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中国編
38th Memory Vol.2(中国/成都/8/2020)
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前日よりも気温が上がるだろう。そう流れる朝のニュースを見て、男はため息をついた。
一人で目覚めるホテルの部屋は久しぶりだった。昨夜の隣室の騒がしさを思い出す。
「女ってのは、どいつもこいつも、集まるとうるせえよな」
女性の不思議に男は感じ入る。
軽く伸びをして、着たままのコートを脱ぐ。スーツのジャケットも。男が着替えるのは肌着とワイシャツくらいだ。
「ええ、特に夜中は、ガールズトークで盛り上がりがちです。たとえば、コイバナとか」
いつの間にか背後にいたメイドが言う。男が振り返ってみるに、当然のようにメイドはそこで一礼していた。
「俺が起きる前にノックをして、返答がないから、鍵開けて入ったんだな。もう驚かねえよ」
「いえ、こちらのホテルはカードキータイプでしたので、開けるのが至難と判断し、ベランダを伝って入らせていただきました。そういえば本日は、ノックをするのを忘れておりました」
わざとらしく口元をおさえてうっかりという表情でメイドは言った。
よく見ると――いや、よく見なくとも、窓にかかるカーテンが揺らめいていた。床にはガラスが散乱している。男は一度息を吐き、大きく吸い直す。
「なんでだよ! そうまでして入るこたあねえだろ! せめて扉ノックを試してからにしろ!」
結局、突っ込むことになった。肩を揺らして、呼吸を荒立たせる。叫んだらなぜだか、清々しくなった。
メイドはそれには応えず、ただうやうやしくかしずく。そして、その腕にかけていた衣類を男へ向けた。
「ハク様。僭越ながら連日の猛暑に限界がきていると存じます。差し出がましいようですが、暑さを軽減できる衣服をご用意させていただきました」
「そりゃあ差し出がましいな。俺は服にこだわるタイプなんだよ」
「ぜひ一度、ご試着だけでも」
メイドとはいえ、普段よりやけに低姿勢で、なおかつ強情な押し付けだった。
「……着てみるだけだぞ」
ゆえに男は諦めて、そう言った。
*
試着した服は、なるほど、控えめに言って、とてもよかった。
黒を基調としたデザイン。男が普段着ているスーツに近い形状だが、やや細身であるように見える。通気性もよく、伸縮性も完璧だ、動きやすい。肌にぴたりと張り付く感覚も、身が引き締まる。そしてなにより気に入ったのは、多数のポケットが、ちょうどいい位置についていること。そのポケットの大きさも絶妙だ。まるで、男の思考と嗜好を完璧に理解した何者かが、オーダーメイドで制作したかのよう――。
「これは……」
男は声を漏らす。だが、渋った手前、まっすぐに褒めることは躊躇われた。
「もしかして、おまえが作ったのか」
「はい。残念ながら、ハク様の需要を完璧に満たす衣類はまず存在しないだろうと、以前から考えておりましたので」
首を垂れたままメイドは言う。そのあまりの深さに男が怪訝に思うと、噛み締めたあくびの雰囲気が感じ取れた。
「……参考までに聞きたいんだが、俺の需要ってのはなんだ?」
「……まず、もっとも意識してらっしゃるのが、収納の多さだと感じました。身一つで最低限必要なものをすべて、手ぶらで持ち運べること。パスポート、ウォレット、スマートフォン、ハンカチやグローブ、サバイバルナイフやロープなどもお持ちでしょう? 『異本』はコートに収めるとしても、不測の事態のために予備のポケットも必要です。少なくとも一冊は、『異本』が収められる大きめのポケットが」
「待て。なんでてめえ、ナイフやロープの存在まで知ってんだ。おまえの前で一度として出した覚えはねえぞ」
「失礼ながら、眠っている間に検めさせていただきました。罰でしたら、後ほど、なんなりと」
あくびを噛み殺すより余計に深くうなだれる。本当に地に頭がつくかもしれない。
「次に体温調節のしやすさです。聡明なハク様ならご存知でしょう。中国が世界一の合成繊維生産国だと。そちらの特殊合成繊維は、防寒性に優れながらも吸汗性にも優れ、また、通気性も十分で、かつ速乾です。汗をかいてもベタつくことなく、体を冷やす心配もありません。もちろん、伸縮性も申し分なく、動きやすいはずです。また、防刃性能、衝撃吸収性能もわずかながら備えております。ポケット部分は収納物を雨などで濡らさぬよう耐水性、撥水性も――」
「解った、もういい」
よもや自分にそこまで貪欲な衣類へのこだわりがあるとは、男は自分で驚愕し、恥ずかしくなった。
だから、これくらいの恥など、取るに足らぬものだ。男はちゃんと、そう思うことができた。
「ありがとう。気に入った」
男はメイドに背を向け、コートを羽織る。
メイドはやや間を開け「もったいないお言葉。光栄でございます」と言った。
あくびが漏れたことは、見逃すことにする。
*
朝食を済ませ、町へ出かける。
メイドはホテルに残した。もちろんメイドは渋ったが「人が寝てる隙に持ち物を漁った罰だ」というと、なにも言い返せなくなった。
町へ出る。そもそも中国へ来たのは、幼女に頼まれたからだ。
キルギスから山――天山山脈を越えると、中国西部、チベットやウイグル自治区に到達する。そこからさらに国境を越えモンゴルへ向かう道もあったが、『異本』がある成都へと降り立った。チベットやウイグル自治区よりかは都会であり、住みやすいと踏んでの判断だった。
そう、男は幼女への援助を約束してしまっていた。だから、ただ送り届けるだけでなく、最低限の衣食住を揃えるまでは見届けなければならない。
「で、昨日一日メイドと部屋探しをしたが、決められなかったと? どんだけ贅沢なんだ、てめえ」
「住む場所は重要なんや。そう簡単に決められへん」
幼女は言った。ぼろぼろだった服は一新され、髪も綺麗に梳かされている。メイドが用意したという衣服は、おそらく男のそれを作るついでに制作したものだろう。色や素材は違うが、男はそう思った。
なぜなら、わざわざ購入したにしては袖が長すぎる。それに上半身はナイロン素材を基本にしたらしいが、袖の外側だけ、おそらくウール素材だ。ナイロンとウールでこすり合わせると容易に静電気が発生する。……くだらねえことにまで気を遣うやつだ。と、男は嘆息した。
「ちょっとパラちゃん、あんまりハクにくっつくの、やめた方がいいわよ。妊娠しちゃうから」
少女がひどいことを言った。
「べつにええで。むしろ歓迎や。そもそも、ノラもくっついとるやん。説得力ないで」
幼女が怖いことを言った。
男は両手を塞がれ、頭も掻けない。せっかくメイドに涼しい服をもらったというのに、冷や汗が止まらなかった。遠目に警官を見るだけで緊張してしまう。
「おまえら二人とも離れろ。歩きづれえ」
男がたしなめようと。「ハクは黙ってて」。「にーちゃんは黙っとき」。とハモるだけである。
だから見覚えのある顔とすれ違っても、男はそいつを、振り返る余裕すらなかった。
*
昼食時。世界中どこにでもある有名なファーストフード店に入る。男の提案しようとした料理店は一文字目で却下された。
「おい、いい加減にしろ」
男はファーストフードを好まない。どんな食材を使っているかを想像すると身の毛もよだつ。ゆえに、アイスコーヒーと適当に注文した料理のバンズだけ剥がして食べる。……つもりだったが、前傾しストローでコーヒーを飲むのが精いっぱいだった。
二階の窓際の席。その端っこ。二人掛けの固いソファが向かい合う四人席で、窓の方を向きながら、男と少女と幼女、三人が並んで座っている。男を中央に、右手に少女、左手に幼女。
「おい、飯くらい食わせろ」
男は半ば諦めながらもそう言った。
「利き手を塞いどるねーちゃん、言われとるで」
左手で食事をしつつ、幼女が言う。
「ハンバーガーくらい左手でも食べられるでしょ。あら、それを塞いでいるお子様がいるみたいね」
右手にポテトを持ち、少女が言う。
男はいまにも叫びだしたい気持ちだったが、さすがに公共の場だ、なんとかこらえた。幸か不幸か、この店でまっとうに食事をとるつもりはない。男はコーヒーだけ、前傾して飲み続けた。
「はい、ハク。誰かさんのせいで食べられないみたいだから、食べさせてあげるわ」
少女が男のバーガーを持ち上げる。
「いや、いい」
そもそもバーガーを食べるつもりはない。バンズだけでいいのだ。男は断った。
「あはは、振られてやんの。ノラ、ダサいで。にーちゃんはこっちのが好きやねんな?」
幼女がポテトを男の口元へ運んだ。
「いや、油分が多すぎんだよ」
男はやはり断った。
すると、男の両隣で、なにかが切れる音がする。
「いいから」
「文句言わんで」
女ってのは本当に不思議だ。一秒前までいがみ合っていても、なぜかときおり、息が合う。
「「食べ(なさい)(えや)!!」」
言葉とは裏腹な勢いは予想通り、男の顔面を殴打するだけだった。
*
ファーストフード店を出ると、男の体は軽くなっていた。
「にーちゃんってほんま、甲斐性なしやねんな」
「ええ、ハクは生まれつきああなのよ」
その女子二人はそれぞれ、掴む手を変えたらしい。
ところで最近、俺の扱いひどくねえか。男はこの数週間を反駁する。……うん。誰がどう見ても、これはひどい。あんまりだ。
女子二人が先行する姿を眺める。この国に来て初めてだな。そう思う。まあ、こいつらも慣れてきたってことか。纏わりつかれるよりはいい。そう、思――
「…………!?」
男はなぜか急に悪寒に見舞われた。背後――いや、周囲を警戒する。……不審なやつはいない。いるとしたら、急に立ち止まり周囲を警戒する自分くらいだ。男は思う。
「牙は抜けていないみたいだね」
耳元で、声がした。正面を向く。すれ違う。見知った金髪に、もう一度振り返る。
「…………」
だが、そいつはもういない。いや、本当にいたのかどうかもあやふやだ。
男はボルサリーノを深くかぶり直し、落ち着く。もしかしたら思っていた以上に、脅迫状を気にしていたのかもしれない。気のせいならいいが。
見ると、女子二人が揃って男を見ていた。目が合う。目を逸らされる。
次に歩き始めたとき、あれほど聞こえよがしに語られていた男への罵詈雑言は、ひそひそ声になっていた。
*
嫌な視線を感じる。男はあれから、ずっと周囲を警戒していた。
だが、あいつの姿は、片鱗すら見つからない。
「おい、パララ」
男が呼びかけると、幼女はちらりと男を振り向いた。
それから正面に向き直る。「なんや、にーちゃん」と言ったのは、その後だ。
「おまえ、この場所――国に住みたいのか?」
男は言う。そもそも、最初から訝しんではいた。
たぶんこいつは、どこかへ行ければ、行き先はどこでもよかったのだ。ただ、あの国から出たかっただけ。
「べつに、どこでもええんよ」
幼女は言った。
やはり、そうか。男は自身の予想が当たり、歓喜した。それならそれで、一度移動したい。この国――周辺は、嫌な予感がする。そうでなくとも、知っている『異本』は回収済み。もうここに留まる理由は、幼女の住まい探し以外にないのだ。
「独りになるのが、嫌やねん」
幼女は言った。
その言葉は男の浅はかなプランを引き裂く。
だって、その感情は、男がいつか抱いた思いで、あの日の自分を救い上げる、きっかけだった。
同じだ。そう思う。
だが、それでも。幼女がこの先、独りになるにしても、仕方がないことだ。手を差し伸べたいとは思う。あの日の『先生』のように。だが、それはできない、とも思う。
あのころの『先生』と、いまの俺は違う。感情を度外視して、男はそう思った。
こいつはもっと、ちゃんと救われたっていいはずだ。
そしてそれは、俺や、俺たちの手ではできない。
男はそう思う。
そして、事件は起きた。
一人で目覚めるホテルの部屋は久しぶりだった。昨夜の隣室の騒がしさを思い出す。
「女ってのは、どいつもこいつも、集まるとうるせえよな」
女性の不思議に男は感じ入る。
軽く伸びをして、着たままのコートを脱ぐ。スーツのジャケットも。男が着替えるのは肌着とワイシャツくらいだ。
「ええ、特に夜中は、ガールズトークで盛り上がりがちです。たとえば、コイバナとか」
いつの間にか背後にいたメイドが言う。男が振り返ってみるに、当然のようにメイドはそこで一礼していた。
「俺が起きる前にノックをして、返答がないから、鍵開けて入ったんだな。もう驚かねえよ」
「いえ、こちらのホテルはカードキータイプでしたので、開けるのが至難と判断し、ベランダを伝って入らせていただきました。そういえば本日は、ノックをするのを忘れておりました」
わざとらしく口元をおさえてうっかりという表情でメイドは言った。
よく見ると――いや、よく見なくとも、窓にかかるカーテンが揺らめいていた。床にはガラスが散乱している。男は一度息を吐き、大きく吸い直す。
「なんでだよ! そうまでして入るこたあねえだろ! せめて扉ノックを試してからにしろ!」
結局、突っ込むことになった。肩を揺らして、呼吸を荒立たせる。叫んだらなぜだか、清々しくなった。
メイドはそれには応えず、ただうやうやしくかしずく。そして、その腕にかけていた衣類を男へ向けた。
「ハク様。僭越ながら連日の猛暑に限界がきていると存じます。差し出がましいようですが、暑さを軽減できる衣服をご用意させていただきました」
「そりゃあ差し出がましいな。俺は服にこだわるタイプなんだよ」
「ぜひ一度、ご試着だけでも」
メイドとはいえ、普段よりやけに低姿勢で、なおかつ強情な押し付けだった。
「……着てみるだけだぞ」
ゆえに男は諦めて、そう言った。
*
試着した服は、なるほど、控えめに言って、とてもよかった。
黒を基調としたデザイン。男が普段着ているスーツに近い形状だが、やや細身であるように見える。通気性もよく、伸縮性も完璧だ、動きやすい。肌にぴたりと張り付く感覚も、身が引き締まる。そしてなにより気に入ったのは、多数のポケットが、ちょうどいい位置についていること。そのポケットの大きさも絶妙だ。まるで、男の思考と嗜好を完璧に理解した何者かが、オーダーメイドで制作したかのよう――。
「これは……」
男は声を漏らす。だが、渋った手前、まっすぐに褒めることは躊躇われた。
「もしかして、おまえが作ったのか」
「はい。残念ながら、ハク様の需要を完璧に満たす衣類はまず存在しないだろうと、以前から考えておりましたので」
首を垂れたままメイドは言う。そのあまりの深さに男が怪訝に思うと、噛み締めたあくびの雰囲気が感じ取れた。
「……参考までに聞きたいんだが、俺の需要ってのはなんだ?」
「……まず、もっとも意識してらっしゃるのが、収納の多さだと感じました。身一つで最低限必要なものをすべて、手ぶらで持ち運べること。パスポート、ウォレット、スマートフォン、ハンカチやグローブ、サバイバルナイフやロープなどもお持ちでしょう? 『異本』はコートに収めるとしても、不測の事態のために予備のポケットも必要です。少なくとも一冊は、『異本』が収められる大きめのポケットが」
「待て。なんでてめえ、ナイフやロープの存在まで知ってんだ。おまえの前で一度として出した覚えはねえぞ」
「失礼ながら、眠っている間に検めさせていただきました。罰でしたら、後ほど、なんなりと」
あくびを噛み殺すより余計に深くうなだれる。本当に地に頭がつくかもしれない。
「次に体温調節のしやすさです。聡明なハク様ならご存知でしょう。中国が世界一の合成繊維生産国だと。そちらの特殊合成繊維は、防寒性に優れながらも吸汗性にも優れ、また、通気性も十分で、かつ速乾です。汗をかいてもベタつくことなく、体を冷やす心配もありません。もちろん、伸縮性も申し分なく、動きやすいはずです。また、防刃性能、衝撃吸収性能もわずかながら備えております。ポケット部分は収納物を雨などで濡らさぬよう耐水性、撥水性も――」
「解った、もういい」
よもや自分にそこまで貪欲な衣類へのこだわりがあるとは、男は自分で驚愕し、恥ずかしくなった。
だから、これくらいの恥など、取るに足らぬものだ。男はちゃんと、そう思うことができた。
「ありがとう。気に入った」
男はメイドに背を向け、コートを羽織る。
メイドはやや間を開け「もったいないお言葉。光栄でございます」と言った。
あくびが漏れたことは、見逃すことにする。
*
朝食を済ませ、町へ出かける。
メイドはホテルに残した。もちろんメイドは渋ったが「人が寝てる隙に持ち物を漁った罰だ」というと、なにも言い返せなくなった。
町へ出る。そもそも中国へ来たのは、幼女に頼まれたからだ。
キルギスから山――天山山脈を越えると、中国西部、チベットやウイグル自治区に到達する。そこからさらに国境を越えモンゴルへ向かう道もあったが、『異本』がある成都へと降り立った。チベットやウイグル自治区よりかは都会であり、住みやすいと踏んでの判断だった。
そう、男は幼女への援助を約束してしまっていた。だから、ただ送り届けるだけでなく、最低限の衣食住を揃えるまでは見届けなければならない。
「で、昨日一日メイドと部屋探しをしたが、決められなかったと? どんだけ贅沢なんだ、てめえ」
「住む場所は重要なんや。そう簡単に決められへん」
幼女は言った。ぼろぼろだった服は一新され、髪も綺麗に梳かされている。メイドが用意したという衣服は、おそらく男のそれを作るついでに制作したものだろう。色や素材は違うが、男はそう思った。
なぜなら、わざわざ購入したにしては袖が長すぎる。それに上半身はナイロン素材を基本にしたらしいが、袖の外側だけ、おそらくウール素材だ。ナイロンとウールでこすり合わせると容易に静電気が発生する。……くだらねえことにまで気を遣うやつだ。と、男は嘆息した。
「ちょっとパラちゃん、あんまりハクにくっつくの、やめた方がいいわよ。妊娠しちゃうから」
少女がひどいことを言った。
「べつにええで。むしろ歓迎や。そもそも、ノラもくっついとるやん。説得力ないで」
幼女が怖いことを言った。
男は両手を塞がれ、頭も掻けない。せっかくメイドに涼しい服をもらったというのに、冷や汗が止まらなかった。遠目に警官を見るだけで緊張してしまう。
「おまえら二人とも離れろ。歩きづれえ」
男がたしなめようと。「ハクは黙ってて」。「にーちゃんは黙っとき」。とハモるだけである。
だから見覚えのある顔とすれ違っても、男はそいつを、振り返る余裕すらなかった。
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昼食時。世界中どこにでもある有名なファーストフード店に入る。男の提案しようとした料理店は一文字目で却下された。
「おい、いい加減にしろ」
男はファーストフードを好まない。どんな食材を使っているかを想像すると身の毛もよだつ。ゆえに、アイスコーヒーと適当に注文した料理のバンズだけ剥がして食べる。……つもりだったが、前傾しストローでコーヒーを飲むのが精いっぱいだった。
二階の窓際の席。その端っこ。二人掛けの固いソファが向かい合う四人席で、窓の方を向きながら、男と少女と幼女、三人が並んで座っている。男を中央に、右手に少女、左手に幼女。
「おい、飯くらい食わせろ」
男は半ば諦めながらもそう言った。
「利き手を塞いどるねーちゃん、言われとるで」
左手で食事をしつつ、幼女が言う。
「ハンバーガーくらい左手でも食べられるでしょ。あら、それを塞いでいるお子様がいるみたいね」
右手にポテトを持ち、少女が言う。
男はいまにも叫びだしたい気持ちだったが、さすがに公共の場だ、なんとかこらえた。幸か不幸か、この店でまっとうに食事をとるつもりはない。男はコーヒーだけ、前傾して飲み続けた。
「はい、ハク。誰かさんのせいで食べられないみたいだから、食べさせてあげるわ」
少女が男のバーガーを持ち上げる。
「いや、いい」
そもそもバーガーを食べるつもりはない。バンズだけでいいのだ。男は断った。
「あはは、振られてやんの。ノラ、ダサいで。にーちゃんはこっちのが好きやねんな?」
幼女がポテトを男の口元へ運んだ。
「いや、油分が多すぎんだよ」
男はやはり断った。
すると、男の両隣で、なにかが切れる音がする。
「いいから」
「文句言わんで」
女ってのは本当に不思議だ。一秒前までいがみ合っていても、なぜかときおり、息が合う。
「「食べ(なさい)(えや)!!」」
言葉とは裏腹な勢いは予想通り、男の顔面を殴打するだけだった。
*
ファーストフード店を出ると、男の体は軽くなっていた。
「にーちゃんってほんま、甲斐性なしやねんな」
「ええ、ハクは生まれつきああなのよ」
その女子二人はそれぞれ、掴む手を変えたらしい。
ところで最近、俺の扱いひどくねえか。男はこの数週間を反駁する。……うん。誰がどう見ても、これはひどい。あんまりだ。
女子二人が先行する姿を眺める。この国に来て初めてだな。そう思う。まあ、こいつらも慣れてきたってことか。纏わりつかれるよりはいい。そう、思――
「…………!?」
男はなぜか急に悪寒に見舞われた。背後――いや、周囲を警戒する。……不審なやつはいない。いるとしたら、急に立ち止まり周囲を警戒する自分くらいだ。男は思う。
「牙は抜けていないみたいだね」
耳元で、声がした。正面を向く。すれ違う。見知った金髪に、もう一度振り返る。
「…………」
だが、そいつはもういない。いや、本当にいたのかどうかもあやふやだ。
男はボルサリーノを深くかぶり直し、落ち着く。もしかしたら思っていた以上に、脅迫状を気にしていたのかもしれない。気のせいならいいが。
見ると、女子二人が揃って男を見ていた。目が合う。目を逸らされる。
次に歩き始めたとき、あれほど聞こえよがしに語られていた男への罵詈雑言は、ひそひそ声になっていた。
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嫌な視線を感じる。男はあれから、ずっと周囲を警戒していた。
だが、あいつの姿は、片鱗すら見つからない。
「おい、パララ」
男が呼びかけると、幼女はちらりと男を振り向いた。
それから正面に向き直る。「なんや、にーちゃん」と言ったのは、その後だ。
「おまえ、この場所――国に住みたいのか?」
男は言う。そもそも、最初から訝しんではいた。
たぶんこいつは、どこかへ行ければ、行き先はどこでもよかったのだ。ただ、あの国から出たかっただけ。
「べつに、どこでもええんよ」
幼女は言った。
やはり、そうか。男は自身の予想が当たり、歓喜した。それならそれで、一度移動したい。この国――周辺は、嫌な予感がする。そうでなくとも、知っている『異本』は回収済み。もうここに留まる理由は、幼女の住まい探し以外にないのだ。
「独りになるのが、嫌やねん」
幼女は言った。
その言葉は男の浅はかなプランを引き裂く。
だって、その感情は、男がいつか抱いた思いで、あの日の自分を救い上げる、きっかけだった。
同じだ。そう思う。
だが、それでも。幼女がこの先、独りになるにしても、仕方がないことだ。手を差し伸べたいとは思う。あの日の『先生』のように。だが、それはできない、とも思う。
あのころの『先生』と、いまの俺は違う。感情を度外視して、男はそう思った。
こいつはもっと、ちゃんと救われたっていいはずだ。
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