名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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消え入りそうな声

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 長くはない時間の筈だった。それなのに、シューロはわずかな時間が永遠と続くのではと思ってしまうほど、萎縮していた。ラトを前に、こんなに緊張をしたのは口に含まれた時以来だ。
 もしかしたら、ラトは優しいから、シューロが傷つかないように断りの理由を探しているのかもしれない。そんな優しさは嫌だと思った。受け入れてもらえる可能性なんて、限りなく低いことだってわかっていた。
 その沈黙の長さは、シューロの胸に仄かな期待を抱かせるのにも十分すぎる時間であった。
 自分に都合のいい解釈へ縋りたくなってくる。ラトは沈黙を破ると、ゆっくりとした口調で宣った。

「私には無理だ。期待には応えられない。」

 いつもの、シューロへと語りかけるかのような穏やかな口調であった。そこに、不快や嫌悪の感情は読み取れない。皮肉にもその声色は、シェスがシューロへと放った別れ際の言葉を彷彿とさせた。
 あんなに忙しなかった心臓の鼓動が、緩やかな動きへと変わる。まるで、心臓が萎んだかのように緩慢な動きになってしまった。そんなことある筈ないのに。
 シューロは、自分だけ違う場所に取り残された感覚に陥った。
 周りの動きが一段階早くなる。シューロは沈みそうになる気持ちを胸に押さえ込みながら、ゆっくりとラトを見つめ返した。
 普通を装わなくては。そうはわかっていても、目元はひくりと震え、口元は戦慄く。やがて堪えきれなくなった感情を口から吐息として漏らした時、ついにシューロは引きずられるようにして、クシャリと顔を歪めて俯いた。

 シューロの心を抉るのは、いつだって柔らかく、優しい声音ばかりだ。覚悟は決めていた。それでも、これ以上ラトに言葉を重ねて欲しくなかった。シューロの気持ちに答えられないというラトの理由を聞く勇気を、今のシューロは持たなかった。

「も、」

 胸が詰まって、息がまともに吸えないせいで、言葉がすんなりとは出てこなかった。

「も、う、いい……、困らせて、ごめん。」

 普段通りに言えたかはわからない。たった二言を口にするのさえしんどかった。
 シューロは平静さを装ったつもりだったが、ラトの前から体を翻す速さを、制御出来ないままに外へと飛び出した。
 早く逃げたかったのかもしれない。ラトの言葉を受け入れたくないという心からは、どこにも逃げられないことなんて、わかっている筈なのに。








「も、う、いい……、困らせて、ごめん。」

 とても頼りない、そして今にも消え入りそうな声色でシューロが言った。金色の双眸を悲しげに歪め、ラトの目の前から泳ぎ去った華奢な背を、追いかけはしなかった。

「……あの子が途中で話を切るのは初めてだな……」
 
 ラトが追いかけなかった理由。それは、今までのシューロからは考えられなかった行動に、少なからず心に衝撃を受けていたからと言っても、過言ではない。しかし、ラトの動揺は見た目には全く表れていなかった。
 先程の、シューロとのやりとりを反芻し、もういいと放棄された会話の理由を深く考える。一体、何をしてしまったのだろうと思ったのだ。
 ラトは普通の会話として、いつも通り話をしていたつもりだった。それが、一体どこから雲行きが怪しくなってしまったのか。

「謝られることなど、何も言ってはいない筈だが。」
 
 ラトは、たっぷりと時間をかけてやりとりを確かめても、思い当たる節が見当たらなくて弱りきっていた。
 ラトにはシューロの好きの意味を、理解することができない。懸命に理解しようとして、何度も質問を重ねていった。それでも、会話を続けるうちにシューロの表情はどんどんと曇っていったのだ。
 子を成す、という種類の好きは、ラトには無縁のものだった。羅頭蛇は単為生殖で、子孫を残す為の相手を必要としない。繁殖したい相手への好意を伝えられて、なんと返すのが適しているのか、皆目見当がつかなかったのだ。
 繁殖を目的とするのであれば、子を成す身体機能があればいいのだろうが、多くの生き物がもつそれを、羅頭蛇は持たなかった。
 仮にその機能を持っていたとしても、異種族同士の、それも姿形がかけ離れた者達との間に子供ができた例など、長く生きている中で聞いたこともない。
 そうなると、やはりシューロが選ぶ繁殖相手は己ではなく、同族が適しているだろう。
 海は広い。いつか、別のネレイスの群れにだって会える可能性は十分にある。だからこそ、ラトは、己からシューロが離れていく未来を見据えて、期待には答えられないと返したのだ。

 ラトは、シューロの言葉を大人しく待っていた。お互いがわからないことや理解し得ないことは、会話で埋めることが暗黙の了解になっていると思っていた。
 もしかしたら、己だけがそうだと思い込んでいたのだろうか。シューロから返ってきた言葉は、拒絶と謝罪だった。
 ラトの脳裏に、去り際に見たシューロの、いつもとは違う悲しみを宿した顔が浮かぶ。
 顔だけで感情が読み取れるシューロを珍しい種族だと思ったし、コロコロと変わる表情が見ていて飽きなかった。しかし、あの最後の顔は見たくない。

「今から追いかけて、……」

 気持ちが急いて、言葉が先に出た。しかし、ラトはまだ己の悪かった部分も思い浮かばなかった。中身のない謝罪など愚の骨頂である。ラトは頭を抱えるように鼻先を海底の砂に埋めた。
 儘ならぬ感情をぶつけるように尾鰭で海底を叩く。完全に無意識の行動であった。
 尾が弾いた大きな石が砕け、細かい礫となって飛び散った。失態を演じたことに未だ気がつかないラトは、ゆっくりと鰭を揺らした。
 他のことであれば、順序を追って説明する余裕もあっただろう。しかし、ラトはシューロの質問の表面だけを汲み取ってしまったのだ。
 言葉に隠された明確な気持ちの一雫すらも気が付かぬまま、己の考えを足りぬ言葉で簡易的にまとめ、それをシューロへと向けたのだ。体格に見合った性格を持つラトの欠点だ。己の言動がどう聞こえるかだなんて、客観的に見て教えてくれるものなんていない。

 二人のねぐらに届く光は明るい。海は遠くまで見渡せそうなほど、穏やかな青である。
 遅くとも夜には戻って来るだろう。その時に、もう一度きちんと話をすればいい。ラトはそう結論づけると、シューロの帰りを待つことにした。
 魔力の気配を探れば辿れる範囲内にいる。けれど、その日以降、シューロがラトの元に帰ってくることはなかった。

 ラトにとっては、シューロがいたことで多少の窮屈さを感じていた塒を一人で使えるのだ。眠る時だって隣にシューロがいないから、押し潰さないようにと気を配る必要もない。
 久しぶりの一人寝でなんの気掛かりもないというのに、ラトが感じたのは物足りなさだ。己の隣で寄り添って眠る、シューロの慣れた体温がそこにない。まるで大切なものを無くしてしまったかのような、胸にポカリとあいた空白に気がついたのであった。




 シューロの手のひらに硬いものが触れたような気がした。夢現の中、それを確かめるようにして撫でたが、つるりとした滑らかさの感触がない。瞼を開く、暗がりに差し込んだ、細長く青白い光が伸びる視界の中、己が触れていたものが波型に削れている岩肌だと気がつくと、一気に覚醒した。
 少し前までは、何かあればすぐに反応できるように、膝を抱えて眠るのが当たり前だった。今は、岩肌の丸みを帯びた部分に凭れるようにして寝ていた。
 ラトと離れたというのに、まだ側に寄り添って眠っていた時の姿勢のままだ。忘れ難い日々をまだ引きずっている。離れたくはないとあれだけ思っていたのに、一時の感情の昂りで唐突な行動を起こしてしまったのだ。
 シューロは体が覚えている感覚に苦笑いを一つ零すと、その瞳に後悔の色を宿した。

「もう、三日目なのにな……、」

 シューロはあれからラトの元へは戻らなかった。感情的になってしまったし、会わせる顔も無い。それに、こうなった以上、どう接していいのかもわからなくなっていた。
 傷を負ったラトを説き伏せて、体が良くなるまでは側に居られると思ったのはシューロの方だ。
 ラトの体は回復していた。もう共にいられる理由がない。あの塒に戻ったとしても、ラトはいないだろう。
 結局、最初から最後までラトには迷惑をかけただけになってしまった。今更落ち込んでも、過去は取り返せないのだ。膝を抱えて、己の足跡を見つめる。ラトが動くたびに巻き上げた海底の砂で、シューロの足跡が埋まることも、もう無いだろう。

 ぐう、と腹が鳴る。食欲なんて微塵もないのに、体はシューロが活動することを催促してくる。味覚もわからなくなっているだろうに、難儀なものである。

 シューロは、岩礁の割れ目にできたわずかな隙間に入り込み、何もせずに過ごしていた。
 体力を消耗しないように、只管に眠る。眠っている間は何も考えなくていい。己の過ちも、ラトの返事も、そして今後の不安も。

 しかし、ずっとこのままでは良くないという事は、シューロ自身が一番わかっていた。
 次に目が覚めたら、食べ物を探しに行こう。新しい寝床を探しに行こう。眠る前にそう決めては、ズルズルと行動を先延ばしにしている。結局、一人で進むのが怖くてこのままなのだ。
 一人ぼっちだったときの時間よりも、ラトと共に居た時間はずっと短い。それなのに、忘れることのできない日々であった。

 ここで、目を閉じてしまおうか。再び、そんな甘えが顔を出す。それでも、ラトと離れた今、前に進む為にも今日をきちんと生きなくてはいけない。
 海は広い。何かのきっかけで、ラトが離れたシューロのことを知ったとして。それが強く生きている姿でなくては示しがつかない。優しくしてくれたラトを落胆させない為にも、シューロはきちんと今を生きなければ。

 岩礁に手をかけて、注意深く窺うように外に出た。隣のわずかな隙間から顔を出した穴子を目に留める。シューロに気づいて慌てて巣穴へと潜る様子を見て、少しだけ笑った。
 もし岩礁の隙間に篭り切りだったら、ラトは穴子にでもなるつもりか。とシューロを揶揄うだろうなと思ったからだ。
 ここで待っていたら、迎えにきてくれるという未来があったのだろうか。そんな、詮無いことを考えて自嘲する。
 辺りを見回す。今日も静かな海だった。穏やかな青はどこまでも続いていて、変わり映えもしない毎日。シューロがここに来てからはずっと、こんな感じだった。






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