが持ち出している可能性もある。

 爆発音。咄嗟に男は、音から距離をとった。遅れて、数人の悲鳴。ぞくり。とした感触から、男はさらに、大きく距離を空ける。
 背筋の冷たさがアドレナリンで燃え上がってから、男は振り返った。舌打ちをする。トランクが燃えた。男が宿泊していた、建物ごと。
 三度目の爆発は、男の視界に綺麗に収まっていた。あれは、爆発ではない。巨大な炎球だ。二時の方角。高さを考えれば、犯人は崖の上にいる。だが、そんなことはどうでもいい。
 炎球は、規則正しく順番に、家屋を潰していった。明らかに人為的だ。どうやら犯人は、町を消し潰すつもりらしい。

 男は覚悟を決めた。考えるのをやめた。
 目的の建物に侵入する。頭から雪を被り、口元をボルサリーノで覆った。『遺言』があるとするなら、その場所は目星がついていた。
 建物は上から攻撃されている。だから、一階部分しかほぼ、生き残っていない。だから『遺言』がまだ建物内にあるなら、探すのは一階部分だけでいい。だとしたら、探すべき場所は一か所、リビングルームだ。
 建物の間取りは把握していた。そして見たところ、リビングルームは比較的損傷が少ない。男はまっすぐ、目的地を目指した。
 背中に、町の死んでいく音を抱えながら。

        *

『遺言』は、そこになかった。
 すでに崩れかけた建物だ、男が一酸化炭素中毒になる以前に、それは完全に倒壊し、脱出を余儀なくされた。だが、十分に見聞する時間はあった。それでも見つからないなら、すでに燃え尽きたか、住人が持ち出したのだろう。後者であることを祈りつつ、男は町から距離をとった。
 あのオヤジは、きっと生きてはいないだろう。野次馬たちも、多くはけがを負ったに違いない。男の認識の範囲外にも、多くの死傷者が出ただろう。いったい誰が、なんのためにあんなことを? 男はそれを考えた。思い当たる節は、ひとつだけある。

 死角の多い、林の中を進んだ。男の考える通りなら、あれは無差別攻撃であって、無差別ではない。
 ふと、視界に朱が混じる。男は咄嗟に、木陰に隠れた。その赤は、男の額から垂れた一筋だったが、そうではないものも、その先にはあった。

 白かった。途方もないほどに白く、それは赤に染まっていた。
 男は一目で、それがだと把握する。白く赤く、黒く焦げ、四肢が一部失われていても、それが誰だかはすぐに解った。

「おい、大丈夫か!」

 だから下心を連れて、男は駆け寄る。あいにく、挙動を動転させるのに、嘘はいらなかった。

「おい、おい!」

「お、かあさ――」

「悪いが俺は通りがかりのお兄さんだ。……大丈夫か?」

「……ほん」

「本? 失くしちまったのか?」

 自身の心配より『本』を気にしてくれた少女に、男は期待した。高揚といってもいい。
 片方だけ残った右手を握り、男は努めて紳士的に、少女をいたわる。

「大事な本だったんだろ? 任せろ、必ず取り戻してやる。どんなやつが持って行った? どっちへ逃げた?」

「……燃え、ちゃった」

 男は掴んでいた手を離した。ぽとり。と落ちる。少女の命が尽きるように、残酷な音で。
 世界のように、男の頭は真っ白になった。男の使命はただひとつ。世界に散らばった776の『異本』を、すべて集めること。すべてを揃えて、『先生』に捧げること。それが、命を拾った男の使命であり、生きる意味だ。

「……教えろ」

 男が捻り出した結論は、だから、生きるための悪足掻きだ。

「教えろ。おまえが見た、『シェヘラザードの遺言』、その内容を、余すところなく。……伝えろ。その物語が生きていれば、『異本』は生まれ変われるかも知れねえ。……言え! 幾千回も繰り返し読んだ、おまえなら解るはずだ!」

 男は少女の肩を掴んで、力を入れた。それは少女をいま以上に行為だったが、なりふり構っていられない状態の男には、そんなことなど、気の付くはずもなかった。

「語れ! おまえの中に残っているその物語は、おまえの命より重い。死ぬな! それをこの世界に、甦らせるまで!」

「……『あの日――』」

 言葉に力が籠り、力は光となった。

「『誰かに伝えたかった言葉を、みんなに遺したい』」

 そう言うと、少女は力尽きた。
 それとともに尽きる光。その光は、少女から赤と黒を取り去って、失われた肉体を再構築した。
 これが男と少女の出会いだった。

 氷守こおりもりはくと。
 ノラ・ヴィートエントゥーセンの。

        *

 痛いような気がして、少女は目覚めた。気のせいを探ってみると、ちゃんと腕は生えていた。だから痛いんだ。少女はその痛みを抱きしめる。
 だが、痛みの代わりに掴んだのは、わずかなぬくもりと毛布だった。

「よう、起きたか」

 焚火の炎。その先に、薄汚れたコートにくるまった東洋人。

「おじさん、誰?」

「まず最初に言っておくが、俺はおじさんじゃねえ。まだ二十八歳だ」

「そう、つまりおじさんね」

 男は顔をしかめたが、それ以上反論しなかった。少女は上体を起こす。
 そして、違和感に気付く。
 失われたはずの四肢が再生している。それはいい。十二歳の少女にはその程度の魔法、存在していないと断ずるには経験が足りていなかった。
 だが、おかしい。どこがどう、と問われても解らないが、なんだかおかしかった。せめて鏡があれば、言われるより早く気付けただろうが、今回は男の言葉の方が早かった。

「『シェヘラザードの遺言』。どうやらおまえの頭ん中に、そのすべてが遺っているらしいな」

 薪をくべながら、男が言う。

「そいつは身体強化系の『異本』だ。失われた器官を再生できる時点で、性能はBランク以上。……と、思っていたが、いまのおまえを見れば、最高ランクのAと言わざるを得ねえ」

 少女は改めて、自身の体を見聞する。手足が長いことに気付くのに、もう時間はかからなかった。だから慌てて、毛布で体を隠す。

「おっぱいが……おっぱいがおっきい!」

 無意味なほどに件の部分を揺らしながら、少女は言う。

「そうだな。よかったな」

 男はどうでもよさそうに薪をくべた。

「なんで!?」

「だから言ったろ。おまえの頭ん中の『異本』が、……つまり『シェヘラザードの遺言』が、完璧に遺っているゆえに、思い返すだけで効力を発揮してんだよ。身体強化――っつーより、身体操作だな」

「じゃなくて! なんでおっぱいがおっきいの!?」

「……だから身体操作だって――」

「可愛いわたしのおっぱいが、こんなんじゃいけないわ! 可愛い淑女は胸部もつつましやかでないと!」

「……あー」

 男はなんと言うべきか頭を抱えた。というか、そんなくだらない話などする気も起きなかった。

「解んねえけど、たぶんそれも操作できるんじゃね」

「ほんとだわ!」

 少女はこれまでで最高の笑顔を、男に向けた。
 その胸部は、もう微塵も揺れなかった。

        *

「それで、本題だ。ノラ」

 無為な雑談で互いの自己紹介を済ませた後、男はようやっと、切り出した。

「おまえの頭ん中の『シェヘラザードの遺言』を、もう一度、この世界に形作りたい。その全文を教えてくれ」

「構わないけれど。それじゃ無意味だと思うわ」

 男がどこからかくすねてきた缶詰を、躊躇もなく食べながら、少女は言う。

「どういうことだ?」

「『シェヘラザードの遺言』は絵本なのよ。文章だけを抽出したところで、それは『異本』としての効力を発揮しないと思うわ」

「それはごもっともだが……おまえ、『異本』のこと知ってるのか?」

「いいえ。でも、解る。なぜ解るのかは解らないから、理屈はつけられないけれど、これが『シェヘラザードの遺言』の効能なのでしょう」

「頭脳も発達したってのか」

「おそらくね。『シェヘラザード』シリーズが教育用絵本だってことを考えれば、それも当然と思えるし。まあ、可愛いわたしは生まれつき、天才美少女だった可能性も多分にあるのだけど」

 男は考える。男が知っている情報から導けるのは、『シェヘラザードの遺言』はおそらく身体強化系の分類だろう、という予測でしかなかった。つまりは、なにも解っていないといって過言ではない。なら、少女の言葉を信じるか? いや、信じようが信じまいが、やることは変わらない。

「ともかく、おまえには『シェヘラザードの遺言』を復元してもらう。もしできなきゃ、おまえの脳髄を分解してでも、俺は事を成す」

 極めて冷たく、男は言った。それは脅しであったが、脅しではない。
 男には言葉通りの行動を起こすだけの、覚悟があったのだから。

「そう。それは好都合だわ」

 リスのような頬をしぼませて、少女は言う。

「じゃあそれまで、わたしの脳髄はあなたに保護されるというわけね。ありがたいわ、ハク」

 その表情は、笑うでも恐れるでもなく、どこか高い崖の上から見下すような、冷たい淋しさがあった。


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