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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、騎射を拝見する(二)
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馬は走る、全速力で。
その遠ざかる馬の背から三度佳卓は舞を舞うかのような優雅な所作で矢をつがえ、的を射抜き、そして砕ける的の映像とカーンという音の残響が翠令に届く。
馬場の端で佳卓は馬の手綱を引いて走るのを止めさせていた。そして自分の走ってきた馬場を戻るために向きをかえ、自分が射抜いた的を確かめるように馬を歩かせて翠令達の方に近寄ってくる。
馬場を見る佳卓は翠令から見て斜めに視線を向けていた。
その姿を見て、翠令の背にぞくりとしたものが駆けあがった。
端正な顔立ちが、今は冴え冴えとした美貌と感じられる。冷静な表情に戻っていても、弓を射る緊張と昂ぶりの余韻のためか彼の瞳は妖しいほどに光り、その全身から立ち上る気配は森の木陰に青白い鬼火が揺らめいているようだ。この世ならざる迫力……。
──その為人、鬼神のごとし。
遠く錦濤に聞こえて来たその噂。そう、山崎津でも思った。この方は尋常ではない。的に向けているその視線を自分が受けたなら、自分の何かが砕かれてしまいそうだ。
「翠令?」
しかし、その声と共に彼が翠令に顔を向けた時には、彼はいつもの食えない上官の顔をつくっていた。
「どうしたね? 私の美技に言葉もでない?」
ごくりと唾をのみ、さらに喉の奥をほぐすだめに軽く咳払いをしてからようやく彼女は言葉を発することができた。
「まことに……お見事でございました……美しい、とても美しいものを見せていただきました……」
姫宮も「すごーい!」と手を叩きながらおっしゃる。そして、近衛が足元に置いていた彼の弓を、何気なく手に取られた。
「こうやって、弓を引いて。カッコいいわね! 私もやってみる!」
見よう見まねで弓を引く姫宮に注意しようと翠令が思った時、先に佳卓が声を上げた。
「危ない!」
佳卓は馬に一蹴り入れて姫宮の側まで走り寄り、まだ動いている馬から素早く滑り降りる。
そして姫宮の御手から乱暴なほどの勢いで弓を取り上げた。姫宮はただ、ぽかんと佳卓を見上げていらっしゃる。
「……あの……」
傍にいた近衛舎人が頭を下げて詫びた。
「佳卓様、申し訳ありません」
佳卓は厳しい顔を姫宮に向けた。
「いや。これは姫宮がお悪い」
姫宮は言葉を失って立ち尽くす。山崎津で一瞬怯まれたのと同じだ。佳卓の真剣な視線はそれほどの圧がある。
助けを求めるように、翠令をご覧になったが、翠令もまた首を振った。
「武具は危ないからお触りになりますな。錦濤でも申し上げて参りましたでしょう?」
「ちょっと引いて見ただけ……」
「それでも弦が弾くと痛い思いをなされます」
佳卓が姫宮の目線に片膝をついて屈んだ。
「それだけではありません。これは人を殺める道具なのですよ。子供が玩具扱いしてよいものではありません。お分かりか?」
「……」
「的が砕けるのをご覧になったでしょう。戦場にあって弓は人の頭を砕く、あのように……」
「佳卓様!」
翠令は佳卓の側に両膝をついて咎めた。
「それは……。その言いようはあまりに生々しい……」
姫宮の顔が強張っている。相手は十歳の少女、戦場とは無縁のお育ちだ。いくら翠令が錦濤の私邸で賊の身体を斬っている場面は見たことがおありでも、人の頭が砕かれることなど今まで想像だにされていない。同じ血生臭い光景でも残虐さの度合いが違うだろう。
佳卓は硬い表情を崩さない。
「本格的な戦ではそのようなこともある」
姫宮が恐る恐るお尋ねになる。
「……佳卓も……佳卓もそうしたことがあるの……?」
その問いかけを、佳卓は苦し気な顔で肯定した。
「朝廷の命でございますれば」
「それは……帝の……命じたこと……?」
姫宮の顔から血の気が引いている。翠令も姫宮のそばにしゃがんでその背中から抱きかかえて差し上げた。そして、「佳卓様……」と相手を見た。
確かにこの世には凄惨な死がある。そしてそれが帝の命であれば、最終的には帝の責であろう。いずれ御位に就かれる方ならいつかは知らなければならないことだ。
だが、まだ十歳の少女には早すぎる。もう、このような話題はこれくらいで切り上げて欲しい。
しかし、佳卓はむしろ念を押した。
「姫宮は東宮でいらっしゃる。朝廷の中枢での決定は民の命にかかわるもの。決してお忘れになりますな」
姫宮はけなげにお答えなさった。
「うん……。はい、分かりました。きっときっと忘れないようにします」
佳卓は姫宮に床几にお座りになるように促した。
「実は姫宮にはもう一つお話したいことがございました。お聞き下さるか」
翠令が眉を顰めて佳卓に咎めるような視線を送った。
「何を……」
「こうして都を実際にご覧になった後、宮中に戻る前に、姫宮に是非ともお伝えしたいことがある」
改まって話そうとするのだから、少女の耳に快い軽い話ではあるまい。
「佳卓様、あまり厳しいことをお耳に入れては……」
ううん、と姫宮が翠令を制される。
「聞いておかなきゃ。きっと大切なことなのでしょう? 話してちょうだい」
その遠ざかる馬の背から三度佳卓は舞を舞うかのような優雅な所作で矢をつがえ、的を射抜き、そして砕ける的の映像とカーンという音の残響が翠令に届く。
馬場の端で佳卓は馬の手綱を引いて走るのを止めさせていた。そして自分の走ってきた馬場を戻るために向きをかえ、自分が射抜いた的を確かめるように馬を歩かせて翠令達の方に近寄ってくる。
馬場を見る佳卓は翠令から見て斜めに視線を向けていた。
その姿を見て、翠令の背にぞくりとしたものが駆けあがった。
端正な顔立ちが、今は冴え冴えとした美貌と感じられる。冷静な表情に戻っていても、弓を射る緊張と昂ぶりの余韻のためか彼の瞳は妖しいほどに光り、その全身から立ち上る気配は森の木陰に青白い鬼火が揺らめいているようだ。この世ならざる迫力……。
──その為人、鬼神のごとし。
遠く錦濤に聞こえて来たその噂。そう、山崎津でも思った。この方は尋常ではない。的に向けているその視線を自分が受けたなら、自分の何かが砕かれてしまいそうだ。
「翠令?」
しかし、その声と共に彼が翠令に顔を向けた時には、彼はいつもの食えない上官の顔をつくっていた。
「どうしたね? 私の美技に言葉もでない?」
ごくりと唾をのみ、さらに喉の奥をほぐすだめに軽く咳払いをしてからようやく彼女は言葉を発することができた。
「まことに……お見事でございました……美しい、とても美しいものを見せていただきました……」
姫宮も「すごーい!」と手を叩きながらおっしゃる。そして、近衛が足元に置いていた彼の弓を、何気なく手に取られた。
「こうやって、弓を引いて。カッコいいわね! 私もやってみる!」
見よう見まねで弓を引く姫宮に注意しようと翠令が思った時、先に佳卓が声を上げた。
「危ない!」
佳卓は馬に一蹴り入れて姫宮の側まで走り寄り、まだ動いている馬から素早く滑り降りる。
そして姫宮の御手から乱暴なほどの勢いで弓を取り上げた。姫宮はただ、ぽかんと佳卓を見上げていらっしゃる。
「……あの……」
傍にいた近衛舎人が頭を下げて詫びた。
「佳卓様、申し訳ありません」
佳卓は厳しい顔を姫宮に向けた。
「いや。これは姫宮がお悪い」
姫宮は言葉を失って立ち尽くす。山崎津で一瞬怯まれたのと同じだ。佳卓の真剣な視線はそれほどの圧がある。
助けを求めるように、翠令をご覧になったが、翠令もまた首を振った。
「武具は危ないからお触りになりますな。錦濤でも申し上げて参りましたでしょう?」
「ちょっと引いて見ただけ……」
「それでも弦が弾くと痛い思いをなされます」
佳卓が姫宮の目線に片膝をついて屈んだ。
「それだけではありません。これは人を殺める道具なのですよ。子供が玩具扱いしてよいものではありません。お分かりか?」
「……」
「的が砕けるのをご覧になったでしょう。戦場にあって弓は人の頭を砕く、あのように……」
「佳卓様!」
翠令は佳卓の側に両膝をついて咎めた。
「それは……。その言いようはあまりに生々しい……」
姫宮の顔が強張っている。相手は十歳の少女、戦場とは無縁のお育ちだ。いくら翠令が錦濤の私邸で賊の身体を斬っている場面は見たことがおありでも、人の頭が砕かれることなど今まで想像だにされていない。同じ血生臭い光景でも残虐さの度合いが違うだろう。
佳卓は硬い表情を崩さない。
「本格的な戦ではそのようなこともある」
姫宮が恐る恐るお尋ねになる。
「……佳卓も……佳卓もそうしたことがあるの……?」
その問いかけを、佳卓は苦し気な顔で肯定した。
「朝廷の命でございますれば」
「それは……帝の……命じたこと……?」
姫宮の顔から血の気が引いている。翠令も姫宮のそばにしゃがんでその背中から抱きかかえて差し上げた。そして、「佳卓様……」と相手を見た。
確かにこの世には凄惨な死がある。そしてそれが帝の命であれば、最終的には帝の責であろう。いずれ御位に就かれる方ならいつかは知らなければならないことだ。
だが、まだ十歳の少女には早すぎる。もう、このような話題はこれくらいで切り上げて欲しい。
しかし、佳卓はむしろ念を押した。
「姫宮は東宮でいらっしゃる。朝廷の中枢での決定は民の命にかかわるもの。決してお忘れになりますな」
姫宮はけなげにお答えなさった。
「うん……。はい、分かりました。きっときっと忘れないようにします」
佳卓は姫宮に床几にお座りになるように促した。
「実は姫宮にはもう一つお話したいことがございました。お聞き下さるか」
翠令が眉を顰めて佳卓に咎めるような視線を送った。
「何を……」
「こうして都を実際にご覧になった後、宮中に戻る前に、姫宮に是非ともお伝えしたいことがある」
改まって話そうとするのだから、少女の耳に快い軽い話ではあるまい。
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