触手の魔女 ‐Tentacle witch‐

塩麹絢乃

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第五章

1.人間宣言 その①:亡命の誘い

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 1.人間じんかん宣言

 封建的特権の廃止を決議した人民議会コミティアは、続いて十七条からなる『人間じんかん宣言』を発表した。これは、基本的人権や自由、所有権など啓蒙思想をふんだんに盛り込んだもので、大目標である憲法制定に向けた第一歩であった。

 イリュリア王国の建国以来続いた絶対王政は、立憲君主王政へと変化を遂げようとしている。

 しかし、このまま穏便に立憲君主王政が成立するとは、私含めイリュリア国民の誰もが思えないのだった。




 退院した私は授業にも出席せず、朝から晩まで学生寮ドルミトーリウムの自室で酒を浴びるように呑んでは寝るという退廃的な生活を続けていた。一度教師たちが私を連れ出そうと部屋までやってきたが、適当に追い返したらそれからはもうこなくなった。

 すっかり見放されたか、偶に外へ出ても教師陣からは腫れ物に触るような眼で遠巻きにスルーされ、生徒たちからは陰口を叩かれる。

 しかし、そんな以前であればはらわたを煮えくり返らせるような扱いを受けても、私は何も感じなかった。ヘドロの溜まった川の淀みのように、私の心は退廃のうちに鈍く錆びついている。

 熱……以前の私の中で血と共に巡っていた「熱」のようなものが、今は綺麗サッパリ失われてしまっていた。

 今日も今日とて酒浸りの脳に、コンコンと叩扉の音が重く響く。酒焼けした声で入室許可を出すと、疲れた顔のロクサーヌが静かに部屋の中へ入ってきた。酸を浴びて焼け爛れてしまっていた顔は、今なお進歩し続ける治癒魔法によってすっかり元通りになっていた。

 ロクサーヌは、迎え入れた私の体勢と先客の姿を見て眉をしかめる。どうやら真面目な話をお望みらしい。

 私は、股ぐらに埋もれる男の頭をグイッと引き剥がした。

「酒」
「え?」

 男が間抜け顔を晒して聞き返してくる。それに苛立ちを覚えながら、言葉を足して繰り返す。

「酒、買ってきて」
「い、今からか? こんな朝も早い時間に店なんて――」
「早く」

 私は男を軽く殴りつけて部屋から追い出した。全くもって察しの悪い男だ。酒を買ってこいというのはただの口実で、二人だけの空間にしたいという私の意図が分からないのか。そんなことだから、どこの職場にいってもすぐクビになるのだ。いつまで経ってもだし、ここらが縁の切り時か?

 身支度も整え――といってもパンツとズボンを履いただけだが――ロクサーヌを椅子へ座らせた。

「おまたせ。それで……何の用?」
「……何から話しましょう」

 そう言ったきり、ロクサーヌは私の眼を見たまま黙りこくった。暫く彼女が話し出すのを待ったが、一向に何も話してくれない。そうして、お互い無言のままずっと見つめ合っているのが無性に照れくさくて、私は堪えきれず笑い出してしまう。

「何か言ってよ、気ぃ遣ってんの?」
「いえ、そういう訳ではありませんわ」

 即答は何か違くない? 別に気を遣って欲しい訳ではないが、全く気を遣われないというのもモヤモヤする。

「わたくし、実は貴方のことを全然心配してませんわ」
「……それ、どういう意味?」
「例えこの国が亡ぼうとも、味方となる人間が一人残らず息絶えようとも、貴方は生き残るでしょう。何となく、そんな気がしますの」
「……ありがとう、うれしいわ。話は終わり?」

 皮肉っぽく棒読みで捲し立ててみると、ロクサーヌは品良く口元を隠してクスクスと笑った。少し場の空気が和らいだところで、ロクサーヌはふと表情を引き締め本題に入った。

「――リンさん、わたくしと共にこの国を出ませんか」

 時が止まったかのようだった。

 この国を出る。それはつまり――『亡命』の誘いだ。

 既に、数え切れないほどの貴族が他国へ亡命している。聞いた話では、将校などは三分の一ほど亡命したとかなんとか。当然、私の脳裏にも幾度となく浮かんできた言葉だ。なので、その言葉を改めて聞かされたからといって、衝撃というほどの衝撃はない筈だった。

 ……なのに、なぜだろうか。

 こんなにも返答にきゅうしてしまっているのは。

 数秒か十数秒、それぐらいの時間、私は何と返答すべきか考えて口元をまごつかせていた。そして、何か言わなくてはという一心で、イガイガする喉から気合で声を絞り出した。

「へえ……そりゃあ、良いわね。どこへ行くつもりなの?」
「家族ともども、ガリアへ。何人かの友人も……この間、リンさんに紹介してもらったアナスタシアさんも一緒ですわ」

 ガリア帝国といえば大陸の東端に位置する大国だ。陸路だと幾つもの国を通過しなくてはならないが、海路で行けばそう面倒なこともない。向こうが亡命先として受け入れてくれるというのなら、悪い選択肢ではないのだろう。

 聞くと、特に仲が良く取り巻きを形成していた連中の殆どはロクサーヌと共にガリア帝国へ行く予定らしい。だが、この国に残る選択をした者も当然いて、コーネリアとミーシャは誘いを固辞したという。らしいといえばらしい面子だ。二人とも頑固なところがあるから。

 ――ロクサーヌも、だと思っていた。

「リンさん。正直、今の貴方の淫蕩ぶりは眼に余りますわ。心配はしていないといっても、それは命の心配であって精神の健康や幸福に関してはまた別の話。ここらで環境を変えてみるというのも一つの選択ですわ」
「ふっ……あのクズ男と居るよりも、アンタに付いてった方が私は幸せになれるって言いたい訳?」
「はい」

 また即答。そういうところは変わっていない。自分にできないことはないと信じ切っている。私はいつも、そんなロクサーヌの振る舞いを疎ましく思い、羨ましくも思い、そして何なら憧れていた。

 しかし、そんなロクサーヌですら――もう、無理なのか?

「私ね……これでも、少しは真面目に考えたのよ。この国の良いところとか考えてみた。そういうプラスのものを守るためなら頑張れそうな気がしたから……でね、これが笑っちゃうんだけど……」

 その時、ふと窓ガラスに映った私の顔が眼に入る。それは到底、人に見せられないような、酷い――笑顔だった。

「――この国の良いところが何一つ思い浮かばなかった!」

 やけくその笑みだ。何にも笑えないから、逆に笑えてきた。もうこの国はお終いだ。ヘレナやラビブ神父はまだ頑張ってるみたいだが、肝心要の国民があのざまではなるようにしかならない。

(ああ……そういえば、ラビブ神父には『味方をする』とか言っちゃってたわね……)

 私は約束を反故にしてしまったことに罪悪感を覚え、そしてすぐに忘れた。

 どうでも良かった。

「……それは、わたくしと共に亡命すると取ってよろしいのですか?」
「いや……私は……やめとくわ」

 頭で考える前に、口が勝手に動いてそう答えていた。

「そうですか」

 ロクサーヌは淡白に思えるほど、あっさりと私の言葉を受け入れる。

 私は改めて頭でも誘いに乗るかどうか考えてみたが、やはり断ることにした。

「誘ってくれてありがとう……それは素直に嬉しいわ」
「では、どうして?」

 ロクサーヌが「亡命」と口にした時、私は正直ガッカリした。

 私では無理だ。ヘレナにも無理かもしれない。だが、ロクサーヌなら或いは……なんて、無意識のうちに勝手な期待をしていたから、それが裏切られて勝手にガッカリしたのだ。

「この国に留まる理由がないのと同じくらい……この国を出る理由も見当たらないの……いや、違うかも……私はこの国にこれ以上留まっていたくないと思ってるけど、同時に出たくないとも思ってる……そんな感じ」

 無様だ。

 自分でも何を言っているか分からないが、しかし多分これは私の本心だろう。

 結局、何も考えたくなくて決断を先延ばしにしているだけなのかもしれない。思考停止して、現実逃避して、酒色に溺れていれば「幸福」とか「不幸」とかいう面倒事を忘れていられるから。

 すると、ロクサーヌは何か得心したような顔で頷いた。

「つまり……リンさんはこの国に未練がお有りですのね」
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