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第一章
1 月夜の迷子
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綺麗な満月の晩だ。
暗い色のインクを流し込んだような空には雲ひとつなく、優しく降り注ぐ月光が静謐な雰囲気を醸し出す。
遠くから聞こえてくる舞踏会の喧騒は途切れ途切れで、国勢を知らしめるかのように贅を凝らした城内には、ある少女の足音だけが響いていた。
「やだ、どうしよう迷っちゃった……」
広い王城内の一角で、ミアは途方に暮れていた。
今日のために気合を入れて誂えた純白のドレスは重く、幾重にもドレープを重ねたスカートは裾も長くて歩きにくい。
さらに、小柄な体型を隠そうとして選んだ高いピンヒールの靴も最悪だ。歩き慣れていないせいで足が痛くなり、さっきから生まれたての小鹿のようにプルプルと震えている。
このままでは歩けなくなるのも時間の問題である。
「ここなら……、脱いでも大丈夫かな……?」
不安そうにきょろきょろと辺りを見回し、少なくともミアが確認出来る範囲には誰もいないのを確認した。そして、痺れる足からそっと靴を外す。
無防備な足を晒すと、薄い長靴下越しに感じるのは濡れた芝生のひんやりとした感触。痛む足には心地いい温度だ。
「これで少しは歩けるわ」
足を持ち上げて、足首をそっと回してみる。
その瞬間にピリリと痛みが走るが、我慢出来ないほどではない。
靴を右手に持ち、左手でドレスの裾を持ち上げて、ミアは慎重に前に進んだ。不自然なくらいに高いヒールに合わせて作ったこのドレスでは、そうしていないと転んでしまいそうだった。
今日は、ミアーーエウフェミア・コスタンツィの社交界デビューの日だった。
この国では毎年、社交シーズンの一番最初の日に王城で舞踏会が行われる。
その年にデビュタントとなる貴族の令嬢達は、純白のドレスに身を包んでこの舞踏会に参加するのが慣わしだ。
そのため伯爵令嬢であるミアも、年頃になってからはこの日を今か今かと心待ちにしていた。
父や兄を相手にして毎日ダンスの練習をしたし、馴染みの店のお針子を総動員して豪奢なドレスも作り上げた。髪型だって最新の流行を取り入れ、今日は長い時間をかけて複雑に結い上げている。その艶やかな栗色の髪の上で光り輝いているのは、この国で一番人気の工房に依頼したティアラだ。
憧れの舞台に夢を馳せ、入念な準備とともに、今にも躍り出しそうな気分で父と共にやって来た。
「ミア、緊張してないかい?」
胸に手を当てて大きく深呼吸すると、隣に立つ父が心配そうにこちらを窺う。いつもの威厳ある姿とは違ってそわそわした父は、デビュタントであるミア本人よりも狼狽えて見えた。
「……ええ、少し。でも楽しみで仕方ないの」
そんな会話をしているうちに、待ちに待った舞踏会が開幕する。
ミアと同じく白い装いに身を包んだ年若い令嬢達は初々しく、会場内でくるくると回る姿はさながら可憐な白い花が咲いたかのようだ。ミアもその中の一輪となってステップを踏む。
時々父と目を合わせると、勇気付けるように微笑んでくれた。
大広間の高い天井と精緻な装飾に圧倒されながらも、一曲目のダンスは緊張しつつも楽しく父と踊った。万人の目を引く出来栄えとまではいかないが、何度も繰り返した練習の成果を披露出来ただろう。
最初は緊張して表情を硬くして踊っていたミアも次第に不自然な力みが抜け、最後には笑顔でダンスを終えることが出来た。
「ミア、悪いが私はこれからアストルガ侯に挨拶に伺わねばならん。ミアも一緒に来るか?」
パートナーと踊る最初の一曲が終わった後、父はミアにそう切り出した。
末っ子のミアに対して非常に過保護な父は、ミアを一人で放り出すことが心配で堪らないのだろう。
一応疑問の形を取っていたが、顔にはしっかりと『一緒に来て欲しい』と書いてある。
しかし父について挨拶回りをしていたら、多分この舞踏会が終わるまで誰とも踊る機会は訪れない。運命の相手と素敵な出会いをしたいと夢見るミアは、にっこりと微笑んではっきり拒否をした。
「お父様、私のことなら大丈夫よ」
細い指を胸の前で組み、軽く首を傾げてそう言う。
その姿は一見地上に舞い降りた儚い天使のようだが、その瞳にはしっかりとした意志が見て取れる。
「いやしかし初めての社交界で不安だろう? だから私が……」
「大丈夫だったら! ね? 早く行った方がいいわ、お父様」
父はミアの側に付いていられない事に散々文句を言っていたが、それが社交という物だから仕方ない。
エスコート役の父が会場内にいるとはいえ、これからは成人した淑女として一人で行動するのだ。そう思うと胸の高鳴りが止まらなかった。
さて、そこで一人放り出されたミアは、すぐに次のダンスを申し込まれた。
壁の花となったらどうしようと心配していたのに、ちゃんとダンスを申し込まれたわ!と舞い上がったのは最初だけ。
次々に殺到する申し出を律儀に受け続けると、すぐに足の感覚がなくなる程痛くなってきた。
「次は私と踊っていただけますか」
「何言ってるんだ、僕が先に待っていたんだぞ! だから次は僕と……」
「おい待て、こっちの方が先だろう」
「わ、私っ、外の空気を吸ってまいりますっ」
増え続ける申し込みによって不穏な空気が流れ始め、恐れおののいたミアは男達を押しのけてテラスへと逃げ出す。
やっと休憩出来ると安心したのも束の間、なんとそこでもグラスを傾けていた紳士に声をかけられた。
「申し訳ありません、私急いでますのでっ」
もう誰とも踊りたくない。
転がるように庭園へ出て、全く知らない王城内を闇雲に走って逃げた。
この白いドレスが目立つからいけないのだろうか。
一足先にデビュタントを済ませたの友人達に話を聞いた時には、緊張して父親としか踊れなかったなんて話もよくあったのに。足がすり減るほど踊らされるなんて聞いていなかった。
そして今、ミアは完全に道に迷っている。
よく考えたら父の元に避難するか物陰にでも隠れていればよかったのに、とにかく遠くへ逃げ出しくて会場を離れたのは浅はかだっとしか言いようがなかった。
舞踏会が行われている大広間を出て庭園から回廊に入り、何度か角を曲がった事は覚えている。それから細い通路を抜け、辿り着いた中庭は初めて見る場所。
ここは薄暗くて、月明かりと、中庭を囲む回廊に等間隔で灯されているランプだけが頼りである。
大広間の音楽がかすかながら聴こえるという事は、距離としてはあまり遠くないのかもしれないが、帰り方が分からないのであれば意味がない。
ミアがいないことに気付いた父が探しに来てくれるのを待つか、誰かが偶然通り掛かるのを掴まえて道を聞くか。
とはいえ、こんな何もない場所を都合良く誰かが通りかかるとも思えなくて、ミアはすっかりしょげ返っていた。
「誰か迎えに来てくれないかしら……」
中庭の中央には立派な花壇が設えられている。
白いドレスに土がつくのにも構わず、花壇の隣に座り込んだ。じんじんと痛んでいた足も、腰を下ろして体重を掛けるのを止めると痛みが軽減されるようだ。
そこに咲き誇る白い薔薇の花びらをそっとつつくと、その美しい花は『大丈夫だよ』とでも言うようにふるんと揺れてくれた。
少しだけ励まされた気分になって、ミアが小さなため息をついた時だ。
「おい、何者だ?!」
突然、静寂を切り裂くような怒声が響き渡った。
暗い色のインクを流し込んだような空には雲ひとつなく、優しく降り注ぐ月光が静謐な雰囲気を醸し出す。
遠くから聞こえてくる舞踏会の喧騒は途切れ途切れで、国勢を知らしめるかのように贅を凝らした城内には、ある少女の足音だけが響いていた。
「やだ、どうしよう迷っちゃった……」
広い王城内の一角で、ミアは途方に暮れていた。
今日のために気合を入れて誂えた純白のドレスは重く、幾重にもドレープを重ねたスカートは裾も長くて歩きにくい。
さらに、小柄な体型を隠そうとして選んだ高いピンヒールの靴も最悪だ。歩き慣れていないせいで足が痛くなり、さっきから生まれたての小鹿のようにプルプルと震えている。
このままでは歩けなくなるのも時間の問題である。
「ここなら……、脱いでも大丈夫かな……?」
不安そうにきょろきょろと辺りを見回し、少なくともミアが確認出来る範囲には誰もいないのを確認した。そして、痺れる足からそっと靴を外す。
無防備な足を晒すと、薄い長靴下越しに感じるのは濡れた芝生のひんやりとした感触。痛む足には心地いい温度だ。
「これで少しは歩けるわ」
足を持ち上げて、足首をそっと回してみる。
その瞬間にピリリと痛みが走るが、我慢出来ないほどではない。
靴を右手に持ち、左手でドレスの裾を持ち上げて、ミアは慎重に前に進んだ。不自然なくらいに高いヒールに合わせて作ったこのドレスでは、そうしていないと転んでしまいそうだった。
今日は、ミアーーエウフェミア・コスタンツィの社交界デビューの日だった。
この国では毎年、社交シーズンの一番最初の日に王城で舞踏会が行われる。
その年にデビュタントとなる貴族の令嬢達は、純白のドレスに身を包んでこの舞踏会に参加するのが慣わしだ。
そのため伯爵令嬢であるミアも、年頃になってからはこの日を今か今かと心待ちにしていた。
父や兄を相手にして毎日ダンスの練習をしたし、馴染みの店のお針子を総動員して豪奢なドレスも作り上げた。髪型だって最新の流行を取り入れ、今日は長い時間をかけて複雑に結い上げている。その艶やかな栗色の髪の上で光り輝いているのは、この国で一番人気の工房に依頼したティアラだ。
憧れの舞台に夢を馳せ、入念な準備とともに、今にも躍り出しそうな気分で父と共にやって来た。
「ミア、緊張してないかい?」
胸に手を当てて大きく深呼吸すると、隣に立つ父が心配そうにこちらを窺う。いつもの威厳ある姿とは違ってそわそわした父は、デビュタントであるミア本人よりも狼狽えて見えた。
「……ええ、少し。でも楽しみで仕方ないの」
そんな会話をしているうちに、待ちに待った舞踏会が開幕する。
ミアと同じく白い装いに身を包んだ年若い令嬢達は初々しく、会場内でくるくると回る姿はさながら可憐な白い花が咲いたかのようだ。ミアもその中の一輪となってステップを踏む。
時々父と目を合わせると、勇気付けるように微笑んでくれた。
大広間の高い天井と精緻な装飾に圧倒されながらも、一曲目のダンスは緊張しつつも楽しく父と踊った。万人の目を引く出来栄えとまではいかないが、何度も繰り返した練習の成果を披露出来ただろう。
最初は緊張して表情を硬くして踊っていたミアも次第に不自然な力みが抜け、最後には笑顔でダンスを終えることが出来た。
「ミア、悪いが私はこれからアストルガ侯に挨拶に伺わねばならん。ミアも一緒に来るか?」
パートナーと踊る最初の一曲が終わった後、父はミアにそう切り出した。
末っ子のミアに対して非常に過保護な父は、ミアを一人で放り出すことが心配で堪らないのだろう。
一応疑問の形を取っていたが、顔にはしっかりと『一緒に来て欲しい』と書いてある。
しかし父について挨拶回りをしていたら、多分この舞踏会が終わるまで誰とも踊る機会は訪れない。運命の相手と素敵な出会いをしたいと夢見るミアは、にっこりと微笑んではっきり拒否をした。
「お父様、私のことなら大丈夫よ」
細い指を胸の前で組み、軽く首を傾げてそう言う。
その姿は一見地上に舞い降りた儚い天使のようだが、その瞳にはしっかりとした意志が見て取れる。
「いやしかし初めての社交界で不安だろう? だから私が……」
「大丈夫だったら! ね? 早く行った方がいいわ、お父様」
父はミアの側に付いていられない事に散々文句を言っていたが、それが社交という物だから仕方ない。
エスコート役の父が会場内にいるとはいえ、これからは成人した淑女として一人で行動するのだ。そう思うと胸の高鳴りが止まらなかった。
さて、そこで一人放り出されたミアは、すぐに次のダンスを申し込まれた。
壁の花となったらどうしようと心配していたのに、ちゃんとダンスを申し込まれたわ!と舞い上がったのは最初だけ。
次々に殺到する申し出を律儀に受け続けると、すぐに足の感覚がなくなる程痛くなってきた。
「次は私と踊っていただけますか」
「何言ってるんだ、僕が先に待っていたんだぞ! だから次は僕と……」
「おい待て、こっちの方が先だろう」
「わ、私っ、外の空気を吸ってまいりますっ」
増え続ける申し込みによって不穏な空気が流れ始め、恐れおののいたミアは男達を押しのけてテラスへと逃げ出す。
やっと休憩出来ると安心したのも束の間、なんとそこでもグラスを傾けていた紳士に声をかけられた。
「申し訳ありません、私急いでますのでっ」
もう誰とも踊りたくない。
転がるように庭園へ出て、全く知らない王城内を闇雲に走って逃げた。
この白いドレスが目立つからいけないのだろうか。
一足先にデビュタントを済ませたの友人達に話を聞いた時には、緊張して父親としか踊れなかったなんて話もよくあったのに。足がすり減るほど踊らされるなんて聞いていなかった。
そして今、ミアは完全に道に迷っている。
よく考えたら父の元に避難するか物陰にでも隠れていればよかったのに、とにかく遠くへ逃げ出しくて会場を離れたのは浅はかだっとしか言いようがなかった。
舞踏会が行われている大広間を出て庭園から回廊に入り、何度か角を曲がった事は覚えている。それから細い通路を抜け、辿り着いた中庭は初めて見る場所。
ここは薄暗くて、月明かりと、中庭を囲む回廊に等間隔で灯されているランプだけが頼りである。
大広間の音楽がかすかながら聴こえるという事は、距離としてはあまり遠くないのかもしれないが、帰り方が分からないのであれば意味がない。
ミアがいないことに気付いた父が探しに来てくれるのを待つか、誰かが偶然通り掛かるのを掴まえて道を聞くか。
とはいえ、こんな何もない場所を都合良く誰かが通りかかるとも思えなくて、ミアはすっかりしょげ返っていた。
「誰か迎えに来てくれないかしら……」
中庭の中央には立派な花壇が設えられている。
白いドレスに土がつくのにも構わず、花壇の隣に座り込んだ。じんじんと痛んでいた足も、腰を下ろして体重を掛けるのを止めると痛みが軽減されるようだ。
そこに咲き誇る白い薔薇の花びらをそっとつつくと、その美しい花は『大丈夫だよ』とでも言うようにふるんと揺れてくれた。
少しだけ励まされた気分になって、ミアが小さなため息をついた時だ。
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