箱庭物語

晴羽照尊

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モスクワ編

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『異本』。『災害シリーズ』、全七冊中、最強の一冊。『啓筆けいひつ』、序列十六位、『白茫はくぼう』。『光』を操る『異本』。

 人間の神経伝達速度は、最速でも1秒当たり120メートルだとされている。目で見たもの。耳で聞いたもの。肌で触れたもの。その映像や、音、触れたものの感触や形質などの認識。実際に受容体に届いてから、脳へ、それら情報を伝える。その速度が毎秒120メートル、というわけだ。

 この速度は人間の実生活から勘案すると、とてつもないスピードに感じる。たとえば、時速40キロメートルで走行する車の秒速は、約10メートル。実用されている新幹線ですら、時速320キロメートル程度。つまり、秒速にして90メートルほどだ。種々の感覚神経により速度は異なるものの、人間の神経伝達速度は新幹線の最高速度程度か、それ以上を持つこととなる。

 などという話はせいぜい、どんぐりの背比べだ。この世には、さらに速い物質が数多に存在する。そして、その最上位こそが、『光』だ。

 その速さ、なんと秒速30万キロメートル。単純計算で、神経伝達速度の300万倍。地球から太陽まで走ったとして、約8秒。月までなら2秒もかからない。俗な表現を用いるなら、1秒で地球を7周半回ることができる速度。まさに規格外だ。

 それすなわち、どれだけ素早く感覚情報をできようが、光の速度――光速を前にしては、まずもって情報が脳に到達する以前に、ということ。

 この『白茫』も、それだけの力を持った一冊だ。『異本』におけるシリーズものは、同一シリーズを多く扱った経験があるほどに、いまだ未使用の一冊にも適性・適応しやすい。とはいえ、さすがの狂人、ネロ・ベオリオント・カッツェンタといえど、『啓筆』にも名を連ねるこの『白茫』に適応はできなかった。それでも、もちろん適性のみで力は十二分。

 彼は、光を注がせた。日の暮れたモスクワの街に、数多の、高密度の、光を――光線を。

 太陽光を例に出すまでもなく、光にはエネルギーがある。光とは、波であり粒子だ。その粒子――光子ひとつひとつは、あまりに微小。人体に衝突しようが、我々はなにをも感じないだろう。しかし、それらが無限に寄り集まれば、とてつもないエネルギーの塊ともなる。波としての性質、波動性を鑑みればなお解りよい。複数の波動の合成は、単純な加算式だ。波の山と山、谷と谷を重ねることで、それぞれの山と谷は強調される。すなわち、振幅の増加。そして、波のエネルギーは振幅の自乗に比例するという性質がある。

 とか、物理学的な話はさておき、ともあれ、光はエネルギーを持ち、それらを大量に束ねることで人体に甚大な破壊をもたらすほどの強度にも増幅可能、ということだ。

 そして、それが、光の速さで降り注ぐ。人間などでは感知すらできない超高速で。秒速、30万キロメートルで。

        *

 だが、逆に考えてみよう。

 人体を滅殺すらしうるエネルギーが、この形而下における最高速度で――感知すらできないまでの速度で、四方八方、隙間なく殺意をもって襲いかかってくる。

 地球を、1秒で7周半する速度で。

 逆に言えば、地球を7周半するのに1秒かかる程度の速度で。

 ――――――――

 光は――甚大なエネルギーは、彼らを襲う直前で、止まった。

「ふう……ふうう……」

 とにかく、息を整える。集中する。

 その力は、決して生半な集中力で、長時間扱える代物ではない。大袈裟に言えば、寿命すら縮めてまで扱うものだ。

 現状、EBNAにおいて最強の極玉きょくぎょく、時の神『クロノス』の力。

「かん――」

 間一髪、ッス。

 そんな言葉を吐く暇もない。よくやったッス、。そう思い、丁年は集中する。幼女がそう長くその力を扱えないことは聞き及んでいた。だから、時間がない。よく狙い、確実に撃ち抜く。

 安堵か、恐怖か、決意か、緊張か。全身が痺れるような震えの中、時が止まった狂人へ、丁年は、引金を、引く。

 ――――――――

『異本』の力を発動するには、基本的に条件がある。単純だ。それは、以下のふたつ。

 ひとつ。扱う『異本』に素肌で触れていること。

 ふたつ。『異本』を扱うことを意識すること。

 もちろんこれは基本条項であり、必須とは限らない。たとえば『ジャムラ呪術書』の腐敗をばらまく力や、本が閉じられている限り発動する認識操作――『存在の消滅』などは、これらふたつのどちらも必要としない、常時発動型の性能だ。

 だが、前述の通り、基本的にはこのふたつの条件が必須。つまり、いくら光の速度が速くとも、彼がその光を生み出すまでには、『異本』――『白茫』に触れ、それを認識し、それから能力を発動することを意識しなければならない。

 指先の感触が、脳に届くまで、秒速120メートルの神経伝達。あるいは、思考の速度。能力を発動するにしろ、例えば光をどの方向からいかなる強度で発生させるか、という思考。そこには少なくとも、コンマ数秒の時間はかかるだろう。

 その隙に、丁年はいち早く、自身の『異本』を発動。『神々の銀翼と青銅の光』による、瞬間移動。丁年がこの戦闘に参加する前に打ち合わせておいた、幼女の参戦。

「目を閉じて、手を前に。とにかく指先の感覚に集中し続ける……できるか?」

 丁年は幼女に問う。幼女は言われた通りの姿勢で集中し、やがて頷いた。

「なにかを考える必要はない。必要なときに必要な場所へ、俺が飛ばす。だから、その手がなにかを掴んだら、即座に力を使ってほしい。あとは、できる限りに長く」

 丁年にとっても時間は多くない。だから、簡潔な指示。それで対応できなければ、どちらにしても戦力にはならないだろう。

 ややあって、幼女は頷いた。「だいじょうぶ。できるよ」。瞼を落とすと、やけに大人びて見える、不思議な表情だった。

 だから、丁年は信頼する。決して実用的と断定はできないが、いざというときには頼ってみてもいい藁程度にはなるだろう。と。
 腐ってもEBNAのメイドだ、年相応よりはよほど精神力も集中力もあるはずだ。と。

 そしてそれは今回、パーティー全滅の300万分の1秒ほど直前に、彼らを救った。

 狂人の時を完全に制止し、静止させた。その意識すら止めた。『白茫』により光を振り落とそうとする、意識をも。

 ――――――――

 丁年が今回用意した弾丸は、麻酔銃である。確実に少女を氷牢から救う手段は、『凝葬ぎょうそう』の発動者である狂人自身に、その解除をさせる必要があったから。可能な限りに狂人は殺せない。だから、殺傷力の低い弾丸に特製の麻酔薬を仕込んでいる。

 とはいえ、市販のものと同様、対人使用において即効性のある麻酔銃とは、おせじにも言いきれない。だから、ほんの一瞬、迷った。

 撃つべきは彼自身か、あるいは『白茫』を撃ち、彼の手から払い落とすのか。しかし、時間がないという意識ゆえに、彼は結局、ほぼ反射的に――言ってしまえば適当に、撃った。
 そのうえ、狂人自身が光を纏い、かなり視認しづらい。あまりの光量に、瞬間、姿を消したとさえ錯覚させるほどだったのだ。どちらにしたところである程度は勘や経験で撃つしかしようがなかったのだろう。

 かくしてその弾丸は、狂人の左胸を射抜いた。しかし、衣服に邪魔された。一般的な銃弾ならともかく、麻酔銃はその構造上、衣服などで容易に、その機能を果たせなくなることもある。と、そう具体的に考えたわけではないが、丁年は、銃弾を放ってから即座に、駆けた。

 今度こそ、『白茫』を払い落とす。いや、奪い取る。

 そもそも即効性のない麻酔銃だ、即座に意識を失わせられはしない。どちらにしたところで『白茫』への対処は必要となる。よもやそれが『光』を操る超強力な一冊だとまでは、丁年は知識を持ち合わせていなかったが、日も暮れた夜空が、真昼よりもよほど煌々と、爛々と輝いている。その尋常でなさに、は走った。

 は。

「うおおおおおおおぉぉぉぉ――――!!」

 拳銃を用い、発砲していた丁年だからこそ、わずかに遅れた。そして、その『異本』、『白茫』を知っていた男だからこそ、わずかに先んじた。

「ネロおおおおぉぉぉぉ――――!!」

 光の力が迫っている。当然と、光よりも速く動けるはずもないが、それでも可能な限りに速く。光からすら逃れるつもりで。

 男はまだ、幼女が狂人をことには気付いていない。ただただ、『白茫』の危険性と、狂人にできたわずかな隙に付け入っただけである。

 繰り返すが、麻酔銃は命中した。しかし、即効性はない。狂人にはいまだ、意識がある。

 そもそも時が止まっているのだ。麻酔も体を巡ったりしない。幼女の力があとどれだけ保つか、その間に、彼らが間に合うか。それがこの戦闘の、瀬戸際である。
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