触手の魔女 ‐Tentacle witch‐

塩麹絢乃

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第二章

4.愛国者 前編 その⑤:仲人

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 実を言えば、開通式の当日まであまりやることがない。なぜなら、私は所詮数いる下っ端の一人であり、全体を動かせるような権限は与えられていないからだ。

 できることといえば、当日の流れや人員配置を頭に叩き込み、そこに不安要素を見出したならば意見具申する程度のこと。

(そっちは夜にでも睡眠時間を削ってやるとして……まずはベネディクトよ)

 とにかく、ベネディクトの心のうちが知りたい。過去と今、何事にも無関心だった彼と好色な彼、正反対に見えるその振る舞いには一体どのような心変わりがあったのか。何かしらキッカケのようなものが存在する筈だ。

 という訳で、一日ほど観察した後、休憩時間のシンシアを呼び出して遣わせた。

「あ、あの、ベネディクト様……ちょっと宜しいですか?」
「えっと、君は……シ、セ、シ――」
「シンシアです。猪の」
「ああ、猪の! そうだった、そうだった。思い出したよ」

 さも、喉元までは来てましたよという風に、ポンと手を打つベネディクト。

 ベネディクトが興味のない人間の名前を覚えられないという話は本当だったのか。それも、シンシアのような身近な可愛い子の名前さえ。私は近くの物陰から二人の会話を盗み聞き、少しだけ驚いた。

(そりゃ誰とも長続きしないわ、阿呆)

 名前とは個体識別子。万人に対して本気な愛とは、それ即ち浮気な愛である。他人と同一視されながら舞い上がれる人間は居ない。

(やはり、ベネディクトは――)

 私は、昨日今日とベネディクトを観察して導き出した考えが正しかったことを改めて確信する。

「それで、何用かな? 奥ゆかしき、マルカッサン?」

 なーにが、うり坊マルカッサンだ。軟派な風を装っているが、その奥に潜む無関心を知った今となっては不気味にしか見えない。シンシアもそう思っているらしく、薄ら寒そうに鳥肌立つ腕を頻りに擦っていた。

(さて、その偽りの笑みの裏には一体どんな感情が渦巻いているのかしら?)

 いたずらに他人の心情を暴き立てるのは私の趣味ではないが、この際となってはしょうがない。シンシアにゴーサインを出す。

「で、伝言です!」
「伝言? 誰からのだい?」
「リンお姉様からですっ!」

 シンシアはビシッと直立不動し、さっき私が渡しておいたメモを広げる。

「『愛を知っているか』――以上ですっ!」

 そう言うと、シンシアはペコリと頭を下げて、足早に去っていった。

(ありゃ、相当に忙しかったみたい)

 短い休憩時間に無理言ってスマンと心中で謝りつつも、ベネディクトから目を逸らさず彼の様子をじっくり観察する。

 伝言を受けたベネディクトは、走り去ってゆくシンシアに眼もくれず、じっと仮面のような無表情で虚空を見つめていた。そこに、いつもの軟派男の面影はない。

 暫くして、ポツリと呟く。

「――リン君、そこに居るんだろう」

 当初の予定では、もう少し彼に考える時間を与えるつもりだった。脳内で予定に微修正を加えながら、呼びかけられた私は素直に物陰から姿を現した。

「あら、バレてたの?」
「いや……君ほどの微弱な魔力量で隠形ハイドをされると、相当な感覚の鋭さがなければ分からないよ。探知魔法やそういう用途の魔道具アーティファクトでも使わない限りね。要するに、ただの勘さ」

 なんだ、当てずっぽうだったのか。出て損した。

 彼と相対する位置まで歩み出ると、ベネディクトはいつものようにふっと優しげな笑みを装う。

「何の真似だい? 『愛を知っているか』――なんて、そんな哲学的な問いをいきなり投げかけられても、浅学菲才ひさいの身では返答に窮してしまうよ」
「まあ、訳あってね。もし、答える気があるなら、私は何日でも返答を待つわ」
「……いや、それには及ばないよ。そう時間は要らない。僕の答えはこうだ」

 ベネディクトは微笑んだまま表情を変えず、しかし無感動に淡々と言う。

「知らない。僕は人に語れるほど愛を知らないね」

 これでいいかい? と、ベネディクトは取り繕ったような甘ったるい口調で尋ねる。私は首を横に振った。まだ、こっちの話は終わっていない。

「昨日、アンタをみっちり観察させてもらったわ。そこら中の女に粉をかけまくって、部屋に連れ込んだ女としっぽりやるところまでね」
「なんだ、ずっと見てたのかい? そんなに混ざりたかったのなら、君も混ざれば――」
「その結果として、少しだけアンタの人となりが理解できたわ」

 野放図に愛を撒き散らし、食い散らし、それでもなお飽き足りず、放縦なるままに女体を貪り続ける。

 その享楽的な淫蕩三昧の根源は――純粋なるだ。

「アンタは愛を知りたいだけなのね」

 知りたいがゆえに愛の営みを模倣し、それを体現せんとし、そして未だ答えを得られずにいる。

 愛とはなんぞや。愛するとは、愛されるとは。

 昨日、私はポーラの付き人にも話を伺った。彼女いわく、ベネディクトが今のような軟派男に変貌したのは初等部五年生の頃だそうだ。その時、何があったか。大方の予想は既についているが、彼自身の口から聞きたい。

 じっとベネディクトと見つめ合っていると、やがて彼は天を仰ぎ「ふぅー」と息を吐いた。

「僕は……完璧主義者なんだ。ずっと見ていたなら分かるだろう?」
「ええ、分かるわ。全然完璧じゃないことも含めてね」
「……少し、昔話をしよう。君の望み通りにね」

 その言葉を待ってましたとばかりに、私は意気揚々とベネディクトの隣に座る。

「ありがとう。察しが良くて助かるわ」

 それから、ベネディクトは宣言通りに昔話をしてくれた。

 話を聞き終え、私は確信する。

 ポーラとベネディクトの二人をくっつけるのは存外に簡単なことだ、と。





 翌日、私はポーラをツォアル候の屋敷の一室に呼び出した。あらゆる序列において、私の方が絶対的下位者であるにも関わらず、ポーラは文句の一つも言わず時間通りにきてくれた。

 ポーラはそわそわと入室し、何かを探すように部屋を見回した。この前に別れた時は全てを諦めたような発言を残していったが、やはり本当のところはベネディクトのことが気になってしかたがないと見ゆる。

 私は、彼女に正面の椅子へ座るよう促してから話を切り出した。

「時にポーラ様、愛とは何でありましょう」
「……いきなり、そのような哲学的な問いを投げかけられても、困ってしまいます」

 困ったような顔をして、ベネディクトと同じような返答をするポーラ。それがおかしくて、私は少し笑ってしまった。

「ふふっ……では、代わって私がお答えしましょう。私の母は大変なお節介焼きで、果実なんかを食卓に並べる際には必ず皮を剥いて出してくるのです。私は母を慮ってそんな手間をかける必要はない、自分で食べる時に勝手に剥くと何度も言うのですが、それでも皮を剥いて出してくるのです」
「……それは、貴方の母君の自己満足ではないですか?」
「はい」

 欲しかった反応を貰え、私は喜び勇んで頷いた。

 以前里帰りをした時、無理に家事を手伝おうとしたこともあるが、あまり良い顔はされなかった。久しぶりに帰って来たのだからゆっくり休みなさい、と強めの口調で言われた。なので、今では好きにさせている。ママがそうしたいなら、そうさせてやろう。それもまた愛の形だと私は思っている。

「詮ずるところ、愛とは斯様なものと存じます。きっと、母は私のために何かをせずにはいられぬのです」
「傍迷惑なものですね」

 ポーラは呆れ顔をしながらも一応話に乗ってくれる。

「果たしてそうでしょうか? 他人に思われるというのは気分が良いものです。もちろん、気のない相手にしつこく構われては鬱陶しいだけでしょうが、しかし両者が思い合っているのなら何の問題もありません」
「……さっきから何が言いたいのですか? 雑談なら、シンシアとでもして頂けますか」

 どうやら、一向に話が見えず困惑している様子だ。まあ、私も無駄話をしに来た訳じゃないので、前置きはこの辺にして本題に入ることにした。

「要するに――お二人は両思いなので、さっさとくっついちゃってくださいってことです」
「え?」

 間の抜けた声と同時、入口の扉が開かれる。そこにいたのは、ポーラの想い人であるベネディクトその人。その表情は固く、いつもはだらしのない口元も引き締められている。

 彼も、私が呼んでおいたのだ。

「ベン、アンタから話してやんなさい」
「……分かってるよ。ポーラ、僕の話を聞いてくれるかい?」

 形式上、尋ねるような体を取ったが、ポーラの答えは決まりきっていた。彼女が出来の悪い絡繰人形のようにがくがく頷くと、ベネディクトは徐に語りだす。

 それは、彼が昨日私にしたのと同じ昔話だ。



 五年前。

 当時、ポーラとベネディクトは初等部五年生。この時、ベネディクトは人生の転機ともいえる出来事に直面する。

 それは――婚約だ。

「ベン、お前の婚約が決まった」

 突然父親に呼び出され、なにかと思って行ってみれば開口一番にそんなことを告げられた。

「相手はポーラ嬢だ」

 名前を聞いて、ベネディクトは記憶の片隅に引っかかるものを感じた。しかし、そのポーラという人物の容姿をしっかりと脳裏に思い描くことはできなかった。

「……やはり、覚えておらぬか」
「はい。申し訳ありません、父上。こればかりは、どうにも」

 嘘である。実際のところ、ベネディクトの記憶力は国内でも随一のものであり、覚えようと思えば何万人の個人情報だろうと正確に記憶できた。彼に、そうする気がさらさらないというだけで。

 彼は、厄介な思想にかぶれていたのである。

 ――完璧主義。

 ベネディクトの目指す『完璧』は、傍から見れば歪で不可解極まりないものだった。素晴らしきを摘み、穢らわしきを排し、そのどちらでもないものは徹底して無視する。その傲岸不遜なる振る舞いは多くの批判の的になってきたが、彼はそんなことは気にも留めなかった。

 なぜなら、彼の世界は全て己のうちだけで完結していたからである。

 婚約の話も、既に半分ほど適当に聞き流していた。彼に取って、婚約は「」こと――つまり、どうでも良いことだった。

「まあいい。先方とて、お前の性質は承知の上だ。しかし、我々は利害ありきの薄っぺらな関係ではない。それは分かるな?」
「はい、両家は単なる利害関係に留まらず、私的にも交誼を深めている仲であると記憶しております」
「婚姻は魔法学院卒業後、一年以内に執り行う予定だ。お前には言うまでもないことだが、当家の名に恥じぬ振る舞いをしろ。そして、可能なら――ポーラ嬢を愛してやれ」

 生暖かい慈愛の笑みと共に投げかけられた父親の言葉に、ベネディクトの思考が一瞬止まる。

(愛……? 愛とは、なんだ?)

 昔、その語義を学んだ時、ベネディクトは愛を「素晴らしいもの」と分類した。愛なくして自分という崇高なる存在は生まれ得なかった。なくてはならないもの。つまり、「素晴らしいもの」だという論理だ。

 しかし、今まで意識する機会がなかったが、よくよく考えてみるとベネディクトは愛という概念、愛するという行為を本質的には理解していなかった。

(――であれば、自分はまだ完璧ではない)

 それが、完璧主義者を自負するベネディクトに取って何より許せないことだった。

「父上、愛とはなんでしょう」
「う、うむ? 愛とは~、う~む……儂はお前も妻も兄らもみんな愛しているぞ?」
「そんな説明では分かりません」
「こ、困ったのう……」

 父親は、ぽりぽりと頬をかいた。そして、上手い返答がなかなか思い付かなかったので、他の者に尋ねてみるよう促した。

 ベネディクトがこうして一つの物事に執着を示すことは度々あり、父親を含めた親しい人物に取っては日常茶飯事だった。なので、放っておけばいずれ己なりの『完璧』を見出し、勝手に落ち着くだろうと誰もが予測した。

 しかし、今回は少しばかり様子が違った。

 あちこち手を尽くして愛を探し続けたものの、ベネディクトは一向に『完璧』を見出だすことができなかったのだ。

 ベネディクトはまず周囲の人間観察から始めた。しかし、分からない。

 次は演劇や小説、論文などの文献に手を出してみた。それでも、分からない。

 分からない。分からない。分からない。

 八方塞がりになって次はどうしようかと考えあぐね始めた。そんなある日、魔法学院の王党派サロンにてヘレナ主催の茶会が開かれた。いかに唯我独尊のベネディクトといえども、敬愛するヘレナの呼びかけとあらば、いつものように不参加を決め込む訳にはいかない。

 義理を通すべく顔見せだけのつもりで参加したベネディクトだったが、この時には彼とポーラの婚約を皆が知っており、彼らの計らいでベネディクトはポーラと二人っきりにさせられた。

「お久しぶりです、ベン様」
「ああ……」

 ベネディクトは、ポーラの顔も見ず生返事をした。相変わらず、頭の中は『愛』のことでいっぱいだった。

 周囲の喧騒から隔離され、二人の間に重苦しい沈黙が訪れる。先にその沈黙を破ったのは、ポーラだった。

「――ま、まったく困ったものですね、皆の悪趣味な趣向にも!」
「ああ……そうだね。ポーラ」
「い、いま、私の名前を……!?」

 頬を赤らめ、色めくポーラ。時たまある偶然という可能性も頭に過ぎったが、やはり嬉しいことは嬉しいのだった。

 ベネディクトは愛について思索を続ける中で、婚約者であるポーラの名を記憶していた。

「ところで、君にも聞いていいかい? 愛について」

 最近のベネディクトの関心事項はポーラも聞き及んでいた。想い人であるゆえ、情報収集は怠っていない。

(――来た!)

 と、ポーラは内心ガッツポーズを取った。この質問を待っていたのだ。幾日もかけて捻り出した渾身の返答を、緊張の滲む震え声で紡いでゆく。

「そんな哲学的な問いをいきなり投げかけられても……困ってしまいます。――ですが、一度の経験は万の思考に勝るとも言います。愚考いたしますに、もしベン様が思索の道に行き詰まりを感じていらっしゃるのでしたら、もはや残すところは実践あるのみかと……」

 それを受けて、ベネディクトは考え込み始めた。

(さあ! さあ、さあ、さあ!)

 愛の実践、眼前には婚約者――絶好のシチュエーションだ。実のところ、二人っきりの状況を作らせたのも、ポーラのしかけだった。とにかく、形だけでも良いから恋人という体を作ってから、徐々にベネディクトの関心を惹こうという訳である。

 恋愛と戦争では、どんな方法でもすべてが正当化される。

 私的な付き合いのある両家とはいえ、婚約なんてものは名ばかりで、その有効力など情勢によっては容易く吹き飛ぶものと理解しているからこそ、ポーラはこうして心を掴まんと既成事実を作る策に打って出たのだ。

 ふと、ベネディクトが立ち上がる。その雄壮な立ち姿に、ポーラの胸は高鳴った。

「君の意見は非常に参考になった。感謝する」

 彼のまっすぐな瞳にポーラは作戦の成功を確信し、めくるめく甘酸っぱい逢瀬を幻視した。だが、それも泡沫の白昼夢に終わる。

 ベネディクトの次の言葉によって、ポーラは絶望の奥底に叩きつけられた。

「善は急げだ。こんなところで呑気に茶なんて飲んでいられない! 早速、実践してみるとするよ!」

 ベネディクトは、まるでポーラの存在を無視するかのように勢いよく踵を返した。

「え、あの、私……とか……」
「ん? 何か言ったかい?」

 この時の言葉を、ポーラは数年にわたって後悔することとなる。

「何でも……ない、です……」





 私は思わずため息をついた。道理で意中の相手がとんでもない遊び人でも気にしない訳だ。そうなった原因を作り出したのは、他でもない自分なのだから。

「しかし、とんでもないヘタレですね、ポーラ様。そこまでいっといて……」
「ぐ、ぐう……」

 ポーラは顔をりんごのように赤くして、ただただ恥ずかしそうに顔を俯けていた。まあ、それも仕方ない。幼気な時期の遠回しな口説き文句をほじくり返されて羞恥に悶えぬ奴がいるものか。

 しかし、そのことに私が教えるまで一切気付かぬベネディクトもベネディクトだ。そう考えると、唐変木とヘタレで似合いのカップルかもしれない。

「リン君に教えられるまで、僕はあの時の君の気持ちに気付かなかった。ポーラ、君は――僕と恋仲になりたかったんだね」

 こいつには、遠慮というものがないのか?

 直球勝負が過ぎるだろう。普段の過剰なほどに軟派な振る舞いはどこへ行ったのか。こういう時こそ、軟派に行けよ!

 とはいえ、これが彼の素の振る舞いなのだからある意味律儀ではある。本気には本気で返す人間なのだ、ベネディクトは。

 しかし、つくづくロマンチシズムというものを解せないらしい。

(まあ、ポーラ相手に限ってはそれが正解みたいだけど……)

 女心が分かっていないのは私も一緒だったらしい。ポーラの顔を見ると、さっきとは別の理由で頬を紅潮させている。

「はい……ベン様。ずっと、お慕いしておりました……」
「五年ごしになってしまったが……あの時、君に贈るべきだった言葉を今、言ってもいいかな」

 尋ねるようで、有無を言わさぬ口調。良いぞ、ちょっと雰囲気出てきた。ベネディクトは息を整え、片手を差し出し、純粋な眼差しでポーラを見つめる。

「ポーラ、僕とお付き合いして欲しい。僕は愛って奴を知り尽くしたいんだ。不純な動機を恥ずかしげもなく言わせてもらったが、これが嘘偽りのない僕の本心。それとも、不完全な僕の愛では駄目かな?」
「いいえ、そんなことはありません!」

 力強いポーラの返答に気圧されるかのように、ベネディクトの瞳が少し揺らぐ。

「なら、返事は……」
「はいっ、喜んで!」

 ポーラは、差し出された手をひしと掴み、花が咲いたように微笑んだ。すると、ベネディクトの口角もわずかに緩む。それは、これまでに見てきたような作り笑いとは一線を画する、本心からこぼれた……。

(――甘ったるっ)

 口から砂糖が出てきそうだ。

(つーか、ベネディクトの方もなに簡単にときめいちゃってるのよ。愛を知れて良かったわね。はい、ちゃんちゃん)

 これ以上、この場に居合わせるとマジに精神がイカレそうだったので、私は隠形ハイドで魔力を鎮めながらこっそりと部屋を出た。

 後は若いお二人で……ってね。

「ふぅ……つかれた」
「おつかれー」

 マネの触手が元気に蠢く。こっちは徹夜続きで疲れているというのに、マネは馬鹿元気だ。

 重い体を引きずるように歩きながら、取り敢えずこの部屋の近くから離れる。ベッドもあるし、もしかしたらイクとこまでイッちゃうかもしれない。今、そんな嬌声を聞いてしまったら、八つ当たりでブチギレそうなぐらい疲れていた。くっつけたのは自分なのに。

「しっかし、物の見事にリンの言った通りになったな」
「そうね……ポーラの気持ちを知れば、絶対にベネディクトはそれに応えると思ったわ」

 理由は単純。ベネディクトは、もっぱら自分から女性に粉をかけまくることで関係を築いていたからだ。

 最初はその気になる相手も、名前を何度も間違えられれば段々と彼が本気じゃないことに気付く。すると、彼の甘ったるい言動と、その裏に透けて見える無関心の落差が強烈な違和感を生じさせるようになり、その所為で彼は毎回女性の方から振られ続けてきた。

 つまり、ベネディクトはただの一度も本気の慕情を正面からぶつけられた経験がないのだ。

 その初体験がどのような作用を齎すか、私には分かっていた。彼は本気には本気で応答する気質の人物だ。ゆえに、ヘレナに呼応して王党派の中核に身を置いているし、ツォアル候にも協力するような姿勢を見せている。

(まあ、私を覚えている理由は未だに謎なんだけど……)

 ふう、と息を吐いて背筋を伸ばす。

「さて、あの部屋を貸してくれたツォアル候にお礼を言わなくちゃね……」

 少々も問題ないぐらいに頑丈なベッド付きの部屋をわざわざ用意してくれたのだ。私は礼を言いにツォアル候のもとへ足を向けようとしたが、一歩ごとに襲いかかってくる強烈な眠気の前に屈する。

「いや、その前に少しだけ仮眠を取るわ……」
「ん? じゃあ、もう寝てて良いぞ。後はオレ様が勝手に体を動かしといてやる。部屋でいいよな?」
「うん……じゃあ、後はよろしく……」

 体の操縦をマネに預け、私は歩きながらぼんやりとした眠りについた。
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