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夜明け前の海
夜明け前の青の匂い
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夜の海が明けてゆく一瞬の青が好きだった。私はその青が見たくてスマホのアラームを毎朝4時にセットした。まだ薄暗い中、沖に出る漁師さんたちが赤い地引網を漁船に積み込む姿を毎日見ていた。その中の漁師の一人が海斗だった。
「いくら夜が明けるからって女一人が薄暗い中、ここにいるんはどうかと思う」
海斗はいつも夜明けを見る私にそう言っては船の甲板に飛び乗った。
手入れのされていない焼けた肌に、一つに結わえた伸びた髪と、若者のいきりにも見える伸びかけた髭、その見るからに無鉄砲、生意気な姿が今風の漁師という感じがした。
「おい、ノコさん、明日もくる? 」
「多分、明日もくるというか、夜明け前の青を見るのが今のところの日課だから、寝坊しなければ私はここにいるよ」
「そっ、じゃあ、行ってくるわ。明日、話がある」
それは突然だった。
私は集団生活がとても苦手だった。他人の心をどうしてもよんでしまう。裏の裏まで。それは私にとっては当たり前のことだった。幼稚園に入った頃から先生の顔色、友達の顔色、出会う人、出会う人の心を自然に当たり前のように読もうとしていた。学校に馴染めないながら、なんとか高校を卒業して、都会に出て就職したものの、半年ももたずにパンクした。正義は正義ではなかった。耳も聞こえる、言葉も発することができるのに、社長は気に入らない従業員とは筆談で話をした。それがどうしても許せなくて、社長に文句を言った日、即日、解雇になった。挙げ句に『若い何も知らんあんたに庇ってもらおうなんて思ってない、余計なことするな。こっちは生活がかかっとるんじゃ』矢面に立たされていたおじさんから、怒鳴られた。
その日から食事が喉を通らなくなった私は両親に担がれるようにして島に戻ってきた。私を待っていたのは、真実が捻じ曲げられて蜷局を巻いた噂話だけだった。こうやって夜明け前の青を見にきていることだって『若いのにおかしくなって可哀想』、そう言われていることはわかっていた。
梅雨に入る前の5月の終わり、『明日、話がある』と言った翌日、海斗はまだ薄暗い中、いつもと違う白シャツで現れた。
「ノコさん、おはよう」
「おはよう」
「今日は、俺は休みなんじゃ。朝飯食べる? 漁組の二階の通路に椅子とテーブルがあるけん、そこで食べよう」
海斗はそういうと私の手を引っ張って、目の前に見える漁業組合の建物へと歩き出した。
「海斗、今日は朝早うから、おなご連れてデートか? 」
すれ違う漁師さんたちが海斗の肩を叩く。
「おはよっす、デートならええんですけどね、ははっ、いってらっしゃい」
海斗はそう返事して、二階へと私を案内した。薄暗い中、鞄から保温ジャーを取り出して、鯛ご飯と味噌汁を並べた。
「これは? 」
「俺が作った。こう見えて魚もさばけるし、もちろん、簡単な料理はできる。ええ旦那になると思う。今のとこ、浮気の予定もないし」
「プッ、それは誰に向けて? 」
「もちろん、ノコさん。少しは元気になった? こっち戻ってから」
「海斗さんも聞いてたよね? もちろん噂。私がこうして、ただ夜明け前の青を見に来てることだって『おかしくなってる』って言われてることも私は知ってるし」
私がそういうと
「俺は、おかしくなっても、ノコさんは、やっぱりノコさんって思うけん。ただ、やっぱりそんな人はおらんと思いたいけど、女の人一人で暗闇は危ないと俺は心配かな」
薄暗い中、味噌汁の湯気が海斗の顔を曇らせる。
「いただきます。なんかキャンプの朝みたい──」
「ノコさん、俺はさ、もう漁師一択しかなくて、むろん、ここから出て生活したことも、する気もない。じゃけん、彼女とか嫁さんとか諦めてるけど、ノコさんは、うん、やっぱりここから出て華やかに生きるのが似合うんかな? って思うわ。そもそも、夜明け前の青が見たいなんて、誰が思うよ? 」
海斗はそう笑いながら味噌汁をすすった。
「漁師一択しかないかぁ──、格好いいね。私にはそう言い切れるものがないなぁ」
「……ないんだったら、本当にさ、ないんだったら、俺の嫁になれよ」
海斗の顔を見たあと、目をそらしてみた海はちょうどあの夜明け前の青だった。
「付き合ってもないのに、嫁になれよ? 」
「だってさ、俺のこと好きで海を見に来てるんじゃないか? っておっさんたち言っとるし、俺ももしかしたら──なんて思いはじめたりで。でも、ごめん。図々しいよな」
どう返事していいかわからず、私は割り箸で掴めるだけ掴んで鯛飯を口に頬張った。
「そんな、一気に口に放り込まんでも──」
海斗の作った鯛飯は、漁師が海の上で食べる潮の匂いまでがセットの味だった。白い鯛の身がまるで海に光る波みたいだ。
「ありがとう、今、気付いた。ちゃんと食べれる。実はね、ずっと食べれなかった。もちろん、最低限は食べてたけど、美味しさを感じなかった。私は前の職場で正義で社長に反抗して、だけども私の正義は余計なお節介だったんだ」
「そっかぁ、ごめん。俺にはわからん世界じゃわ」
気がつくと夜は明けていた。
「ごちそうさま」
「ああ、ようわからんけど、ちょっとでも元気になれたんならよかった。じゃあ──」
保温ジャーを鞄に入れて帰ろうとする海斗に
「今からデートしようか? 」
と誘ったのは私だった。
「デート? ほんまにデート? 」
ニヤけた海斗が連れて行ってくれたのは、いつも目の前に見えていた島のカフェだった。目の前に見えてる島なのに、別の島にフェリーで渡ってそこからまた橋を渡る。直接だとすぐに行けそうなのに、なんなら遠泳で行けそうなのに。
「彼女ができたら、ここへ連れてくるつもりだった」
カフェの窓から見えるのは、私がいつも立っている島の赤い桟橋だった。
「なんか不思議だね──」
「俺は小さな頃から知っとるノコさんとデートしとることがまだ信じられん。はあっ、彼女も嫁さんも諦めとったけん、婚活アプリにそろそろ登録しようか? と本気で思っとった」
***
「ねえねぇ、お母さん、その続きは? 」
「理沙ちゃん、何度言わせるの? 」
「だってさ、島って退屈なのに、なんでお父さんとお母さんは結婚できたのか? 聞きたいんだもん。お父さんのどこが良かったのかも、お母さんのどこが良かったのかも」
「聞いてどうするの? 」
「将来の恋のための参考にする──。だってさ、お父さんがよくお風呂で言ってたんだよ。『お父さんの恋は青だった』って。全然、女の人に興味なさそうな魚臭いあのお父さんから『青の恋』って、どんだけ母さんのこと好きなん? って思うでしょ? 」
「じゃあ、理沙、今度、朝4時に起こすから。お母さんとお父さんが恋した『青』を見せてあげる」
「青って今日だって空は青だよ」
「その青とは……うん、絵の具の青とは違う青。真っ暗な中からね、太陽が登る前に、ほんの少しだけ昼の青空とは違う夜明け前の青い世界がある。それは、愛になる前の恋する前の青い未熟さに似てるかもね」
「お母さん、難しいよ、簡単に説明してよ」
「理沙、人生なんて、簡単に説明できることなんてひとつもない」
昼寝から目が覚めた海斗は、相変わらず伸ばした髪を一つに結わえて、その目にはいつも青を宿していた。夜明け前の、明ける前の静かな炎の青を──。
私は今もその青に恋をしている。
海斗の無事を祈りながら。
「いくら夜が明けるからって女一人が薄暗い中、ここにいるんはどうかと思う」
海斗はいつも夜明けを見る私にそう言っては船の甲板に飛び乗った。
手入れのされていない焼けた肌に、一つに結わえた伸びた髪と、若者のいきりにも見える伸びかけた髭、その見るからに無鉄砲、生意気な姿が今風の漁師という感じがした。
「おい、ノコさん、明日もくる? 」
「多分、明日もくるというか、夜明け前の青を見るのが今のところの日課だから、寝坊しなければ私はここにいるよ」
「そっ、じゃあ、行ってくるわ。明日、話がある」
それは突然だった。
私は集団生活がとても苦手だった。他人の心をどうしてもよんでしまう。裏の裏まで。それは私にとっては当たり前のことだった。幼稚園に入った頃から先生の顔色、友達の顔色、出会う人、出会う人の心を自然に当たり前のように読もうとしていた。学校に馴染めないながら、なんとか高校を卒業して、都会に出て就職したものの、半年ももたずにパンクした。正義は正義ではなかった。耳も聞こえる、言葉も発することができるのに、社長は気に入らない従業員とは筆談で話をした。それがどうしても許せなくて、社長に文句を言った日、即日、解雇になった。挙げ句に『若い何も知らんあんたに庇ってもらおうなんて思ってない、余計なことするな。こっちは生活がかかっとるんじゃ』矢面に立たされていたおじさんから、怒鳴られた。
その日から食事が喉を通らなくなった私は両親に担がれるようにして島に戻ってきた。私を待っていたのは、真実が捻じ曲げられて蜷局を巻いた噂話だけだった。こうやって夜明け前の青を見にきていることだって『若いのにおかしくなって可哀想』、そう言われていることはわかっていた。
梅雨に入る前の5月の終わり、『明日、話がある』と言った翌日、海斗はまだ薄暗い中、いつもと違う白シャツで現れた。
「ノコさん、おはよう」
「おはよう」
「今日は、俺は休みなんじゃ。朝飯食べる? 漁組の二階の通路に椅子とテーブルがあるけん、そこで食べよう」
海斗はそういうと私の手を引っ張って、目の前に見える漁業組合の建物へと歩き出した。
「海斗、今日は朝早うから、おなご連れてデートか? 」
すれ違う漁師さんたちが海斗の肩を叩く。
「おはよっす、デートならええんですけどね、ははっ、いってらっしゃい」
海斗はそう返事して、二階へと私を案内した。薄暗い中、鞄から保温ジャーを取り出して、鯛ご飯と味噌汁を並べた。
「これは? 」
「俺が作った。こう見えて魚もさばけるし、もちろん、簡単な料理はできる。ええ旦那になると思う。今のとこ、浮気の予定もないし」
「プッ、それは誰に向けて? 」
「もちろん、ノコさん。少しは元気になった? こっち戻ってから」
「海斗さんも聞いてたよね? もちろん噂。私がこうして、ただ夜明け前の青を見に来てることだって『おかしくなってる』って言われてることも私は知ってるし」
私がそういうと
「俺は、おかしくなっても、ノコさんは、やっぱりノコさんって思うけん。ただ、やっぱりそんな人はおらんと思いたいけど、女の人一人で暗闇は危ないと俺は心配かな」
薄暗い中、味噌汁の湯気が海斗の顔を曇らせる。
「いただきます。なんかキャンプの朝みたい──」
「ノコさん、俺はさ、もう漁師一択しかなくて、むろん、ここから出て生活したことも、する気もない。じゃけん、彼女とか嫁さんとか諦めてるけど、ノコさんは、うん、やっぱりここから出て華やかに生きるのが似合うんかな? って思うわ。そもそも、夜明け前の青が見たいなんて、誰が思うよ? 」
海斗はそう笑いながら味噌汁をすすった。
「漁師一択しかないかぁ──、格好いいね。私にはそう言い切れるものがないなぁ」
「……ないんだったら、本当にさ、ないんだったら、俺の嫁になれよ」
海斗の顔を見たあと、目をそらしてみた海はちょうどあの夜明け前の青だった。
「付き合ってもないのに、嫁になれよ? 」
「だってさ、俺のこと好きで海を見に来てるんじゃないか? っておっさんたち言っとるし、俺ももしかしたら──なんて思いはじめたりで。でも、ごめん。図々しいよな」
どう返事していいかわからず、私は割り箸で掴めるだけ掴んで鯛飯を口に頬張った。
「そんな、一気に口に放り込まんでも──」
海斗の作った鯛飯は、漁師が海の上で食べる潮の匂いまでがセットの味だった。白い鯛の身がまるで海に光る波みたいだ。
「ありがとう、今、気付いた。ちゃんと食べれる。実はね、ずっと食べれなかった。もちろん、最低限は食べてたけど、美味しさを感じなかった。私は前の職場で正義で社長に反抗して、だけども私の正義は余計なお節介だったんだ」
「そっかぁ、ごめん。俺にはわからん世界じゃわ」
気がつくと夜は明けていた。
「ごちそうさま」
「ああ、ようわからんけど、ちょっとでも元気になれたんならよかった。じゃあ──」
保温ジャーを鞄に入れて帰ろうとする海斗に
「今からデートしようか? 」
と誘ったのは私だった。
「デート? ほんまにデート? 」
ニヤけた海斗が連れて行ってくれたのは、いつも目の前に見えていた島のカフェだった。目の前に見えてる島なのに、別の島にフェリーで渡ってそこからまた橋を渡る。直接だとすぐに行けそうなのに、なんなら遠泳で行けそうなのに。
「彼女ができたら、ここへ連れてくるつもりだった」
カフェの窓から見えるのは、私がいつも立っている島の赤い桟橋だった。
「なんか不思議だね──」
「俺は小さな頃から知っとるノコさんとデートしとることがまだ信じられん。はあっ、彼女も嫁さんも諦めとったけん、婚活アプリにそろそろ登録しようか? と本気で思っとった」
***
「ねえねぇ、お母さん、その続きは? 」
「理沙ちゃん、何度言わせるの? 」
「だってさ、島って退屈なのに、なんでお父さんとお母さんは結婚できたのか? 聞きたいんだもん。お父さんのどこが良かったのかも、お母さんのどこが良かったのかも」
「聞いてどうするの? 」
「将来の恋のための参考にする──。だってさ、お父さんがよくお風呂で言ってたんだよ。『お父さんの恋は青だった』って。全然、女の人に興味なさそうな魚臭いあのお父さんから『青の恋』って、どんだけ母さんのこと好きなん? って思うでしょ? 」
「じゃあ、理沙、今度、朝4時に起こすから。お母さんとお父さんが恋した『青』を見せてあげる」
「青って今日だって空は青だよ」
「その青とは……うん、絵の具の青とは違う青。真っ暗な中からね、太陽が登る前に、ほんの少しだけ昼の青空とは違う夜明け前の青い世界がある。それは、愛になる前の恋する前の青い未熟さに似てるかもね」
「お母さん、難しいよ、簡単に説明してよ」
「理沙、人生なんて、簡単に説明できることなんてひとつもない」
昼寝から目が覚めた海斗は、相変わらず伸ばした髪を一つに結わえて、その目にはいつも青を宿していた。夜明け前の、明ける前の静かな炎の青を──。
私は今もその青に恋をしている。
海斗の無事を祈りながら。
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