箱庭物語

晴羽照尊

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台湾編 本章 ルート『虚飾』

剥製

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 静まり返ったエントランスホールで、司書長が淑女に手を差し伸べた。いまだ淑女は縛られており、ゆえに、その手を掴むことができない、ということを、司書長が気付いたうえでそうしているのか否かは、微妙なラインだった。

 いつも通りの、いまいち締まりのない顔付きである。状況としても、おそらく彼女の心情としても、ここはシリアスに決めるべき場面だ。それでも、彼女の表情には、どこか緊張感が欠如している。それは、そういうふうに生きてきた彼女の、人生が刻まれているから、なのかもしれない。

「殺したんですか?」

「うん。殺した」

 淑女の問いに、司書長はノータイムで応える。それからようやっと、いま気付いたような様子で眉を上げ、次の瞬間にはまたにこりと、笑みをこぼした。
 ばさり、と、力なく床を打った腕の痛みで、淑女は理解する。彼女を縛っていた縄が、ほどけたことに。
 司書長が、なにか、した。おそらくは、その、『異本』で。

「なかなか痛かったね、腕」

 改めて司書長は、差し出した手を掴むようにと、視線で促した。

「……どうして、殺したんですか」

 その手を無視して、淑女は自ら、起き上がる。ずっと年上の、組織としてもずっと上の役職である大先輩を、見下ろす。けっして大柄でない淑女とても見下ろせる、その、小さな、姿を。

「私はね、るーしゃん。お友達を傷付けられるのが、たまらなくきらいなんだ」

 その点には、淑女もなんとなく気付いていた。就業中でも、けっして少なくない頻度で司書長の口を突く言葉、『お友達』。その関係を強調するように繰り返されるその言葉は、人付き合いが苦手な淑女に、嬉しいやら恥ずかしいやら、あるいは、若干の恐怖すら覚えさせるものだったから。

 距離を詰めるのが、早すぎる。対人関係に疎い淑女だからこそ、なのかもしれないが、彼女はそう感じて、わずかばかりに居心地の悪さも感じていたのだ。

「今回も、私だけならまだ、許容できたかもしれない。でも、るーしゃんを巻き込んだ。それだけでもあいつは、殺すに値する」

 その発想の飛躍は、淑女をぞっとさせるに十分だった。しかし、まだ続きがありそうな言葉に、淑女は力を込めて向き合う。恐怖をおもてに出さずに、ただじっと、司書長を見つめていた。

「だけど、それと同じくらい、きらいなことがある」

 やはり、司書長は、言葉を続けた。

「女性を、いやらしい目で見る、男性の視線。そういう、思想や思考。そういうのが本当に、きらい。反吐へどが出る。特に、ああいう――メイリオ・フレースベルグみたいな、勘違い野郎の浅薄な行動には、虫唾が走るね。前時代的なんだよ、もう二十一世紀だってのに」

 いつもおっとりしている司書長にしては、考えられないような強い、非難の言葉だった。それだけで、淑女にも、司書長が本気でそれを毛嫌いしていると理解はできた。理解は、できる。

「そんなことで――!」

「そんなこと?」

 激情する淑女を、低く、小さな声だけで、司書長は抑え込んだ。じっとりと、下から淑女を睨み上げ、司書長は感情を伝える。
 やや、睨み合って、先に司書長から、下に視線を逸らした。それとともに、嘆息する。

「今朝――」

 声のトーンを、普段通りに戻して、司書長は口を開いた。

「WBOの解散が、最高責任者、リュウ・ヨウユェから通達された。特別な通達だったから、るーしゃんはまだ知らなかったよね? こうして、構成員に預けられていた『異本』は、すべて各人に譲渡されることとなった。……さて、私は、いまこの『フォルス・エンタングルメント』を自由にできるよ。あなたはこれを、手に入れるべきじゃない?」

「あーしは、べつに――」

「そう? じゃあ、私は、行くよ」

「どこへ?」

「あなたの『家族』を、皆殺しに」

 淑女は、ぞっとした。冷たい司書長の声。有言実行できるであろう彼女の『異本』。それらに、恐怖した。……のでは、ない。簡単に、『殺す』という行動に出ようとする、司書長の思考に。そして、自分の大切な者たちを危険にさらそうとする、その思考に。長い白髪が持ち上がるほどに、怒ったのだ。

「どうして……」

 震える声で、淑女は、問う。

「私とヨウは友達だ。WBOもなにも関係ない。ヨウが組織を解散するってのは、彼が、その目的を達成しようとしていることを意味する。その邪魔をするあなたたちを殺して、『お友達』を助けるのは、私にとってはあたりまえ」

 ああ、でも安心して。『お友達』であるるーしゃんは、殺さないから。そこでだけ、にこりと笑って、司書長は言った。
 ここでは純然とした恐怖で、やはり淑女はぞっとした。それでも、いまだ、怒りが勝っている。

「……させない」

 うつむいたまま小さく、小さく淑女は、言う。か細くとも決意に満ちた、力強さで。

「え、なに?」

 嘲るように、司書長は耳元に手を当て、彼女に向けて首を傾げた。

「させない! あーしの大切な『家族』を、危険になんて晒させない!」

 淑女は、内に秘めた強い感情を表出させ――『虚飾』を纏って、叫んだ。

「できると思うの? るーしゃんが、私を止めるなんて」

「できるできないじゃない! やる!」

 消えた学者が落としていった深緑色の『異本』、『箱庭動物園』を拾い上げ、彼女はそれを、輝かせた。

「できないことは、やろうたってできないんだよ。るーしゃん」

「できる! あなたをなんとしてでも、止めてみせる! ゾーイ!」

「そう。だったら、やってごらん?」

 司書長は余裕そうに、諸手を広げた。その隙を狙い、淑女は『異本』を開く。

「お願い! テス!」

 言葉に呼応し、そのページの隙間から、黒いジャガーが躍り出る。そのまま、淑女の言葉通りに、まっすぐ、司書長へ牙を向けた。

        *

 なんで。
 そう、言葉は重なった。ジャガーに組み敷かれた司書長と、それを差し向けた淑女の、それぞれの口によって。

「……なんでよ。……殺してよ。るーしゃん」

 司書長が言った。

「なんで、抵抗しないんですか、ゾーイ」

 淑女が言った。

 ジャガーは、淑女の意図を汲み取っているのだろう。司書長を抑え込んではいても、けっして、牙を立てようとはしない。

「あなたの『異本』は、超強力な転移系だって聞いてます。だったら、もしあなたが、本気でみんなを殺すというなら、そんなこと宣言する前に、とっくに転移してるはず。それに気付いたら、……ああ、きっとなにか裏があるんだろうなあ、って、思っちゃったんです」

 淑女は言った。その悲哀なる言葉に、彼女の意図を汲み取れるジャガーは、すっと司書長の上から退く。淑女のそばにまで戻り、彼女に小さく、頬ずりした。

「るーしゃんってさ」

 司書長は上体を起こして、淑女を見た。いつも通りの、だらけたような笑顔で。

「人付き合いが苦手で、人から疎まれるのも、慕われることすら居心地が悪く感じるタイプだよね。そんな気の小さい性格なのに、内心にはとっても強い、意志を持ってる」

 自分でも把握していない己が内心を言語化され、淑女はむず痒かった。はたしてそれが、本当に自分の性格なのか、それは判断がつかなかったけれども。

「せっかくの機会だから、るーしゃんのその、強い才能を、少しは自覚させたかった。……ついでに、私を殺してくれたら、なおよかったんだけどね」

「なんで、死のうなんて」

 そのに、司書長は優しく、はにかんだ。

「そんなことより、自分が殺人をさせられようとしてたことに怒るべきだよ、るーしゃん。その優しさも、また、あなたの力なんだろうけどね」

 ちょっとだけ、シンねえさんみたい。そう、司書長は遠い目で、言う。
 ひとつ、息を吐いて、司書長は表情を、整えた。

「みんな、死んだ。私の大切な『お友達』は、みんな死んだんだ、るーしゃん。シンねえさんも、ラージャンも。『先生マエストロ』とは『異本』の力で蘇ってはいるけれど、それも時間の問題。そもそも、死んだ人間が生き返っている時点で、もう、わけが解らないしね。そして……ヨウも、死ぬ」

「死ぬ? どうして? ……あーしの『家族』は、リュウさんを殺したりなんかしないよ」

「知ってる。ヨウが死ぬのは、彼の意思」

 瞬間、淑女の思考は停止した。司書長の言葉がうまく理解されない。WBO最高責任者、リュウ・ヨウユェ。その人が、自死する、ということ?

「彼は、その死でもって、贖罪をしようとしている。目的を達しようとしている。だから……私も同じようなものだね。もう『お友達』のいない世界で、生きてくのは、辛い」

「意味が解らない。贖罪? リュウさんはなにを償おうとしているの? それがどう、彼の目的になるの?」

「それはるーしゃんが知るべきことじゃない。いまからでも、るーしゃんの『家族』に知られたら、いやだからね」

 やや強い語気に、淑女は黙った。しかし、と、思い至る。

 もし司書長の話が真実なら、そのことを、当然と少女は看破しているはずだ。だが、そのことにつき、淑女は当然と、聞かされていない。おそらく他の『家族』たちも、誰も聞かされていないはずだ。
 つまり、少女はリュウ・ヨウユェの辿る未来を知っている。知ったうえで、WBOとの最終決戦に、大所帯で向かった。それは、つまりは――。

 そこまで考えて、淑女は首を振った。だめだ。あーしにはそれくらいまでしか、解らない。と、そう、諦めて。

「じゃあ、ゾーイが死にたい理由は? あなたが『お友達』を、異常なまでに大切にして、愛しているのは知ってる。でも、どうして死のうなんて発想になるの?」

「私が、私の誇れる私になれたのは、彼らの――『お友達』のおかげだから。『虚飾』にまみれた、見苦しい私を、変えてくれた、なによりも大切な、『お友達』だから。……みんながいなくなるたび、はっきりと理解できたんだ。ひとり亡くなるたびに、少しずつ、昔の私に戻っていく。いまの私が大嫌いな、昔の私に。だから――」

 淑女は、ぞっとするものを、感じた。

 これまでのどれとも違う、感情。恐怖や、怒りではない、激情を。

「ふざけないでください!」

 声は、『世界樹』中に響いた。三十階建てのビルディング。その、十階までに到達する巨大な樹木。それを内包するゆえに、吹き抜けの多いビル内には、清々しいほどに容易に、叫び声が鳴動する。

「殺すとか死ぬとか、そんなおっかないことを、簡単に言わないで――!」

「簡単じゃ――!」

「簡単です!」

 繰り返された淑女の叫びに、司書長も威圧され、言葉を飲んだ。

「……ゾーイの気持ちは、きっと理解できないけど、解ります。大切な人たちの死に対して、人は無力かもしれません。死にたくなる気持ちも、解る」

 かつての――とうに風化したと思い込んでいた記憶を呼び起こし、淑女は感情を込めた。あの、悲劇を。家族を、隣人たちを、一息に殺された、淑女の過去を、思い起こして。

 それでも――。

「それでも、どうしてもう終わりだなんて決めつけるんですか。私たちは人間です。いつか必ず、誰もが死ぬんです。大切な人とも、別れなきゃいけない。そんなことだってある。でも――」

 淑女は、司書長のもとへ腰をおろし、じっと、彼女の目を、見据えた。

「新しい出会いだって、あるじゃないですか」

 そんなことは、解っている。司書長はそう、思う。

 事実、新しい『お友達』を見付けて――勝手に見見付けたつもりになって、少しは自分も、ましになっていると感じた。それでも、そうそう、『時間』には勝てない。特別に長く付き合ってきた関係性には、及ばない。

 壮年が、最後の希望だったのだ。たったひとりでも、ちゃんと生きて、いまだつるんでいることが、司書長の最後の希望だった。だから生きてこられた。だが、もう、それも終わりだ。

「あーしが、終わりになんてさせません!」

 司書長の心を見透かしたように、淑女は叫んだ。司書長の、その手を取り。握り締めて。

「あーしは、あなたの『お友達』でしょう? ゾーイ」

 司書長が口にする『お友達』は、いつも一方通行だった。当然だ。あの教室の『お友達』を除けば、司書長が『お友達』と呼ぶのは、いつも、WBOの関係者であり、それはほぼ確実に、形式上、部下ばかりだったから。彼ら彼女らが対等に司書長を見るのは、無理があるというものだ。年齢的にも離れているし。

 だが、このときの淑女の言葉は、強く司書長の心を打った。その声音が、表情が、本当に心の底から言っていると、理解できてしまったから。けっして、この場を丸く収めるために、適当なことを言っているわけではない。淑女は本当に、自分を『お友達』だと呼んでくれている。そう、理解できたから。



 賢しい私が剝がれていく。誰かを見下す私がほどけていく。へらへら笑って、いつも自由で、感情のまま泣き叫べる。そんな愚かで――私の愛する私が、意識せずともこの顔に、声に、心に宿る。



 司書長はそう、理解して――。

「うわああぁぁん! るーしゃん! ごべんなざいいいぃぃ!!」

 ただの馬鹿に、立ち直った。

「ちょっ……ゾーイ! 鼻水つけないでください! 蹴り飛ばしますよ!」

 その言葉への対応を待つまでもなく、淑女は、渾身に司書長を、蹴り飛ばした――。



『世界樹』での一連の騒動。

 ルシア・カン・バラム、ゾーイ・クレマンティーヌの和解により、、終結。


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