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コルカタ編 本章
性善説の代償
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不思議なことに、それだけの轟雷であったにもかかわらず、その被害は、妖怪ひとりに集中していた。彼を押さえ付けていた悪人顔や優男、そして大男へのダメージは、どうやら、ない。
「上出来や! カイラギぃ!」
ようやっと床に着地し、女傑は叫んだ。着地点は、化物たちのただ中。ゆえに、気を抜くことなくいくらかの敵をいなしながら。
どうやら、大男の持つ『異本』、『白鬼夜行 黒手之書』で、女傑の電撃をコントロールしていたようだ。それにより、女傑の電撃は妖怪のみに集約し、周囲への被害はなかった、ということらしい。
「じゅうぶんよ! いったん下がりましょう!」
少女は言った。「カイラギさん!」と、続けて叫ぶ。
「心得ている」
言われるが早いか、大男はその、両拳に挟んだ黒焦げのそれを部屋の隅にまで投げ飛ばした。
まだ、動かない。が、まだ、死んでいない。そう、少女は判断する。真っ黒に焦げ付き、ひび割れたそれらは爛れ、壊死し、煙を吐いている。それでも、まだ、死んでいない。
そして、見たところ動かないが、動けないわけではない。と、そうも、理解する。確かにここまで傷を負わせた現状、追い打ちのチャンスとも言えたが、それもそれで危険に思えた。窮地に追い込まれるほど、人は強くなる。それに、彼の使役する化物たちへ対処し続けるにも、限界が近かった。
特に、九尾。あの大狐だけは、やはり、別格だ。大狐の能力のひとつ、容易に生物を死滅させ得る、強力な幻術が危険すぎるのである。自身の脳にアクセスして、内側から幻術を無効化できる少女や女傑ならともかく、普通の人間がそれを喰らえば、瞬間でやられるだろう。だから、あまり九尾のいる間に、悪人顔や優男をいさせるのはリスクが強かったのだ。もしかしたら大男ほど身体的に強靭であれば、無意識に、幻術を脳内で打ち消すことをやってのけるかもしれないけれど。
「先、行くで」
少女の宣言に、女傑は言った。最後に一撃、周囲に感電の力をばらまき、肉体を持つ化物たちをいくらか痺れさせてから。
「ええ、わたしも、すぐ行く」
さすがの少女も疲労があった。身体強化により、スタミナという点では際限がない。しかし、やはり、精神的な摩耗はある。それは肉体的疲労と比べて、ただ単純に休息で必ずしも回復できるものではなかったけれど、それでも、少しでも戦闘から離れれば、わずかであれど回復できるだろう。
廊下に近かった大男。そして悪人顔や優男は先に行き、女傑がその後を、電気のような速度で追って行った。だから少女も、最後に、肉体がなかったせいで女傑の電撃を免れた餓者髑髏たちを、特別に力強く薙ぎ払い、引くことにした――。
*
「いかせねえよ」
頬が少し切れてから、少女は、その声を聞いた。ほんの少し、もう、気を抜いていた。と、気付く。気付いて、切れた頬を拭い、傷を塞いだ。
「……思ったより速いわね。肉体再生」
見えない鎌を掲げた妖怪を見て、少女は苦い顔をする。
「言うまでもねえ。おれの自己治癒強化はそこそこだ。が、もし自身の成長を促進できたなら、そのぶん回復も早まらあな」
つまり、自己治癒力を最大発揮しながら、自らの年齢を上げたのだ。と、理解する。それは、『成長』しかできず、『退行』ができない彼には、苦渋の決断だったのだろう。
確かに、少女の逃げ道を塞いで、廊下の前に立つ妖怪は、さきほどよりも少し、老いていた。とはいっても、身体年齢として……四十の少し前くらいだろうか? さきほどまでの姿が、三十前後だったことから、十年弱ほどの成長を要したようだ。が、その甲斐あってか、どうやらさきほどのダメージは全快している。
「少し休憩させてよ。おじいちゃん」
「おまえさんにゃ知れているはずだがね。おれはこう見えて、まだ生まれてから六十年も経ってねえ。『おじいちゃん』ってのは、少なくともこの姿のおれには、少々堪える言い方だよ」
元の――『カルガラの骨本』で還される以前の姿は、どう見ても七十~八十代といったところだった。が、やはりそれも、『滑瓢』で何度か成長したゆえのものだったのである。
「ね。やめない? こういうの」
わらわらと、背後にじっとりと迫りくる化物たちを感じて、少女は、疲れた笑みを浮かべてみた。正直、このまま戦闘が続行されるのは本当に、望むところではない。
「二度もおれをコケにしやがって。あいつだけは許せねえんだ。リュウ・ヨウユェ」
それも、少女は慧眼によって、理解していた。齢六十ごろというなら、噂に聞くWBO最高責任者、リュウ・ヨウユェとは同世代ごろだろう。そんなことも相まって、ふたりには因縁があった。かつてひとりの女性を巡り諍い、そして最近、WBOに拘束されていたときに、悪事を諌められたようだ。「おまえに言われたくはねえ!」、という、激昂。そのシーンが、やけに印象的に、少女のイメージに流れ込んでくる。
だから、きっと誰しもがいくらかは持っているはずの良心に訴えかけるのは、激情を呼び起こすだけの結果にしかならないだろう。そう、少女は思う。つまり、妖怪はもう、止まらない。
だったら――。
「復讐なんて、なにも生まないのよ」
おそらく、リュウ・ヨウユェ――かの壮年も、そのような語彙を使ったのだ。それをあえて用いて、精神的に揺さぶる。焃淼語を構えて、不敵に笑って見せた。
化物たちが、もう、背筋を撫でるほどの背後に、蠢いている。でも、タイミングは、ぴったり。
「力ずくでも、押し通るわ!」
そのタイミングに合わせて、こちらに気を向かせるように叫び、隙を――。
「甘え……!」
少女の思惑を裏切り、妖怪の背後から迫った機械生命体は、一撃で、吹き飛んだ。だから、精神的に隙ができてしまったのは、少女の方――!
「『ぬりかべ』。〝連重〟」
「しまっ――!!」
超重圧に、少女の言葉は止まる。幾重にもかぶさる、ぬりかべ。気が動転していなければ、そして、わずかに動きを阻害する、服に引っかかった餓者髑髏の骨がなければ、なんとか躱せたかもしれない。
が、結果として、少女は十数のぬりかべに覆いかぶさられ、死にはせずとも、拘束されてしまった。
いくら人体を限界まで成し上げたとしても、動かせない、超重量の下に。
*
「は……はぁっ――!!」
呼吸が、苦しかった。
即死はしていない。だからこそ、苦しい。
どうやら、体中をずっと、常に、油断なく押し潰され続けていた。肉体再生。全身の臓器を逐一回復させて、なんとかギリギリ、呼吸を行える。だが、肺も、何度再生してもすぐに潰され、ままならない。筋肉も再生しては潰され、力が入らない。
「あ……が……」
なんとか押し潰されずに外に出ている片腕でもがいてみるけれど、どうやら、まったく力が足りないようだった。なんとか、しなきゃ。そう、いろいろ考えてみるけれど、考えれば考えるほどに、どうしようもない、と、自らの脳は、無慈悲な結論ばかりを弾き出す。
「最初から、こうすればよかったねえ」
もがく少女の頭を見下ろして、妖怪は言った。
「殺すのが容易じゃねえなら、容易な状態にまず、拘束する。まあ普通の人間なら、この状況ですでに、死んでるはずだがね」
くっくっく。と、少女の呼吸困難が移ったように、つっかえる笑い方で、妖怪は声を漏らす。少女のもとに腰を降ろし、その銀髪を掴んで、顔を上げさせた。そのころにはもう、少女のもがきも力なく収まっていて、ぐったりと死んだように――それでもまだ息絶えずに、荒い呼吸を続けるだけとなっていた。
「……惜しいねえ」
とだけ、言う。本当に、よく似ている。造形が……ではない。むしろ顔つきはまったく似ていなかった。であるのに、どことなく、彼女に似ている。
そう思って、このままでは情が移る、と、妖怪は乱雑にその髪を、離した。まるで池のように広がった血の中に、くちゃり、と、それは無防備に落ちる。
自身の中に、まだ、他者へ向ける『情』などがあることについて、妖怪は、少し苦笑した。もうそんなものは捨てたつもりだったし、いまさら、そんなものを抱く資格すらないと思っていたのに。
いつか、誰かに抱けていた『情』は、彼女の死によって失われた。そのはずだ。と、思う。だったら、もう一度、振り切るためにも、同じように――。
「……ほんと、惜しいねえ。出会い方が違っていれば、娘にしたかったくらいだ」
言って、立ち上がる。せめてもう苦しませないように、殺そう。そう思い、鎌鼬を、生成した。
ぴくり。と、少女の止まった指先が、反応する。
「わた……しは……」
「言わなくていいよ。いい父親がいるんだろう? 幸せなことだ。まったく――」
羨ましいほどに。と、妖怪は思った。そして改めて、決心した。
自身の迷いごと、断ち切るように。
見えない鎌を、振り――降ろす。
「上出来や! カイラギぃ!」
ようやっと床に着地し、女傑は叫んだ。着地点は、化物たちのただ中。ゆえに、気を抜くことなくいくらかの敵をいなしながら。
どうやら、大男の持つ『異本』、『白鬼夜行 黒手之書』で、女傑の電撃をコントロールしていたようだ。それにより、女傑の電撃は妖怪のみに集約し、周囲への被害はなかった、ということらしい。
「じゅうぶんよ! いったん下がりましょう!」
少女は言った。「カイラギさん!」と、続けて叫ぶ。
「心得ている」
言われるが早いか、大男はその、両拳に挟んだ黒焦げのそれを部屋の隅にまで投げ飛ばした。
まだ、動かない。が、まだ、死んでいない。そう、少女は判断する。真っ黒に焦げ付き、ひび割れたそれらは爛れ、壊死し、煙を吐いている。それでも、まだ、死んでいない。
そして、見たところ動かないが、動けないわけではない。と、そうも、理解する。確かにここまで傷を負わせた現状、追い打ちのチャンスとも言えたが、それもそれで危険に思えた。窮地に追い込まれるほど、人は強くなる。それに、彼の使役する化物たちへ対処し続けるにも、限界が近かった。
特に、九尾。あの大狐だけは、やはり、別格だ。大狐の能力のひとつ、容易に生物を死滅させ得る、強力な幻術が危険すぎるのである。自身の脳にアクセスして、内側から幻術を無効化できる少女や女傑ならともかく、普通の人間がそれを喰らえば、瞬間でやられるだろう。だから、あまり九尾のいる間に、悪人顔や優男をいさせるのはリスクが強かったのだ。もしかしたら大男ほど身体的に強靭であれば、無意識に、幻術を脳内で打ち消すことをやってのけるかもしれないけれど。
「先、行くで」
少女の宣言に、女傑は言った。最後に一撃、周囲に感電の力をばらまき、肉体を持つ化物たちをいくらか痺れさせてから。
「ええ、わたしも、すぐ行く」
さすがの少女も疲労があった。身体強化により、スタミナという点では際限がない。しかし、やはり、精神的な摩耗はある。それは肉体的疲労と比べて、ただ単純に休息で必ずしも回復できるものではなかったけれど、それでも、少しでも戦闘から離れれば、わずかであれど回復できるだろう。
廊下に近かった大男。そして悪人顔や優男は先に行き、女傑がその後を、電気のような速度で追って行った。だから少女も、最後に、肉体がなかったせいで女傑の電撃を免れた餓者髑髏たちを、特別に力強く薙ぎ払い、引くことにした――。
*
「いかせねえよ」
頬が少し切れてから、少女は、その声を聞いた。ほんの少し、もう、気を抜いていた。と、気付く。気付いて、切れた頬を拭い、傷を塞いだ。
「……思ったより速いわね。肉体再生」
見えない鎌を掲げた妖怪を見て、少女は苦い顔をする。
「言うまでもねえ。おれの自己治癒強化はそこそこだ。が、もし自身の成長を促進できたなら、そのぶん回復も早まらあな」
つまり、自己治癒力を最大発揮しながら、自らの年齢を上げたのだ。と、理解する。それは、『成長』しかできず、『退行』ができない彼には、苦渋の決断だったのだろう。
確かに、少女の逃げ道を塞いで、廊下の前に立つ妖怪は、さきほどよりも少し、老いていた。とはいっても、身体年齢として……四十の少し前くらいだろうか? さきほどまでの姿が、三十前後だったことから、十年弱ほどの成長を要したようだ。が、その甲斐あってか、どうやらさきほどのダメージは全快している。
「少し休憩させてよ。おじいちゃん」
「おまえさんにゃ知れているはずだがね。おれはこう見えて、まだ生まれてから六十年も経ってねえ。『おじいちゃん』ってのは、少なくともこの姿のおれには、少々堪える言い方だよ」
元の――『カルガラの骨本』で還される以前の姿は、どう見ても七十~八十代といったところだった。が、やはりそれも、『滑瓢』で何度か成長したゆえのものだったのである。
「ね。やめない? こういうの」
わらわらと、背後にじっとりと迫りくる化物たちを感じて、少女は、疲れた笑みを浮かべてみた。正直、このまま戦闘が続行されるのは本当に、望むところではない。
「二度もおれをコケにしやがって。あいつだけは許せねえんだ。リュウ・ヨウユェ」
それも、少女は慧眼によって、理解していた。齢六十ごろというなら、噂に聞くWBO最高責任者、リュウ・ヨウユェとは同世代ごろだろう。そんなことも相まって、ふたりには因縁があった。かつてひとりの女性を巡り諍い、そして最近、WBOに拘束されていたときに、悪事を諌められたようだ。「おまえに言われたくはねえ!」、という、激昂。そのシーンが、やけに印象的に、少女のイメージに流れ込んでくる。
だから、きっと誰しもがいくらかは持っているはずの良心に訴えかけるのは、激情を呼び起こすだけの結果にしかならないだろう。そう、少女は思う。つまり、妖怪はもう、止まらない。
だったら――。
「復讐なんて、なにも生まないのよ」
おそらく、リュウ・ヨウユェ――かの壮年も、そのような語彙を使ったのだ。それをあえて用いて、精神的に揺さぶる。焃淼語を構えて、不敵に笑って見せた。
化物たちが、もう、背筋を撫でるほどの背後に、蠢いている。でも、タイミングは、ぴったり。
「力ずくでも、押し通るわ!」
そのタイミングに合わせて、こちらに気を向かせるように叫び、隙を――。
「甘え……!」
少女の思惑を裏切り、妖怪の背後から迫った機械生命体は、一撃で、吹き飛んだ。だから、精神的に隙ができてしまったのは、少女の方――!
「『ぬりかべ』。〝連重〟」
「しまっ――!!」
超重圧に、少女の言葉は止まる。幾重にもかぶさる、ぬりかべ。気が動転していなければ、そして、わずかに動きを阻害する、服に引っかかった餓者髑髏の骨がなければ、なんとか躱せたかもしれない。
が、結果として、少女は十数のぬりかべに覆いかぶさられ、死にはせずとも、拘束されてしまった。
いくら人体を限界まで成し上げたとしても、動かせない、超重量の下に。
*
「は……はぁっ――!!」
呼吸が、苦しかった。
即死はしていない。だからこそ、苦しい。
どうやら、体中をずっと、常に、油断なく押し潰され続けていた。肉体再生。全身の臓器を逐一回復させて、なんとかギリギリ、呼吸を行える。だが、肺も、何度再生してもすぐに潰され、ままならない。筋肉も再生しては潰され、力が入らない。
「あ……が……」
なんとか押し潰されずに外に出ている片腕でもがいてみるけれど、どうやら、まったく力が足りないようだった。なんとか、しなきゃ。そう、いろいろ考えてみるけれど、考えれば考えるほどに、どうしようもない、と、自らの脳は、無慈悲な結論ばかりを弾き出す。
「最初から、こうすればよかったねえ」
もがく少女の頭を見下ろして、妖怪は言った。
「殺すのが容易じゃねえなら、容易な状態にまず、拘束する。まあ普通の人間なら、この状況ですでに、死んでるはずだがね」
くっくっく。と、少女の呼吸困難が移ったように、つっかえる笑い方で、妖怪は声を漏らす。少女のもとに腰を降ろし、その銀髪を掴んで、顔を上げさせた。そのころにはもう、少女のもがきも力なく収まっていて、ぐったりと死んだように――それでもまだ息絶えずに、荒い呼吸を続けるだけとなっていた。
「……惜しいねえ」
とだけ、言う。本当に、よく似ている。造形が……ではない。むしろ顔つきはまったく似ていなかった。であるのに、どことなく、彼女に似ている。
そう思って、このままでは情が移る、と、妖怪は乱雑にその髪を、離した。まるで池のように広がった血の中に、くちゃり、と、それは無防備に落ちる。
自身の中に、まだ、他者へ向ける『情』などがあることについて、妖怪は、少し苦笑した。もうそんなものは捨てたつもりだったし、いまさら、そんなものを抱く資格すらないと思っていたのに。
いつか、誰かに抱けていた『情』は、彼女の死によって失われた。そのはずだ。と、思う。だったら、もう一度、振り切るためにも、同じように――。
「……ほんと、惜しいねえ。出会い方が違っていれば、娘にしたかったくらいだ」
言って、立ち上がる。せめてもう苦しませないように、殺そう。そう思い、鎌鼬を、生成した。
ぴくり。と、少女の止まった指先が、反応する。
「わた……しは……」
「言わなくていいよ。いい父親がいるんだろう? 幸せなことだ。まったく――」
羨ましいほどに。と、妖怪は思った。そして改めて、決心した。
自身の迷いごと、断ち切るように。
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