箱庭物語

晴羽照尊

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台湾編 本章 ルート『色欲』

Love never dies.

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 ぶわっ、と、汗が噴き出す。緊張、委縮、そして……不覚にも、ときめいた。

 女は、自分を女性だと意識したことが少ない。性格はともかく、抜群のプロポーションを持つ彼女だ、ある程度、男性と交際したことはある。とはいえ、やはり性格の問題か、あるいは『異本』集めのために世界中を転々とする生活や、危険を省みない行動に、男性側からすぐに離れた。深い仲になる前に。

 だから、強く愛を囁かれたことなどなかった。そもそもそんな甘い関係を、女はさして求めてなどいなかった。いくつか交際に至ったのも、軽い気持ちで告白を受け入れただけだ。人と人は、関わってみなければ解らない。どうせうまくはいかないと思ってはいても、もしかしたら今度こそは、と、淡い期待くらいは抱いたものだ。それに女は、人とのかかわりに、いつも飢えていたから。

『家族』を、失った。父親というべき老人は死に、それを機に、兄弟たちとも別れた。だからなおさら、女は『家族』に飢えた。ゆえに、『異本』集めを第一にしながらも、関われる相手とは積極的に関わってきた。だがどれも、結局はうまくいかなかったのだけれど。

「やっぱり、かわいらしいね、キミは。ホムラ」

 目にもとまらぬ接近に、上体を引いた。その防御反応に、好青年は甘い言葉を向ける。

「戯言を……抜かせっ!」

 余裕そうな好青年に――真剣勝負に冗談のようなことを織り交ぜる態度に苛立って、女は力を込めた。全身を濡らす汗が、体を冷やす。冷たい蒸気を噴き出しているようだ。だが、頬だけは異様に熱い。

 殴りかかる拳。それを視認して、刃を振るう。錆び付いた一刀。『花浅葱はなあさぎ』を。
 その軌道は、好青年の拳を防ぐに及ばない。それでも、女には抗い続けるしかできないのだ。求めてくれているからこそに、全力で――。

 ブワッ――と、掠めた。眼前にまで迫った好青年の拳が、まるで、あえて外したかのように、外れた。そっと、愛おしいものに触れる程度に、頬を撫で、空振りしたのだ。

「へえ……」

 好青年の感嘆を聞くより以前に、女も理解していた。その一撃は、好青年の手心が加わってなどいなかった。殺す気はなかっただろう。だが、殺さない程度につもりくらいはあったはずだ。彼は欲望を叶えるために、己が力を見せつける必要を感じていただろうから。

 だから、その一撃を逸らしたのは自分だと、女もすぐに理解した。そこから芋づる式に、なぜだかいろんなことが理解できた。

 そうか。と、思う。
 まだわらわの中におったのか。と。

        *

『異本』には、『毒性』がある。それを扱う者に『異本』への依存を与え、その精神を蝕み、肉体をすら変容させうる、自我が。『異本』は、言うなれば、一個の精神体であり、あるいは、生命なのだ。
 人類などとうに超越した、知的生命体、なのである。

「素敵だね。さすがはホムラ――だっ!」

 ゆるりと振り返り、緩急をつけて、突発的に攻勢に出る。
 だが、自らに残る『異本』の『毒性』――その残滓に気付いた女には、その程度、いなすになんら、支障ない。

「改めて、ともに行こう。……『嵐雲らんうん』」

 冷や汗のような、それでいて清々しく駆け抜ける春風のように、それは吹き荒れる。彼女を中心にカオスと渦巻く飄風は、錆びた刀によって掌握され、収束して『圧』を生む。

「吹き飛べ」

 刀身を纏う風の膜と、好青年の拳がぶつかり、一秒の凪のあと、弾けるように外へ破裂した。

「おおぉぉ――――っ!!」

 人類が、立つことすらままならぬ神風に、さしもの好青年も耐え切れず、空に浮いた。そのまま、引力に導かれるように空中を走り、彼は背後の壁に叩きつけられる。衝撃吸収材の敷き詰まった壁では、たいしたダメージはないだろう。それでも、とりあえずの力を見せつけるには十分だ。

「本当に――」

 マグネットで留めておいた写真が落ちるように、叩きつけられた壁から力なく落ちた好青年が、全身を投げ出したまま呟く。

「素敵だ。素晴らしい。ますますキミが欲しくなった」

 甘い愛の言葉でも、眼光は力強く、猛獣へ向けるように闘志を秘める。
 まだ立ち上がらない。守るべき『異本』から遠く吹き飛ばされ、それを女が拾い上げようとも、攻略法を模索するようにただ、彼女を見つめ続ける。

「正直に言うぞ。妾もなれを、憎からず思っておる。じゃが――」

 拾い上げた『異本』をひらひら振って、教師が生徒に言い聞かせるように、女は語った。読み進めたテキストのページを、瞬間、見失ったように、ためらう。

「汝はすでに死んでおる。生き返れもせん。死人を想い続けられるほど、妾は情熱的ではないよ」

『異本』を、コートの内ポケットにしまう。しかして、その場を離れようとはしない。どうせ無駄だ、逃げ切れない。そう解ったからだ。
 そうでなくとも、わずかだろうと好意を持った相手に、引導を渡してやりたい。そんな気持ちも、あったのだ。
 いくら『嵐雲』をまだ扱えようとも、だからといって、おそらくは完全な勝利などできない。そう、理解していても、なお、それでも――。

「ほれ、とっとと立つんじゃ。汝が諦めるまで、完膚なきまでに、振ってやる」

 油断なく刀を構え、女は好青年に、突き付けた。

「ボクは、前言を撤回しない」

 言うと、好青年は立ち上がった。
 ストレッチのような気楽さで、片足を持ち上げ、頭よりも高くから、斧のように振り下ろす。それは、そのビルを傾けそうなほど、大きく揺らした。

「ボクはキミを殺さない。ボクはキミを諦めない。たしかに、死人となったボクだけれど、キミのためなら――」

 ニッと、苦難を楽しむ主人公のように、彼は笑う。

「ボクは生きるし、キミの気が変わるまで、愛を囁こう」

 その強靭な足が、地を踏みしめる。最前、吹き飛ばされたときと同じか、それ以上の勢いで、飛ぶように女のもとへ、近付いた。

 ――――――――

 ――エントランスホール。

 最前線で拳を振るうのは、寝癖がついたメイドだった。彼女は特段に近接格闘に特化した戦闘術を極めており、逆に、あらゆる武具の使用を不得手としている。正直言って、戦闘力だけで言うなら、EBNAでは低い方だろう。

「はあっ……ふうっ……」

 それでも懸命に、誰よりも最前線で、誰よりも意気高く戦う。誰よりも誠実で実直。だが、それゆえに、メイドとしての――『道具』としての心は、そう容易くは消えなかった。

「無理に深入りせず、下がりなさい、ツェルニアンネ。……危な――」

 褐色メイドの声に気を削がれたから、でもある。だが、単に感覚の外から襲い掛かった攻撃に、寝癖メイドは瞬間、危機にさらされた。

 間に合わない! 助けに動いた褐色メイドは思う。誰も殺さない。誰も死なせない。その思いは、いまでは組織の管理者となった彼女の、心からの感情だった。
 その願いが、潰えそうになる――。

 ――――。その、刹那に、大気を突き抜く銃弾が、音もなく彼女を救った。その軌道を、褐色メイドだけがわずかに視認した。だが、誰がそれをやったかは、瞬間のちに、誰もが悟ることとなる。

「せっかくまた会えたんだ。もうおまえを手放したりはしないからな。アン」

 本来、裏方に身を潜めていなければいけないはずの狙撃手――射手が、寝癖メイドのいる最前線に姿を現し、彼女のその、ぼさぼさに寝癖のついた頭を撫でた。彼が最前、撃ったはずの銃弾は、床にめり込んでいる。だが、誰も傷付けてはいない。

「ナゴー――」

 こんな戦闘のさなかでも、瞬間だけ頬を染める。しかし、すぐに彼女は、臨戦態勢を新たにとった。

「いまはルガーシだ。……ま、これを最後に引退するがね。……EBNAにおまえが連れ去られたときは、なにもできなかった。だが、もうなにも心配することない。なにに気兼ねすることも――なっ!」

 眠そうにしぼめた眼を、少し開いて、気配なく接近した敵に、レミントンの銃床で殴りつける。よろめいた相手にそのまま、半回転させた銃口を、向けた。

「無粋なやつだねえ。男女の密事に割り込むんじゃねーよ」

 怯えた敵に、静かに引き金を、引く。
 それは、対象の耳元を掠めて、その聴覚を奪った。

「ほい、おしまい」

 だから射手の最後の声は、聞こえない。
 それと同時に、まやかしのように、射手はまたもどこかへ、消えてしまった。

 この気配は――。と、射手は感覚を辿る。だが、姿は見えない。
 見えないということが、その、混戦の合間をすり抜けていく者の存在を裏付ける。

 ……まあ、邪魔はしなさそうだから放っておくか。そう、判断。
 その者は、エントランスホールの混戦を容易に闊歩し、先へ進む。

 シャァン。と、小気味よい鈴の音がひとつ、耳に響いた。


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