恋のドライブは王様と

桜木小鳥

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1巻

1-1

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    1


 都心の、大きなビルが立ち並ぶ一角。その裏路地に、わたし、富樫一花とがしいちかが働いている小さな可愛いカフェがある。店の名前は「ブランシュ」。フランス語で白という意味のその店は、オリジナルブレンドの珈琲コーヒーと、マスターお手製のパンケーキや軽食が美味おいしいと評判だ。
 内装はカントリー調で、つやのある木目のカウンターとテーブル席が四つ。少し古ぼけた感じのコットンやレースがところどころに飾ってあって、物語の中に出てきそうなくらい可愛い。もちろん、このわたしが毎日隅々まで掃除をしているから、店内はいつもピカピカだ。

「一花、手が止まってる。窓ガラスの曇り、ちゃんといて」
「は、はーい」

 店の奥から小さいけれど鋭い声が飛んできた。この店のマスターで、わたしの遠縁でもある水上みなかみ祥吾しょうごくんだ。わたしは慌てて窓のかすかな曇りをキュキュッと拭く。
 キレイになった窓ガラスには、化粧っ気のないわたしの顔が映っていた。キレイか可愛いかの二択でいうと、可愛い分類のほうだろう。一応、目は大きいと言われているし、そのせいか若くも見られるし……。二十五歳という年齢のわりには、幼い顔をしているという自覚はある。
 肩よりも長い髪は仕事中はひとつ結びにして、後ろにまとめている。服装も、動きやすいという理由から、シャツかチュニックにジーンズだ。それがさらに幼く見せているんじゃないかとも思う。
 今時いまどきの化粧をして、髪形も洋服も年相応のおしゃれをすれば、わたしだって結構イケると思うのだけれど。祥吾くんから、接客業だから華美にならないよう言われているのだ。
 祥吾くんは、そこら辺で安く売っている白いシャツに黒いズボン姿。そして男性にしては少し長めの髪を、軽く後ろに流している。それだけなのに、元々かなりの美形なので、どこから見てもイケている。神様は不公平だ。

「一花、また手が止まってる」

 祥吾くんの厳しい声で現実に戻されてしまった。せっかくイケメンなのに、根性がじ曲がっているのか、祥吾くんは結構厳しい。おまけに客といえど気に入らない人には容赦がないので、祥吾くん目当てでカフェにくるキャピキャピした若い女の子なんかはことごとく追い払われている。
 なので、可愛いお店のわりに若い女性客はほぼこない。そんなお店でわたしはかれこれもう七年近く働いている。自分で言うのもなんだけど、祥吾くんのお小言にも耐えられる、我慢強い性格なのだ。
 開店時間になったので、入口の鍵を開けて表のドアノブに「OPEN」と書かれたプレートを掛けた。扉を閉めて中に入った途端に、扉につけてあるベルがカランと鳴った。振り返らなくてもわかる。毎日十時の開店と同時に入ってくる人は一人しかいない。

「一花ちゃん、冷たい水ちょうだい」

 カウンターの真ん中にどっかりと座るなり突っ伏したのは、ヨレヨレのスーツ姿の、どことなく怪しい男。この店の常連客で、たちばな六郎ろくろうさんと言う。年齢は四十代半ば、職業は探偵だ。毎日十時にここにきて、ほぼ一日中居るときもある。本当に探偵なのか怪しいところだけれど、本人いわく優秀らしい。

「はい、六ちゃん。……また二日酔い?」

 かすかなアルコールの匂いを感じながら、目の前に水の入ったグラスを置く。すると、彼は素早くそれを手に取って一気に飲み干した。

「俺にもつきあいってものがあるんだよ、一花ちゃん」
「ふーん」

 探偵にいったいどんなつきあいがあるんだか。また突っ伏した六ちゃんを呆れた目で見やってから、厨房ちゅうぼうでランチの下ごしらえを始めた祥吾くんを手伝う。
 祥吾くんは元々料理が上手かったけど、カフェを始めてその腕はさらに上がっている。盛り付けも可愛く凝っている。でも如何いかんせん若い女性客がこないので、あまり評価はされていない。すごくもったいない……と言うわたしに対して、祥吾くんは「別にかまわない」と気にする様子もない。
 そして、もう少しでランチタイムという頃、六ちゃんがようやく顔を上げた。

「マスター、珈琲コーヒー
「はいはい」

 呆れ顔の祥吾くんが慣れた手つきで特製の珈琲をれた。こうばしい香りが店の中に広がっていく。珈琲を飲んで、六ちゃんが満足そうに頷いたそのとき、また入り口のベルが鳴った。

「おはよう、みなさん」

 やけにつやっぽい声で挨拶あいさつをし、六ちゃんの隣に優雅に腰掛けたのは、長い髪を無造作に束ねただけのキレイな女性。この店の常連客の一人、風間小春かざまこはるさんだ。
 白いゆったりとしたシャツにジーンズというわたしと同じような格好なのに、色気が全然違う。職業は高級クラブのママ。本当の年齢を聞くと怒られるので正確には知らないけど、たぶん三十代後半くらいだろう。二十代で自分の店を出したというツワモノで、こう見えて男らしい女の人なのだ。

「マスター、ハーブティーもらえる?」

 起き抜けのその顔はすっぴんなのに、その辺りの化粧の上手な女の子よりもキレイだ。
 祥吾くんは小春ママお気に入りのローズヒップの茶葉をガラスのティーポットに入れ、沸騰したお湯を注ぐ。あっという間にキレイな赤に染まったそれを、おそろいのティーカップと一緒に、彼女の前に置いた。
 ランチの時間に入ると、店も多少は忙しくなってきた。祥吾くん目当ての女の子達ではなく、普通のサラリーマンや落ち着いた感じの女性が多い。
 六ちゃんと小春ママも並んでランチを食べている。この調子だと、六ちゃんは今日も一日中ここに居ることだろう。小春ママは、いつものように出勤までここでのんびり過ごす予定のようだ。
 午後一時を過ぎた頃、もう一人の常連客がやってきた。

「一花ちゃん、いつものね」

 そう言って小春ママの隣に座った男の人は、中山尚なかやましょうさん。メガネにパリッとしたスーツ姿で、見るからにエリートって感じだ。彼は祥吾くんの同級生で、この近くの弁護士事務所で弁護士をしている。ランチの時間と、時々閉店間際にコーヒーを飲みにくるのだ。
 我が「ブランシュ」の常連客は、この三人。仕事も個性もバラバラなのに、ここが出来た当初からみんな仲良しだ。

「一花、ぼやっとしてないでサッサと運んで」
「ハイハイ」
「ハイは一回」

 祥吾くんの静かな叱責を受けて、トレイ片手に店内を慌ただしくまわる。
 わたしの毎日はこんな風に忙しく過ぎていく。充実していると言えばしている。〝あの日〟決心した通り、今を精一杯生きているからだ。後悔しないことは難しいけれど、それでも前だけを向いていくと決めたんだから。
 これであとは素敵な恋人でも居れば言うことなしなんだけど……。悲しいかな、現在彼氏と呼べる存在は居ない。別にずっと居なかったわけじゃない。学生の頃はそれなりにモテたんだから。でも、なぜか長続きはしない。わたしが悪いのか、相手が悪いのかそれはわからないけど。
 カフェで働いていても出会いなんてほとんどない。わたし目当てで通ってくれた人も過去には居たけれど、祥吾くんや小春ママ達にいじられて、いつの間にかこなくなってしまった。
 まったく、人の恋路を邪魔するなんて。……腹は立つけど、彼らに立ち向かえるほどの根性はないのだ。
 あー、この枯れた生活にうるおいがほしいわ。

「一花、黄昏たそがれるならもっと後にして」
「……はーい」

 うう、祥吾くんの意地悪。ちょっとくらい、いいじゃない。
 心の中でぶつぶつ言いつつ、それでも素直に仕事を続けた。



    2


 朝、目を覚まして部屋のカーテンを開けると、五月の青空が見えた。あのときと同じくらい、透き通るような青い空だ。
 今も決して忘れない、五月の澄み切った青空に、高い煙突えんとつから立ち上る白い煙が溶けて消えていく風景。それから、ぼんやりとそれを見上げて泣いている自分。
 わたしの両親は、二人で車に乗って買い物にいく途中、飲酒運転のトラックに追突され、そして亡くなった。
 本当に仲の良い二人だった。きっと天国で、わたし達運が悪かったわね、こんなことも一緒だなんてね、とか言って苦笑いしていることだろう。

『ねえちゃん……』

 涙声と、つないでいる指先の震えが一緒に伝わってくる。いつもはやんちゃ過ぎるほど騒がしい弟が、これまで見せたことのない絶望をその顔に浮かべていたことも、決して忘れない。

『大丈夫よ、大地だいち

 握っていた手にぎゅっと力を入れる。

〝なんとかなるわ〟

 それは、亡くなった母の口癖だった。駆け落ち同然で結婚して、親類達から縁を切られ、それでも底抜けに明るくて、いつでも前向きだった両親。
 残されたのは十六歳の自分と七歳の弟、たった二人。それでも……

『なんとかなるわ』

 口に出して言ってみたら、本当にそんな気持ちになってくる。思いっきり泣いて、とことん悲しんだら、それからはずっと前を向こう。
 生きている以上、死は平等に訪れる。そのタイミングがいつになるのか、それは誰にもわからない。それなら、〝今〟を全力で生きなければ。決して後悔しないように。
 そう、決意したのだ。
 とはいえ、大地と二人、火葬場で途方に暮れていたのは事実。そのとき――

『何にも心配いらないよ』

 駆け込んでくるなりそう言って、わたし達の頭をでてくれたのが、祥吾くんの両親だった。祥吾くんのお父さんは、父の従兄いとこにあたるという。そして、家族から絶縁されていたわたし達の両親と、ただ一人密かに連絡をとり続けていた人だった。新聞で事故のことを知り、急いで駆けつけてくれたそうだ。

『何かあったら、子供達を助ける約束をしていたんだよ』

 呆然としていたわたし達に、水上のお父さんがそう言った。
 事実、あとで両親の遺品を整理していたら、そのことをつづった遺言書のような手紙が出てきた。
 その後、わたしと大地はすぐに水上の家に引き取られることになった。弁護士をしている祥吾くんのお父さんが、事故後の手続き、裁判、そして相続まですべてを引き受けてくれた。学校は転校しなければいけなかったけれど、その手続きまでやってくれたのだ。

『ご両親の貯金と保険金は、二人の名義で定期預金に入れたからね。進学や必要になったときに使いなさい』

 真新しい通帳と印鑑を、わたし達に確認させてから家の金庫に入れ、そのお金とは別に、普段自由に使えるおこづかいも用意してくれた。おかげで、わたしも弟も何不自由なく過ごせ、問題なく進学することが出来たのだ。
 祥吾くんのお母さんもすごく優しい人で、両親の事故以来一人で眠れなくなってしまった大地に毎晩添い寝をしてくれた。

『男の子だからって、我慢することはないのよ』

 すっかり小さな子どもみたいになってしまった大地を、いつでもぎゅっと抱きしめてくれた。
 当時まだ一緒に住んでいた祥吾くんは大学院生で、わたしや大地の勉強を見てくれ、時々急に悲しくなって泣き出してしまうわたしを優しくなぐさめてくれたりもした。
 水上の家は絵に描いたような優しい家だった。優しくて頼もしい養父母と秀才の祥吾くん。両親を失いはしたものの、その後の自分達はどれだけ恵まれていたのか。それを実感し、悲しみも徐々に薄れてきたある日のこと。平和な一家に衝撃が走った。
 ずっと弁護士を目指して勉強をしていた祥吾くんが、突然学校を辞めてカフェを始めると宣言したのだ。

『何を言っても無駄だよ。もう決めたから』

 反対するお父さん達をよそに、祥吾くんはさっさと準備をしてあっという間に開業した。そして、同時にそのお店の二階に引っ越してしまった。
 ただ、他の従業員をやとう余裕はなくて、当時大学生だったわたしが土日を含め、時間のあるときに手伝いに駆り出された。しかも無給で!
 その後、就職氷河期で就職が決まらなかったわたしは、結局そのままカフェで社員として働くことになる。

『一花ちゃんを雇うなら、ちゃんと給料を払って正社員にしなさい』

 と祥吾くんのお父さんが言ってくれたおかげで、今は一人暮らしが出来る程度のお給料を頂いている。
 一人暮らしを始めたのは、ちゃんとした給料をもらい始めて半年が経った頃。通勤時間の短縮と、いわゆる一人暮らしへの憧れというヤツから決めたことだ。
 大地にはブーブー言われた。水上のお母さんも寂しくなるわと言っていたけれど、部屋探しや新しい家具や家電を買いにいくときはみんながつきあってくれた。
 今でも月に一度は必ず家に帰るし、時間が合えば一緒に食事にもいく。あの家族と過ごす時間は何より楽しい。
 亡くなった両親を忘れてしまったわけじゃない。でも、寂しくは思っても悲しい気持ちはあまりない。きっと両親もこうなることを望んでいると思う。そのために、わたし達をあの家族に託してくれたのだから――

「あっ、もうこんな時間だ」

 急いでお化粧をして、鞄を持って部屋を飛び出した。
 最寄り駅まではそれほど遠くない。今朝も駅に駆け込み、すぐにきた電車に乗り込んだ。乗車時間は約四十分。朝の通勤時間とは少しずれているとはいえ、電車はいつも満員に近い。でも、毎日毎日ぎゅーぎゅー押される日々ももうすぐ終わるのだ。そう思ったら、嬉しくなってきた。

「グフフ」

 つい声が出てしまう。目の前に座っていたおばさんが奇妙な目を向けてきたのがわかった。いけない、顔を戻さなきゃ。そうは思っても、嬉しさが込み上げてくるのは止められない。
 突然ですが、なんとわたし、自動車デビューをしちゃうのだ。運転免許は身分証代わりに二十歳の頃に取ったのだけど、それっきり車には乗っていなかった。
 でもこの前、偶然前を通った中古自動車屋さんで運命の出会いをしてしまった。それは可愛いピンク色の軽自動車。ヘッドライトが大きな目のように見えて、まさに動物みたいな可愛らしさだった。世間ではそれを一目惚れと言うのだと思う。

『ぎゃあーっっ!! なにこの壮絶に可愛い車は!?』

 叫び声とともにお店に駆け込んだ。

『あ、あの可愛い子をぜひわたしにっ』

 今思えば、自分でも引くくらいおかしなテンションで、困惑している店員さんを車の前まで連れていき、とりあえず仮押さえした。それから水上のお父さんにお願いして保証人になってもらい、ローンを組んだ。アパートの駐車場を契約して、カフェの駐車場も使えるように祥吾くんに頼んである。
〝あの子〟を迎える準備はすっかり整っている。あとは納車を待つばかりなのだけど、保険の手続きとか色々あるらしく、もう少し時間が掛かるようだ。
 ああ、憧れの自動車通勤! 都心を走るのは少し怖いけど、すぐに慣れるだろう。今のうちに、お気に入りの音楽CDを作っておかなくちゃ。やっぱりドライブには音楽がつきものだもんね。


「一花ちゃん、いつにもまして頭の中に本物のお花が咲いているみたいな顔してるわね」

 ランチタイムの忙しさを乗り切り、〝あの子〟のことを思い出しながら鼻歌交じりに洗い物をしていたら、目の前でまったりくつろいでいた小春ママに言われた。

「いつもあんな顔でしょう」

 その隣に座っていた中山サンがさらりと告げる。ちなみに六ちゃんはいつものようにカウンターに突っ伏して寝ている。
 どんな顔だと一瞬ムッとしたところで、祥吾くんが隣に立ってお皿をき始めた。

「どうせ、車のことでも考えているんだろ」
「すごい! 祥吾くん、どうしてわかったの!?」

 驚いて振り向くと、祥吾くんが呆れたように肩をすくめた。

「なになに? 一花ちゃん、車買ったの?」
「うん。ローンだけどね。でも納車はまだなの。中古の軽なんだけど、すごく可愛いの!」

 超ご機嫌に話していたら、中山サンが真顔で言った。

「事故ったらすぐ連絡しなさい。弁護してあげるから」
「弁護士が必要な事故ってどんなのよっ」
「人身とか?」

 中山サンの言葉に、一瞬だけ過去の記憶がよみがえる。大破した両親の車と飛び散ったガラスの破片。現場ではなく、裁判のときに見せられた写真でだけど、今でもまだ目の奥に焼き付いて消えない。

「中山」

 祥吾くんの声が静かに響く。それと同時に小春ママが中山サンの頭を叩いた。

「ああ……すまなかった、一花ちゃん」

 申し訳なさそうな顔をした中山サンに、ふるふると首を振った。

「ううん、いいの、気にしないで。もう大丈夫だから。そのことについては、免許を取るときも、今回車を買うと決めたときも、みんなでしっかり話し合ったから。車が凶器になることもちゃんとわかってる。気をつけるから」

 微笑んでみせると中山サンがホッとした顔になる。
 ちょうどそのとき、店の入り口のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 声と同時に顔を向けた瞬間、わたしの世界は時間を止めた。
 入ってきたのは背の高い男の人だった。わたしでも仕立てがいいとわかるくらいの、パリッとした黒っぽいスーツを着ている。鋭い目つきをしていても、その美しさはまったく損なわれていない。
 世の中にこんなにキレイな男の人が居たのか――ハンサムなんて言葉では言い表せないくらい素敵な人だった。
 切れ長の目は、くっきりとした二重。鼻筋はすっと通っていて、唇の形もキレイだ。黒い髪は後ろに流れるようにセットされていた。祥吾くんもかなりのイケメンだけど、彼はそれ以上だ。
 わたしが見惚みとれている間に、その人はつかつかとカウンターに近寄ってきた。途端にわたしの心臓があり得ないほど速く動く。
 わたしの呆然とした顔を見て怪訝けげんに思ったらしく、小春ママや中山サン達が振り返り、彼を見た。
 ああこれって……はじめてあの可愛い車を見たときと似ている。あのときと同じように叫び出したい。
 ギャーッッッ、この壮絶なまでに素敵な人はどこの誰なの!? あまりに素敵すぎてまばたきすら出来ない。目を閉じるのがもったいない。ずっと見ていたい! というか、見るしかないっ。
 からだ中の血液が全部頭に上りそうな錯覚におちいった瞬間、ランチを食べてからずーっとカウンターで寝ていた六ちゃんがむくりと起き上がって、椅子をくるりと回した。

「時間ぴったりだ」
「あなたが橘さん?」

 酒焼けと寝起きのせいで声がガラガラな六ちゃんに、超絶にキレイな人が低い声で言った。ああ、声までも素敵。

「まあな。マスター、奥借りるよ」

 六ちゃんはそう言うと、彼を奥のテーブル席にうながした。

「一花、見惚みとれてないで注文とってきて」
「は、はーい」

 チャンス!! あのキレイな人を間近で見られる大チャンスだわっ。
 トレイにお水とおしぼりを載せて、大急ぎで奥のテーブル席に向かいながら、さりげなく自分の髪を直す。飲食業だからと、髪はひとつにまとめているし、前髪もピンで留めてる。あまり乱れようがないのだけど、念には念を、だ。
 テーブルを挟んで向かい合って座り、なにやら神妙な雰囲気をかもしだしている二人に近寄った。

「いらっしゃいませ。ご注文は何にしますか?」

 いつもより少し高い声が出てしまったけど、仕方がない。だって、近くで見た彼はやっぱりとんでもなく格好いい!
 水の入ったグラスとおしぼりを置いたところで、

「ブレンド二つね」

 と、六ちゃんが答えた。ハンサムさんの方を見たけれど、異存はないらしい。
 チェッ。ちょっとだけでもお話ししたかったのに。

「かしこまりました」

 いつもは六ちゃんにはしないお辞儀をして、カウンターまで下がる。

「祥吾くん、ブレンド二つ」
「はいよ」

 カウンターの中に戻りカップの準備をすると、隣からすぐに珈琲コーヒーこうばしい匂いがしてきた。

「すごい美形ね」

 それまで黙っていた小春ママが、奥のテーブルを見てポツリと言う。

「そうよね!!」

 同意の意を込めてわたしが勢い良く頷くと、中山サンが呆れた顔をした。

「一花、持っていって」

 いつの間にか二つのカップに珈琲が注がれていた。トレイに載せて慎重に奥の席に運ぶ。

「お待たせしました」

 ハンサムさんの前にそっと置くと、彼がふっとこっちを見上げた。

「ありがとう」

 低い声に肌が粟立あわだつような感覚になる。ああもう駄目、倒れそう。なんとか六ちゃんの分の珈琲も置いて、ふわふわの雲の上を歩いている気分になりながら戻った。

「ああ、やっぱりすっごく格好良かった! 王子様みたい」

 思わずカウンターの椅子に倒れ込むように座る。

「なあに? 一花ちゃん、まさかの一目惚れ?」

 小春ママがニヤリと笑った。
 ああやっぱりそうか。あり得ないほどの心臓の鼓動も、声を聞いただけで鳥肌が立つような感覚も。これが本当の一目惚れと言うものなんだ。

「そうみたい……」

 ぼんやりそう答えたら、いつもはポーカーフェイスな祥吾くんが、ギョッとしているのが目の端に見えた。

「やめときなさい。どこの誰かもわからないのに」

 中山サンが、立ち上がりながら言った。さすが弁護士、正論だ。

「あら、だから一目惚れって言うのよ、センセ」

 小春ママが妖艶ようえんに笑う。お会計をしていた中山サンの顔が一瞬赤くなったけど、すぐに肩をすくめて出ていった。
 こっそりと奥のテーブル席を見ると、本物の王子様みたいにゆったりと椅子に腰掛けて珈琲コーヒーを飲んでいる彼の姿が見えた。その姿を見るだけで顔が赤くなる。一目惚れか……

「グフフ……」
「一花、変な顔になってる」

 祥吾くんの冷たい声に慌てて顔を戻す。椅子から降りて、カウンターの中に入ったそのとき、話を終えたらしい彼がスッと出ていくのが見えた。
 ドアベルを鳴らし、カフェを去るその後ろ姿をじっと見つめる。一分のすきもない颯爽さっそうとした姿に、わたしの頬がまた赤く染まった。

「マスター、今のもつけといて。あとおかわりね」

 いつもの定位置に戻ってきた六ちゃんが言った。彼のことを聞きたくてうずうずしたけれど、隣で祥吾くんがじーっと見ているので、おとなしくトレイを持ってテーブルを片付けにいく。
 空になったカップやお水のグラスをトレイに載せ、テーブルをキレイにいた。彼がここにさっきまで座っていたんだ。そう思っただけで胸が高鳴った。

随分ずいぶんな上客ね」

 カウンターから小春ママの声が聞こえる。

「優秀だって言わなかったかい」

 六ちゃんには似合わない気障きざったらしい声。急いでカウンターに戻ると、六ちゃんがわたしを見てニヤリと笑った。

「一花ちゃん、残念だけど俺には守秘義務ってものがあるのさ」
「……まだ、なんにも言ってないけど」
「一花はなんでも顔に出るからな」

 祥吾くんはさらりと言うと、六ちゃんの前に新しい珈琲を置いた。
 結局、六ちゃんには何も聞けなかった。けれど、再会の日はすぐにやってきた。なんと彼は、次の日も六ちゃんを訪ねてきたのだ。

「昨日はどうも」

 六ちゃんに向けられた声はやっぱり超絶に素敵で、わたしの脳をクラクラさせた。
 昨日と同じように六ちゃんと一番奥のテーブルで話している間、わたしの視線はまさに釘づけだった。祥吾くんにせきばらいをされても、小春ママに冷やかされても、彼から視線を外すことが出来ない。
 彼の優雅な立ち振る舞いは、やっぱりどこから見ても王子様以外の何者にも見えない。何かものすごい力に引っ張られるみたいに目が離せなかった。まるで地球から離れられない月のようだ。
 今までにこんな経験をしたことは一度もない。これが一目惚れだとしたら、恋の力ってものすごいんだって思ってしまう。そして、今までの恋愛経験なんて経験の内にも入らないんだと改めて感じた。

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