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台湾編 本章 ルート『嫉妬』
生のための犠牲
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ロリババアは、『異本』から手を離した。彼女の提案にわずかの思案を巡らせた丁年だったが、その事実が、決断を早めた。
『異本』の性能は――特例はあれど――基本的に、素肌で触れていなければ発動できない。丁年も、自身が持つ『異本』、『神々の銀翼と青銅の光』、そして、まだ男へ渡していない『ベェラーヤ・スミャルチ』は肌着の下にサポーターで固定し、常に肌に触れさせている。それでいつでも『異本』の力は発動できるわけだ。
その、ロリババアの無防備が、引き金を引いた。文字通りに。
「なっ……!」
だが、だからこそ考えが甘かった。よもやその無防備こそが、丁年の短慮を誘うための、ポーズだったとは……!
「『グランギニョルの練斧』」
その声と、圧倒的な重量が、丁年の頭上から、降りかかる。
――――――――
稲荷日三姉妹弟は、ベトナムの貧しい農村部に生まれた。……というのは、稲荷日秋雨の言である。彼の姉たちはそれ以降の、孤児院での生活しか記憶していなかったので、丁年の勘違いということもあり得る。ともあれ、少なくともかつての若者が、彼らを孤児院で引き取った当時、彼らがベトナムにいたことは確かだ。
ベトナムは東南アジアに属するが、中国系の人種が多く、一般的な彼らの外見は、日本人や中国人などの、東アジアの系統に近い。それゆえに、日本に連れ帰られた彼らも、地元民によく馴染んだだろう。少なくとも、外見は。
なにもない、本しかない屋敷に連れられて、彼らは、ほったらかされて育った。幸い、と言うべきか、食料はいくらかあった。彼らを引き取った若者の友人――あるいは支援者とでも呼ぶべき者たちが、不定期に送ってきていた物だ。だけれども、それも、数か月が経つころには枯渇し始め、いつからか、彼らは自分たちで、食いぶちを探すようになる。
町へ行ってみる。だが、基本的な物品のやり取りは、すべて金銭で行われていた。そのような文化すら知らない幼い彼らは、試行錯誤の末、屋敷にある金目の物を売り払うことに思い至る。そうしてまた数か月は食い繋いだが、やはり限界はあった。
そうこうしているうちに、年上の少年がさらに、屋敷にやってきた。彼は、年上ということもあり、稲荷日三姉妹弟たちよりもずっと賢しく、いろいろなことを知っていた。多くのことを教わり、多くを彼に頼り、彼らは、家族となった。
家族となり、兄弟となり、そうして彼らは、日々を過ごした。偏屈な父親のもと、一風変わった生活を、続けた。少年が加わってからは、比較的、食事には困らなくなった。
だがそれも、彼が若者の生き様に影響を受け、それを真似し始めてからは、また元に戻り始めた。
そのころには丁年たちも、それなりに『異本』を扱えるようになっていた。だから、丁年は少しばかり、年齢以上に大人びてしまい、当時からこっそりと少しずつ、家族の誰にも気付かれないように、闇に手を染めていった。
せいぜいが、盗み。だがもちろんそれだけで、十分な犯罪である。必要以上に金品を奪うことなく、十二分に蓄えのある家庭や店舗から、最低限の食料だけを盗んだ。とはいえ、繰り返すが、犯罪は犯罪だ。
丁年にも、罪の意識はあった。最初こそ、幼さゆえの倫理観の欠如から、生きるためには仕方なしと、罪悪感などなく行っていたが、賢しい彼のことだ、すぐにそれが、悪だと気付けた。だが、気付けたところで、遅い。生きる手段を知ったなら、人間は、生きることを諦められない。
暗に、ときおり若者からはそれを諫められてはいたが、丁年は当時、自分がやっていることを若者が把握しているはずはないと思っていた。いまでも、その推測は覆っていない。またぞろ、若者は適当にカマをかけていただけだろう。そう思っている。
ともあれ、そのようにして、彼らは集い、育った。だがその、表面上安寧な暮らしは、丁年の、ある意味、自己犠牲によって成り立っていたわけである。
そうして数年を過ごし、ある日、少女がやってきた。それは、少年がやってきたときよりももっと、唐突過ぎる来訪だった。
そうして、彼らの生活は、一変した。
こうして、丁年の物語は、始まったのだ。
――――――――
降りかかる――文字通り身軽に、鈍い光を向けて降ってくるロリババアを、丁年は瞬間、呆けて見つめた。――と、そのように彼自身、感じたのである。
死を目前にして、走馬灯でも見たようだ。その瞬間、時間の流れが淀み、不思議な停滞をもたらした。それは、あまりに緊迫した状況の中、ついに感情が閾値を超え、死を前に、安寧に心が支配された一時だったのだ。
「お、おおおおぉぉ――――!!」
その、身体が、心が死を受け入れた安らぎを、無理矢理の咆哮で引き戻す。いつの間にか、認知していたよりも、よほど多くの時間を呆けていたらしい。それを丁年は、瞳孔の渇きで理解した。まばたきを求めて動こうとする瞼をかっ開き、そのせいか、涙が溢れた。
この非常時に、おかしな話だが、溢れる涙をこぼさないような慎重さで、丁年は銃を向ける。しかし、発砲したところで、仮に射殺した――できたところで、降りかかる超重量の慣性は止まらない。それを理解して、無駄な動きをしたことを後悔して、後悔なんてしている時間をすら後悔して、ただ、無様に転がり、回避した。現実的な温度を感じさせない黒い床が、肌に気持ち悪い。
寸刻遅れて、その超重量は、丁年が最前いた、その黒い床を叩き割る。非現実な漆黒の床。そのものを現実的にひび割り、少し遅れて、そのヒビを起点に、彼女の作り上げた黒い空間、そのものが崩壊した。
丁年が感じた死の危険。それすらもあざ笑うように、まるで須臾の夢のように、世界はひとつ、回帰する。そこは、丁年が当初乗り込んだ通りの、どこにでもある、事務的な一室であった。
特級執行官、それぞれに与えられた、私室だ。現実にあるその床には、超重量の斧が突き立っている。だが、それが振り下ろされたにしては、あまりに軽微な傷跡しか、その床にはなかった。
「いまのは、威嚇」
ロリババアが言う。
「あなたの父親を殺した。その、間接的な要因の一端を担ったことに対する、ワタクシなりの気遣い。……当たっても当たらなくてもよかった。でも、当てようと思えば当てられた。この世界なら」
茶髪のポニーテールを揺らして、彼女は、『異本』を掲げる。「『グリモワール・キャレ』」。言葉とともに、新しい黒が、空間を包んだ。
「罪の意識はほんとう。さっきの提案もほんとう。あなたが受け入れるなら、その通りにするつもりだった」
だけど。と、残念そうに、ロリババアは嘆息する。
「あなたが受け入れないだろうとは、思っていたの。ワタクシは馬鹿だけど、馬鹿だって、生きることには必死なのさ」
漆黒の空間。その無機質だけでは、非現実とはやや、呼びきれない。だが、丁年を見つめるロリババアの目が、わずかに細められる。それを合図にしたように、数々の――無数の銃口が、彼に照準を定め、空間に生成されていった。完全なる、非現実だ。
強力な、空間作成と空間制御。このひと月、彼らは敵の情報を集めることに苦心してきた。その結実のひとつを、丁年は想起する。特に彼女の『異本』については、彼らの長姉である佳人が実際に経験していた。その言から、ロリババアの相手は、丁年でしか対処しきれないと決まったのである。
稲荷日秋雨くん。物理的に回避不可能なほどの銃口を生み出してから、そう、ロリババアは、彼の名を呼んだ。
「ワタクシが生きるため。そんな、ワタクシのエゴのため。これよりあなたを、敵とみなす」
ごめんなさい。さようなら。
ロリババアは静かにそう言った。
鼓膜を脅かさない程度の銃声で、視覚を遮らない程度の鉛の雨が、丁年を、四方八方から、襲った。
『異本』の性能は――特例はあれど――基本的に、素肌で触れていなければ発動できない。丁年も、自身が持つ『異本』、『神々の銀翼と青銅の光』、そして、まだ男へ渡していない『ベェラーヤ・スミャルチ』は肌着の下にサポーターで固定し、常に肌に触れさせている。それでいつでも『異本』の力は発動できるわけだ。
その、ロリババアの無防備が、引き金を引いた。文字通りに。
「なっ……!」
だが、だからこそ考えが甘かった。よもやその無防備こそが、丁年の短慮を誘うための、ポーズだったとは……!
「『グランギニョルの練斧』」
その声と、圧倒的な重量が、丁年の頭上から、降りかかる。
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稲荷日三姉妹弟は、ベトナムの貧しい農村部に生まれた。……というのは、稲荷日秋雨の言である。彼の姉たちはそれ以降の、孤児院での生活しか記憶していなかったので、丁年の勘違いということもあり得る。ともあれ、少なくともかつての若者が、彼らを孤児院で引き取った当時、彼らがベトナムにいたことは確かだ。
ベトナムは東南アジアに属するが、中国系の人種が多く、一般的な彼らの外見は、日本人や中国人などの、東アジアの系統に近い。それゆえに、日本に連れ帰られた彼らも、地元民によく馴染んだだろう。少なくとも、外見は。
なにもない、本しかない屋敷に連れられて、彼らは、ほったらかされて育った。幸い、と言うべきか、食料はいくらかあった。彼らを引き取った若者の友人――あるいは支援者とでも呼ぶべき者たちが、不定期に送ってきていた物だ。だけれども、それも、数か月が経つころには枯渇し始め、いつからか、彼らは自分たちで、食いぶちを探すようになる。
町へ行ってみる。だが、基本的な物品のやり取りは、すべて金銭で行われていた。そのような文化すら知らない幼い彼らは、試行錯誤の末、屋敷にある金目の物を売り払うことに思い至る。そうしてまた数か月は食い繋いだが、やはり限界はあった。
そうこうしているうちに、年上の少年がさらに、屋敷にやってきた。彼は、年上ということもあり、稲荷日三姉妹弟たちよりもずっと賢しく、いろいろなことを知っていた。多くのことを教わり、多くを彼に頼り、彼らは、家族となった。
家族となり、兄弟となり、そうして彼らは、日々を過ごした。偏屈な父親のもと、一風変わった生活を、続けた。少年が加わってからは、比較的、食事には困らなくなった。
だがそれも、彼が若者の生き様に影響を受け、それを真似し始めてからは、また元に戻り始めた。
そのころには丁年たちも、それなりに『異本』を扱えるようになっていた。だから、丁年は少しばかり、年齢以上に大人びてしまい、当時からこっそりと少しずつ、家族の誰にも気付かれないように、闇に手を染めていった。
せいぜいが、盗み。だがもちろんそれだけで、十分な犯罪である。必要以上に金品を奪うことなく、十二分に蓄えのある家庭や店舗から、最低限の食料だけを盗んだ。とはいえ、繰り返すが、犯罪は犯罪だ。
丁年にも、罪の意識はあった。最初こそ、幼さゆえの倫理観の欠如から、生きるためには仕方なしと、罪悪感などなく行っていたが、賢しい彼のことだ、すぐにそれが、悪だと気付けた。だが、気付けたところで、遅い。生きる手段を知ったなら、人間は、生きることを諦められない。
暗に、ときおり若者からはそれを諫められてはいたが、丁年は当時、自分がやっていることを若者が把握しているはずはないと思っていた。いまでも、その推測は覆っていない。またぞろ、若者は適当にカマをかけていただけだろう。そう思っている。
ともあれ、そのようにして、彼らは集い、育った。だがその、表面上安寧な暮らしは、丁年の、ある意味、自己犠牲によって成り立っていたわけである。
そうして数年を過ごし、ある日、少女がやってきた。それは、少年がやってきたときよりももっと、唐突過ぎる来訪だった。
そうして、彼らの生活は、一変した。
こうして、丁年の物語は、始まったのだ。
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降りかかる――文字通り身軽に、鈍い光を向けて降ってくるロリババアを、丁年は瞬間、呆けて見つめた。――と、そのように彼自身、感じたのである。
死を目前にして、走馬灯でも見たようだ。その瞬間、時間の流れが淀み、不思議な停滞をもたらした。それは、あまりに緊迫した状況の中、ついに感情が閾値を超え、死を前に、安寧に心が支配された一時だったのだ。
「お、おおおおぉぉ――――!!」
その、身体が、心が死を受け入れた安らぎを、無理矢理の咆哮で引き戻す。いつの間にか、認知していたよりも、よほど多くの時間を呆けていたらしい。それを丁年は、瞳孔の渇きで理解した。まばたきを求めて動こうとする瞼をかっ開き、そのせいか、涙が溢れた。
この非常時に、おかしな話だが、溢れる涙をこぼさないような慎重さで、丁年は銃を向ける。しかし、発砲したところで、仮に射殺した――できたところで、降りかかる超重量の慣性は止まらない。それを理解して、無駄な動きをしたことを後悔して、後悔なんてしている時間をすら後悔して、ただ、無様に転がり、回避した。現実的な温度を感じさせない黒い床が、肌に気持ち悪い。
寸刻遅れて、その超重量は、丁年が最前いた、その黒い床を叩き割る。非現実な漆黒の床。そのものを現実的にひび割り、少し遅れて、そのヒビを起点に、彼女の作り上げた黒い空間、そのものが崩壊した。
丁年が感じた死の危険。それすらもあざ笑うように、まるで須臾の夢のように、世界はひとつ、回帰する。そこは、丁年が当初乗り込んだ通りの、どこにでもある、事務的な一室であった。
特級執行官、それぞれに与えられた、私室だ。現実にあるその床には、超重量の斧が突き立っている。だが、それが振り下ろされたにしては、あまりに軽微な傷跡しか、その床にはなかった。
「いまのは、威嚇」
ロリババアが言う。
「あなたの父親を殺した。その、間接的な要因の一端を担ったことに対する、ワタクシなりの気遣い。……当たっても当たらなくてもよかった。でも、当てようと思えば当てられた。この世界なら」
茶髪のポニーテールを揺らして、彼女は、『異本』を掲げる。「『グリモワール・キャレ』」。言葉とともに、新しい黒が、空間を包んだ。
「罪の意識はほんとう。さっきの提案もほんとう。あなたが受け入れるなら、その通りにするつもりだった」
だけど。と、残念そうに、ロリババアは嘆息する。
「あなたが受け入れないだろうとは、思っていたの。ワタクシは馬鹿だけど、馬鹿だって、生きることには必死なのさ」
漆黒の空間。その無機質だけでは、非現実とはやや、呼びきれない。だが、丁年を見つめるロリババアの目が、わずかに細められる。それを合図にしたように、数々の――無数の銃口が、彼に照準を定め、空間に生成されていった。完全なる、非現実だ。
強力な、空間作成と空間制御。このひと月、彼らは敵の情報を集めることに苦心してきた。その結実のひとつを、丁年は想起する。特に彼女の『異本』については、彼らの長姉である佳人が実際に経験していた。その言から、ロリババアの相手は、丁年でしか対処しきれないと決まったのである。
稲荷日秋雨くん。物理的に回避不可能なほどの銃口を生み出してから、そう、ロリババアは、彼の名を呼んだ。
「ワタクシが生きるため。そんな、ワタクシのエゴのため。これよりあなたを、敵とみなす」
ごめんなさい。さようなら。
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