触手の魔女 ‐Tentacle witch‐

塩麹絢乃

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第一章

6.開花 その③:急転直下

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 ちょっと心配なぶつかり方だったが、そこは流石の異形とでも言うべきなのか、とりあえず生きてはいるようだ。

「……ふう」

 見た目以上の辛勝、危ない戦いだった。一歩間違えれば私が剣の血錆となっていたことだろう。それだけの相手だった。

「なん、だと……! 魔法使いウィザードを何人も屠ってきたあの者の剣が……ただの、子供ガキの見習い風情に……!?」

 ベランダで優雅に戦闘を眺めていたフェイナーン伯が身を乗り出して驚きをあらわにする。やっと、あの不愉快な余裕の笑みを引き剥がせたようだ。いい気味。

「で、どうなの、指輪を返してくれる気にはなった? いやというなら……アンタも斬るしかないわね」
「ぐ……」

 苦虫を噛み潰したような顔をするフェイナーン伯。しかし、それも束の間、すぐに私の背後に何かを見つけて不敵な笑みを浮かべた。

「リン」
「……分かってるわ」

 フェイナーン伯が何を見つけたのか、ほぼ同時に私も理解していた。周囲の闇夜に蠢く無数の気配。今度は私がしかめっ面を披露する羽目になってしまった。

「ふう……焦らせおって。遅いぞ、が尖兵『月を蝕むものリクィヤレハ』たちよ」

 そりゃあ、一人だけってことはないだろうとは思っていたが……これは予想以上の数だ。庭木や花壇の影にチラチラと見える異形、異形、異形の群れ。その数、パッと数えただけでも二十はくだらない。

 一人の人狼ライカンスロープを相手にやっとの薄氷を踏むような勝利だったというのに。多勢に無勢、これは無理!

「いやはや、想像以上の腕前だった。ますます失うのは惜しい。どうだ? 望むものはなんでも用意しよう。金も地位も愛人も爵位も……指輪以外ならなんでもだ。おお、そうだ、儀仗魔法士官コーテイジにだって仕立て上げてやる。――これが最後通告だ。諸侯派への忠誠を誓え」

 完全に落ち着きを取り戻したフェイナーン伯が、文字通り上から目線で語りかけてくる。私の夢のことまで引き合いに出して、ムカつくことこの上ない。だが、私は何も言い返すことができずにいた。

(どうする……?)

 完全に囲まれている。どうにか学院の結界まで逃げることができれば、それ以上は追ってこないかもしれない。

(しかし、どうやってここから抜け出す……?)

 悩む間にも異形による包囲網はジリジリと狭まってきており、フェイナーン伯の号令一つで彼らは雲霞のごとく一斉に私へ飛びかかってくることだろう。つまり、私を生かすも殺すもフェイナーン伯の思いのままという訳だ。

(……ムカつくなぁ)

 フェイナーン伯は勝ち誇った顔で私を見下ろし、悠然と私の返事を待っている。

 当然、誘いは断る。断るしかない。

 軽んじられた私のプライドは従属なんて到底許容できない。だが、そんな本意に反して私の喉は乾き、張り付き、一向に声らしい声を発してくれない。

 怯えているというのか、恐怖しているというのか。この私が。

 言え、言うんだ。

「さて、そろそろ答えを聞かせてもらおうか」
「……おい、口だけで良いからここは従っとけ。流石にやべぇぞ」

 マネが小声でそんなことを囁く。しかし、それは全くの逆効果だった。

(……ふざけるな)

 己が身を焼き尽くす反骨の炎が、却って私の喉を潤した。

「……断る。断るに決まってるでしょうが!」
「おい、リン!?」

 良く言ったと、私は自分で自分を褒めてやりたかった。そうだ、リンという人間はここで断るべきなのだ。例え、その先に死の未来しか待っていなかったとしても。きっと、以前の私ならこんなことはしなかった。だが、今の私には無理だった。

「お生憎様、舐められたまま惨めったらしく生きられる性分じゃないのよ……!」
「意地を通して死するか、その意気や良し! 皆の者――!」

 フェイナーン伯が片手を振り上げる。それは、さながら吊り上げた断頭台の縄を断ち切る斧のごとく。

 その手が振り下ろされる――瞬間。

「――そこまでだ!」

 凛々しい声が庭園に立ち込める緊張を引き裂き、皆の意識を纏めて鷲掴みにした。その他大勢と同様、声の方に振り向いた私は言いしれぬ安心感を覚えた。

 そこには、アーシムさんを筆頭に『猟犬ハウンド』の魔法使いウィザードたちが杖を構えて整列していた。

「これはこれは……『猟犬』の皆々様じゃありませんか? 一体、何の御用で?」

 フェイナーン伯が話し始めると同時、ざざっと異形の気配が暗闇の中に霧散した。姿を見られちゃ不味いということか?

 そっちの事情は知らないが……これは好都合!

「リン、今のうちだ」
「ええ、避難させてもらいましょ」

 騒ぎに乗じてこっそり位置取りを変えていると、整列する『猟犬』たちの中からアーシムさんが歩み出る。

「フェイナーン伯爵。貴殿の経営する複数の会社から不正な会計と、使途不明な金銭の流れが見つかった。よって、脱税と国家反逆の容疑で貴殿の身柄を拘束し、直ちに家宅捜索を行う」
「な、なんだと!?」

 フェイナーン伯の表情が一気に凍りついた。

「屋敷の使用人やこの場に居合わせたものたちも重要参考人として拘束し事情聴取を行う。なお、本件は重罪フェロニーであり、疑うに足る妥当性は十分との判断から拒否権は認めない」

 脱税と国家反逆の容疑とは具体的に何のことを言っているのか今の段階では分かりかねるが、一つだけ確かなのはどうやらロクサーヌ経由で駆け付けて来てくれた訳じゃなさそうだ。到着までの時間が早すぎる。

「ふ、ふざけるな……ッ! そんな横暴が通るか! こ、この私を誰だと思っている! エドムの古豪、フェイナーンの領主だぞ!?」
「先程申し上げた通り貴殿に拒否権はない。だが、不服申立てをする権利はある。その場合、留置場にて四十八時間以内に規定の手続きを行うこと。それを過ぎれば一切受け付けない」
「くそっ、貴きを知らぬ下賤な犬どもが……!」

 フェイナーン伯の顔を真っ赤に染め上げた必死の抗弁も、アーシムさんはにべもなく切り捨てる。さっきまでの気取った威厳は見る影もない。

月を蝕むものリクィヤレハたちよ! 一秒でも多く私が逃げる時間を稼ぐのだ! こんなところで、の『夢』を潰えさせる訳にはいかん!」

 説得を諦めたフェイナーン伯がベランダの奥へ引っ込んでいく。同行に応じないどころか、逃亡を図る構えだ。そこへ、『猟犬』の魔法使いウィザードたちは抜かりなく構築していた魔法を放つが、その前に再び現れた異形の群れが立ちはだかった。すると、『猟犬』の魔法使いウィザードが大声で罵る。

「やはり、出てきたか薄汚い獣どもめ!」

 ……? その言葉通り、彼らに取って異形の連中は初見の敵ではないのか、『猟犬』の側にさしたる動揺は見られない。

「王の名のもとに正義を執行する! 奴を逃がすな、追え!」

 アーシムさんが叫び、『猟犬』たちがフェイナーン伯を追い立てる。流石はプロと感嘆する勢いだが、異形の方も負けじと激しく抵抗する。

(……これは、ちょっとマズイかもしれないわ)

 こっそり、『猟犬』の後ろにまで移動していた私は火の粉の届かぬ蚊帳の外から戦況を眺め、そう思った。

 というのも、何も『猟犬』の人たちを過小評価している訳でも、信用していない訳でもない。異形の群れが見せる、常軌を逸した戦意の高揚がそう思わせた。

 まだ誰も、屋敷の中に入ることができてない。もしかしたら、彼らはフェイナーン伯が逃げ切るだけの時間を作り出せるかもしれない、そう思ってしまうほど異形は捨て身の献身ぶりを見せていた。彼らもまた単なる金銭程度の繋がりではないのだろう。

「マネ、やっぱり私も行くわ。このままだとアイツに逃げられる」
「やめとけ。もう、警察に任しとけば良いじゃねえか。これは……オレ様たちの手に余る」
「何を弱気なこと言ってるの?」

 こんな状況で一人だけ傍観者のままで居ろだなんて、私に似て負けん気の強いマネが吐くセリフとは思えない。

「できる、できないの話じゃない……やるのよ」
「お、おい! リンお前、さっきからおかしいぞ! 出しゃばりすぎだ!」
「ここでケリを付けられなきゃ、悔しくて今日は寝れなくなるの確定でしょうが!」

 マネが私を引き止めようとするが、既に人狼ライカンスロープとの戦いでその体組織は大部分を消耗し切っており、私の貧弱な筋力でも容易く振り切れた。しかし、屋敷に向かって走り出したところで、今度は別の方向から怒鳴り付けられる。

「――リン! 君がなぜここに居るかは後で聞く! だが、今は危険だから離れていてくれないか!」
「……ごめんなさい、アーシムさん! このままだと、フェイナーン伯に逃げられてしまうかもしれないと思うと……居ても立っても居られないんです!」

 それだけは絶対に看過することができない。落とし前は必ず付けさせる。

「見習い風情が何を言う! こちらにも用意はあるんだ! 我々を信用できないのか!?」
「関係ないです。では」

 心の中で謝罪を繰り返しながらアーシムさんの声を無視し、戦闘の真っ只中を突っ切る。

「分かった……分かったぜ、リン! もう抵抗する方が危ねぇよ、アメ寄越せ!」
「そうこなくっちゃ」

 焦ったように言うマネにアメ玉を叩きつけ更に加速する。私が屋敷に向かい始めたことで、異形の群れはその異様な戦意の矛先を私にも突き立てんと迫る。

 一人二人は斬ってやるつもりでカラギウスの剣を構えたが、それには及ばなかった。襲いかかってきた異形たちの前に、横合いから文字通りすっ飛んできたアーシムさんが割り入ってきたからだ。

「――君が! ここまで無茶をする子だとは思わなかった!」
「アーシムさん……ごめんなさい、ありがとうございます!」
「はあ……君を止めておくだけの余力もないからね。……後で説教だ」

 アーシムさんは杖を構え、私とは比べものにならない速度で高度な魔法を構築する。

「悪鬼をふせぎ、羅刹を導け――【炎の壁ファイア・ウォール】!」

 私の行く手に二つの【炎の壁】が走り、異形たちの干渉を防ぐと共に私を屋敷の入口扉まで導く誘導路となる。

「早く行きなさい。そして、必ず無事で帰ってくるんだ。いいね?」
「はいっ!」

 汗が吹き出すほどの熱意で舗装された一本道を、私は脇目も振らずに駆け抜けた。

「うおおおおおおおお! 突っ込むわよ、マネ!」

 解放バースト――重厚な扉を蹴破り、転がるように中へ侵入する。それと同時、入口や窓が炎で蓋をされた。アーシムさんの丁寧なフォローに心中で感謝しつつ、素早く中を見回す。

 ベランダはこの直上だが、フェイナーン伯は既に移動している可能性が高い。どこから探すべきか。

 その時、ふと右奥の廊下からフェイナーン伯のものらしき怒鳴り声が聞こえた。誰かと揉めているようだが、その詳しい内容までは聞き取れない。

(あっちか――行ってみるしかないようね!)

 他に手かがりもない。とにかく行ってみようと、マネにアメ玉を一コくれてやり、廊下を逃げ惑う使用人たちの頭上を飛ぶように進む。そうして辿り着いたのは広いパーティホールだった。机などが隅に片してあることもあって、かなり広々としていた。金持ちらしい贅沢な土地の使い方だ。

 しかし、片付いていて見通しが良いにも関わらず、ホール内にフェイナーン伯の姿は見当たらなかった。確かにこちらから聞こえたような気がしたが、聞き違いだったかと急いで踵を返そうとしたその時、不意に背後から声がかかる。

「――リン、来てしまったのか。こんなところにまで」

 悲しみとやるせなさ、そして落胆がまじったような声。普段とトーンは違えど、それはあまりにも聞き馴染みのある声であり、私は振り向きながら息を呑んだ。

「クラウディア教官……?」

 ホールにいくつもある大扉の前に立っていたクラウディア教官は、に、私の部屋から盗み出されたはずの小箱を抱えていた。

 だが、失った筈の左手より、盗み出された筈の小箱より、私の目を惹いたのは彼女の右手に引き摺られていたフェイナーン伯だった。首根っこを掴まれた彼はぐったりとしていて、ピクリとも動かなくて、まるで、まるで……。

「教官……それ……」
「ああ、小箱か? 欲しいなら持っていくといい。目的は形見の指輪だろう? それはまだ入っている。マジックアイテムの指輪の方はもう入っていないがな」

 クラウディア教官は、不穏当なほどに明るい調子で答えた。

「そ、そうじゃなくて……」
「左手の義手か? これは諸侯派の連中にだな――」
「とぼけるのはやめてください!」

 思わず、声を張り上げてしまった。色々と聞きたいことはある。ペンダントのこと、指輪のこと、クラウディア教官のこと……だが、一番はフェイナーン伯の安否だった。

 恨み辛みはあれど、私が司法に成り代わって裁きを下そうとは思っていなかった。ましてや、殺そうと、なんて……。

「そ、その、フェイナーン伯は――」
「死んでるよ」

 クラウディア教官はこともなげに言った。

「私が殺した」
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