夜明け前の青の匂い

川本 薫

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summer

夜明け前の青の匂い

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 人生つまらないな、と思っていた。こんなことをXで呟けば『自分の気持ち次第!! 』きっとポジティブ警察がお決まりの気持ちを言ってくる。元気なんだから、当たり前に感謝だとかね、たかだか25年生きていて当たり前に感謝できるほどの不幸も幸せも感じないほど私が歩いてきた道は平坦だった。これもきっと両親が仲良すぎたせいだ。時々、ドラムセットを屋上から空に投げつけたい気持ちになる。もちろん、そんなことはしないけど。ドラムセットなんか持ってないし、例えば空に投げれたとしても落下して壊れて私をもしくは誰かを傷つけるだけ、そんなことはわかっているのに。当たり前のように方向転換を繰り返してはドヤ顔でつぶやく世界に吐き気がした。
 
 「理沙、お盆はいつ帰ってくるの? 」
 ラインでメッセージすればいいものを休日の朝早くに母は電話してきた。都会に出て就職したものの心を壊して島に戻った母は漁師だった父と結婚した。父と母が付き合うきっかけになった話は幼い頃、本を読んでもらうように何回も、何十回も母にせがんで聞かせてもらった。そんな仲のいい両親に吐き気を覚えるようになったのは高校生の頃。世界は広いのにこんな過疎化がどんどんと進む小さな島で暮らしてることがたまらなく嫌になった。令和になったのに漁師の仕事しかしたことがない父も、そんな父のためだけに生きてるような母も。私は先端を走ってみたかった。やりたいこともないのに、一番先から見える景色を自分の目で確かめたかった。

「帰らなきゃ駄目? 」
「理沙が私達を嫌いなことはお母さんもわかってる。でもね、理沙、私達もいつまでも元気ではいられない。孫の顔が見たいとは思わないけど、せめてお正月とお盆ぐらいは娘の顔が見たいって思う夢ぐらいは叶えて欲しい」
「母さんのそういう他人依存なところが大嫌い」
 私はまだ母が何か言いたそうなのに通話終了ボタンを押した。
 その後、すぐにまた着信音がなった。会社の上司、速水さんからだった。
「理沙さん、昨日は本当に申し訳ない」
「別に気にしてません。速水さんが酔っ払っていたことぐらいわかってますから。別にセクハラで訴えたりもしません。ただ呆れただけです」
 昨夜は会社の社長が慰労会だと社員全員をデパートの屋上にあるビアガーデンに連れて行ってくれた。私は特に誰かと話すわけでもなく、生ビールが入ったジョッキを持ったままで屋上からネット越しに周りの景色を見渡していた。歩いていると見えないけど、屋根って案外汚いもんだな、って思った。島はあんなに過疎なのに、ここから見える景色はぎゅうぎゅうだった。
「理沙さん、楽しんでる? 」
 アルコールがはいったからだろうか? いつもは静かな速水さんがやたらと絡んできた。そして
「ねぇ、理沙さんってまだ誰とも付き合ったことないんだよね? ってことは? 」
とふざけて大声でクイズの答えを期待するかのような声で言った。
「それが速水さんに関係ありますか? 」
「ないないナッシング!! 」
 ジョッキに入ったビールを頭からぶっかけたい気持ちになっていたら、速水さんは自分で自分に頭からビールをぶっかけた。
 慌てて社長や部長がやってきた。
「なにか、あったのか? 速水くんと? 」
「社長、申し訳ない。僕が酔っ払ってついいけないことを口にしただけです。ヘヘッ」 
「速水くん!! 」
 部長が速水さんの腕をひっぱって席に戻した。
「君は大丈夫なのか? 速水くんに何か? 」
「速水さんは酔っ払ってるだけで、気にしてません」
「ならいいけど──、とにかく君たちが楽しく働いてくれたら僕は嬉しいから」
「はい」
 社長はそう言うと速水さんが座る席へと戻った。
 君たちが楽しく働いてくれたら? 少しだけ酔っ払っていた私も心のなかで社長の言葉を反復した。体力テストの項目であった反復横跳びみたいに。
 偽善と心根の間を何度も。ジョッキのビールを飲み終えたところで私は『ご馳走様でした。先に帰ります』 社長に挨拶してエレベーターにのった。楽しめなかった。楽しむことが一番苦手になっていた。

「本当にごめん。誰とも付き合ったことがないって耳にしたから、ずっと気になってたんだ。なんで誰とも付き合わないのかな? って」
「好きになったことがないから。同級生だって数人だったし、会社に入社したって特に──。ところで速水さんもストレスがあるんですか? アルコールだけであんなふうになるとは思えませんけど? 」
「いや、僕のことはいいよ。それより本当にごめん」
「もういいですよ。口から出た言葉ってどんなに謝られても消えませんから」
 通話終了ボタンをおそうと思ったら
「会って話がしたいんだ」
「だから、もういいです」
「そんなことじゃなくて理沙さんともっと話しがしたいんだ」
 これだけ感じ悪くしてるのに私と何が話したいのだろう? 
「特に楽しくはないと思いますけど、だったら行きたいところがあったのでそこでもいいですか? 」
 私は速水さんに天麩羅のお店を伝えた。
 誰かと約束をしたらドキドキするとかワクワクするとかという気持ちが自分の中に欠けていた。

「理沙さん!! 」
 12時20分に待ち合わせしていたのに12時に店の前につくと速水さんはもういた。
「速水さん、別にセクハラだとかで訴えるわけでもないし、呆れてるけど怒ってるわけではないんでほっといてくれると助かります」
「なんでだろう? 自分でもさ、もっと優しい喜んでくれる人と待ち合わせろよ!! って思ったんだけど、僕が今、一番話してみたいのは理沙さんなんだよ。なんかツンデレの猫みたいで付き合うとものすごいギャップがありそうで──」
「そういうのってSですっけ? いやМですっけ? 」
「本当、なんかへし折りたいぐらいの生意気だなぁ…… 」

 速水さんはため息をついて、天麩羅屋の中に入った。メニューはない。ただランチ定食のみ。カウンター席だけのこのお店は揚げたてをそのつど目の前のお皿に置いてくれるし量が多すぎないところも気に入って一人でよく食べにきていた。よく来ていたけど、『いらっしゃいませ』と『ありがとうございます』しか話したことがない。余計なことを聞かれないことも居心地がよかった。
「ランチ定食のみだけど、揚げたてだし、とっても美味しいです」
「なんかもう雰囲気でわかるよ。ところでさ、実は別れたんだ」
「別れた? 」
「そっ、結婚まで考えてたんだけどね、理沙さんとは正反対のような凄くいい子で僕の話を『うん、うん』って笑顔で聞いてくれててなんの不満も僕にはないんだと思っていたら、『好きな人ができた』って若い同僚の保育士と付き合ってたんだ」
「それがなにか? 」
「いや、だから正反対の理沙さんのことが気になって、というか、僕は勝手に理沙さんみたいな人のほうがいいんだろうか? って思って── 」
 席について、おしぼりで手を拭きながら、速水さんは勝手に思いを口にしていた。
「速水さんがどう思おうと私の気持ちが動かないかぎり、付き合うことはないとは思いますけど──」
「なんかさ、何か話すたび、そのバシッと殴られたような感覚も悪くないな、って今、思い始めてる」
 馬鹿だなぁ~と思いながら、私は目の前におかれた揚げたてのとうもろこしに塩をつけた。美味しいものを食べるときに言葉はいらない。速水さんの声もいらない。無言でとうもろこしを噛んでいたら、
「この後、どうする? 」
 私の顔をのぞきながら聞いてきた。
「速水さんってもしかしてうざいぐらいの構ってちゃんですか? 」
「ごめん。忘れたいんだよ。全部。誰かを好きになってなかったことにしたい。全部」   
 そんなふうになるほど、誰かを思えたことがなかった。速水さんがどんなに苦しんでいても、私は口の中のとうもろこしの甘さにうっとりとしていて誰かと付き合ってこんなに苦しむぐらいなら最初から1人でいいとますます思い始めていた。
「お話中、ごめんなさいね。お嬢ちゃん、いつもありがとうございます。今日はね、特別に活きが良い蛸があったんで、夜用だけど、本当に特別、よかったらどうぞ」
 オーナーが蛸の天ぷらを私と速水さんのお皿の上に置いた。はじめての『特別』だった。蛸なんて死ぬほど食べていた。母がすり鉢で蛸を塩もみしてる姿を幼い頃から当たり前のように見ていたから。
 熱々の蛸の天麩羅に、塩をつけて口にいれた。口に入れた瞬間に涙が出てきた。美味しすぎたからじゃない。もちろん、美味しかった。母が作ったのと同じぐらい。蛸の天麩羅を口にして、母の作る天麩羅がこの店と同じぐらいの味だったんだと気づいて、その蛸の匂いが父の手の匂いだった。
「理沙さん? 」
「大丈夫です。ちょっと母が作った蛸の天麩羅と同じ味で父の手の匂いがしたから、ちょっとびっくりしただけです──」
「行ってみたいな……。理沙さんが育ったところ。旨いもんがたくさんありそうだ」

 天麩羅を食べ終えた後、いつも通り最後に温かい紫蘇茶が出てきた。
「スルーされてるけどさ、この後、どうする? 」
「まだ何かありますか? 」
「いや──、なんかやっぱり君じゃないんだな」
「当たり前でしょ、そんなの!! 」
 店のドアを開けたとき、入道雲が見えた。入道雲なんて意識したのは夏休みの宿題で海の日のコンテストの絵を描いて以来だった。
「じゃあ、速水さん、明日、会社で」
「ああ、とりあえず、理沙さん、酔ってるとは言え、本当に悪かった」
 速水さんが私に深々と頭を下げる姿を見て、私も一礼して、裏道からメイン通りへと歩こうとした。
 背後から足音がしたと思ったら、包むみたいに速水さんが背後から抱きついてきた。
 失恋というのはこんなに悲しいものなんだろうか? 私のことを好きなんじゃない。彼女を忘れたくて仕方ないんだな、と思った。
 ザパァ──、ザザーン、ザパァ──、ザザーン、私を背後から抱きしめてきた速水さんが波のように思えた。私はただその音を砂浜で立ち尽くして聞いてるだけだ。気が済むまで満たされれば、きっと静かにひいてゆく。
 通り過ぎてゆく人たちが目線を合わせた後、すぐにずらして、また振り返ってわたしたちを見ていた。
「速水さん? 」
「いや、本当にごめん。でも狂いそうなんだ。地面にドラムセットを叩きつけたいぐらいに!! 」
「ドラムセット? 」
「そう、ドラムセット!! ドラムのバン!! って音ぐらいに」
「私は時々、空に投げつけたいと思ってました。ドラムセット!! 」
「理沙さんは空なんだ? 僕は地面だ」
 ほんの少しだけ嬉しくなった。美味しい以外で心が動いたのは久しぶりだった気がする。
「取り返しにいけばいいのに、彼女のこと」
「それも考えた。死ぬほどパターンも想像してみた。いつか彼女が僕のほうがよかった、って戻ってくる未来も想像しつくした。でも、結局、たどり着いたのは『だめなんだな』ってことで、浮かんできたのがなぜか理沙さんだった」
「そうだ!! 今度、ドラム、叩きに行きますか? ドラムが叩けるお店があるんです」
「ごめん、僕はドラムは叩きたくない。投げつけたいだけだよ」
 背中に抱きつかれたまま、顔も見ずにそうやって話していたら、汗だくになった。
「なんか、私が速水さんをオンブしてるみたいです」
「さて、もう一度聞く、これからどうする? 」
「とりあえず、離れてください。暑くてたまらない」
「ふうっ、なにやってんだか、30にもなるおっさんがこんな道端で」
「なんか情緒が波みたいで、少し羨ましいです。私は平坦なまっすぐな道みたいな感情なんで──」
「あくまでも上から目線かぁ。まぁ、ありがとう。理沙さん、今日は休みなのに」
「いえ、じゃあ、明日また会社で」
「あっ、うん」
 今度こそ、と大通りへと早足で歩いた。速水さんはもう追いかけてはこなかった。
どこかで盆踊りでもあるのだろうか? やたらと浴衣を着た人とすれ違った。
 今日はもう晩御飯はいらないな、明日の朝のパンとアイスコーヒーだけ、そう思って商店街の入口にあるコンビニに寄ろうとしたら、なぜか速水さんがいた。
「今度は先回りしてみた。ここに寄るなぁと思って」
 走ったんだ。汗だくだった。
「何がしたいんですか? 」
「とりあえず、語らせて欲しい。聞いてほしいんだよ」
 仕事中は汗なんかかきそうもないクールな人だと思っていた。昨夜から急に接近してきてなんなんだよ? と思った時、なぜか母に聞いて欲しくなった。まだ感覚はわからなかった。
「正直に話すと両親の仲がよすぎて、逆に私にはわからないんです。それを超えるほどの好きな気持ちが自分の中にあるのか? って。誰かと話したいとか一緒にいたいとか、友達すら私には必要じゃなくて──」
「両親の仲が良すぎるってはじめて聞いた。今時、そんな人もいるんだ? 」
「はい」
「もしまだ話を聞いてくれるなら港へ行かないかな? 」
「港? 」 
「ここから市内電車で20分ぐらいで着くから」 
「いいですよ」
 汗拭きシートを持ってこなかったことを後悔するぐらい汗だくになっていた。満員の市内電車でつり革を持つのが気になるぐらい。それを察してくれたのか、速水さんはずっと私の身体がよろけないように支えてくれていた。
 港に着くと街中では感じなかった生臭い潮の匂いがした。待合室に置かれていた大型の扇風機近くのベンチにとりあえず座って私は速水さんの話を聞こうと思っていた。
「さっきさ、これも偶然なのかな、市内電車で彼女がいたんだ。彼と手を繋いで。彼女も僕を見て目線をそらして、僕も目線をそらした。僕の駄目だったところってなんなんだろう? 理沙さん、教えてくれよ。僕を好きになれないところ、僕の好きじゃないところ…… 」
 男の人が涙を流すのを映画やドラマ以外ではじめて見た。
「速水さん、突き落とされたことあります? 」
「ないよ。そんな物騒なこと」
「私、あるんです。海に飛び込むのが怖くて、いつも飛び込めずにいたら、ある日、背中を押されて落ちたんです。私の背中を押すように頼んだのは母で」
「何それ? まるでライオンみたいな話じゃん? 」
「速水さんの好きな人も本気で好きだったから、ちゃんと別れたんじゃないかな? って私が言うのもおかしいけど、ふと思いました。恋愛したことがない私が言うな、って感じですけど──」 
 今度は私が速水さんの手を取って待合室の外から出た。
 桟橋がギシギシと波に揺れていた。
 石段のところに、ザブーン、ザブーンと波が打ちつけている。
 私は速水さんにイヤホンの片方を渡してアプリからオフライン設定をしていた『summer』を流した。
「速水さん、私、この曲聴くとなぜか終わりを凄く感じるんです。懐かしさを感じるんです。懐かしいと思えるほどまだ誰かに出逢ったわけでもないのに」 
「はあっ、たまらないな。これ、彼女がしばらくの間、着信音にしていた曲だよ」
「えっ? 」
「まさかだ!! 理沙さんからも聴かされるとは」


 いつもと変わらないはずの7月の終わりだと思っていた。
 「もう!! 理沙ちゃん!! 帰ってくるならちゃんと前もって連絡して!! しかも彼と一緒だなんてお母さん、びっくりして!! 」
 お盆は速水さんと一緒に帰省した。
 速水さんがどうしても一緒に来たいとついてきたようなものだった。漁師の仕事しか知らない父をカッコ悪いと思っていたけれど、速水さんにとっては、とてつもなくカッコ良かったみたいで夜は私と母の存在が見えないもののように、父とばかり話していた。
 夜、少し涼しくなって速水さんと海沿いの埋め立てを少し散歩をした。
「理沙のお父さんってすげぇかっこいいよな。僕も髪を伸ばして髭、生やそうかな」
「速水さんは似合わないと思うよ。父は海と共に生きてるようなものだから、あの枯れ具合は全部が潮風を浴びてるからだと思う」
「ここってそういえば、あんま波の音がしないな」
「そう、防波堤があるからかな、あまりバシャーンとかザブーンとか激しい音がせずに少し揺れる感じで静かに満ちてゆく。海も生きてるから、それぞれの性格があるのかもね、人間と一緒で」
「なんか星の数も全然違うなぁ。はあっ、悔しいな。僕もこんなところで育ってみたかった」
「そんなにいいもんじゃないけどね。でも、ありがとう。速水さんが一緒だったから、久しぶりに親孝行できた気がする。友達もいない私が男の人と帰省するなんて思っても見なかっただろうから」

 来年の夏のことはわからなかった。
 本当のところ、自分の気持ちも速水さんの気持ちも何一つはっきりとしたことなんてなかった。
 満たされれば、ひいてゆくのかもしれない。ひいたら、また戻ってくるのかもしれない。母は夜明け前の海を一人で見ていた時、父に声をかけられた。
 私はデパートの屋上から景色を見ていた時、速水さんから声をかけられた。
 ザバァ──、ザザーン、自分の心が揺れた夏がもうすぐ終わってゆく。
 誰かが片付けるのを忘れていた線香花火が一本、アスファルトの上に落ちていて、速水さんはそれを手にとった。
 「なんだか、寂しいな、来年もまた、一緒にここに来れたらいいな、理沙」
 夜に揺れていた。
 夏に揺れていた。
 ゆらゆらと揺れていた。
 生まれてはじめて思った。
 また次も、って。
 それが私にとっての夏だった。

 ──summer、
 
 
 






 







 



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