箱庭物語

晴羽照尊

文字の大きさ
202 / 385
コルカタ編 序章

ホートスコピーの失言

しおりを挟む
 紳士は、えずきながら部屋の隅に行ってしまった。まだ、連れ帰るには体調が回復しきっていないようである。
 それに、逃げてはいけない、気がした。この存在から――女神さまから、逃げてはいけない。その理由も、いまの少女には解らないのだが、しかし、きっと自らの慧眼が通用するなら、ちゃんとした理由があるはずだと、なぜだか確信できた。

 そもそも聞き捨てならないワードが飛び出しているのだ。

「どういうこと? 『シェヘラザード』が、あなたの頭の中に……?」

 狼狽する。しかし、あり得ない話ではない。少なくとも少女が、自分自身の頭に残っているその物語を語り聞かせることで、この地で出会ったひとりの男の子――いまとなっては白雷はくらいクロと名付けられた彼は、部分的にであれその力を行使できている。決して自分だけが特別なのではない。『異本』は、それに適応した者に、分け隔てなく超常の力を授けるものだ。
 とはいえ、いったいいつ、どこで『シェヘラザード』を女神さまが『目にした』のかは疑問だった。いつどこで、その内容を頭の中に収めたのか……。

「そうだよ。ノラ・ヴィートエントゥーセン。君と同じだ。僕の頭の中に、『シェヘラザードの遺言』、『シェヘラザードの歌』。この二冊が明瞭と記録されている。身体強化系としては高水準の性能を持った『遺言』。そして外部干渉系の一冊、『歌』。僕は過去に、この二冊に適応し、双方共を手放してもなお、記憶されたそれらを『異本』として用いられる。……これは、『遺言』の力だね。身体強化による完全な記憶能力。それが物質として存在する『異本』を完全な形で『記憶』として転写し、ある種のコピーを脳内に作り上げた。……その程度のことは君にも解っているだろうが、『遺言』がそれそのものを失っても効力を発揮し続けているのは、そういう理由だね」

 メカニズムについては、本当に言われるまでもない。当然と少女も理解している。だが問題は、彼女がどこでそれを『見たか』。その一点だ。

 確かに、『シェヘラザードの遺言』は元来、少女の手元にあったわけではない。いや、少なくとも少女の『記憶』という観点で言えば、『元来』――少女が生まれる以前から少女が幼少期を生活することとなった家にあったことは確かだ。それでも、それが書かれたのは決して少女と関わりのあるどこかではないし、つまるところがある一定の人間の手を渡って、最終的に少女の手に収まった、という経緯はある。だから、その経緯のどこかで、他の誰かが少女と同じように力に目覚めた、ということは、決してあり得ない話ではない。

 特に、少女が『遺言』の力に目覚めたのは、どうやらあの、死の間際だった。男と出会ったロングイェールビーン。しかも、その『異本』が焼失した、それよりもに、だ。

 女神さまの言う通り、、『遺言』を脳内に転写するという行為は、先に『遺言』の能力に目覚め、身体強化により記憶力を向上させることでようやく可能になる。
 しかし、少女に関しては特異だった。少女は『遺言』の能力に目覚めるに、何千回も、もしかしたら何万回も読み耽り、その過程で完全な記憶をしてしまっていた。それが、先なのである。そして能力に目覚めたのが、先述の通り『異本』焼失後、なのだ。

 だからこそ、少女は身体強化による、飛び抜けた洞察眼を『シェヘラザードの遺言』という一冊の『異本』に対して。いや、それが失われたいまでも、ある程度の洞察を行うことは可能だ。しかし、それでも実際に実物を見るか否かでは、洞察の深さが段違いである。だからこそ、『遺言』に関して言えば、少女はその出自を、完全に遡ることができないのだ。

 それは、杞憂ではあるけれど、十分に警戒していた事態だった。少女は、自分の、人間離れした強さ、賢さ、洞察眼に、自ら怖れを抱いているほどだったから。もしもこのさき、自分と同じ『シェヘラザード』に適応した者が現れたら、そしてその者が敵だったら、どれだけの苦戦を強いられるか、と。

 そしてその事態が、とうとう現実になってしまった。現状は、そういうことである。

「ああ、そんなに警戒しなくていいよ。少なくとも現状、この世界に『シェヘラザード』を、わずかでも頭に残しているのは、君と、せいぜい白雷クロくんくらいだ。他には誰もいない。僕が保障しよう」

 あっけらかんと、女神さまは言う。少女と違って、その力を――『遺言』を用いた完全な洞察眼にて、その『異本』の実物を見たはずの彼女の言だ、それは間違いなく、正しいのだろう。もちろん、それが嘘でないとは言い切れないのだが。

「まあ、立ち話もなんだ。……どうせヤフユが回復するまで待つ気だろう? 座らないかい?」

「座るって……どこに?」

 見渡す。この部屋は、簡素だ。あるのはキングサイズの豪奢なベッドくらいしかない。しかし、ずっと女神さまと紳士がいちゃついていただろうそんなところに腰を落ち着ける気は、少女にはなかった。

「用意しよう。……下僕くん」

 女神さまは可哀そうな呼び方で、男性に声をかけた。下僕くんは、黙って頷く。

        *

 なんだろう。『シェヘラザードの遺言』をその頭に収めて、『本の虫シミ』の信仰対象ともされる重要な女神さまなのだから、なんらかの超常の力でその用意をするのかと身構えていたが、普通に下僕と呼ばれた可哀そうな男が、どこか別の部屋から、テーブルと椅子を抱えて戻ってきた。

「ありがとう。下僕くん」

 女神さまはたいして心もこもっていなさそうな礼を述べ、先んじて腰かけてしまった。

「…………」

 なんらかの罠ではあるまいか。そんなことを考えつつ、少女はなんの気なしに下僕と呼ばれた彼を見る。……目が合った。

「あなた、彼女の下僕なの?」

「……まあ、そうだな」

 少女の耳には初めて、彼の声が響いた。それは、なんだか知っているような声色だった。

「……そう」

「下僕くん。お茶もお願い」

 少女が、自分や女神さまより、一回りは年上らしい下僕に憐れむような目を向けていると、さらに女神さまが追い打ちをかけた。下僕は軽く嘆息して、そのまま黙って行ってしまった。

「さあ、座りなよ。ノラ」

 どこか楽しそうに、女神さまは言った。

「言っておくけれど、わたしはあなたと仲良くなった気はないわよ」

 確かに、言葉を交わす気はあった。まだ、聞きたいことは残っている。……その真偽を判別はできなくとも、聞いておいて損はないだろう。そう、少女は考えた。
 それでも、少しだけまだ間を溜めて、警戒を態度で示しておいた。腕を組み、女神さまを見下ろす。

「僕もそのつもりだよ、ノラ。僕は世界中にいるみんなを愛しているけれど、君だけは別だ」

「あら、それはヤフユの妻だから?」

 少女は鼻で笑うように、少しだけ態度を軟化させた。もしそうだとしたら、女神さまもたいしたことはない。ただの少女だ。そう、認識を改めるところだった。

「もちろんそれもある」

 女神さまは、そんなことはたいしたことでもない、とでも言うように、適当な語調で肯定した。
 それから、上目で少女を見上げ、少しだけ言い淀む。言うべきか、迷っているような表情だった。それから一度、長いまばたきのように目を閉じて、細く、開き直す。

「君には、遠慮する必要がない。それだけだね」

 どうやら、具体的な言についてははぐらかしたようだ。少女はそう、判断する。ようやっと一般的な対人関係に慣れてきた。あるいは、女神さまが感情を表に出してきたのかもしれない。

「それは好都合ね。わたしだって、まだ怒ってるんだから。あなたに遠慮する気はないわ」

 言って、ようやっと、少女は席についた。

 そのタイミングを見計らってか、そっと、ティーセットが置かれる。また、この部屋以外のどこかから持って来たようだが、それに関しては女神さまと呼ばれる者の所持品らしい、高級そうな一品だった。
 だが、そのティーポットを片手で、なおざりで適当に扱い、女神さまと少女に、それぞれ下僕が注ぐ。

「さて、ようやく舞台は整ったか……」

 女神さまは、両目を閉じ、一拍、間を空けた。

        *

。ノラ」

 言葉とは裏腹に、悠長にティーカップを持ち上げて、まるで天気の話でもするような気軽さで、女神さまは、言った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

マンションのオーナーは十六歳の不思議な青年 〜マンションの特別室は何故か女性で埋まってしまう〜

美鈴
ファンタジー
ホットランキング上位ありがとうございます😊  ストーカーの被害に遭うアイドル歌羽根天音。彼女は警察に真っ先に相談する事にしたのだが…結果を言えば解決には至っていない。途方にくれる天音。久しぶりに会った親友の美樹子に「──なんかあった?」と、聞かれてその件を伝える事に…。すると彼女から「なんでもっと早く言ってくれなかったの!?」と、そんな言葉とともに彼女は誰かに電話を掛け始め… ※カクヨム様にも投稿しています ※イラストはAIイラストを使用しています

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

処理中です...