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第二章
1 祈り
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ミアの1日は、いつも神へ祈りを捧げる事から始まる。
ーー神様、どうか彼をお護りください。彼が無事に帰って来てくれるなら、それ以外何もいりません……。
あの日からずっと、何度太陽が巡っても変わらないミアの習慣だ。
彼がいるのであろう前線のある国境の方角を向き、硬い床に膝をつけて祈る。
いつもの日課を終え、ミアは慌ただしく準備を始めた。
「サラ、今日はリンゴのタルトを作って行こうと思うんだけど」
「ええ。子供達もきっと喜びますわ」
幼い頃から仕えてくれている侍女の返事を聞き、ミアは動きやすい木綿のワンピースに着替えて長い栗色の髪をくるくるとまとめる。
最初は自分で髪をまとめようとしてもぐちゃぐちゃに絡まるばかりで大変だったが、何度も練習した今となってはお手の物である。
「まぁ、本当に上手におなりですね。私の仕事がなくなってしまいますわ」
「ふふ、ありがとう。でもドレスは一人じゃ着られないもの。サラがいてくれないと困るわ」
最後に、髪に飾るのは紺色のワンピースに合わせた白いリボン。
鏡を見ながら形を整え、サラの持ってきてくれたショールを肩にかけた。
厨房に入ってタルト生地を混ぜながら、ミアは彼の事を思い出す。
彼は今、どこで何をしているのだろう。
戦場でもきちんと食事は取れているのだろうか、怪我や病気はしていないだろうか、清潔なシーツは手に入るのだろうか。
遠く離れた地で祈るだけしか出来ないミアの心配は尽きない。
あの日静かな声で「怖い」と言った彼が、一人で不安に押し潰されていたらどうしよう。
兄を通じて聞こえてくる戦況は全て華々しいものだが、彼が無事だという保証はない。名前も階級も所属も分からない彼とミアを繋ぐのは、あの月夜の約束だけ。
ミアは不安な気持ちを振り切るように、タルト台に敷いた生地をぐさぐさとフォークで突き刺す。
タルト生地を作ったあとは、リンゴの皮剥きに取り掛かる。
ナイフを使って果物の皮を自分で剥くなんて、かつては思いつきもしなかった。
「――もう、半年も経ったんだわ」
ミアが新しい物事に慣れたということは、それだけ時が流れたということを意味する。
彼が約束してくれ、指折り数えて待っていた半年は先日過ぎた。だが彼が帰って来る気配はなくて、ミアの想いだけが降り積もっていく。
「ん? お嬢さん、何か言いましたか?」
ミアがぽつんと呟いた独り言に、隣で野菜の皮を剥いていた料理人が振り返った。
沈んだ顔を見せて心配させてしまうのを恐れたミアは、慌てて口角を上げる。
「い、いいえ。こうやって厨房に入るようになって、もう半年になるのねって思っただけよ」
「あぁ、そういえばそうですね。いやぁ、あの時は驚きました。なんたって貴族のお嬢様があっしらと働きたいっておっしゃるから!」
気のいい料理人がでっぷりとした腹を揺らして笑い、ミアもつられて微笑んだ。
彼に箱入り娘だとからかわれたのがきっかけで、ミアは少しずつ自分の事は自分でするようになった。
今では普段着のワンピースは1人で準備するし、髪だって簡単にまとめる程度なら誰の助けも借りずに結ぶ事が出来る。
ドレスに関しては、紐を背中で締めるという構造上相変わらず自力では着られないが、少なくとも靴は自分で履くようになった。
少しでも彼に近づきたくて、今まで興味のなかった勉強にも精を出し、彼がいるであろう辺りの事を学んでもいる。
そしてもう一つ変わったのが、屋敷の厨房にも出入りするようになったことだ。
女騎士となった友人に一般兵士の暮らしぶりについて聞いてみたところ、若いうちは使用人を雇えるような給金は出ないと聞いたからである。そういう家庭では、小さな借家に住んで妻が全ての奥向きを取り仕切っているらしい。
彼には求婚どころかお付き合いさえ申し込まれてはいないけれど、万が一念願叶って妻にしてもらえた時、ミアが何も出来ないお嬢様では暮らしていけない。
だから屋敷の使用人に弟子入りさせてもらうことに決めたのだ。
半年前、『お嬢様がこんな所に来るなんて!』と慌てる料理人を説き伏せて、たまに調理を手伝わせてもらうところから始めた。
少しずつ厨房に馴染んでいったミアは包丁の使い方を教わり、オーブンに火を起こす方法を学んだ。そして今では簡単な菓子ならなんとか作れるレベルにまでなったのだ。
当初は、『指を切ったらどうするんだ』『やけどをしたら大変だ』と煩く反対していた父や兄達も、『お父様とお兄様のお茶の時間に、私が作ったお菓子を振舞って差し上げたいの』としおらしく告げれば、すぐに賛成に転じた。ちょろいものだ。
恋する乙女は強(したた)かなのである。
そうして障壁を取り払ったミアは、厨房に入り浸って見習い料理人の真似事をしている。
野菜を刻み、鍋をかき回す度、いつか小さな家のキッチンで彼が食べる食事を作るのだという甘い夢に酔いしれながら。
「お嬢様、そろそろ朝食の時間ですよ。旦那様がお待ちですから、火の面倒はこっちで見ておきます」
「本当? じゃあお願いするわね」
寝かせておいたタルト生地にクリームを敷き詰め、リンゴを整然と並べて、最後の焼く作業だけは料理人に任せる事にする。
さあ、今日も忙しい1日が始まる。
ミアはスカートについた粉をぱんぱんと払って手を洗い、食堂へと歩き出した。
ーー神様、どうか彼をお護りください。彼が無事に帰って来てくれるなら、それ以外何もいりません……。
あの日からずっと、何度太陽が巡っても変わらないミアの習慣だ。
彼がいるのであろう前線のある国境の方角を向き、硬い床に膝をつけて祈る。
いつもの日課を終え、ミアは慌ただしく準備を始めた。
「サラ、今日はリンゴのタルトを作って行こうと思うんだけど」
「ええ。子供達もきっと喜びますわ」
幼い頃から仕えてくれている侍女の返事を聞き、ミアは動きやすい木綿のワンピースに着替えて長い栗色の髪をくるくるとまとめる。
最初は自分で髪をまとめようとしてもぐちゃぐちゃに絡まるばかりで大変だったが、何度も練習した今となってはお手の物である。
「まぁ、本当に上手におなりですね。私の仕事がなくなってしまいますわ」
「ふふ、ありがとう。でもドレスは一人じゃ着られないもの。サラがいてくれないと困るわ」
最後に、髪に飾るのは紺色のワンピースに合わせた白いリボン。
鏡を見ながら形を整え、サラの持ってきてくれたショールを肩にかけた。
厨房に入ってタルト生地を混ぜながら、ミアは彼の事を思い出す。
彼は今、どこで何をしているのだろう。
戦場でもきちんと食事は取れているのだろうか、怪我や病気はしていないだろうか、清潔なシーツは手に入るのだろうか。
遠く離れた地で祈るだけしか出来ないミアの心配は尽きない。
あの日静かな声で「怖い」と言った彼が、一人で不安に押し潰されていたらどうしよう。
兄を通じて聞こえてくる戦況は全て華々しいものだが、彼が無事だという保証はない。名前も階級も所属も分からない彼とミアを繋ぐのは、あの月夜の約束だけ。
ミアは不安な気持ちを振り切るように、タルト台に敷いた生地をぐさぐさとフォークで突き刺す。
タルト生地を作ったあとは、リンゴの皮剥きに取り掛かる。
ナイフを使って果物の皮を自分で剥くなんて、かつては思いつきもしなかった。
「――もう、半年も経ったんだわ」
ミアが新しい物事に慣れたということは、それだけ時が流れたということを意味する。
彼が約束してくれ、指折り数えて待っていた半年は先日過ぎた。だが彼が帰って来る気配はなくて、ミアの想いだけが降り積もっていく。
「ん? お嬢さん、何か言いましたか?」
ミアがぽつんと呟いた独り言に、隣で野菜の皮を剥いていた料理人が振り返った。
沈んだ顔を見せて心配させてしまうのを恐れたミアは、慌てて口角を上げる。
「い、いいえ。こうやって厨房に入るようになって、もう半年になるのねって思っただけよ」
「あぁ、そういえばそうですね。いやぁ、あの時は驚きました。なんたって貴族のお嬢様があっしらと働きたいっておっしゃるから!」
気のいい料理人がでっぷりとした腹を揺らして笑い、ミアもつられて微笑んだ。
彼に箱入り娘だとからかわれたのがきっかけで、ミアは少しずつ自分の事は自分でするようになった。
今では普段着のワンピースは1人で準備するし、髪だって簡単にまとめる程度なら誰の助けも借りずに結ぶ事が出来る。
ドレスに関しては、紐を背中で締めるという構造上相変わらず自力では着られないが、少なくとも靴は自分で履くようになった。
少しでも彼に近づきたくて、今まで興味のなかった勉強にも精を出し、彼がいるであろう辺りの事を学んでもいる。
そしてもう一つ変わったのが、屋敷の厨房にも出入りするようになったことだ。
女騎士となった友人に一般兵士の暮らしぶりについて聞いてみたところ、若いうちは使用人を雇えるような給金は出ないと聞いたからである。そういう家庭では、小さな借家に住んで妻が全ての奥向きを取り仕切っているらしい。
彼には求婚どころかお付き合いさえ申し込まれてはいないけれど、万が一念願叶って妻にしてもらえた時、ミアが何も出来ないお嬢様では暮らしていけない。
だから屋敷の使用人に弟子入りさせてもらうことに決めたのだ。
半年前、『お嬢様がこんな所に来るなんて!』と慌てる料理人を説き伏せて、たまに調理を手伝わせてもらうところから始めた。
少しずつ厨房に馴染んでいったミアは包丁の使い方を教わり、オーブンに火を起こす方法を学んだ。そして今では簡単な菓子ならなんとか作れるレベルにまでなったのだ。
当初は、『指を切ったらどうするんだ』『やけどをしたら大変だ』と煩く反対していた父や兄達も、『お父様とお兄様のお茶の時間に、私が作ったお菓子を振舞って差し上げたいの』としおらしく告げれば、すぐに賛成に転じた。ちょろいものだ。
恋する乙女は強(したた)かなのである。
そうして障壁を取り払ったミアは、厨房に入り浸って見習い料理人の真似事をしている。
野菜を刻み、鍋をかき回す度、いつか小さな家のキッチンで彼が食べる食事を作るのだという甘い夢に酔いしれながら。
「お嬢様、そろそろ朝食の時間ですよ。旦那様がお待ちですから、火の面倒はこっちで見ておきます」
「本当? じゃあお願いするわね」
寝かせておいたタルト生地にクリームを敷き詰め、リンゴを整然と並べて、最後の焼く作業だけは料理人に任せる事にする。
さあ、今日も忙しい1日が始まる。
ミアはスカートについた粉をぱんぱんと払って手を洗い、食堂へと歩き出した。
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