箱庭物語

晴羽照尊

文字の大きさ
381 / 385
最終章 『ノラ』編

始まりと終わりの一冊

しおりを挟む
 最後の『異本』の回収は、驚くほどあっさりと終わった。

 いや、それが普通なのだ。人知を超えた完全なる球体。『啓筆けいひつ』序列五位、『幾何金剛きかこんごう』。その圧倒的存在感に気圧されていた。

 あるいは、少女の一連の行動。『家族』たちへの、無視できないほどの敵意。攻撃的行動。違和感の残る態度。

 それらすべてがごちゃ混ぜになって、男の感情を揺さぶっていただけ。WBOとの――実の父親との和解を経たいま、男の『異本』蒐集の旅は、かように順調に進んで、当然なのだ。

「これが……」

『幾何金剛』。そして、そのうちに収められていた二冊のうち、『啓筆』序列二位、『天振てんしん』までをも『箱庭図書館』に収め、最後の一冊に、男は手をかけた。

 これが、最後の一冊。
 そして、俺の母親が、遺した『異本』――。
 そう、男は感慨にふける。

「……少し、読んでみる?」

 控えめに、少女が提案した。まるでそれが、少女にとっても必要な、時間稼ぎでもあるかのように。

「…………」

 男も、逡巡したようだ。少女への返答までに、長い沈黙が挟まる。
 だが、やがて――

「いや」

 と、決断した。思わず力んでしまっていた肩を降ろし、息を吐く。

「きっと読んだら、歯止めが利かねえ。……俺はこれから、これを封印する。その決意を揺るがしかねねえからな」

 言葉にして、なおさら吹っ切れたのだろう。男は口元でだけ笑って、穏やかな表情を作った。

「ありがとうな、ノラ。おまえのおかげで、ここまで来られた」

 少女に向き直り、男はしっかりと、頭を下げる。

「なに言ってるの。あなたがいなきゃ、なにも始まらなかったわ」

 少女は言う。頭を下げた男に一歩近付き、その小さな背丈で、下から彼を、いたずらに覗き込む。

 だから、男と少女は目が合った。

 不思議なことに、男から見て、少女のその笑顔は――。

 泣いているようにも、見えた。

「……? ともあれ、これで、終わりだな。この、最後の一冊で――」

「いいえ」

 男の言葉に、少女は即座に、否定を返した。人差し指を一本、立てて、そっと男へ――向ける。

 恐怖におののくように、悲しみに打ちひしがれるように、なぜだか、その指は震えていた。



「あと一冊、残ってるわ」

 その震えた指先を、引いて――



「……ここにね」

 少女は、自らの頭を、指した。

        *

『シェヘラザード』シリーズは、元来、全九冊からなる、児童知育向けの絵本である。だが、一般に世に出回っているのは六冊だ。残り三冊が『異本』とされており、すでに男たちの旅路で蒐集されている。

 そのうち、シリーズ第五部『シェヘラザードの歌』と、最終第九部『シェヘラザードの虚言』は、たしかに間違いなく、書籍の体をなして『箱庭図書館』に収まっている。

 だが、第二部『シェヘラザードの遺言』だけは、その原本がすでに、焼失していた。男と少女の出会いの日に、その運命の始まりに、すでに、この世から消え失せている。

 それが残るのは、もはや、少女の頭の中のみだ。少女が『シェヘラザードの遺言』を読み、脳内に完全な模写として受け継いだ、その形でしか現存していない。

 つまるところ、。『異本』、全776冊。それらを集めきるなど――。

「だから、ハク――」

 いや、方法自体は、存在する。

「わたしも一緒に、封印して」

 少女――ノラ・ヴィートエントゥーセンを、一冊の『異本』とみなして、蒐集すること。それだけが、男に残された、目的達成のための、手段なのだ。

        *

 男は、瞬時にその言葉を理解し得なかった。

 いや、おそらく気付いてはいたのだろう。だが、彼の脳は、理解することをかたくなに拒んでいたのだ。

 それでも、いつまでも黙っているわけにはいかない。見て見ぬふりをしようとも、現実はそこまで――ここまで、もうきているのだから。

「なに言ってんだ。馬鹿じゃねえの」

 少女の言いそうなことを、男は言った。おどけたようにして、シリアスをギャグに変えようと。精一杯の、強がりを、語る。

 そのようにして、少女に叱られたかったのだ。あたなに馬鹿なんて言われたくないわ。と。ちょっと冗談言っただけなのに、調子に乗らないでよね。と。そんなふうに、怒ってほしかった。不機嫌にそっぽを向いてほしかった。そんな彼女を――娘をなだめて、仲直りしたかった。

「…………」

 だが、そんな現実は、こなかった。少女はまっすぐ男を見据えて、ただただ強い意志を、その、宝石のような緑眼に宿している。

「ハク。これでぜんぶ終わるの。逆にを蒐集しきらないと、ぜんぶが台無しよ」

 いまだ、銃口のように人差し指をあてがい続ける少女が、真剣な面持ちで、言った。

「なにが台無しだ。それじゃ根底から意味をなさねえ。たしかに『異本』を集めることは、おまえと出会う以前からの、俺の目的だった。だがいま、俺が『異本』を集める目的は、おまえを守るためでしかねえ。そのおまえが犠牲になって、目的だけ達しても、なんにもならねえだろ」

 まさしく、その通りだ。ゆえに男は、少女がなにを言っているのか、本当にわけが解らなかった。

『異本』、776冊、すべてを蒐集する。たしかにそう、目標を掲げていた。だが、その実は、少女を――『家族』を傷付けた『異本』という存在を、ただ憎んだからに他ならない。

 少女と出会う以前、男は、父親代わりだった『先生』へ手向けるため、『異本』を求めていた。それを『先生』――老人が求めていると思ったからだ。

 だが、そんなことを老人は望んでなどいなかった。その時点で、男は、すでに『異本』蒐集のモチベーションを失っていたのだ。

 なんなら、『異本』蒐集自体をやめようとさえ、本気で思っていた。だが、そんなタイミングで、少女が『異本』の一冊、『凝葬ぎょうそう』により氷漬けにされた。

 そのときの絶望から、男は再度、『異本』を集めきると誓ったのだ。少女を――大切な『家族』を傷付けた、人知を超える存在を、この世から取り払おうと。

 ゆえに、いまの男のモチベーションは、『家族』――とりわけ少女の、身の安全を確保することだった。『異本』をすべて封印したとて、まだまだ世界には、あらゆる脅威が存在する。それでも、間近で少女を奪おうと牙を剥いた『異本』への恐怖はひとしおに、男の心を抉ったのだ。

 だから、これだけはやり切ると決めた。それまでも『異本』については長く思いを馳せていた。それゆえに、やり切れるという公算があったことも、行動の理由だ。自分の力ではどうあがいても防ぎようのない、大災害や不慮の暴力までをも消し去ろうとしたのではない。男は男で、自分のできる範囲の、限界を成し遂げようとしただけなのである。

 かように、この『異本』蒐集の旅は、いつからか少女や、男の大切な『家族』を守ることを理由として行われてきた。であるのに、その少女を封印しなければ目的が達成されないなどと言われても、首肯できる理由は、どこにもないのだ。

「おまえらしくねえ。解ってんだろ? 俺はおまえのためなら、すべての『異本』を集めきって、封印する。そしておまえのためなら、その『異本』蒐集っつう目的も、簡単に捨てるぜ。俺は目的を達して、自己満足したいわけじゃねえんだ。ただ、おまえのために――」

「イライラするわ」

 ふと、少女は顔を歪めて、そう言った。

 本当に、心の底からの嫌悪を、吐き捨てるように。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

Re:コード・ブレイカー ~落ちこぼれと嘲られた少年、世界最強の異能で全てをねじ伏せる~

たまごころ
ファンタジー
高校生・篠宮レンは、異能が当然の時代に“無能”として蔑まれていた。 だがある日、封印された最古の力【再構築(Rewrite)】が覚醒。 世界の理(コード)を上書きする力を手に入れた彼は、かつて自分を見下した者たちに逆襲し、隠された古代組織と激突していく。 「最弱」から「神域」へ――現代異能バトル成り上がり譚が幕を開ける。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

処理中です...