箱庭物語

晴羽照尊

文字の大きさ
363 / 385
台湾編 本章 ルート『正義』

家族になろう

しおりを挟む
 1990年、一月。イタリア、エミリア=ロマーニャ州、ボローニャ県。
 ボローニャ大学。

「それではみなさん、準備はいい――?」

 若女が言う。

 いつもの特別教室。広い大学の片隅。彼らだけの、優しい箱庭。
 その中で、彼らはワイングラスを掲げ、世界の変転を祝うのだ。

「乾杯! あけましておめでとう!」

 いえーい。とか、すでにかのようにはっちゃけた若女の音頭で、四つのグラスが音を立てる。そのままおいしそうに、若女は自分のグラスに入ったものを、一気に飲み干した。

「ぷはー」

 空いたグラスに、彼女は自分で、次の一杯を注ぐ。

「……じじくさいですよ。シンねえさん」

 ひとりだけぶどうジュースで疎外感を感じていた子女が言う。敬愛する先輩――お姉さんに、お酌をしようと伸ばしかけた手は、その役目を始めることもできず、引っ込んだ。若女の行動は、子女の意思よりよほど、速すぎたからだ。

「もう、ゾイちゃんこまごま。お祝いどきはじじくさくていいって、法律でも決まってるでしょ」

「え、そうなんですか?」

「そんなわけないだろう」

 若男がつっこむ。一気飲み、とまではいかないが、グラスの半分以上を飲み干し、その後はくるくると、ワインを回してスワリングしていた。

「やっぱりおまえ、馬鹿だろ」

 紅色の長髪を邪魔そうに掻き上げて、美男が言った。彼は若女ほどではないが、一拍遅れてワインを飲み干している。若女とは対照的に、不味そうな顔をして、グラスをテーブルに置いた。

「あの、私だって、冗談言います」

「お、ぶーくん、いい飲みっぷり。次、次、注ぎ注ぎ……」

 ぼそりと言った子女の言葉は、若女の言葉にかき消される。冗談のように「注ぎ注ぎ……」言いながら、彼女は美男のグラスに、ゆっくりとワインを注ぎ足していった。

「おい、シンファ。少しでいい」

「注ぎ注ぎ……」

「少しでいいってんだ。……もういい、やめろ」

「私の酒が飲めねえっての?」

「おまえのじゃねえだろ。『先生マエストロ』の友人が作ったとか言ってたが、正直、不味い」

「えー、おいしかったけど」

 たっぷり、なみなみと注ぎ終えて、若女は言った。自分の言葉に責任を持つ、と、言わんばかりにグラスを傾け、半分を飲み干す。いましがた注いだ、美男のグラスから。「これで、私のお酒~」などと、わけの解らないことを言っている。彼女はそこそこアルコールに強いはずだが、すでにその白い肌には、紅が差していた。

「たしかに、うまくはないな」

 彼女の隣で、若男が言った。それから、自らのグラスに残ったワインそれを、仕方なく飲み干す。

「ぶどうジュースはおいしいですけど……」

 子女が、眼前の若男にだけ伝えるように、小さく言った。

「俺も一杯、ジュースをもらおうか」

 そう言いながら彼は、子女のそばに置かれていたボトルに、手を伸ばしかけた。

「はぁい~、リュウくんジュースですよ~」

 だが、若男の行動より早く、楽しそうに、若女が彼の持つグラスに、次を注いでいく。

「……シンファ。それはワインだ」

 とはいえ、すでに注がれ始めている。無理にそれを回避しようとすれば零れるかもしれない。ゆえに仕方なく、若男は受け入れるしかなかった。

「もう、リュウくんまで、私のお酒が飲めないとか言う。『先生マエストロ』がたくさんくれたんだから、たくさんたくさん、飲まなきゃね」

「どういう理屈だ」

 若男は言いながら、部屋の隅に置かれた、ダンボール箱を見た。そこには1ダースから二本を引いたボトルが、まだ残っている。半分はジュースとはいえ、残り半分はワインアルコールだ。
 そうして目を逸らした隙に、「リュウくんのも、私のお酒~」と、若女がグラスに口をつけていた。舐める程度に内容液を減らしただけで、「いい、自分で飲む」と、若男はグラスを引く。かすかについた赤いリップクリームを拭って、若男は仕方なく、なみなみ注がれたワインを飲んだ。彼女の匂いと混じったせいか、『彼女のお酒』は、少しだけおいしく感じられた。

「そうだそうだ。忘れてた」

 ふと、なにかを思い出したらしく、若女は立ち上がる。いつも勢いのいい彼女の行動に巻き込まれて、今回も、テーブルに置かれた彼女のグラスが、倒れそうになった。それを見越した残りの三人が、同時に、それを支える。
 そんなことなどお構いなしに、若女は平常運転だ。粛々と頭を下げ、真っ白に変わってしまった長い髪を、垂れ流す。

「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 幼児のように舌っ足らずな口調で、一言一句を噛み締めるように、言った。それから、やり切ったように清々しい顔を上げ、にこりと笑う。世界のすべてを受容する、完璧な笑みだった。
 だから彼らは、改めて彼女に惹かれる。こうして何度も、幾度も、彼女はみんなを魅了した。わずかな粗相も、だから、仲間たちは許した。誰もが彼女を、好きになった。

「あの……、シンねえさんって、あんな人でしたっけ?」

 ひとりで騒ぐ若女を見て、子女は心配そうに、他二人に尋ねた。
 問われた二人――若男と美男は、はす向かいに顔を見合わせ、「「こんなやつだ」」、と、言った。そのシンクロに、彼らは互いに、いやな顔をしたのだった。

        *

 その、帰り道。

「ねえー、リュウくん。りーちゃんのお見舞い行こー?」

「いま何時だと思ってる。病院、開いてないぞ」

 とうに酔いつぶれた若女が、若男の背でわめいていた。「えー、なんでー」と、わがままを言っている。
 初日の出が、もう、そこまで来ている。新しい一年が、始まる。その意識を、若男はこのとき、ようやく認識した。

「シンファ」

「…………」

 呼ぶ声に、返事はない。だが、若男は、彼女が聞いていることを、理解していた。

「おまえ――」

 は、本当にもう、消えたのか? そう聞きたかった。

 たしかにもう、以来、あの存在は姿を現さない。若女の身体を乗っ取ったりしていない。しかし、まだ彼女の心に、住み着いているのではないか。その疑念は、消えなかった。

 でも、聞けない。聞いたらなにかが、壊れる気がした。それに、どうせ聞いても、返事は一緒だろう。
 ちゃらんぽらんに見えて、彼女は本当に、芯がしっかりしている。そうと決めたら、揺らがない。絶対に、譲らない。

「――部屋、どこだっけ?」

 若男は、だから、聞くべきでないことを、聞いた。

「……リュウくん」

 泥酔から瞬間、意識を取り戻したように。そういうふうに装って、彼女は酒臭い息を、若男の耳元へ向ける。締めるように回した腕に――その細腕に、懸命な力を込めて。

「おうち近いでしょ。泊めてよ」

 その言葉の意味を、若いふたりは知っている。だから、言う方も聞く方も、そのつもりで、その意味を、応酬した。
 少しだけ、若男は、悩んで。

「帰れ」

 と、言う。
 ふっ、と、鼻で笑った息が、若男の耳をくすぐった。それから身をよじって、彼女は彼の背から、逃れる。

「じゃ、また、明日」

 酔いなど最初からなかったかのように、正しい言葉で、正しい足取りで、彼女は去る。飾り気のない白いワンピースには、染みひとつない。

「ああ、また、明日……」

 これが正しかったのか、若男には解らなかった。彼女の思いを、自分の欲望を、理性で管理することが、正しいのか。

 ――だがまあ、そのわずかな焦燥は、杞憂に終わる。
 数日後には、素面しらふのままに彼らは、この日の続きを再開して、そして――。

 ――――――――

 正しく、ふたりはひとつになった。



「家族になろうよ」



 いつも通りの言葉で、いつも通りの表情で、気兼ねなく屈託なく言う。

 彼女の、言葉で――。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

マンションのオーナーは十六歳の不思議な青年 〜マンションの特別室は何故か女性で埋まってしまう〜

美鈴
ファンタジー
ホットランキング上位ありがとうございます😊  ストーカーの被害に遭うアイドル歌羽根天音。彼女は警察に真っ先に相談する事にしたのだが…結果を言えば解決には至っていない。途方にくれる天音。久しぶりに会った親友の美樹子に「──なんかあった?」と、聞かれてその件を伝える事に…。すると彼女から「なんでもっと早く言ってくれなかったの!?」と、そんな言葉とともに彼女は誰かに電話を掛け始め… ※カクヨム様にも投稿しています ※イラストはAIイラストを使用しています

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

処理中です...