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一通目 夜空の虹
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「逃げるのか」
どこまでも冷たい声で兄さんは言い放った。
「逃げるのか。母さんをあんな風にしておいて、自分だけこの家から」
殺意すら感じるほどの鋭い目付きで睨んでくる。
思えば、物心付いた頃から初めて兄さんが真正面から私を見ている。
兄さんは、母さんとは似ていない。写真の中の父さんと瓜二つだ。
赤ん坊の私を抱きしめて微笑む綺麗な母さんと、真新しい制服に身を包んではにかむ兄さんと、その真ん中で笑う父さんの写真。私はこの写真でしか兄さんの笑顔を知らない。
今年で二十九歳になる兄さんは、私を育てるために相当苦労をしたのだろう。実年齢よりも老けて見える。
お世辞にも整っているとは言い難い、平凡な、そして疲れ果てた顔。その険しい黒い瞳に、怯えた表情の私が映り込んでいた。
「……私じゃない。私のせいじゃ……」
言葉は震えて意味を為さなくなった。
この家に、私の居場所なんてなかった。
私は、父親という存在を知らない。
物心付いた時には亡くなっていたからだ。
私は、母親の愛情を知らない。
物心付いた時にはもう壊れていたからだ。
唯一面倒を見てくれる兄さんは、一度も私の顔を見ない。名前も呼んでくれはしない。
そんな兄さんに愛されようと努力をしたこともあった。
その度に返ってきたのはただ疎ましそうに背中を向ける姿か、「お前さえいなければ」と言う冷たい憎しみのこもった言葉だった。
小学生の頃は、愛されようと頑張った。
中学生になり、それは諦めに変わった。
高校生になり、この家を出ようと思った。
兄さんの顔色を窺い息を潜めて過ごすような、そんな日々を終わりにしたかった。
私が家を出れば、兄さんの負担も減るだろうし、何より嫌いな私の顔を見なくて済めばもう少し心穏やかに過ごせるのだろう。
私が家を出ていく。それが兄さんにとっても私にとっても最善の事だと思っていた。
……それなのに。
アパートの部屋を借りるための保護者同意書と保証書を見た兄さんは、射抜くような視線で睨み付けながらそう言い放ったのだ。
「逃げるだなんて、そんなつもりじゃ……」
私は愛される努力をした。
温情を求めて伸ばし続けた手を振り払ったのは、私と向き合うことを拒否していたのは兄さんや母さんじゃないか。
これが逃避だと言うのなら一体どうすれば良かったの?
「逃げるつもりがないなら、出ていく必要もないだろ。明日はお前が母さんの所へ行け。俺は仕事で遅くなる」
兄さんはそう言うと書類を丸めてゴミ箱へ投げ捨て、自分の部屋に入ってしまった。
翌朝。
「おはよう夏樹。どうだった?」
トボトボと通学路を歩く私に声をかけてきたのは、幼馴染の梨花だ。
長身でスレンダー、それでいて出るところは出ていてモデルのような彼女は、面倒見がよく皆から姐御と呼ばれている。
本人はそう呼ばれるのを嫌がっているが、それでも頼ってくる人皆をちゃんと相手している。
さっぱりとした快活な性格の彼女によく似合っているショートヘアを揺らして、ん? と首を傾げて返答を促してくる。
「ダメだった。貰ってきた紙も捨てられちゃった」
「よしよし、よく頑張った! あの冬樹兄ちゃんによく言ったよ!」
呟くように言ったその声をちゃんと聞き取った梨花は、私をぎゅーっと抱きしめ頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれた。
その優しさが心に染みて、涙が浮かんでくる。
「梨花ぁ」
抱きしめて慰めてくれる梨花を抱きしめ返そうと、その背に手を回した時だった。
「またやってるよ」
「気持ち悪い」
ひそひそと、それでいてわざと聞こえるように言っている声が聞こえて、結局その手を放してしまった。
「ちょっと、あんた達! 言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなの!」
梨花は怒って、陰口を叩いていたクラスメイト達を追いかけていってしまった。
私は本当は知っている。
あの人達は、本当は梨花と仲良くしたくて、梨花に依存している私の存在が、そんな私に構う梨花が気に入らないという事を。
梨花にすぐ抱きつく私の行動が、他者から気色悪いと見られている事を。
いい加減、抱きつく癖を直さなければ。
抱きしめてくれるその腕を、梨花に求めてはいけない。梨花には梨花の交友関係があるのだから。
梨花に依存しすぎてはいけない。他に会話とまではいかなくてもせめて挨拶くらいはできる相手を作らなければ。
そう決意した私は教室で「おはよう」と言おうとしてみたが、言葉は出てきてはくれなかった。
結局その日も梨花以外の人とは一言も口を利けないまま過ごした。
放課後、母の見舞いがあるからと梨花の誘いを断って急ぎ教室を出る。
「帰る方向同じなんだし」
言いかけた梨花をクラスメイト達が押し留めるのを視界の端に映しながら。
どこまでも冷たい声で兄さんは言い放った。
「逃げるのか。母さんをあんな風にしておいて、自分だけこの家から」
殺意すら感じるほどの鋭い目付きで睨んでくる。
思えば、物心付いた頃から初めて兄さんが真正面から私を見ている。
兄さんは、母さんとは似ていない。写真の中の父さんと瓜二つだ。
赤ん坊の私を抱きしめて微笑む綺麗な母さんと、真新しい制服に身を包んではにかむ兄さんと、その真ん中で笑う父さんの写真。私はこの写真でしか兄さんの笑顔を知らない。
今年で二十九歳になる兄さんは、私を育てるために相当苦労をしたのだろう。実年齢よりも老けて見える。
お世辞にも整っているとは言い難い、平凡な、そして疲れ果てた顔。その険しい黒い瞳に、怯えた表情の私が映り込んでいた。
「……私じゃない。私のせいじゃ……」
言葉は震えて意味を為さなくなった。
この家に、私の居場所なんてなかった。
私は、父親という存在を知らない。
物心付いた時には亡くなっていたからだ。
私は、母親の愛情を知らない。
物心付いた時にはもう壊れていたからだ。
唯一面倒を見てくれる兄さんは、一度も私の顔を見ない。名前も呼んでくれはしない。
そんな兄さんに愛されようと努力をしたこともあった。
その度に返ってきたのはただ疎ましそうに背中を向ける姿か、「お前さえいなければ」と言う冷たい憎しみのこもった言葉だった。
小学生の頃は、愛されようと頑張った。
中学生になり、それは諦めに変わった。
高校生になり、この家を出ようと思った。
兄さんの顔色を窺い息を潜めて過ごすような、そんな日々を終わりにしたかった。
私が家を出れば、兄さんの負担も減るだろうし、何より嫌いな私の顔を見なくて済めばもう少し心穏やかに過ごせるのだろう。
私が家を出ていく。それが兄さんにとっても私にとっても最善の事だと思っていた。
……それなのに。
アパートの部屋を借りるための保護者同意書と保証書を見た兄さんは、射抜くような視線で睨み付けながらそう言い放ったのだ。
「逃げるだなんて、そんなつもりじゃ……」
私は愛される努力をした。
温情を求めて伸ばし続けた手を振り払ったのは、私と向き合うことを拒否していたのは兄さんや母さんじゃないか。
これが逃避だと言うのなら一体どうすれば良かったの?
「逃げるつもりがないなら、出ていく必要もないだろ。明日はお前が母さんの所へ行け。俺は仕事で遅くなる」
兄さんはそう言うと書類を丸めてゴミ箱へ投げ捨て、自分の部屋に入ってしまった。
翌朝。
「おはよう夏樹。どうだった?」
トボトボと通学路を歩く私に声をかけてきたのは、幼馴染の梨花だ。
長身でスレンダー、それでいて出るところは出ていてモデルのような彼女は、面倒見がよく皆から姐御と呼ばれている。
本人はそう呼ばれるのを嫌がっているが、それでも頼ってくる人皆をちゃんと相手している。
さっぱりとした快活な性格の彼女によく似合っているショートヘアを揺らして、ん? と首を傾げて返答を促してくる。
「ダメだった。貰ってきた紙も捨てられちゃった」
「よしよし、よく頑張った! あの冬樹兄ちゃんによく言ったよ!」
呟くように言ったその声をちゃんと聞き取った梨花は、私をぎゅーっと抱きしめ頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれた。
その優しさが心に染みて、涙が浮かんでくる。
「梨花ぁ」
抱きしめて慰めてくれる梨花を抱きしめ返そうと、その背に手を回した時だった。
「またやってるよ」
「気持ち悪い」
ひそひそと、それでいてわざと聞こえるように言っている声が聞こえて、結局その手を放してしまった。
「ちょっと、あんた達! 言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなの!」
梨花は怒って、陰口を叩いていたクラスメイト達を追いかけていってしまった。
私は本当は知っている。
あの人達は、本当は梨花と仲良くしたくて、梨花に依存している私の存在が、そんな私に構う梨花が気に入らないという事を。
梨花にすぐ抱きつく私の行動が、他者から気色悪いと見られている事を。
いい加減、抱きつく癖を直さなければ。
抱きしめてくれるその腕を、梨花に求めてはいけない。梨花には梨花の交友関係があるのだから。
梨花に依存しすぎてはいけない。他に会話とまではいかなくてもせめて挨拶くらいはできる相手を作らなければ。
そう決意した私は教室で「おはよう」と言おうとしてみたが、言葉は出てきてはくれなかった。
結局その日も梨花以外の人とは一言も口を利けないまま過ごした。
放課後、母の見舞いがあるからと梨花の誘いを断って急ぎ教室を出る。
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