箱庭物語

晴羽照尊

文字の大きさ
254 / 385
幕間(2027‐2‐2)

それは、他愛のない物語。

しおりを挟む
 2027年、二月。ニュージーランド、パーマストンノース。
 ビクトリア・エスプラネード・ガーデンズ。

 植物園。バードパーク。綺麗に整った芝生。プール。自転車道。カフェもあれば、子ども用のミニ鉄道やらも走る。クロケットを楽しむ若者たち。走り回る子ども。バーベキューで騒ぐ家族連れ、ベンチに腰掛ける老夫婦。あらゆる年齢層が、各々の楽しみ方で集う、広大な公園。それが、この、ビクトリア・エスプラネード・ガーデンズだ。

 特段に取り上げる必要もないのだが、その園内を、ふと、一枚の紙きれが飛んだ。それはまるで、よっつある角のうちふたつを忙しなく駆動し、人間のように小走りに駆けているようにも、見えるのだった。

『ふははははは! 絶好調だぜ! ニュー・俺! いやさ俺様! 前の落書きとは、まさに別物! もうこうなった俺様を、止めるものなどなにもない!』

 ふはははははーー!! その騒がしさは、園内の至るところで上がる同質のものに紛れ、意外なことに誰の注目も集めなかった。

 まあ、騒がしさは前述の通り、周囲の喧騒に紛れているし、動きに関しては、風にあおられる紙切れにしか見えないからだろう。
 だからこそ、それは――

『ぎゃああぁぁ! 猫! 俺様の天敵がなぜここに!』

 猫に絡まれる。『奥義! 死んだふり!』。落書きは叫び、その場に倒れ込んだ。そのまま、微動だに動かず、やり過ごそうとする。

 いくらニュー俺様といえど、こいつの俊敏性にはまだ及ばない。こいつらは動くものに反応しじゃれあっているだけだ。ならば、相手を刺激しないように、静止した状態でやり過ごす。そう、落書きは決心したのだ。

『にゃああぁぁ』

『ヴォゲエエェェ!』

 猫パンチを喰らう。それにより、ひらりと空に舞う落書きからは、思わず絶叫が響いた。

『にゃおん』

『ヴォガアアァァ!』

 逃がすまいと、猫は飛び上がり、落書きの上からのしかかる。爪が立てられていないのだけが落書きにとっての救いだった。

『にゃー。にゃー』

『ヴォガッ! ヴェガッ! ……ま、待て! お、俺様は、こんなところで――』

 猫は落書きの上に寝転がり、ゴロゴロとくつろいだ。落書きには大ダメージだ。走馬灯まで見え始める。

 それは、自身がときの記憶だった――。

        *

 猫を追い払い――猫は飽きて去っていった――落書きはとぼとぼと、先を急ぐ。気持ちは急いても、満身創痍の体は、うまく動かない。
 しかし、それこそが、『生』の証明でもある。物質的な肉体に感情が追い付かない。そのもどかしさこそが、この世に『生きている』ということなのだ。

『はあ……はあ……。まったくひでえ目にあったぜ……』

 よろよろと、進む。その緩慢な動作は、やはり周囲からの注目を集めなかった。誰しもが、自分たちの世界に没頭している。そしてそれは、きっと、落書きも。



 そう、彼女の愛称を呟く。だが、その名に、違和感を覚えた。
 ああ、終わりが近い。急がなければ、そう、気を取り直す。

 ビクトリア・エスプラネード・ガーデンズからようやく出て、街中を進む。園内よりかは、人の目が顕著だ。それは、仕事に、学業に――つまりは、『いま一番にやりたいことではないこと』に追われているゆえの、現実逃避に近い視線が、奇特なものを無意識に探しているから、なのかもしれない。

 落書きの足では――短い歩幅や、隠れながら進む慎重さ、あるいは、満身創痍に衰えている足取りでは、数時間を要した。そして、ようやっと視界に、見据える。

 帰巣本能、に、近い。しかして、帰ってみると、それは、不思議な郷愁を落書きにも、感じさせた。

 もはやもう、ただの落書きでしかない、その精神にも。

『ああ……、変わってねえなあ……』

 だから、安心したのだろう。
 落書きは、ほんの少し休むつもりで道路脇に腰掛け、思わず、気を失っていた。

        *

「お母さま、お母さま。帰ったのだわ!」

「あらあら、ずいぶんお淑やかになって。学校は、楽しかった?」

 遠くに、声が聞こえる。懐かしい、声。

「楽しかったの! ……お淑やか?」

「大きくなったわね、ってこと。『お母さま』だなんて、本当に、メイドさんみたいね」

 母親が、娘に優しく、言葉を紡ぐ。頭を撫でられ、娘の方は嬉しそうに、胸を張った。
 その声を聞いて、落書きは、身を起こそうとする。しかし、体は動かない。

「そうだ! お友達を紹介しなきゃ! ラーフ! ……ラーフ?」

「ええい! うっとうしいのでしょ! 紹介とかいいの! 帰り道、ちょっとご一緒しただけなのでしょ!」

「ママ! このでしょでしょしてるのがラーフ! 口うるさいの!」

「ちょっと、誰がでしょでしょしてるのでしょ!? 紹介するならちゃんとするのでしょ! つーか、お母さまの呼び方、ママになっちゃってるし! ちゃんと本名で紹介してほしいのでしょ! なにより、誰が口うるさいのでしょ!?」

「ねー、ママ。でしょでしょうるさいのでしょ?」

「がー! 口癖をマネするな! でしょ!」

 子どもたちの寸劇に、母親は楽しそうに、あるいは嬉しそうに、微笑むのみだ。
 落書きは、ぼやける視界で、それを捉えようとする。しかし、もう、世界には靄がかかり始めていた。

「とにかく、おうちに入りなさい、ベリー。ラーフちゃんも、寄っていきなさい」

「はーい」

「いや、おばさま、わたくしは――」

 その言葉を遮るように、一陣、強く風が吹いた。それが、動けなくなっていた落書きの体を、ふわり、と、空に持ち上げる。
 それはまるで、天へと召し上げる、神の腕のように。

「ぶべえっ!」

 それは、奇跡のように揺蕩い、小さな娘の顔にへばりついた。率先して実家に入ろうとしていた彼女は、ぶるんぶるんと顔を振って、それを引き剝がす。

「なんなの……? ……って、あれ、これ?」

 ひらひらと足元に落ちた落書きを見て、その子は瞬間、いつかの記憶を呼び起こした。
 それは、夢のような出来事だった。いや、それはそのもの、夢だったのだろう。そう、少しではあれど『大人』になった彼女は、思う。

 小さなころの、幻想的な思い出だ。

 父親を亡くし、母親は、女手ひとつで自分を育てるのに、いくつも仕事を掛け持ちした。生活はなんとかなっていたが、しかし、母親ひとり、娘ひとりの生活では、娘は母親に甘える時間を失ってしまっていた。
 そんななか、に描いた、一枚の落書き。気まぐれに名をつけ、友達のように接した、そんな、幼少の遊び相手。

 それは、いつからか言葉を話すようになった。……いや、あれは幻想だ。きっと、寂しかった心を癒やすために、自らが自らを騙した結果なのだろう。さらに時間が経てば、動くようにもなった。いつもおどけて、自分を楽しませてくれた。そんな記憶すら、小さなころの、夢のような、幻影だ。

 それでも、思い入れは残る。夢を夢だと認識できるに成長しても、かつての友達を、懐かしむ気持ちは、変わらない。

「……なんなのでしょ? それ」

 いまの友人が、肩口から覗き込み、不審な声を上げる。

「なんでも、ないよ」

 そう、答える。

「うわあ、キモっ。なんでムキムキなの? 虎柄だから、虎さんなのでしょ? 『R』って書かれた服も、意味解んないし」

 友人からのまっすぐで、加減のない罵倒にも、苦笑で返すしかない。だって描いた本人ですら、そう思っているのだから。……いや、しかし、筋肉をムキムキに描いた覚えは、なかったのだけれど。

「でも、表情は悪くないのでしょ。なんだか……安らかで、、心地よさそう。翼が生えているから、あの、……お空に還るところなのかしら?」

 子どもらしい表現で、友人は言った。それに対して、彼女はなんとも、答えない。

 小さなころの記憶なんて曖昧だ。もしかしたら自分は、最初から描いたのかもしれない。だけど、もし、あのころの、奇跡のような友達が本物なら、こうやって、変わってしまったように思える表情にも、それなりの意味があるのだろう。

「ママ。パパにも、ただいま言ってくる」

 そう言って、彼女は、走って家に入っていった。長く、離れていた家だ。うろ覚えの間取りを突き進んで――しかし、すぐにその全容を想起した。

 父の写真が飾られた部屋に入って、その横に、落書きを飾る。

「ただいま、パパ」

 彼女は言って、ううん、と、難しい顔で、腕組みをした。

「やっぱり、似てないや」

 呟く。

 玄関先から、母親と、友達の呼ぶ声が響く。「はーい」と、返事をして、その子は、ふたりの父親に、手を振った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

Re:コード・ブレイカー ~落ちこぼれと嘲られた少年、世界最強の異能で全てをねじ伏せる~

たまごころ
ファンタジー
高校生・篠宮レンは、異能が当然の時代に“無能”として蔑まれていた。 だがある日、封印された最古の力【再構築(Rewrite)】が覚醒。 世界の理(コード)を上書きする力を手に入れた彼は、かつて自分を見下した者たちに逆襲し、隠された古代組織と激突していく。 「最弱」から「神域」へ――現代異能バトル成り上がり譚が幕を開ける。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

処理中です...