箱庭物語

晴羽照尊

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ローマ編

36th Memory Vol.5(イタリア/ローマ/7/2020)

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 日が高く登る。じわじわと気温が上がっていく。

「ハク様。まずはノラ様に一通りのご説明を。察するところ、ノラ様はあまり、ご承知でないご様子」

 おまえは解っているのか? という言葉は飲み込んだ。
 おそらく老人から聞いているのだろう。仮に、なにも知らないとしても、説明するのは男のすべきことだったし、その間の足止めも、メイドの仕事だった。

「いいか。重要なところだけ、かいつまんで教えるぞ」

 男は少女に向かって、話し始めた。

        *

『箱庭百貨店』。
 まずは、あの女の持つ『異本』のことを教えなきゃならねえ。

『箱庭』シリーズは、『先生』が書き上げた『異本』だ。その中心的な性能は、『異本』を収集すること。だが、ただ純粋に『異本』を収めるだけの『図書館』と違って、『百貨店』はもっと汎用性に長ける。

『箱庭百貨店』は、そのうちに収めた『異本』を。蒐集した『異本』の性能を正確に測り、現金という比較可能な数値として吐き出す。吐き出された金は現実世界でちゃんと使用できる。どういう理屈かは解らねえが、それは偽札ではなく、本物の金なんだ。

 まあ、それはいい。そんな性能のおかげであの女が、世界屈指の億万長者になっていることくらい、いまはたいした問題じゃねえ。

 問題は、『箱庭百貨店』の使。金を払うことで、蒐集した『異本』の性能を、一時的に『百貨店』に宿らせる能力。これを利用して、あの女は、これまでに蒐集した数多くの『異本』の性能をすべて使うことができる。
 しかも金は紙幣であればどこの国のものでもいい。

『異本』を入れるときは性能によって吐き出される金額は違うのに、性能を借りるときはどの『異本』の能力であれ、一分一紙幣で使うことができる。だからあの女は、価値の低い紙幣を大量に持ってんのさ。

 なに? そもそも『異本』を『百貨店』に入れずに、そのまま使えばいいじゃないかって? それができるならだれも苦労しねえし、俺も苦労してねえ。

 人間と『異本』には相性があるんだ。その相性のことを『親和性』と呼ぶ。

 親和性が高くなければ、『異本』の性能は100パーセント発揮できない。性能を100パーセント発揮できる人間を、その『異本』に対する『適性者』と呼ぶ。

 また、特に相性のいい人間と『異本』が組み合わされると、100パーセントを超える性能を発揮できる場合がある。この100パーセントを超える性能を発揮できる人間のことを、その『異本』に対する、『適応者』と呼ぶ。

        *

 メイドの動きは、やはり常軌を逸していた。
 姿が消える。などというアニメのような展開はさすがにないとしても、その動きは、まるで一人だけ倍速で再生されているかのようだ。
 かああ――ぁん。と、金属が打ち付けられる音。

「……『ジャムラ』の特性とは違うじゃろ。なれ、いったいどうなっとるんじゃ、その体」

「乙女には秘密の一つや二つくらいあるものです。……あなたこそ、そんなに鈍いのに、どうしてまだ倒れないのでしょう。いえ、しかもまだまだ、余裕を持っているようにも見えます」

 互いに息すら乱さず、ほどよい間合いで構えている。メイドの右手には警棒、左手には『ジャムラ呪術書』。女の右手にもいつの間にか抜身の刀が握られており、左手には『箱庭百貨店』。だが女は、『百貨店』から『異本』の能力を引き出すために、ときおりコートのポケットから紙幣を取り出さなければならない。

 どうやらコートの内ポケットに『箱庭百貨店』を瞬間、入れて、空いた左手で紙幣を取り出したり。その紙幣を刀を握る右手の指の隙間に挟んだり。場合によっては口にも一瞬咥え、それらを改めて内ポケットから取り出した『百貨店』に差し込む。といった具合に、女は常に忙しく、しかしテンポよく体をフルに動かしていた。スピードでは劣るが、それをテクニックと、多彩な『異本』の能力でカバーしている。

 特にあの『嵐雲らんうん』が厄介だ。
『嵐雲』は男の知っている限り、はじめから『先生』の所有していた『異本』で、男にもなじみの深いものだった。

 その性能は常時発動型の風の遮断壁と、任意操作系の突風を起こす能力。決して強力な風の力ではないが、人間を数メートル飛ばすくらいのことはできるし、それがうまくいかなくとも、攻撃を逸らすくらいはできる。『嵐雲』の防御のせいで、速さで勝るメイドが、いまだ致命的な一撃を食らわせられていないというのが現状だ。

「やっぱ盗んどくべきだったな」

 男は小さく舌打ちをした。

「それよりハク……『適応者』だと、どれくらい性能を引き出せるの?」

 また始まる二人の打ち合いを見ながら、男は再度、語りはじめる。

        *

 そもそも『異本』には、いくつかその『異本』の性能の高さを示す等級がある。入手難度。変性力。抗力。毒性。効果範囲。そして、汎用性。いま問題になるのは汎用性だ。

 汎用性。その『異本』の性能をいかんなく発揮できる可能性。この等級が高いほど、多くの人間がより容易に『異本』の性能を引き出せる。基本的に『異本』の性能は、ある人間にとって、全く引き出せないか、100パーセントまで引き出せるかの、二つに一つだ。そこに細かな可変がねえ。

 たとえば『ジャムラ呪術書』の汎用性は最高性能のAランク。誰が使おうと、その効能は100パーセント発揮される。親和性がゼロの人間でも使える稀有な『異本』だ。いやむしろ、『使う』という認識がなくとも、『ジャムラ』は周囲に腐敗をもたらし、本が開かれれば『存在の消滅』を引き起こす。

 あるいは『シェヘラザード』シリーズ。これはそもそも小児向けに描かれた本だ。ゆえに、子どもにしか、その性能を発揮できないと言われている。汎用性はCかDってところだ。

『ジャムラ』の話に戻るが。汎用性Aで誰にでも使える『ジャムラ』にも、解っている通り問題がある。常時発動型の腐敗進行。『存在の消滅』による認識操作。汎用性が高い『異本』は多くが『ジャムラ』と同じ、常時発動型の性能を持っている。だが知っての通り、これは場合によっては短所にもなる。

 その短所すら無効化でき、長所があればさらに引き延ばせる。その『異本』が本来できる可能性を超えて扱える者を、その『異本』の『適応者』という。

 もともとの汎用性に関わりなく、『適応者』は各『異本』に数人程度しかいないと言われている。さっき話した『親和性』が特別に高い、人と『異本』……俗な言い方をするなら、運命の相手ってところだ。
『適応者』が本来の性能をどれだけ伸ばせるか、それには個人差がある。だが、どんな『異本』であれ、『適応者』がそれを扱うと、本来の性能を超えた、とてつもない力を出せるのは確かだ。

        *

 話を聞いて、少女は理解した。
 よく見れば、少女の目にはちゃんと見える。
 メイドの動きは確かに速い。だが、速くはない。

「ハク。メイちゃんは『存在の消滅』を使ってるわ」

「なるほど。『適応者』だと解れば、それも納得だな」

 男も言われて理解した。『存在の消滅』。認識操作。本来無差別に発動される認識操作の対象から、。しかも、相手に違和感を抱かせにくくするために、わざと強度を下げて使用している。

 メイド自身の動きは変わらずとも、、コマ落ちのように見せることで、相対的に速く動いているように見える。60fpsで動いているのに、見る者には30fpsで見えているようなものだ。もちろん、本来の身体性能が高いからこそ速く見せられるわけだが、アドバンテージには違いないだろう。

「なるほど。よいことを聞いた」

 声がする前に、男は肘を打ち付ける。背後をとられたことによる、とっさの攻撃だった。しかしその勢いは風圧で相殺される。そして、言い終わるころには、吹き飛ばされていた。
 少女とぶつかりそうになる。その勢いを利用して、少女を抱え、距離を取った。

「少しは動けるようになったか、末弟。……それにしてもそのガキ、まさか――」

 かああ――ぁん!
 背後を見向きもせず、女は刀で受け止めた。死角からのメイドの警棒を。

「いい加減、目が慣れてきたぞ」

 女は言い、メイドは吹き飛ぶ。メイドはすぐに体勢を立て直すが、一瞬の隙ができる。

「『嵐雲』。一分追加。と。『バージャンの福音』。一分」

 その隙に女は紙幣を『百貨店』に差し込む。
 メイドはそのとき、女の動きにワンテンポの遅れを見つけた。その隙に、右手の警棒ではなく、左手の『ジャムラ呪術書』でもって殴打する。

「駄目だ!」

 男はつい叫んだ。
 動きが止まる。

 崩れ落ちたのは、メイドの方だった。

        *

 見た目にはなにが起きたのか解らない。だが、男には理解できた。

「おい、メイド!」

「ご心配には及びません、お客様」

「そうじゃ、心配はいらん、末弟」

 どうせもう終わりじゃ。言って、女はメイドに追撃をかける。メイドは十メートル以上吹き飛ばされ、倒れた。それでも『ジャムラ』を離さなかった左手は、指が何本か、腐食し、ただれていた。

「『バージャンの福音』。『異本』の能力を反射する『異本』」

「やはり汝は知っとったか、末弟。どっかで『ジャムラ』の腐敗効果は、増幅して使うと思っとったからの、チャンスを狙っておったのじゃ」

「それでわざと隙を作ったわけか。身体能力が高くても、戦闘慣れしてねえと、そういう駆け引きが弱えよな」

「そういう――ことじゃ!」

 少女がものすごい速度で、女に殴りかかる。が、女はなに食わぬ顔で避け、少女を押し倒し、拘束した。

「はっはっは、威勢がいいのう、ガキ」

「ノラ!」

 男は叫ぶ。そうすることくらいしかできない。
 メイドがやられ、少女が捕まったいま、非力な男にできることなど、それくらいしか。

「ガキじゃないわ、ノラ。可愛いわたしを離しなさい。おばさん」

「そうか、ガキ。やはり汝、普通じゃないの」

 女は少女に馬乗りになり、足で少女の腕を封じる。両手を自由にした。

「『異本』を持たせたのか、末弟。……本当に、変わったんじゃの」

 まだ気付かれていないらしい。ならば隠しきるしかない。男はそう思った。
 女はどこか上の空に黄昏ているが、攻勢に転じられる状況ではない。そもそも男と女とでは戦闘能力も『異本』の扱いにも、差が歴然とある。

「あれだけ血を流していたのに、もう塞がっておる。身体強化系か」

 なんとかしなければならない。でなければ、いつ看破されるか解らない。
 

「離せ」

 男は言った。

「ノラを離せ。……そいつは俺の、……大事な家族だ」

 男は構える。プランはない。
 女の『百貨店』と違って、男の『図書館』には集めた『異本』を利用できる能力がない。そして男自身、あらゆる『異本』への。つまり、男が信じられるのは、平均点をすこし越える程度の肉体しかない。
 それでも、『異本』蒐集に全力を尽くさない選択肢は、はるか昔に捨てた。

「行くぞ、ホムラ」

 男は足に力を入れた。

        *

「待て」

 女は男を制止した。不意のことに男はつんのめりそうになる。

「もうよい、末弟。『ジャムラ』は一時、汝に預けておこう」

「は?」

 男は頓狂な声をあげた。
 男が『異本』を諦めない決意は固い。だが、それと同等くらいに、女にもその覚悟はあるはずだった。

「べつに、『パパ』への手向けなら、わらわじゃろうが汝じゃろうが、どちらが持っていても同じじゃろう。最終的には妾が、汝の『異本』もすべて奪うつもりじゃが、まだ汝を泳がせていた方が楽に集まるかもしれん」

 女は言うが、それは嘘だと男には解った。
 女は自分以外を信用するような人間ではない。利用くらいするかもしれないが、利用するにしても、大切な『異本』を預けるほど他人に期待するような女ではない。

「それと、これもじゃ」

 言って、女は大量の紙幣を『百貨店』に押し込み、かわりに一冊の本を取り出した。
 取り出した本を、男へ放る。

「……『ランサンのフェイク』、『五番』」

「あの一手はなかなかよかったぞ。よもや汝が、『異本』を投げつけてくるとは思いもよらなんだ」

 言って、女は笑う。「本当に、変わったな」。さきほども言った言葉を、もう一度、呟いた。

「見つけたんじゃな、汝は。あの日、『パパ』が言っていたものを」

「なんだって?」

 男は聞こえていた言葉を理解できずに聞き直した。
 もしかしたら安心して弛緩していたのかもしれない。だが仮に、極度の緊張状態で警戒していたとしても、結果は変えられなかっただろうけれど。

「『マール・ジーン』。一分」

 女は小さく呟き、紙幣を一枚、差し込んだ。

「大事な家族、じゃろ。忘れるなよ、末弟」

 女は効能を乗せた『百貨店』を、少女に押し当てた。

        *

『マール・ジーン』。

 十九世紀初頭、アメリカ、ワイオミング州にて活動していた詩人マールが、自らの肉体を、それを研究した日誌。マールは『極限の痛み』に生涯挑み続けた詩人だったが、その知名度は低い。
 肉体を粉末状に削る。これは文字通りの意味だ。あらゆる器具を用い、あらゆる状態の肉体を、あらゆる環境で削った。削り落ちた肉片や血、脂も骨も、マールは独自の手法で研究し、またそのときに感じる痛みをも記述した。

 まあ、書物としての歴史はどうでもいい。問題は『異本』としての効能だ。

『マール・ジーン』は外部干渉系の『異本』である。その『異本』で触れた相手の細胞を、使用者の意思のままコントロールできる。コントロールできる範囲や大きさに制限はあるが、簡単に人体を破壊できる、強力な『異本』。

 汎用性D、変性力と呼ばれる、『異本』の効能の強度はB。力は強いが、『適応者』どころか『適性者』すら、ほとんど存在しないと言われている。

 そう、たいていの『異本』は変性力と汎用性が半比例する。
 だが、『百貨店』の能力なら、金さえ払えば最低限の使用権――つまり、『適性者』として、その『異本』を行使できる権利を、一時的に得ることができる。

        *

「その割には可愛いわたし、まだまだ元気で可愛く、可愛いのだけれど」

 次の目的地への航空機の中、少女は元気に、そう言った。

「だから限度があんだよ。それに、おまえの中にある『異本』の残滓を全部消すわけにゃいかねえだろ。おまえは俺たちにとっちゃ絶対殺せねえし、なんらかの拍子で『異本』の情報が消えたり、欠如しないようにしなきゃならねえの」

 男は座席を限界までリクライニングして座り、めんどくさそうに言った。

「でもあのおばさん、可愛いわたしが頭の中に『遺言』を持ってるとは気付いていなかったのでしょう?」

「どうだかな。……それに、肉体強化系だってのはばれてたんだから、肉体が今後強化されないようにすればいいだけ。たいていの『異本』の効能は、本を持って、使用を念じなきゃ発動しねえからな。……今後、『異本』での強化ができないように細胞にインプットしたってところだろ。おまえの頭ん中の『遺言』は残っているが、その性能を肉体に反映できなくした、みたいな。たぶんいまじゃもう、本の内容を一瞬で理解したり、怪我したときに驚異的な回復力を発揮する、なんてのはできねえよ。……『ジャムラ』回収時みたいな、『存在の消滅』をようなこともな」

 今回の『ジャムラ』蒐集で大きな壁となった『存在の消滅』。それは『ジャムラ』自体が消えているのではなく、あくまでものだった。だから働きかけられた力を身体操作で打ち消す。それが今回、少女が担った役割だった。

「ほんとだわ! 治らない!」

 少女は自身の腕を切りつけながら、やたら嬉しそうに言った。

「だからなんでてめえはそうなんだ!」

 文句を垂れつつも、男は少女の手を止血した。
 そんな男を見て、少女は柔らかく笑う。
 大事な家族、か。それがあの場を切り抜けるための言葉で、自分なんて蒐集すべき『異本』としてしか見られていないと解っていても、少女はその言葉の響きを忘れることはなかった。

『シェヘラザードの遺言』の能力を封じられても、決して、忘れられなかった。

「失礼致します、ハク様。ノラ様のお怪我の手当てでしたらわたくしめが」

「ああ、そうだな。こういうことはメイドに任せ――ええぇぇ!? なんでいるんだ、てめえ!」

「主人からお二人のお世話をするようにことづかっております」

 なんでもないようにメイドは言った。
 慣れた動作で淀みなく、少女の怪我を治療しながら。

「ありがとう! メイちゃん!」

 処置が終わると少女は嬉しそうに、メイドに抱き着いた。

「では、改めまして。アルゴ・バルトロメイ。二十三歳でございます。新しいご主人様方」

 少女を抱えながらも、スカートの端を摘み上げ、うやうやしく首を垂れる。

「お気軽に、メイちゃんとお呼びくださいませ」

 そのメイドは男の前では初めて、にっこりと、美しい表情で笑った。


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