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第五章
2.祖国は危機にあり その②:恩師
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私が酒浸りの日々を送っている間に、世間は何だか戦争を始めたがっていた。
ヒジャーズ王国の侵攻も失地回復を果たした時点で止まり、西のパルティア戦線もとっくの昔に膠着していた。これは、別にイリュリア王国が特別奮戦しているとかではなく、向こうが向こうの事情で侵攻を取り止めてくれたのである。内憂を孕むは、何もイリュリアだけの特権ではないらしい。
なら、どうして戦争をしたがっているのか?
それは昨年の8月末、アルゲニア王国へ亡命した王弟イッサカル伯が諸外国の王を通じて『外国の武力をもって直ちに行動を起こす』と宣言したからだ。これは脅迫と取られ、革命勢力は一気に緊張した。
しかし、私が思うにこれは王弟イッサカル伯の勇み足だろう。
なぜなら、その宣言に関わった諸外国は全くといって良いほど軍事行動に移るような気配を見せていないからだ。彼らの立場になってみれば、なぜ燃え盛る泥舟にわざわざ近付かなければならないのかという心境だろう。イッサカル伯に何か言ったとしても、恐らくそれはただの外交辞令程度のことだ。
けれども、どういう訳か外交に疎い議会にはそれが分からぬらしい。
――今年4月、議会はアルゲニア王国への宣戦布告を宣言した。
そんな折、シェケム監獄から一人の模範囚が仮釈放を許されるとの情報が私の耳に入ってきた。これには、すっかり出不精になってしまった私も重い腰を上げざるを得ない。
シェケム監獄の前へ行ってみると、そこはまるで今日は祭日なのかと錯覚するほどの人だかりでごった返していた。しかし、生憎と彼女の出迎え目的で来ているのは私一人だけのようだ。
それから暫くして、シェケム監獄から一人の女性が姿を現す。少ない手荷物を携えたその女性、本日付で仮釈放を許された模範囚――クラウディア教官は、驚いたように道にあふれかえる人の群れをしげしげと眺めながら私の方へ歩いてきた。
「――暴動か?」
「いえ、『革命』です」
挨拶よりも先に、そんな剣呑なやり取りから私たちの数年ぶりの会話は始まった。
「お久しぶりです、教官。私ぐらいしか出迎えてあげられないと思って、差し出がましいことを承知で来てみました」
「いや……そんなことはない。ありがとう、素直に嬉しいよ」
クラウディア教官は、「ただ――」と残念そうに続ける。
「ロクサーヌの奴も居ると思ったんだがな……」
「ああ……ロクサーヌは亡命しました。ガリア帝国に」
「なに?」
クラウディア教官は驚いたような顔で、仔細を尋ねる視線ような視線を私に寄越した。だが、いつまでもこんなところで立ち話をするのも何だ。
「ここ数年で本当に色々なことがありました……お互い積もる話もあるでしょうが、ここでは邪魔が入ってしまいます。まずは場所を変えましょう」
「……ああ、そうだな、それがいい」
クラウディア教官は、私の周囲3mだけ人の群れがぽっかりと空いているのを改めて睥睨してから頷いた。私が先導して、地面に横たわる斬り伏せた暴徒らを跨いで歩きだすと、クラウディア教官がふと思い出したように訂正する。
「ひとつ訂正しておくと、私はもう『教官』ではない。別の呼び方をしてくれないか」
「……つい、癖で。すみません、改めます」
クラウディアさんと呼ぶべきなのだろうが、どうにも教官と言った方がしっくりきてしまう。店長の呼び方をイーナースさんに変えた時はそうでもなかったのだが。不思議だ。
私はうっかりもう一度間違えてしまわないように、何度も頭の中で「クラウディアさん」「クラウディアさん」と繰り返しながら、予約を入れておいた店まで案内した。その道中、後ろの彼女が、数年前から大して変わっていない王都の景色を興味深そうにあちこち眺めていたのが印象的だった。
「さあ、着きました。ここは私の知る店の中でもなかなかですよ。何が良いってぜんぜん流行ってないのが良いです。煩くなりようがない。それに味の方もまあまあです」
酒も呑めますよと補足した。そこがもっとも重要なところだから。
店に入ると予約しておいた奥の個室へ通される。私はいつもと同じ酒とツマミを頼み、教官はメニューをざっと流し見て軽食を一品だけ頼んだ。老婆心ながら、彼女は獄中生活を経て以前より随分と痩せこけているように見えたので、それだけで良いのかと口には出さないまでも勝手な心配をした。
料理と酒が到着すると、私たちは示し合わせたように無言のまま同時に食べ始めた。
何から話すべきか分からなかった。
貴族を殺したクラウディアさんが死刑にならなかった理由でも伝えるべきか。それとも、それぐらいは獄中に居ても耳に入っているだろうし、別の話をするべきだろうか。
例えば――『革命』の話とか。
「よく、飲むな」
いつものペースでどんどんと酒を呑む私を見て、向かいの席に座るクラウディアさんがふとそんなことを呟いた。
「どうにも私は強い方らしくて。かなりの量を呑まないと酔いません」
「ふっ……それは羨ましい。私は下戸でな。生まれてこの方、酒の美味さなど知らん」
そんな他愛もない会話をきっかけに雰囲気が和らぎ、私たちは数年の間に生まれた溝を埋めるように少しずつ言葉を交わしていった。
民宗派の顛末、革命の気運、そしてロクサーヌの亡命のこと。
それらを話し終わる頃には、お互いに注文した品々をすっかり腹のうちに収めていた。
「成程、道理で私が仮釈放になる訳だ。模範囚ではあったが貴族殺し。軽減された五年の刑期ぐらいは満了させるものと思っていたが、外がそのような有様ではな。わざわざ仮釈放の手続きを妨害するような余裕も理由もなかったという訳か」
そういってクラウディアさんが浮かべたのは自嘲するかのような曖昧な笑みだった。
「すみません……」
それを見て自然と私は謝っていた。あの日、クラウディアさんがした決意や求めた幸福を私が勝手な横槍を入れて台無しにしてしまった。そのことを後悔している訳ではないが、ずっと心のどこかに引っかかっていた。
「何を謝ることがある?」
「……貴方が情状酌量の余地ありとされたのは、王党派の働きかけによるものです。私が直接に助命嘆願をした訳ではありませんが、私を引き込みたい彼らの忖度によってそうなりました。そして、私は貴方が死を望んでいることを知りながら、その動きを看過した……貴方に、死んで欲しくなかったから……」
せっかく和らいだ雰囲気が、気が付けばまた葬式のような暗くどんよりとしたものに戻ってしまっていた。
私は情けないやら申し訳ないやらでクラウディアさんと眼を合わせられず、顔を俯かせて空になった皿をじっと見つめる。そうしていると、「……ふふふ……」と小さな笑い声が頭の上から聞こえてきた。
「ふふふ……もう、いいさ。あの時は私もヤケになっていた」
それはさっきの自嘲するような正視に堪えないものではなく、晴れ晴れとした彼女の心が現れたような清々しいものだった。
「私もな、獄中で臭い飯を食いながらたっぷり考えたよ。フェイナーン伯の奴を殺したことは微塵も後悔していない。だが、お前の言う通りに逃げても良かったのではないかとな」
「……そうですよ。人間、生きてこそでしょう」
「しかし、他ならぬお前が見ている前だったから……つまらない意地を張ってしまった。人生にひとつの大きな区切りがついた余韻に浸りながら、格好つけて死にたかったんだ。いま考えれば、それが自分の望みであると思い込もうとしていた気がする。お前の言う通りに『現実逃避』でしかなかったのかもな」
そう言って、クラウディアさんは意地悪く笑ったので、私は少し面映ゆく感じた。
「あ、あれは……貴方を止めたいばかりに少し言葉が過ぎました……」
「ふっふっふ……実はずっと気にしていたんだぞ?」
「やめてくださいよ、もうっ」
思わず出てしまった辛気臭い謝罪の言葉から始まったなし崩し的な会話だったが、それでもなあなあにせずきちんと話し合えてよかった。ずっと引っかかっていた心のしこりが取れて久しぶりに爽やかな気分になれた。
勘定を済ませて私たちは店を出た。
空には雲ひとつない見事な夕焼けが広がっていた。今だけは、この世の悲惨さを全て忘れられそうだった。
「これからどうするんですか?」
「実は農水省の方からお呼びがかかっていてな。なぜ私のような凶状持ちのカタワを欲しがるのかと疑問に思っていたのだが、お前の話を聞いて理解した。単に人手不足なのだな」
農水省とは農林水産省の略称だ。そこの管轄となる魔法使いの役職というと、それは土地管理官しかない。
社会的には閑職として扱われる土地管理官だが、そういった偏見を排して考えてみれば、クラウディアさんの得意とする属性は泥(土+水の中級属性)なのだから、土地管理官の役職は適任と言える。
問題は、クラウディアさん自身がどう感じているか……そんな私の懸念を彼女はバッサリと切って捨てた。
「私のような凶状持ちを受け入れてもらえるというのだから何も文句はないさ。もともと、軍官よりは土地管理官の方が向いていると自分でも思っていたしな」
「適性から言えば、そうでしょう。それにこの時代、闘争から遠ざかることはむしろ幸運と言えます」
「お前は……偶によく分からないことを言う。素で言っているのか、それとも……いや、やはり単純に常人とは違う感性で生きているのだろうな」
よく分からないことを言うのはお互いさまではないかと思ったが口にはしない。
考え込むように俯いていたクラウディアさんが、不意に顔をこちらへ向ける。暗い色をした肌色も、今ばかりは夕陽を浴びて光輝いて見えた。
「今日、話してくれたことがお前の全てでないことは分かっているつもりだ。そして、私が文字通り死ぬ気でくれてやった最後の訓示を忘れていることもな」
ニヤリと口唇を釣り上げ、笑みを浮かべるクラウディアさんを見て、私はドキリとした。あんまりにも、彼女が綺麗だったから。
「――リン、幸せになろう」
そして、その両眼の奥には――燦々と、狂気の光が覗いていたから。
「……教官も……」
「ああ、私も自分の幸せを探すさ」
クラウディアさんは後ろ手に軽く手を振りつつ、ゆっくりと踵を返して歩き出した。
(祈ろう……クラウディアさんの新たな門出の無事を。そして、幸福を)
その時、不意にクラウディアさんが立ち止まって、「それと――」と付け足す。
「呼び方、また戻っているぞ」
「……私、教官って言いました?」
「言った」
くすくすと誂うような笑みを浮かべるクラウディアさんを見ていると、何だか言ったような気がしてきた。「気を付けます」とだけ返し、私たちはそんな会話を別れの挨拶の代わりとした。
また、生きて会えるだろうか。
家路についた私だったが、すぐに別れたばかりのクラウディアさんの方を振り返ってしまった。しかし、既に彼女の背中は人ごみの中に溶け込んでどれが誰やら見分けが付かなくなっていた。
ふと、どうせなら次に会う時までにこの国が亡んでいれば良いと思った。
それが、私の幸せだとは言わないけれど、想像したら割と溜飲が下がってしまったから。
ヒジャーズ王国の侵攻も失地回復を果たした時点で止まり、西のパルティア戦線もとっくの昔に膠着していた。これは、別にイリュリア王国が特別奮戦しているとかではなく、向こうが向こうの事情で侵攻を取り止めてくれたのである。内憂を孕むは、何もイリュリアだけの特権ではないらしい。
なら、どうして戦争をしたがっているのか?
それは昨年の8月末、アルゲニア王国へ亡命した王弟イッサカル伯が諸外国の王を通じて『外国の武力をもって直ちに行動を起こす』と宣言したからだ。これは脅迫と取られ、革命勢力は一気に緊張した。
しかし、私が思うにこれは王弟イッサカル伯の勇み足だろう。
なぜなら、その宣言に関わった諸外国は全くといって良いほど軍事行動に移るような気配を見せていないからだ。彼らの立場になってみれば、なぜ燃え盛る泥舟にわざわざ近付かなければならないのかという心境だろう。イッサカル伯に何か言ったとしても、恐らくそれはただの外交辞令程度のことだ。
けれども、どういう訳か外交に疎い議会にはそれが分からぬらしい。
――今年4月、議会はアルゲニア王国への宣戦布告を宣言した。
そんな折、シェケム監獄から一人の模範囚が仮釈放を許されるとの情報が私の耳に入ってきた。これには、すっかり出不精になってしまった私も重い腰を上げざるを得ない。
シェケム監獄の前へ行ってみると、そこはまるで今日は祭日なのかと錯覚するほどの人だかりでごった返していた。しかし、生憎と彼女の出迎え目的で来ているのは私一人だけのようだ。
それから暫くして、シェケム監獄から一人の女性が姿を現す。少ない手荷物を携えたその女性、本日付で仮釈放を許された模範囚――クラウディア教官は、驚いたように道にあふれかえる人の群れをしげしげと眺めながら私の方へ歩いてきた。
「――暴動か?」
「いえ、『革命』です」
挨拶よりも先に、そんな剣呑なやり取りから私たちの数年ぶりの会話は始まった。
「お久しぶりです、教官。私ぐらいしか出迎えてあげられないと思って、差し出がましいことを承知で来てみました」
「いや……そんなことはない。ありがとう、素直に嬉しいよ」
クラウディア教官は、「ただ――」と残念そうに続ける。
「ロクサーヌの奴も居ると思ったんだがな……」
「ああ……ロクサーヌは亡命しました。ガリア帝国に」
「なに?」
クラウディア教官は驚いたような顔で、仔細を尋ねる視線ような視線を私に寄越した。だが、いつまでもこんなところで立ち話をするのも何だ。
「ここ数年で本当に色々なことがありました……お互い積もる話もあるでしょうが、ここでは邪魔が入ってしまいます。まずは場所を変えましょう」
「……ああ、そうだな、それがいい」
クラウディア教官は、私の周囲3mだけ人の群れがぽっかりと空いているのを改めて睥睨してから頷いた。私が先導して、地面に横たわる斬り伏せた暴徒らを跨いで歩きだすと、クラウディア教官がふと思い出したように訂正する。
「ひとつ訂正しておくと、私はもう『教官』ではない。別の呼び方をしてくれないか」
「……つい、癖で。すみません、改めます」
クラウディアさんと呼ぶべきなのだろうが、どうにも教官と言った方がしっくりきてしまう。店長の呼び方をイーナースさんに変えた時はそうでもなかったのだが。不思議だ。
私はうっかりもう一度間違えてしまわないように、何度も頭の中で「クラウディアさん」「クラウディアさん」と繰り返しながら、予約を入れておいた店まで案内した。その道中、後ろの彼女が、数年前から大して変わっていない王都の景色を興味深そうにあちこち眺めていたのが印象的だった。
「さあ、着きました。ここは私の知る店の中でもなかなかですよ。何が良いってぜんぜん流行ってないのが良いです。煩くなりようがない。それに味の方もまあまあです」
酒も呑めますよと補足した。そこがもっとも重要なところだから。
店に入ると予約しておいた奥の個室へ通される。私はいつもと同じ酒とツマミを頼み、教官はメニューをざっと流し見て軽食を一品だけ頼んだ。老婆心ながら、彼女は獄中生活を経て以前より随分と痩せこけているように見えたので、それだけで良いのかと口には出さないまでも勝手な心配をした。
料理と酒が到着すると、私たちは示し合わせたように無言のまま同時に食べ始めた。
何から話すべきか分からなかった。
貴族を殺したクラウディアさんが死刑にならなかった理由でも伝えるべきか。それとも、それぐらいは獄中に居ても耳に入っているだろうし、別の話をするべきだろうか。
例えば――『革命』の話とか。
「よく、飲むな」
いつものペースでどんどんと酒を呑む私を見て、向かいの席に座るクラウディアさんがふとそんなことを呟いた。
「どうにも私は強い方らしくて。かなりの量を呑まないと酔いません」
「ふっ……それは羨ましい。私は下戸でな。生まれてこの方、酒の美味さなど知らん」
そんな他愛もない会話をきっかけに雰囲気が和らぎ、私たちは数年の間に生まれた溝を埋めるように少しずつ言葉を交わしていった。
民宗派の顛末、革命の気運、そしてロクサーヌの亡命のこと。
それらを話し終わる頃には、お互いに注文した品々をすっかり腹のうちに収めていた。
「成程、道理で私が仮釈放になる訳だ。模範囚ではあったが貴族殺し。軽減された五年の刑期ぐらいは満了させるものと思っていたが、外がそのような有様ではな。わざわざ仮釈放の手続きを妨害するような余裕も理由もなかったという訳か」
そういってクラウディアさんが浮かべたのは自嘲するかのような曖昧な笑みだった。
「すみません……」
それを見て自然と私は謝っていた。あの日、クラウディアさんがした決意や求めた幸福を私が勝手な横槍を入れて台無しにしてしまった。そのことを後悔している訳ではないが、ずっと心のどこかに引っかかっていた。
「何を謝ることがある?」
「……貴方が情状酌量の余地ありとされたのは、王党派の働きかけによるものです。私が直接に助命嘆願をした訳ではありませんが、私を引き込みたい彼らの忖度によってそうなりました。そして、私は貴方が死を望んでいることを知りながら、その動きを看過した……貴方に、死んで欲しくなかったから……」
せっかく和らいだ雰囲気が、気が付けばまた葬式のような暗くどんよりとしたものに戻ってしまっていた。
私は情けないやら申し訳ないやらでクラウディアさんと眼を合わせられず、顔を俯かせて空になった皿をじっと見つめる。そうしていると、「……ふふふ……」と小さな笑い声が頭の上から聞こえてきた。
「ふふふ……もう、いいさ。あの時は私もヤケになっていた」
それはさっきの自嘲するような正視に堪えないものではなく、晴れ晴れとした彼女の心が現れたような清々しいものだった。
「私もな、獄中で臭い飯を食いながらたっぷり考えたよ。フェイナーン伯の奴を殺したことは微塵も後悔していない。だが、お前の言う通りに逃げても良かったのではないかとな」
「……そうですよ。人間、生きてこそでしょう」
「しかし、他ならぬお前が見ている前だったから……つまらない意地を張ってしまった。人生にひとつの大きな区切りがついた余韻に浸りながら、格好つけて死にたかったんだ。いま考えれば、それが自分の望みであると思い込もうとしていた気がする。お前の言う通りに『現実逃避』でしかなかったのかもな」
そう言って、クラウディアさんは意地悪く笑ったので、私は少し面映ゆく感じた。
「あ、あれは……貴方を止めたいばかりに少し言葉が過ぎました……」
「ふっふっふ……実はずっと気にしていたんだぞ?」
「やめてくださいよ、もうっ」
思わず出てしまった辛気臭い謝罪の言葉から始まったなし崩し的な会話だったが、それでもなあなあにせずきちんと話し合えてよかった。ずっと引っかかっていた心のしこりが取れて久しぶりに爽やかな気分になれた。
勘定を済ませて私たちは店を出た。
空には雲ひとつない見事な夕焼けが広がっていた。今だけは、この世の悲惨さを全て忘れられそうだった。
「これからどうするんですか?」
「実は農水省の方からお呼びがかかっていてな。なぜ私のような凶状持ちのカタワを欲しがるのかと疑問に思っていたのだが、お前の話を聞いて理解した。単に人手不足なのだな」
農水省とは農林水産省の略称だ。そこの管轄となる魔法使いの役職というと、それは土地管理官しかない。
社会的には閑職として扱われる土地管理官だが、そういった偏見を排して考えてみれば、クラウディアさんの得意とする属性は泥(土+水の中級属性)なのだから、土地管理官の役職は適任と言える。
問題は、クラウディアさん自身がどう感じているか……そんな私の懸念を彼女はバッサリと切って捨てた。
「私のような凶状持ちを受け入れてもらえるというのだから何も文句はないさ。もともと、軍官よりは土地管理官の方が向いていると自分でも思っていたしな」
「適性から言えば、そうでしょう。それにこの時代、闘争から遠ざかることはむしろ幸運と言えます」
「お前は……偶によく分からないことを言う。素で言っているのか、それとも……いや、やはり単純に常人とは違う感性で生きているのだろうな」
よく分からないことを言うのはお互いさまではないかと思ったが口にはしない。
考え込むように俯いていたクラウディアさんが、不意に顔をこちらへ向ける。暗い色をした肌色も、今ばかりは夕陽を浴びて光輝いて見えた。
「今日、話してくれたことがお前の全てでないことは分かっているつもりだ。そして、私が文字通り死ぬ気でくれてやった最後の訓示を忘れていることもな」
ニヤリと口唇を釣り上げ、笑みを浮かべるクラウディアさんを見て、私はドキリとした。あんまりにも、彼女が綺麗だったから。
「――リン、幸せになろう」
そして、その両眼の奥には――燦々と、狂気の光が覗いていたから。
「……教官も……」
「ああ、私も自分の幸せを探すさ」
クラウディアさんは後ろ手に軽く手を振りつつ、ゆっくりと踵を返して歩き出した。
(祈ろう……クラウディアさんの新たな門出の無事を。そして、幸福を)
その時、不意にクラウディアさんが立ち止まって、「それと――」と付け足す。
「呼び方、また戻っているぞ」
「……私、教官って言いました?」
「言った」
くすくすと誂うような笑みを浮かべるクラウディアさんを見ていると、何だか言ったような気がしてきた。「気を付けます」とだけ返し、私たちはそんな会話を別れの挨拶の代わりとした。
また、生きて会えるだろうか。
家路についた私だったが、すぐに別れたばかりのクラウディアさんの方を振り返ってしまった。しかし、既に彼女の背中は人ごみの中に溶け込んでどれが誰やら見分けが付かなくなっていた。
ふと、どうせなら次に会う時までにこの国が亡んでいれば良いと思った。
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