触手の魔女 ‐Tentacle witch‐

塩麹絢乃

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第四章

4.決着 その②:二手目

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 柱の裏側から汚らしい脂ぎった中年男がその姿を覗かせた。その捻くれた性根が顔にまで滲み出たような汚い面をしている。気配からして月を蝕むものリクィヤレハだろうが、みてくれに異形らしき変異は今のところ見られない。

「お気を付けて……彼奴きゃつめは神出鬼没です。何度やっても捉えらることができませんでした……!」
「ま、そういう系でしょうね。アンタが手こずるのは」

 男は、さっきからこっちの様子を窺うばかりでなかなか攻めてこようとしない。攻めあぐねているというより、私を観察しているようだった。今まさに民宗派の本拠地アジトが攻め込まれている状況だというのに、そこに「焦り」のような感情は一切見えない。

 件の『神出鬼没』とやらの種によっぽどの自信があるのだろうか?

 その間にロクサーヌの爛れた顔を観察して分かったことだが、これは魔法を用いたものではなく酸を用いた化学的な火傷だ。ロクサーヌの攻撃が物理一辺倒なのを見越して、その辺にあったものを飛び道具としてぶつけたか。ここは『実験体処理室』。そのような危険な薬品はいくらでも転がっていることだろう。

 その判断自体は正しい。私も、ロクサーヌが民宗派の敵であればそういった戦いをするかもしれない。

 だが、それが現状に適したものかというとまた別の話だ。

 民宗派のことを考えるなら二人の天才『ルクマーン・アル=ハキム』か『ソーテイラー』を保護しに向かうべきだし、己のことを考えるなら今すぐにでも逃げ出すべきだ。しかし、男は一向にそうする気配がない。

 その時、ドンという衝撃音と共に本拠地アジトが再び揺れた。すると、男は「ひひっ……」と下卑げびた笑声を喉奥から響かせ、気色の悪い笑みを浮かべる。

「派手にやるじゃねえか。きひひっ、全くヤキが回ったもんだ。確かに最近は旗色が悪くなっていた。しかし、それも『ソーテイラー』の力があれば或いはと思っていたんだが……やはり駄目なものは駄目かね。くくっ……あの気取った青二才が今頃は泡くって慌ててるかと思うと、どうにも胸がスカッとしてしょうがないね、くくくっ……」
「……アンタ、民宗派の信者じゃないの?」
「信者も信者。古参の部類だぁよお。血縁けちえんでね、生まれた頃から古臭いカミサマを崇めさせて貰ってるよ。まぁ、それは別に信仰に篤いことを意味しないが」

 閉じた民宗派コミュニティで生まれ育った口か。そういう出自と年齢だと、彼は民宗派内では結構な重鎮的立場なのだろう。纏う衣服も、そこらの一般信者に比べると高級そうな布地と仕立てだ。高等戦闘員ラーカーンとは到底思えないので、高位の導師ムルシドか。

「それにしても嬢ちゃん。貴様きさんの顔はきったないなぁ。ナリは良くても疵物キズモノじゃねえか、おうおうおう! おいは、誰の足跡もないまっさらな雪の地面をめちゃくちゃにしたい性質タチなのよ? なんとも、ヤり甲斐のない」

 なるほど。この男は楽しんでいる訳だ。

 ロクサーヌとの戦いを、ではない。破壊を、暴力を、美しきものを穢すことに楽しみを見出している。果たして、それが民宗派の窮状や己の保身を天秤にかけてまでも優先すべき事柄なのかは甚だ疑問だが。

「お眼鏡にかなえず、残念ね」
「おーうおうおう。おいは、民宗派がくたばる前にそっちの嬢ちゃんとまだまだ遊ぶつもりだからよ。邪魔者は、ちょっち死んでくれや」

 ゆらり――と男の輪郭がにわかに揺らいだかと思うと、次の瞬間、男の姿は霞のごとく掻き消えていた。

(幻覚、か)

 ――おい、オレ様にも感知できねえぞ。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚――そして恐らく味覚すらも――知覚の全てを欺く見事な幻覚だ。マネにも見抜けないとなると、相当に高度な魔法を用いているらしい。

 瞬間移動の魔法を授かったという『寄合エクレシア』のワキールのように、〝魔界〟の住民の気まぐれで幻覚魔法を授けられたか。

「――気を付けて! 彼奴きゃつは、本当に何の気配もなく襲ってきます!」

 ロクサーヌが辺りを忙しなく見回しながら――見える訳もないのに――私へ警告する。確かに厄介な相手だが、焦りは禁物だ。それは却って思考を鈍らせる。私は既に男の本当の居場所について当たりをつけていた。

「大丈夫、――でしょ?」

 マネに複数のアメ玉を食わせて、天井めがけて体組織をぶちまけさせる。マネの体組織は、網のように広がって天井にまで達した後はその場に留まった。しかし、留まっているのは見た目だけで、その内部では『酸の性質』を極限まで活発化させている。

 直ちに反応はない。なので、私はゆっくりとカウントを始めた。

「いーち、にーぃ、さーん――」
「――ごぼぼぼぼぼぼぼぼぼ!」

 たちまち男の汚らしい悲鳴が響き、いきなりマネの体組織の中に男が姿を現した。

 間抜けか? この男は。

「フン、幻覚だけが取り柄のゲス野郎が……たったの三秒で音を上げるんじゃあない! 私に不安を抱かせるぐらいには堪えてみせろ!」

 マネの体組織で固めたまま男を地面まで降ろす。

「ぐああああああああああああ……うぐっ、なぜだああああ!? なぜ、なぜ、おいの居場所が分かったああああああああ!?」
「ロクサーヌの顔面の酸は頭上から食らったものだった」
「――よく分かりましたわね!?」
「傷を見れば分かる」

 加えて言うと先程の会話中、私はこっそりとマネを地面に這わせて『酸の性質』を発揮させ続けていたが、一向に何の反応も得られなかった。なので、ロクサーヌの傷の情報も合わせて考えると、眼の前の男は幻覚かなにかであり、本体は上に避難しているのではないかと私は推理したのだ。

(天井周りは換気ダクトやらパイプやらでごちゃごちゃしてるし、そこに潜むことは容易い)

 その考えが外れていたら外れていたで、その時はしょうがない。こんな小物に構っている暇はないので、マネをバリアーのように展開しながらロクサーヌを連れて詰めチェックの作業に戻れば良い話だ。

「ロクサーヌ、トドメを刺したきゃアンタが刺して良いわよ」
「では、お言葉に甘えて」
「――ま、待て!」

 マネの体組織の中で藻掻く男の顔が絶望に染まる。だが、彼が意地汚く命乞いの言葉を口にする間もなく、ロクサーヌは拳を振り上げる。

「一発は一発ですわ」
「やめ――」

 ロクサーヌが軽く腕を振り抜くと、男の頭部が風前の塵のようにふっと消え去り、ビシャリ――と、汚い血の染みだけがその場に残された。

 それと同時、マネの体組織を伝わってグィネヴィアの声が聞こえてくる。

「一分、経ったわよ」
「オーケイ、グィネヴィア。北へ進みなさい」

 私はマネを身に纏いながら、踵を返して来た道を戻り始める。

「ロクサーヌ、私は使える人間が好きよ」
「……えっ? 突然、何を言い出すのですか?」

 戸惑いながらも私に付いてくるロクサーヌ。だが、これだけはしっかり言っておかなくてはならない。

「平時なら無能も許すけど、有事にそれは許されない。――アンタはさっき、任務を忘れた」

 図星をつかれたロクサーヌは、ぐうの音も出ず黙りこくった。少し、強く言い過ぎたかもしれない。別に私は彼女の上官でも何でもない訳だし、私が他人にそんな風に言われたらムカついて反省より反発の方が勝るかも。

 それに、ロクサーヌがあそこへ向かった理由も分かる。

(ロクサーヌは、を見てしまったのだ)

 ひしゃげた扉の近くまで戻った私は、入ってきたときと同じ場所――部屋の隅っこで怯えるだろう異形の少女を横目で見た。蜘蛛の脚のようなものが三本だけ胴体から飛び出ており、時折グロテスクな脈動をする。

 恐らく、この少女は『定着』しなかったのだろう。ルゥと同じように。定着しなかった被術者は、異形を己の意志で出したり引っ込めたりすることができず、その力も十全に発揮できないという。運が悪いと、それが原因で死んでしまうこともあるそうだ。

(同じ『定着』しなかった者の中でも、ルゥやこの娘は命があるだけ幸運な方って訳だ……やるせないわね)

 私の視線に気付いた少女は、地面にお尻を付けたままずりずりと後退りをするも、後ろには壁を背負っていたので結局は今以上の距離を取ることはできず、その場で震えるしかできないようだった。

「ねえ、ロクサーヌ。このガキを助けて、一体それからどうするつもりだったの? ここを上手く脱出させたところで、国教会の連中に嬲り殺されるのがオチだというのに」

 私は怯える少女から目を切り、ロクサーヌを正面から見据えた。

「責任を、取りなさい」
「……わたくしに、どうしろと仰るのですか」

 譲るような言葉とは裏腹に、ロクサーヌは強い意志を感じさせる眼をしていた。自分はこの件に関して一切の負い目を感じていないし、己の矜持を一切曲げる気もないという、『我儘エゴ』の塊のような眼。

 それを見ていたら、私は自然と笑みをこぼしていた。

(――許そう)

 その無能、非合理性を許そう。私はそんなロクサーヌだから好きなのだ。

「ヘレナに渡すのよ」
「……ヘレナさんに?」
「アイツにはがある。誰の耳目もないところだから言うけど、実はルゥもまだ生きてる。カルバもね。ヘレナの持つそのツテで逃した。そのガキを生き残らせる術はそれしかない」

 ヘレナに身柄を受け渡せば、たぶん上手いこと生死を誤魔化して『寄合エクレシア』に渡してくれるだろう。まさか拾える命を見殺しにするほど善意に欠けた奴だとは思いたくない。

 ガキを渡す時にヘレナにキツく言い含めておけば問題ないだろう。来月辺りにはルゥと会う予定もあるから、約束が履行されていなければすぐに分かる。その時はヘレナにケジメを付けさせれば良い。

「だから――事が終わるまで、アンタが責任を持って守りなさい」
「ということは……リンさん!」

 私は答える代わりに、喜びの華を咲かせるロクサーヌに背を向け早足で歩き出した。すると、背後から話し声が聞こえてくる。

「話は聞いていましたか? ――さあ、お手を拝借。外までエスコートいたしますわ」
「お、お姉さん……あ、あの人は……?」
「リンさんですよ、。ああ見えても良い人です」

 私は気恥ずかしくなってきて、振り返らず声を荒げて二人を急かす。

「――早くしなさい!」
「ケケッ……そうカッカしなさんな」

 マネに宥められながらロクサーヌとアディエラが私に追いつくのを待ち、私たちはそれから再び出発する。

「急ぐわよ! これからの起動に合わせて、『ルクマーン・アル=ハキム』を一気に詰めるッ!」
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