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アニー
3 悪夢を忘れるために
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私はドナとして生きていくことになった。
「まずはきちんとした生活をするのよ」
そう言われたが、きちんとした生活とは何かわからなかった。
「朝起きて夜になったら寝る。食事は3食きちんと食べる。まずはそれからね」
今までの私の生活は、姉と一緒に過ごしていた。姉はすぐに体調を崩して寝込んでしまう。私はそんな姉の看病をしながら、いつも姉の側にいた。
姉は食欲がないと言って1日何も食べないで過ごすことがあった。そんな時は私も食事ができない。姉が食べられないというのなら、私も食べてはいけないのだ。両親からは、姉と同じように過ごすようにと言われている。私はいずれ姉の代わりに生きていかなくてはいけないからだ。だから姉と同じものを同じように私は食べなくてはいけない。いくら私がお腹が空いて今すぐにでも食事をしたいと思っても、姉が食べなければ食べてはいけないのだ。
姉がようやく小さなパンのかけらを口にしたら、私もパンのかけらを口に運べる。その様子を見た姉はため息をつきながら呆れたように言うのだ。
「私、あんなに醜い食べ方をしてるのかしら?」
すると側にいるメイドたちが口々に言い出す。
「卑しいお方ですわ」
「本当に食いしん坊な方ですわね」
「アリー様と大違い」
姉の取り巻きとも言えるメイドたちは、皆姉の味方だ。本来は姉の世話をするために雇われていたはずなのに、いつの間にかそれは私の仕事になった。メイドの仕事は姉の機嫌を取ることだった。姉が癇癪を起こすと、両親たちは私を叱りつける。誰も姉に注意できないので、私は理不尽と思ってもどうすることもできなかった。
姉は具合が悪いと言って昼はずっと寝ている。夜になると眠くないと言ってずっと起きている。だから私は寝ることができない。姉が寝ないのだから私も寝てはいけないのだ。
それなら姉が寝ている昼間に私も寝ていいと思うが、それは許されなかった。健康な私は昼のうちにやれることがあるだろうと姉が用事を言いつける。私はわずかな隙間に眠ることを覚えてしまった。まともにベッドに入って眠ることは、1週間のうちに数回という状態だった。
だから、1日3食食べて朝起きて夜眠るという生活は信じられなかった。それがきちんとした生活と教わり、驚いてしまった。最初のうちはベッドがふわふわしていて落ち着かなかった。こんなふうに寝ていていいのか。怒られるのではないかと不安だった。
食事もそうだった。皿に盛られた料理を見て驚愕した。いつも1口か2口程度しか食べられなかったから、椅子に座って食事をするということもあまり経験がなかった。そういえば両親はこんなふうに食事をしていたことをなんとなく思い出した。家族で揃って食事をするということもなかったように思う。
私が当たり前と思っていたことは、当たり前ではないということがわかった。徐々に今のこの生活に慣れてきて、私は朝になれば自然と目覚め夜になれば眠くなって眠りに落ちるということが自然なことだと理解した。そうして毎日が穏やかに過ぎていった。
ここに来て3ヶ月が経った。修道院の生活は私にいろいろなことを教えてくれた。そんなある日。
「ドナ、今日は大切な話があるの」
朝食が終わったタイミングでレティシア様に呼び出された。レティシア様はこの修道院の創設者であり、ここに来るときに馬車の中で私を見ていた貴族の女性である。普段はここにはいないのにその日は朝早くに来られたのだ。
「私は元々はタセル国の人間なの」
レティシア様が静かに話し出した。タセル国。身体の中で冷たい何かが流れていく。姉はラガン家の蔵書を翻訳したが、それは植物についての研究本だった。我が国の薬剤研究にも大いに貢献したとのことで、ラガン家は国王陛下からも褒賞を受けた。姉も注目され美貌の才女ともてはやされた。思い出して私は身体が震える。
翻訳したのは私なのだ。
ベッドでただ寝ているだけでは聞こえが悪いから何か本でも持ってきてと姉に言われ、私はラガン家の蔵書の中から1冊適当に持って行った。植物の絵がたくさん描かれていたので読みやすそうに見えたのだ。どうせ姉は我が国の言葉もタセル語の言葉も読めないのだ。それなら絵が描かれている方がいいだろう、そう思った。
姉は人からわざと見えるように窓を開けてその本をめくった。あくまでも読むふりだけだ。しかしいつの間にか姉はタセル語を読めると思われてしまった。タセル語は教育を受けた貴族の中でも読める人間はごく少数だった。実際、ラガン家の人も読める人はいなかった。おそらく誰かから譲られたか、貴族間の付き合いで購入した本なのだろう。図書室の蔵書のほとんどは誰も読まない、ただ飾られているだけの本ばかりだった。
姉は私にタセル語を訳すように命じた。幸い簡単なタセル語の辞書もあったので、私は暇を見つけてはタセル語の勉強も開始した。しかしそれも他の人にわからないようにだった。そのため姉の面倒を見ることができない時間ができてしまう。すると何も知らないメイドが大げさに騒ぎ立てた。私がさぼっていると姉に言いつける。姉はそんな報告を微笑みながら聞いた後こう言うのだ。
「本当に。アニーったら怠け者なのよ。何もしないから家も追い出されて、仕方なくこちらに連れてきたの」
メイドたちは姉が慈悲深く心優しい聖女のような人だと誤解した。そして私を怠け者で何もできないどうしようもない人間だとも思うのだ。
思い出すと身体が震えてくる。姉は私を蔑み、私はそれをしかたがないことだと思って暮らしていた。それは私が何も知らなかったからだ。でも今は違う。姉も家族も全ておかしかったのだ。私は何度も深呼吸をした。大丈夫大丈夫、と何度も心の中で言い続ける。あの悪夢のことを思い出すと、私はいつもこうやって心を落ち着けている。今は違う。もうあの悪夢の中にはいない。
「それでね、近いうちにタセル国に帰ることにしたの。あなたも一緒に行かない?」
レティシア様の次の言葉に私は考える間もなく答えていた。
「はい!」
あまりの勢いにレティシア様も驚いていたけど、すぐに笑顔になった。
「よかったわ。すぐに支度を始めましょう」
この国にいたら、いつか姉に会ってしまうかもしれない。姉じゃなくてもメイドたちやラガン家の人に会ってしまうかもしれない。そう考えて、思い出してしまった。ブライアン様のあの冷たい目・・・。タセル国に行けばもう会うこともないだろう。外国に行くなんてすごい冒険だけど、でもその方がきっといい。
私はもうアニーではないのだ。私の名前はドナ。知らない国で新しい自分と生きていく。そう心の中で誓った。
「まずはきちんとした生活をするのよ」
そう言われたが、きちんとした生活とは何かわからなかった。
「朝起きて夜になったら寝る。食事は3食きちんと食べる。まずはそれからね」
今までの私の生活は、姉と一緒に過ごしていた。姉はすぐに体調を崩して寝込んでしまう。私はそんな姉の看病をしながら、いつも姉の側にいた。
姉は食欲がないと言って1日何も食べないで過ごすことがあった。そんな時は私も食事ができない。姉が食べられないというのなら、私も食べてはいけないのだ。両親からは、姉と同じように過ごすようにと言われている。私はいずれ姉の代わりに生きていかなくてはいけないからだ。だから姉と同じものを同じように私は食べなくてはいけない。いくら私がお腹が空いて今すぐにでも食事をしたいと思っても、姉が食べなければ食べてはいけないのだ。
姉がようやく小さなパンのかけらを口にしたら、私もパンのかけらを口に運べる。その様子を見た姉はため息をつきながら呆れたように言うのだ。
「私、あんなに醜い食べ方をしてるのかしら?」
すると側にいるメイドたちが口々に言い出す。
「卑しいお方ですわ」
「本当に食いしん坊な方ですわね」
「アリー様と大違い」
姉の取り巻きとも言えるメイドたちは、皆姉の味方だ。本来は姉の世話をするために雇われていたはずなのに、いつの間にかそれは私の仕事になった。メイドの仕事は姉の機嫌を取ることだった。姉が癇癪を起こすと、両親たちは私を叱りつける。誰も姉に注意できないので、私は理不尽と思ってもどうすることもできなかった。
姉は具合が悪いと言って昼はずっと寝ている。夜になると眠くないと言ってずっと起きている。だから私は寝ることができない。姉が寝ないのだから私も寝てはいけないのだ。
それなら姉が寝ている昼間に私も寝ていいと思うが、それは許されなかった。健康な私は昼のうちにやれることがあるだろうと姉が用事を言いつける。私はわずかな隙間に眠ることを覚えてしまった。まともにベッドに入って眠ることは、1週間のうちに数回という状態だった。
だから、1日3食食べて朝起きて夜眠るという生活は信じられなかった。それがきちんとした生活と教わり、驚いてしまった。最初のうちはベッドがふわふわしていて落ち着かなかった。こんなふうに寝ていていいのか。怒られるのではないかと不安だった。
食事もそうだった。皿に盛られた料理を見て驚愕した。いつも1口か2口程度しか食べられなかったから、椅子に座って食事をするということもあまり経験がなかった。そういえば両親はこんなふうに食事をしていたことをなんとなく思い出した。家族で揃って食事をするということもなかったように思う。
私が当たり前と思っていたことは、当たり前ではないということがわかった。徐々に今のこの生活に慣れてきて、私は朝になれば自然と目覚め夜になれば眠くなって眠りに落ちるということが自然なことだと理解した。そうして毎日が穏やかに過ぎていった。
ここに来て3ヶ月が経った。修道院の生活は私にいろいろなことを教えてくれた。そんなある日。
「ドナ、今日は大切な話があるの」
朝食が終わったタイミングでレティシア様に呼び出された。レティシア様はこの修道院の創設者であり、ここに来るときに馬車の中で私を見ていた貴族の女性である。普段はここにはいないのにその日は朝早くに来られたのだ。
「私は元々はタセル国の人間なの」
レティシア様が静かに話し出した。タセル国。身体の中で冷たい何かが流れていく。姉はラガン家の蔵書を翻訳したが、それは植物についての研究本だった。我が国の薬剤研究にも大いに貢献したとのことで、ラガン家は国王陛下からも褒賞を受けた。姉も注目され美貌の才女ともてはやされた。思い出して私は身体が震える。
翻訳したのは私なのだ。
ベッドでただ寝ているだけでは聞こえが悪いから何か本でも持ってきてと姉に言われ、私はラガン家の蔵書の中から1冊適当に持って行った。植物の絵がたくさん描かれていたので読みやすそうに見えたのだ。どうせ姉は我が国の言葉もタセル語の言葉も読めないのだ。それなら絵が描かれている方がいいだろう、そう思った。
姉は人からわざと見えるように窓を開けてその本をめくった。あくまでも読むふりだけだ。しかしいつの間にか姉はタセル語を読めると思われてしまった。タセル語は教育を受けた貴族の中でも読める人間はごく少数だった。実際、ラガン家の人も読める人はいなかった。おそらく誰かから譲られたか、貴族間の付き合いで購入した本なのだろう。図書室の蔵書のほとんどは誰も読まない、ただ飾られているだけの本ばかりだった。
姉は私にタセル語を訳すように命じた。幸い簡単なタセル語の辞書もあったので、私は暇を見つけてはタセル語の勉強も開始した。しかしそれも他の人にわからないようにだった。そのため姉の面倒を見ることができない時間ができてしまう。すると何も知らないメイドが大げさに騒ぎ立てた。私がさぼっていると姉に言いつける。姉はそんな報告を微笑みながら聞いた後こう言うのだ。
「本当に。アニーったら怠け者なのよ。何もしないから家も追い出されて、仕方なくこちらに連れてきたの」
メイドたちは姉が慈悲深く心優しい聖女のような人だと誤解した。そして私を怠け者で何もできないどうしようもない人間だとも思うのだ。
思い出すと身体が震えてくる。姉は私を蔑み、私はそれをしかたがないことだと思って暮らしていた。それは私が何も知らなかったからだ。でも今は違う。姉も家族も全ておかしかったのだ。私は何度も深呼吸をした。大丈夫大丈夫、と何度も心の中で言い続ける。あの悪夢のことを思い出すと、私はいつもこうやって心を落ち着けている。今は違う。もうあの悪夢の中にはいない。
「それでね、近いうちにタセル国に帰ることにしたの。あなたも一緒に行かない?」
レティシア様の次の言葉に私は考える間もなく答えていた。
「はい!」
あまりの勢いにレティシア様も驚いていたけど、すぐに笑顔になった。
「よかったわ。すぐに支度を始めましょう」
この国にいたら、いつか姉に会ってしまうかもしれない。姉じゃなくてもメイドたちやラガン家の人に会ってしまうかもしれない。そう考えて、思い出してしまった。ブライアン様のあの冷たい目・・・。タセル国に行けばもう会うこともないだろう。外国に行くなんてすごい冒険だけど、でもその方がきっといい。
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