名無しの龍は愛されたい。−鱗の記憶が眠る海−

だいきち

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素直な心

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 シューロは、ラトの言った言葉が理解できなかった。
 繁殖と同じ、それが羅頭蛇の求愛?求愛って、シューロがラトにした告白と同じことだろうか。

 淡々としたラトの声を耳にして、シューロは己の喉を震わせた。肺に詰まった息が大きな泡となって口から出てしまいそうで、その苦しい感覚が今はひたすらに怖かった。
 番いであるのは自分の筈なのに、それは一体どういうことなのだろう。シューロは言葉を失ったように黙りこくり、瞬きも忘れたまま、ラトから視線を外す。
 そんな様子に違和感を覚えたのか、ラトは小さく身動ぐように反応を示すと、深淵の眼で狼狽えるシューロを映した。

「どうしたシューロ。私は、また何かをしてしまったのだろうか。」

 ラトは、落ち込んだ様子のシューロを前に、どうしたらいいものかと困惑した。
 もちろん、シューロだってそんな表情をさせたい訳ではない。それでも、耳に残った繁殖の単語はひどく印象深かったのだ。
 理性的なラトが、本能を揺さぶられるようにして闘ったと言うのか。つまりそれは、シューロ以外の求愛に応えたことになるのではないか。

「ラ、ラト、は、もう……ぼ、ボクが、いらないの……」

 震える声色でシューロが紡いだ不安は、音となってラトの元へと運ばれる。震える手を隠すかのように握りしめたシューロを前に、ラトは大きな口をパカリと開け、しばしの間絶句したように動きを止めた。
 ラトとシューロの間を、フヨフヨと小さな魚が泳いでいく。目の前の呑気そうな小魚の様子が羨ましくなるくらい、今度はシューロの発言にラトが動揺する番であった。

「……、ま、待ってくれ、シューロ……一体、」

 ごぼりと一際大きな泡がラトの口から溢れでた。それはわかりやすく動揺をした証で、ラトは陸に打ち上がった魚かのように口をぱくぱくと開閉させながら、言葉を絞り出そうとしていた。
 ラトの様子は、シューロに見られずに済んだ。先程のシューロの心の荒ぶりが移ってしまったかのように、今度は己の情緒が忙しなくなってしまった。
 間抜けにも何度も口の中を晒して、その分厚い舌をもつれさせながら言葉を探すラトの姿は、初めて見せるものだった。
 心臓に悪い出来事が繰り返し起こったことで、ラトの体内温度は何回も下がったのだ。いくら冷たいところが好きだとは言っても、そういう意味ではない。
 きっと、ラトがシューロと同じ姿だったら、冷や汗を吹き出して、大いに取り乱していただろう。
 胸元で、よりどころなく組まれたシューロの掌に縋り付いてしまいたい。ラトは、シューロが離れて行かないように、己の長い尾鰭で華奢な体を囲うことしかできなかった。

 少々吊り気味の、形の良いシューロの金色の宝石にも似た双眸が、今にも溶けてしまいそうな光を宿す。ラトはそんなシューロを前にして、大いに顔を青褪めさせた。まあ、見た目の変化には表れないのだが。

「ぼ、ボクがラトの、つ、番い、なのに、」
「あ、ああ、ああ勿論だ……!」
「は、繁殖、って、」
「あ、ああ、そう、そうだな……!」
「う、……っ……」

 いよいよシューロの瞳から大粒の涙が溢れた。ラトは、シューロの変化を目の当たりにし、身を強ばらせるかのようにして動きを止めた。

 どうしたらいい。なんでシューロは泣いている。また私が泣かせてしまったのか。ああ、そんなに涙を溢したら目が腫れてしまう。海藻で腫れは取れるのだろうか。もしかして、まだ体の具合が悪いのだろうか。いや、でも先程までは至って普通だった。
 一体何が引き金になってしまったのだろう。思い出せ、思い出せラト。番いを悲しませているのは、間違いなく己自身だぞ。

 穏やかな顔をしてはいるが、ラトの頭は理由探しに思考を巡らせる。シューロの背後では、その背に触れてもいいのだろうかと決めあぐねている長い尾鰭が、困ったようにチロチロと動いている。
 目元を拭ったシューロの嫋やかな掌が、静かに大騒ぎをしているラトの情緒を宥めるように、そっと口元に触れた。

「ラトは……、っ、ぼ、ボクが他のネレイスと繁殖、してもいいの……っ」
「それだけは断固として許さない。」
「でも、ラ、ラトはするんでしょ……っ」
 
 嗚咽混じりのシューロの言葉に即答したラトの目が、クワリと大きく見開かれた。己の瞼は、こんなにも可動するのかと限界を初めて経験したのだが、今はそんなことはどうだっていい。
 なるほど。己の発言にまたしても問題があったのだとようやく理解をすると、ラトは添えられたシューロの掌に鼻先を押し付けるように寄り添う。
 どうやら再び己の言葉足らずの悪癖が出たらしい。死んでも治らなかったらどうしようと落ち込みつつも、今度こそ誤解を生まないようにと気を配りながら、ラトはゆっくりと口を開いた。

「違う、いや、違わないけど、違うんだ。」
「な、何、が……っ」

 細い喉元が、苦しそうに上下する。ラトは、そんな痛々しいシューロを前にして、複雑な感情に見舞われていた。
 番いが泣いているのは、己が別の羅頭蛇に心を傾けているからだ。そう、勘違いしていることが理由だと理解してしまった。故に、ラトの情緒は、また別の形で忙しなくなってしまったのだ。
 己の番いに愛されていることを強く自覚してしまった。ラトは、申し訳なさと愛しさがないまぜになって、己の身の内の細胞が騒ぎ立てるから心の中が忙しい。
 ゆっくりとしたラトの鼓動は、己の耳に聞こえてしまうほどドキドキとしている。ラトはシューロの手を押しやると、まろい頬に鼻先をちょんと当てた。
 あの時、イルカの子供がやっていたことを目の当たりにして不満に思った。だからこそ、いつかは己もやってやろうと思っていたのだ。

「ラト……?」
「……これは、力加減が難しいな。」
 
 シューロを口の中に入れる方が、簡単だとは笑えてしまう。己のやったことに対して、照れ隠しをするかのように、ラトは鰭をゆったりと動かした。

「私は、本能だとは言ったが、同族に対してはシューロに向けるような感情を持ち合わせてはいない。」
「ボク……へ、の?」
「こんなに感情を揺さぶられるのも、胸が苦しくなるのも、その熱い手のひらが恋しいと思うのも、全部私の忙しない情緒を作り出すのは君だけだ。」

 相変わらずの抑揚もない淡々とした話し方は、端から見れば怒っているのだろうか。とも思われてしまうだろう。それでもラトは気にしない。感情の変化は、シューロにだけわかってもらえれば問題はないからだ。

「……ぁえ、っと、」

 ラトの独白にも聞こえるそれを、シューロはしばらくの間大人しく聞いていた。しかし、それも話の序盤までである。ラトが真っ直ぐに向けた言葉の数々に、今度はシューロの体温が一度上がる番になってしまった。
 長い黒髪が、バサリと広がった。シューロの体の防御反応が、急激な体温の上昇に応えたのだ。己の髪を大慌てで宥めるシューロは、ラトの前で二度顔を赤くした。

「ちょ、っと待って、違う、ボクは平気だから、っ」
「もしかして、照れたのか。」
「や、ち、ちが、えっと、う、うわっ、またっ」

 バサリと再び広がった髪を、シューロが手で纒めるようにして抱きしめる。ポカンとしているラトの視線に居た堪れなさそうな顔で俯いた。

「……私は、嬉しい。」
「う、うれしい?」
「嬉しいよ。シューロのその反応は、つまり私のせいなのだろう?泣かせてしまったことより、此方の方が気持ちがいい。」

 シューロの反応を前に、ラトがその身を縦にうねらせる。シューロが一喜一憂する姿は、ラトにとって栄養なのかもしれない。先程までの騒がしかった身の内はようやく大人しくなった。今はまた違った様子で照れているシューロを前に、ラトは実に満足そうである。

「でも、」
「なんだ。」

 実に上機嫌になったラトが、シューロを穏やかに見つめる。細い腕で長い黒髪を抱きしめた番いは、意を決するかのように顔を上げた。
 頬の赤みはまだ残っている。しかし、どことなく揶揄ってはいけないような雰囲気がする。
 ラトはシューロの言葉を待つことにした。そうでもしないと、ラト自身もまた気恥ずかしくなるようなことを口走ってしまいそうだったからだ。

「また、会うかもしれないでしょ……」
「それは、まあ……いつになるのかはわからないが……。」
「でも、嫌だ……。」


 ラトの相槌にチョンと唇を突き出した。不服そうなシューロの顔に再びの不満を感じて、ラトは少しだけ喜んでしまった。しかし、それをまた口にしたら拗ねてしまうかもしれない。
 シューロの体を囲うように、ラトがその身を侍らせる。己の顔に小さな手が触れると、そっとシューロが寄り添った。

「……遠慮をしないで口にすればいい。君は私の番いだし、私は君の番いだ。いつぞやのイルカの母君も言っていただろう。番いの願いには応えなくてはと。」
「それ、ボクは知らなかったけど、そうなの……?」
「すまん、言ったつもりになっていたかもしれない。」

 窺うように、ラトの瞳がシューロを見つめる。長い尾鰭が、シューロの体を支えるようにして背中に回った。
 ラトの大人の余裕を感じてしまって、シューロは少しだけ悔しかった。

「……か、」
「うん。」
「海溝の近くはやだ、……ま、またラトが求愛されちゃうかもしれないから。」

 ぽそりと呟かれたのち、シューロの手がキュッと指を握り込む。二人の寝床を変えたいという我儘が通るのだろうか。シューロは少しだけ勇気を振り絞っておねだりをしてみたのだが、ラトが嫌だというのであれば、それもまた仕方がないとも思っていた。
 しかし、ラトは違った。

「ああ、そうしようか。」
「え、」
「私はシューロと共になら、特段こだわりもないからな。」

 強いていうなら、広い場所がいいかな。と冗談めかしに宣った。
 シューロはラトの反応に、数度瞬きをしたのち、形のいい唇をムニリと真一文字にひき結んだ。己の我儘が通ってしまったことも驚いたのだが、ラトの言葉で、シューロと共になら。と言われて嬉しくなってしまったのだ。

「なんだ、それはどういう感情だ?」
「な、なんでもない……」
「なんでもないのに、そんな顔になるのか?もしかしてまだ怒ってるのか。」
「怒ってない、し、い、今こっち見ないで。」
「シューロ、ああ、やっぱりまだ怒っているだろう?すまない、機嫌を戻してくれ。この通りだ。」
「ほ、ほんとになんでもないから、っ」

 シューロが顔を隠すように頬に手を添える。そのままくるりと背を向ける様子に、ラトは心底参ったと言わんばかりの声色で哀願しながら、逃げるシューロの背中を追いかけるのであった。
 ラトが、後悔をしてしまうようなことにならなくてよかった。シューロの金色の瞳にラトが映る。傷が残れば、きっとラトはそれを引きずってしまうかもしれない。シューロは口にこそ出しはしなかったが、己の体が綺麗に治ったことに、内心はホッとしていた。
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