箱庭物語

晴羽照尊

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幕間(2027-1-2)

彼女はいつも通り『普通に』笑った。

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 2027年、一月。フランス、パリ。

 WBO最重要施設、『世界樹』。『司書長室』。

「――それじゃあ次は、1から15までの整理ね。フロア1から3をお願いします。カナタ、お昼までに終わる?」

「余裕を見ても、90分もあれば十分です」

「滅多なことはないですけど、滅多なことがあった場合の対処法も指導してほしいから、じっくりやって構わないです。こちらもそれなりに時間がかかりますし」

「かしこまりました」

「じゃあ、……少し休憩して、20分後から始めましょうか」

 司書長は、備え付けの時計を見上げて、そう、言った。だから麗人は、隣にある給仕スペースに向かう。そこで紅茶の準備をしていた、淑女を呼びに。

「休憩だって、お願い、ルシア」

「は、はいっ!」

 危なげに、トレーに乗せたティーセットをカタカタと鳴らしながら、淑女はそれを運ぶ。見ていてハラハラする絵面だったが、さすがに粗相をすることもなく、それを司書長の元へ置いた。

「ありがちょ、カニャ――」

 資料に目を通しながら、ティーカップに手を伸ばし、つい口が滑った司書長は瞬間、固まり、新人の女性に目を向けた。

「ありがとうございます。ルシアさん」

 上品に笑って見せる。……その、つもりだった。実際は、その相手より十は年上にしては、あまりに幼い――というより、だらしない口元をした表情となってしまっていたが。
 出された紅茶を一口――上品に――啜り、カップを置いた。

「あなたも休んでおいて。次の仕事は、肉体労働ですから」

「は、はひっ!」

 語尾が裏返る。単に人見知りという要因が強いのだけれど、それ以外にも、上品に飲んでいたはずの紅茶が口元からだらしなく垂れて、資料にまで滴っていることに追求すべきか、ちょっと悩んだ結果だった。ときおり言葉遣いがおかしいが、きびきびと指示を出し、どこか余裕のない上司に、肩肘が張ってしまうという緊張感にもまだ慣れない。仲のいい、家族同然の麗人からの引き継ぎだ。彼女からは、忙しいけど人間関係は働きやすい環境だと言われていたが、どうにも気難しそうな上司という印象しか、ここまででは感じられなかった。

「……ゾーイ。また紅茶垂れてる。資料にも。まったく……」

 言いながら、麗人が彼女の口元と資料を拭う。いつもと違ってしっかり着込んだ、胸部のサイズが怪しいスーツの、襟元もついでに、簡単に正して。

「はにゃ!? これは私としたことが! これはいったい、なにするものぞ! ぞ!?」

 なにが正しい言葉遣いか、ちょっと解らなくなってきた司書長だった。実は語学には堪能な司書長である。ゆえに、他のスタッフたちとは、各々の母国語等に合わせて話したりするのだが、さすがにときおり、変な言葉遣いが混じってしまっていた。

 ましてや、普段こんなに丁寧な言葉遣いをしないから、なおさらである。

「……あのさ、ゾーイ。あんまり無理しないでいいと思うけど。なんか変だよ、今日」

 いや、いつもの方がよっぽど変ではあるのだけれど。そう、麗人は自らに突っ込んだ。しかし、『変』がニュートラルな司書長なのだから、『普通』にしようとしている時点で『変』なのだ。

「いやいや、これこそが普段の私なのでござるよ。……ござる!?」

「どうなりたいの。そんな無理しても、続くわけないでしょ。それに、ルシアも緊張する方だから、上司のあなたが、もっとラフな方がやりやすいと思うけどなあ?」

「ふぬぬ……?」

 顔を顰めて、ぐしゃぐしゃと歪めて、司書長はわずかに思案する。しかし、タガが外れたのだろう。ばっと立ち上がり――その勢いでティーセットは壊滅、デスクチェアーを押し退け、それがそばにあった棚を揺らせば、その上に飾られていた写真立てが落下、破損した――ボタンを引き千切らん勢いでスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。投げ捨てたそれは掛け時計を巻き込み、そばにあった本棚に激突。収められていた資料が散乱する。かくして瞬間で司書長室は、二重三重にとっ散らかってしまったのである。

「うみゃー、カニャタン、ボタンとれにゃいー」

 おそらく胸部の脂肪のせいで腹部付近は自ら見下ろせないのだろう。シャツのボタンを探しながら覚束ない手つきでいじりつつ、麗人へ上目を向けた。
 しかし、彼女の言葉通りにいつも通りを再開した司書長であるのに、件の助言をくれた麗人は静かに、目を細めている。

「誰が散らかせっつったか!」

 散乱した資料を空中で掴まえ、丸め、司書長の、犬耳のような癖がついたオレンジのミディアムヘアに、叩き込んだ。

「ふぎゃ!」

 大袈裟なほどにすってんころりんとどこかへ転がる彼女は、なにか不思議な力でさらに、部屋を散らかしたのだった。

        *

 その夜。『世界樹』近くに借りている麗人の、仕事用賃貸マンションにて。

「まあ、ああいう人だから。司書という肩書でも私の役割は、むしろ秘書だね。秘書というか家政婦――いやむしろ保母さん?」

 きりっと着こなしたスーツを脱ぎながら、麗人は言った。苦笑しながらも、それを楽しんですらいそうな雰囲気で。

「カナタ……」

 だから、淑女も言わずにはいられない。恨みはあっても、交友だってあるのだから。と。

「報復なんて、やめなよ」

 手際よく着替えを続ける麗人に、彼女から借りた、似たデザインのスーツをまだ、着込んだまま、淑女は言う。「んん~」。困ったように――いや事実、困ったのだろう、麗人はボタンを外す手を止め、俯く。

「いっこ、ちゃんと教えてよ、カナタ。ジンさんを――お父さんを殺害した相手を、あなたたちは殺す……って、そういうことなんだよね?」

「そうだね」

 止めていた手を再開。まるでいつもと変わらないのだと、まるっきり平静であるのだと言わんばかりに、いつも通りの口調で、麗人は答えた。

「不当に、理不尽に、殺されたってのは解るよ。その感情を、責めることはできない。……でも、同じように暴力で報復したら、カナタたちまで同じになっちゃう」

 警察に任せて逮捕してもらって、裁判にて適正に罰してもらうべきだ。そういうことを続けて、淑女は語った。

 もう一度、麗人は手を止める。衣擦れの音とともに、脱ぎかけていたシャツが落ちて、彼女は下着だけの姿になった。

「WBO最高責任者、リュウヨウユェって知ってる?」

 薄暗い部屋から、明るいリビングに立つ淑女を見て、麗人は問う。

「そりゃ、まあ。いちおう一通りの情報は、ノラねえから聞いてるけど……」

 どの程度の知識を求められているか解らず、それだけを答える。それ以上の――WBOに所属しているからこそ知れるような知識などを求められているなら、淑女にはまだ、及ばぬ領域だ。

 これから報復のために動く麗人の代わりに、彼女の仕事をこなす予定の淑女には、まだ。

「内側から見ても――といっても、直接会ったことはないけど――まあ、悪人ではないよ。だけど、WBOという組織自体には、強い愛着を持ってる。もともと資産家でね、本人は特別に政治的な権力を持ってた経歴はないけど、そういうコネは多くある。今回の、『お父さん』の殺害に関しても、警察も司法も、強く動かないんだよ」

「そんな……人を殺しておいても、おとがめなしってこと?」

「普通の人なら、社会との関わりがあるから、そうそう隠し通せないだろうけどね。家族も友人も、黙っちゃいないだろうし。でも、『お父さん』は世間と隔絶して生きていたから、隠蔽もしやすい。唯一の家族である私たちでさえ、戸籍上は他人なんだよ。そんな私たちが騒ぎ立てようと、もみ消されるだけ」

「それでも、……そうだ、ノラねえなら、なんとか――」

「ノラがそう言ったの。氷漬けの状態から復活して、すぐ電話がきた。ノラは確かに万能にも見えるけれど、社会的な地位はない。そのうえ、汚い手回しなんてできないからね。……ルシア。正しい方法だけじゃ、正しいことはできないんだよ」

 答え淀んで淑女が黙ると、麗人は困ったように笑って、また動き出す。日常という生活を、再開する。

「ノラにはまだ――というか終わるまで、言う気はない。とはいえ、たぶんばれちゃってるけど。それでもなにも言ってこないのは、きっと、容認してくれてるんだと思う。……それに、シュウはともかく、ハルカは止まらないよ。本当は一番、『家族』を大事に思ってるのは、ハルカなんだから」

 お風呂入るね。バスタオルと着替えを持って、麗人は暗い部屋からリビングへ出た。そこに立つ淑女の肩を一度叩いて、バスルームへ向かう。
 ぱたん。という音が聞こえて、淑女は肩を降ろした。肩を上げて、緊張していたんだ、と、気付く。

「にぃに……」

 その人のことを、思う。紳士のことを。
 少女と、形だけであろうとも婚姻して、その、憧れと同義でしかないはずの淡い恋愛感情は捨てた気でいたが、いまでも、自らの手で負えないことには、彼を頼りたくなる。そう、まさしく、兄のように慕って、手を伸ばしてしまう。

「なにしてるの? ……助けてよ」

 伸ばした手は、空を切る。その手を掴まなければならないはずの者は、もうずっと、舞台の隅で溺れたままだ。


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