箱庭物語

晴羽照尊

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モスクワ編

101回目の決意

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 気を取り直して、構える――。
 メイドのその動作が――あるいは気構えが、あとコンマ数秒、遅れていたなら、今度こそ本当に首が飛んでいた。

「くっ――!!」

 半反射的に警棒で受ける。まっとうに受けられる破壊力ではないと、すでに理解していたから。それでも、銃弾を弾くほどの反動は覚悟しなければならないが。

 ゴキイィ――!! と、聞くだけで顔を顰めるような音を発しながらも、微塵も威力を落とさず、狂人の腕は警棒越しにメイドを圧す。その拳は、当然と折れているのだろう。人差し指、中指、薬指。それぞれの第二関節から第三関節の間に、もうひとつ逆向きに関節ができたようにへこんでしまっている。
 であるのに、表情すら歪ませず――いや、凄絶に殺意に歪ませて!!

「はっはあぁ! てンめえも大概だなあぁ!」

 すでに限界であったろうと高をくくっていたメイドだが、そんな期待など裏切り、狂人はその殺意を、さらに放出するように目を見開く。
 メイドの、ピリピリと感じていた肌のざわつきが、そこでさらに顕著に、電気が走るように粟立った。

 だから、メイドは警棒を握る手にさらなる力を込め、歯を噛み締め、全身を燃やすように気迫を纏う。体温が上がり、白い肌が赤く血走る。骨格すら、一部変貌するように、ごつごつと骨ばっていく。腰まで伸ばした黒髪がすべて天を衝くように持ち上がり、そうして現れる額には、徐々に、確かに、角のような突起が伸び始めた。

「るっせえぞ! クソガキがあぁっ!」

 警棒にて押し返し、それに連動するように強力な蹴りを放つ。それは見事に狂人の腹部へクリーンヒットし、鳩尾みぞおちを確実に抉った。その威力のまま、メイドは後方へ跳び、狂人と距離を取る。

        *

 はっ……はあぁ……。と、狂人は一度、過呼吸に身を震わせた。
 だから、ようやく本当に、彼が人体なのだと理解する。人の形をした悪魔ではないと、メイドは確信できた。

 神経叢を突かれた痛みはどうやら感じていないふうに見えるが、それでも、横隔膜の瞬間的な停止には抗えていない。つまり彼は、人間だ。
 決して、いかようにも打倒し得ない、悪魔などではない。

 ――ってえ、余裕そうに分析してようが、追い打ちをかけることもできねえほど追いつめられてる、って事実は変わらねえよ――

 メイドの心で、もう一人の人格が気怠そうに言った。

「いいえ、これでいいのです。メイドたるもの、いついかなるときも冷静さを欠いてはいけません」

 などと、強がりを言っておく。

 自分一人では、まず勝てない。それでも、ここで狂人を相手取り続ける意味はおおいにある。

 いくら痛みに強かろうが、痛みを感じない体質だろうが、身体機能は損なわれる。相手を人間と判断できればそこは確信していい。ならば、丁年や男へ引き継ぐまで、できる限りのダメージを与え、その後の動きを少しでも鈍らせる一助となればそれだけでも十分だ。

 そしてなにより、狂人が戦闘にというのがもっとも大きい。これだけの身体能力の差があるのだ。逃げようと思えば簡単に逃げられるはず。それでもこの場を退かないというのは、僥倖なことだった。

 よく考えれば、この日この場に、彼が訪れるというのも曖昧な情報だった。男としてはそのゆえに、確信に近い気持ちでいたのだろうが、メイドとしては訝しむべき内容だったのだ。
 だが、結果、こうして敵は眼前に現れた。長く裏の世界で生き残ってきた者である、身を隠そうと思えば、いくらでも手はあるだろう。そう思えば、いま、ここで、間違いなく仕留めるしかない。でなければ少女を救うことは、不可能とは言わないまでもまた遠く、容易に手の届かないところまで行ってしまうだろう。

 ここで逃がせば、次はいつ、どこで相対できるか解らないのだ。だから確実に、ここで、目的を達成するしかない。

 思って、メイドは、一冊の『異本』を取り出す。己が全身全霊を以て、この場を次へ、引き継ごうと。

        *

 狂人は、ぼやける視界に、その光を捉えた。

 適応者としての『異本』の輝きだ。

 EBNAで首席を取るほどのメイドであり、かつ、『異本』に適応した。それは、ともすれば、自分が現在『対象』としているうちのひとり、EBNAの最高傑作、『神』とも呼ばれるムウよりも、潜在的な悪性・・を持った存在かもしれない。

 そう、狂人は判断した。

 だから――。

        *

 ダークパープルの装丁、『ジャムラ呪術書』を最大効力で発動。『存在の消滅』を駆使した、人間の視覚の隙に潜り込むような移動法。だがこれは、相手の思考や癖を利用して、その心理の裏をついてこそ効果が強く発揮される。あの狂人相手ではそう簡単に効果が期待できるものではないだろう。

 だからこそ、決して過信せず、慎重に近付く。自身の中にいるアルミラージの力をも最大に引き上げ、身体機能を極限まで酷使し、人間の速度を越えて、駆ける。
 そうして翻弄し、完全に狂人の背後――死角から、攻撃。『ジャムラ』による腐敗進行。その効力も最大に発揮して、どこか――腕や足の一本でも、使えなくなるまで腐り落とす!

「やンよ。……腕の一本でいいならなぁ……」

 攻撃の段になっても、決して声を上げたりせず、隠密に仕掛けたメイドへ、狂人はその意図を完全に読み切ったように、腕を向けた。

 だから、メイドは瞬間、ピクリと体を震わす。咄嗟の反射神経で引こうとする体を無理矢理押さえつけて、攻撃を続行。大丈夫だ。恐怖など、もう、ない。
 腕を向けると同時に、背後を――メイドへと振り向く狂人。その傷だらけの表情が露わになる度に、メイドは、後悔に近い感情を強くした。

 恐怖などないと思えば思うほど、実感する。人間の感情には、抗う術などない。それは、きっとメイドが誰よりも感じていたこと。
 生まれたときから感情を殺す教育のもとに生きてきて、それを当然と受け入れてきた。それでも、何度も迷い、何度も苦しみ、何度も求めて――諦めてきた。それが日常生活に影響を及ぼさないようにするのは容易かった。それでも、それが身体機能を劣化させることを防ぐことはできない。必ず一分の隙を生むことになる。

「『死ね』」

 狂人は言った。

 その安い言葉は、それを確実に実行できる人間の口から発せられると、どうしてこうも、力があるのだろうか。メイドは恐怖し、竦み、意図せずその、『異本』を持った手を――狂人へ向けたその拳を、止めてしまう。

 それでも無慈悲に、狂人の腕は動きを和らげず、完全なる破壊力を以て、メイドの眼前に迫っていた。

        *

 いつまで……。メイドは歯噛みする。

 恐怖するのは仕方がない。それが人間としての本能だとするならなおのこと。メイドはもう、EBNA出身の特別な道具メイドなどではない。ただの一介の――氷守こおりもりはくという一個人へ仕える、普通の家族メイドなのだから。
 それでも、その主人のためであるなら、命などとうに捨てている。いや、捨ててはいけない。主人のために、成し得る限りの懸命で生きて、命を賭して成果を出す。そして醜く這いつくばろうと、主人の許可がない限り死ぬわけにはいかない。

 それは、ただ道具として使役されるよりよほど難しく、本物の覚悟が必要になる。

 ギリリ……。と、メイドは、止まってしまった腕が、悲鳴を上げている音を聞いた。恐怖に慄きながらも、覚悟を決め、懸命に進もうとする、意思を。
 握る『ジャムラ呪術書』へ、さらなる力を込める。そこへ、いま自分の内から込み上げるすべての感情をぶつける。
 敵へ向けた腕を止めてしまった。だから、先に相手へ到達するのは、狂人の腕だろう。だからなんだ? 遅れようと、怯もうと、怖気付こうと、ここはこの一撃を、間違いなくぶつける!

わたくしは――」

 狂人の、傷だらけに歪んだ表情を直視する。

「死にませんっ!!」

 そんな表明は、なんの力もない。ただの強がりで、ただの、虚勢だ。きっと相手はそんな言葉など、歯牙にもかけないだろう。

 だが、自分自身は騙せる。

 その言葉が打ち砕かれるまで――メイドよりよほど先んじて、狂人の拳がメイドを打ち抜くまで、あと、一秒。


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